天誅組 人物紹介

安積五郎 あさかごろう 1828−1864(文政10−元治元)

 志士。清河八郎の同志。大和天誅組義挙に参加して捕えられ、京都で処刑された。本姓は飯田。江戸呉服橋の易者安積光徳の子で、名は武貞という。五郎自身も易を学び観相家として名声はあったが、時勢に怒り楠正成に私淑する尊皇家であった。嘉永元年(1848)東条一堂に入門、ここで清河八郎を知り義兄弟の盟を結ぶことになった。清河が諸国を遊歴するとき、江戸の留守宅は安積に任すことが多かった。清河が町人を無礼打ちして江戸を逃げるときには同行した。文久2年(1862)島津久光を迎えての京都義挙計画に、清河とともに参加していたが計画は失敗。
 清河が佐々木只三郎に暗殺されてからは藤本鉄石とともに大和五条の天誅組義挙に加わった。参謀となり画策よく毎戦奇勝を博した。鷲家口の戦には単身藤堂の陣営をついた。敵の銃隊の不意を急襲してたちどころに5人を斃した。敵のひるむところをなお進んだ。そのとき隊将山崎某が家に隠れておって、五郎の行き過ぎるところを槍をあげて後から突きその股を傷づけた。五郎は屈せず、起き上がり奮闘して数人を斃した。路の屍体につまずいて倒れたところを敵の鎗手に臀を貫かれた。五郎は槍の柄をにぎって自ら臀肉を制割いて鎗手に斬りつけた。敵は五郎の豪雄に恐れて近づかない。五郎は放吟しながら囲みを破って福地村(福知堂村ともある)に行き、農家に入って傷を治療していた。探知した藤堂兵が囲んで捕らえ、のち京都の獄に送った。元治元年(1864)2月16日獄中で斬られた。享年37歳。

つくしてもなほつくしてむ君がため 露の命のあらむかぎりは

荒巻羊三郎 あらまきようざぶろう

 久留米藩士で名を真刀という。(一説には半三郎ともある)藩主有馬氏の家臣、安政万延の間、側足軽、足軽目附を経て、江戸勤務の命をうけたが、文久2年(1862)酒井伝次郎と脱藩して豊後に出て、海を渡って長州に行った。島津久光の上京を聞き、ひそかに同船して伏見に着。寺田屋の変で同藩の志士10人とともに久留米に送還され幽閉される。のち赦されて再び上京。三条実美の守護兵となった。のち勅命を奉じて西下する正親町少将を追って広島で書を呈し、その答書をもって京都に帰ったが、ちょうど大和行幸御親征の詔の出た時であった。天諜組の義挙に参加。遂に捕えられ、京都に投獄。翌元治元年(1864)2月16日六角獄中に斬られた。享年23歳。
 明治2年1月24日藩主は羊三郎の勤王を愛でられ、彼の後を継ぐ人を選ばれ、兄の桂太が申請して側足軽元組となった。

もろともに君のみためといさみ立つ 心の駒をとどめかねつつ

池内蔵太 いけくらた 1841−1866(天保12−慶応2)

 土佐藩郷士。土佐郡小高坂村に生れ、通称は内蔵大、細川左馬之助、細江徳太郎と称した。文久元年(1861)河野敏鎌らと江戸に遊学し、儒者の安井息軒に入門、また武市瑞山、大石弥太郎ら尊攘派と交わった。文久3年脱藩して長州へ走り、5月、下関での外国艦船砲撃に遊撃隊の参謀として参加した。ついで8月、吉村寅太郎らと大和で天誅組の挙兵に加わり、洋銃隊長となった。9月9日には下市駅の彦根の兵営に夜襲して奇勝を得た。24日中山忠光を護って、決死の突撃を鷲家口に敢行した。乱戦の中、忠光らと離れ敵陣を突破して一人で大阪に出た。29日京都に入って同志の望月義澄を訪ね、10月変装して周防三田尻の招賢閣に入った。
 元治元年(1864)7月長藩が大挙して入京した時、同藩の同志とともに従軍した。19日堺町御門に突撃し大いに戦ったが、会津桑名の砲撃を受けて敗退した。同志松山深蔵らは天王山に殉死したが、内蔵太は逃れて再び長州に走った。長州では伊吹周吉らと中山忠光卿暗殺を憤慨してその墓をあばき、死体検査を計画して長州藩を驚かせた。
 慶応2年(1866)新しく購入したワイルウエフ号の乗組士官となった。この時桜島丸が薩摩に航海するので、ワイルウエフ号を曳航させることになり、船将黒木小太郎ら一同と乗り込んで長崎を出帆した。ところが5月2日の明け方海上は大シケになった。両船ついに引綱を切った。桜島丸は無事に南に航海をしたが、帆船ワイルウエフ号は転覆した。黒木小太郎、池内蔵太以下12人が溺死した。
 坂本龍馬はその遭難地の肥前三島沖塩屋崎に、内蔵太の死を悼んで合祭慰霊の碑を建てた。内蔵太時に享年26歳。
 海援隊の後進中島信行は、「坂本龍馬先生の後任の海援隊長は池内蔵大が最適でその外に人はない。」と語ったという。この一語で内蔵太が同志に尊敬されていたことがわかる。

伊沢宜庵 いざわぎあん 1823−1865(文政6−慶応元)

 本姓は志富田、名は卓、字は子立。紀伊伊都郡見好村の出身。父の文礼が天保の頃大和五条に移り住んだ。宜庵ははじめ森田節斎らとともに頼山陽、篠崎小竹らについて漢籍を学び、天保14年(1843)長崎に遊学、医学を修めた。その後安政6年(1859)単身江戸に赴き、時勢について大いに悟るところがあった。梅田雲浜とつきあったことも宜庵をして一気に尊攘家にしたてあげた。文久3年(1863) 8月、天誅組が宜庵の地元、大和五条で挙兵すると、藤本鉄石、松本謙三郎、池内蔵太、竹下熊雄、原田亀太郎らが井沢宜庵の自邸で会合した。乾十郎、野崎主計、深瀬繁理らと謀り、参加し各地に転戦した。軍敗れ津藩の手に捕えられた。元治元年(1864)思いがけなく罪を許され、郷里に帰ったが同年冬再び捕えられ、慶応元年(1865)7月28日京都六角獄中で毒殺された。享年43歳年。遺骸は洛東宝福寺に葬った。宜庵は顔形は恐ろしいが度量が寛く、才智あり、弁論にたけ、詩歌をよくし、筆蹟も美しい。軍中では傷病者に親切で、吉村虎太郎の創傷を治療につとめた。

石河一 いしかわはじめ 1843−1864(天保14−元治元)

 鳥取藩の支封鹿奴藩の石川六兵衛の二男。名は貞幹または真魁ともいう。江戸に生まれ、姉婿岩瀬藤四郎のもとで育った。安政5年(1858)16歳のとき小姓役につき、この頃から平田銕胤について国学を学び仙石佐多雄とともに上京し諸藩の士と交わった。文久3年(1863)2月将軍家茂上洛に先立ち仙石や三輪田綱一郎らと足利三代の木像梟首に参加し、幕吏の追跡を逃れて長州に隠れ、ここで下関のフランス艦隊砲撃に加わった。同年ふたたび京都に上り、松平慶永の旅館高台寺を焼討するなど、若さにまかせて大奮戦した。この年8月天誅組の挙兵に参戦、水郡善之祐ら河内勢と行動を共にして各地を転戦、力つきて紀州藩に自首した。京都に送られて六角獄に投ぜられ、翌元治元年(1864)7月、河内勢とともに獄中で殺された。享年22歳。

大君の御こころ休めまつらむと 露のいのちもながらへなりけり

石田英吉(伊吹周吉) いしだえいきち 1839−1901(天保10−明治34)

 土佐藩士。土佐安芸郡中山村に生まれる。文久3年(1863)8月、25歳のとき、土佐藩の吉村寅太郎に従って天誅組の大和挙兵に参戦したが、8月26日高取城攻撃の時、同志の安岡正定と工夫して壱貫目木抱7門、二貫目木砲2門を造って大いに志気を高めた。9月24日鷲家口で敵の包囲をうけ決死激戦の後、同志は戦死し捕われたり四散した。この時敵の重囲を突破して辛うじて脱出し、小名村から間道をたどって初瀬に出て三輪山をよじ、八木町の北の耳成山に出た。河内路を経て27日大阪長州藩邸に入り、夜のうちに大阪発の船で三田尻に航行、中山卿とともに豊浦郡延行村に潜伏した。
 翌元治元年(1864)長州藩は大挙して上京をくわだてた。周吉は土佐藩士の松山正夫らの忠勇隊に所属して、7月19日堺町門に向かって進撃した。しかし会津の兵と交戦、大いに奮闘した。越前兵は鷹司関白楊梅殿に火をつけ焼失し軍は敗れた。左の手に傷を負い退いて清岡公張とともに再び長州に走った。
 長州は藩論が恭順派と主戦派の二つにわかれた。時に米、英、露、仏の四国連合艦隊がきて長藩の罪を問うというので内外いよいよ多事になった。この時長藩は幕府との和議を結び恭順派が勢力を占め、主戦派は謹慎あるいは幽閉せられた。
 この機会に中山忠光は暗殺され、主戦派排除された。主戦派は長府郊外の功山寺に本陣を構えた。天誅組の脱出成功者小川佐吉、半田文吉、伊吹周吉、山口松蔵、上田宗児らもいた。慶応元年(1865)征長の役が起ると、高杉晋作の奇兵隊に入って各所に転戦し幕府の軍を破った。慶応2年、坂本龍馬の勧誘をうけ長崎の海援隊員になった。陸奥宗光らと貿易海軍の事務をとり、大いに力をつくした。慶応3年8月幕府最後の町奉行であった河津伊豆守が、夜陰ひそかに英国汽船に乗って長崎港を脱走した。それで当時九州鎮撫総督沢宣嘉の旗下にあった松方助左衛門、井上聞多、副島次郎、佐賀藩の大隈八太郎、土佐藩の佐々木三四郎らは奉行所跡で会議し、沢総督に長崎奉行所の警備隊を解散させ、ただちに勤王軍の振遠隊が組織せられた。隊員三百余名が、秋田城の急を知って奥羽出征を嘆願し、許されて遠征の途にのぼることになった。
 野村要輔とともに御用掛となり、7月奥羽の戦地で振遠隊の軍監になり各地に転戦功を治めた。
 明治新政府に入り、明治2年(1869)長崎県小参事となりついで秋田、長崎、千葉、高知の各県知事を歴任。陸奥宗光が第一次伊藤内閣に入って、農商務大臣になると周吉はその次官になった。のち貴族院議員、男爵となった。明治34年(1901)4月8日没。享年63歳。

乾十郎 いぬいじゅうろう 1828−1864(文政11−元治元)

 大和五條出身。父治良平の二男。先祖は十津川宇宮原村である。世龍、希潜、縦龍などの雅号と桃吾という俳号をもつ。森田節斎の弟仁庵に医術を学び大津に出て梅田雲浜の門に入る。この間按摩をして苦学。のち大坂で開業し、万延元年(1860)には郷里五條に帰って医業とともに目薬真珠円を製造販売した。文久3年(1863)天誅組が河内から五條に攻め入る途中を出迎え、五條における天誅組の新政布告の立て札は彼が書いた。十津川敗走の間、吉村寅太郎の弾丸摘出の手術を行い、さらに天誅組解散の途中、熱病に苦しむ久留米藩士小川佐吉に数十日つきそって看病した。その後摂津江口・吹田で楠本燈庵と名を変え医業を続けているところを幕吏に捕えられ、京都六角獄につながれた。元治元年刑死。享年37歳。

いましめの縄は血汐に染まるとも 赤き心はなどかはるべき

今村文吾 いまむらぶんご 1808−1864(文化5−元治元)

 大和の尊攘派。名は宗博、字は子約、号は松斎という。大和国添下郡安堵村の医師専治の子。幼時より京都にあって医術を山脇東洋に、儒学を巌垣松苗に学んだ。15歳のとき郷里に帰り、天保6年(1835)塾を開いて晩翠堂と名付けた。この間奈良中宮寺医も兼務していたので、中宮寺家司の上島掃部とも親しく交遊、ちょうど奈良奉行を勤めていた川路聖謨に皇室費を増加すべきだと主張するなど熱烈な尊王家であった。また安政5年(1858)大獄の弾圧を逃れて大和に入る者を庇護し、文久3年(1863)天誅組が大和に挙兵することを間き、自らは老齢のため参加できないのを残念に思い、北畠治房に金子を与え、また同志の者から軍資を募って天ノ川辻に輸送した。天誅組敗走のとき、伴林光平がいったん立ち寄ったが文吾にあえず自首したのを聞いて驚き、吐血昏絶したという。そのまま起つことなく翌年没した。享年57歳。

上田宗児 うえだそうじ 1843−1868(天保14−明治元)

 土佐出身。名は則政。のち改名して後藤深造を名のる。家は代々茶道をもって土佐藩に仕える。父は宗益、宗児も家職を継いだが、これにあきたらず脱藩して長州藩に仕える。文久3年(1863)天誅組の挙兵に参加し、9月24日鷲家口の決戦で紀州、彦根、藤堂三藩の包囲をうけ決死激戦ののち活路を開き、中山卿を守って脱出に成功した。脱出と同時に農民の半造を道案内として山をわけ谷を渡り、人里離れた三輪山によじのぼり、苦心して慈恩寺村に出て27日夕刻、大阪の江戸堀の長州藩邸に入った。大阪から夜にまぎれ、船で防州三田尻にのがれ長州豊浦郡延行村に潜んでいた。
 長州では伊吹周吉らと中山忠光卿暗殺を憤慨してその墓をあばき、死体検査計画して長州藩を驚かせた。
 慶応元年(1865)の幕府の征長の役には、変名後藤深蔵として遊撃隊で活躍。長藩より年々米二十俵下賜の賞をうけた。
 慶応2年長州再度の役には遊撃隊の参謀から隊長に進み芸州口の戦いに参加した。6月19日芸防の国境小瀬川で越後高田藩の隊長依田伴蔵と会い、一騎打ちで首を得たが、右手に負傷した。この後は左手で文字を書いたが、筆勢がおもしろく皆がその雅致を賞した。
 明治元年(1868)戊辰開戦時、長州軍に参加し戦った。正月2日両軍が砲火を交えた時、彼は伏見の長州邸の裏の藪から幕軍に突入した。たちまち集中砲火を浴び散華した。土佐の同志中にも土佐藩から長州藩と二君に仕えることを非難され、潔く一死もって君国に報ずる決意を実行したと伝えている。
 宗児とともに薩藩士伊集院金治郎も同時に死亡した。この二人が東征官軍中での最初の戦死者である。京都東福寺山上に葬ってある。享年27歳。

浦田弁蔵 うらたべんぞう 1830−1906(天保元−明治39)

 河内勢。河内国錦部郡廿山村(大阪府富田林市)の豪農塩谷家から甲田村の母方浦田家に養子に入る。同村の水郡善之祐のもとに出入りし、かなりの資産を軍資として投入、天誅組に参加するが、十津川を水郡らと敗走するとき、鳴川清三郎とともにはぐれ捕えられたが、のち許されて帰農した。その後高野山挙兵にも参加。77歳まで生きた。

植村定七 うえむらさだひち

 大和国五條近在の人。文久2年8月吉村虎太郎ら中山忠光卿を奉じて大和に入ると、乾十郎らとともにこれを岡八幡境内に迎え義挙に参加した。各地に転戦し、最後に鷲家口の決死隊に加わり、9月24日那須信吾、宍戸弥四郎らとともに彦根の分隊に斬りこんだ。歩兵頭伊藤弥左衛門を斃し、他の勢に加わるところを港伏していた敵兵に狙撃せられ戦死した。遺骸は明治谷山上に埋葬。

江頭種八 えがしらたねはち 1839−1864(天保10−元治元)

 諱は国足。筑前福岡の藩士、また一説に久留米藩士とも伝えられる。安政年間に先手足軽町方新組に編入、文久3年(1863)4月京都守衛の藩命をうけ6月上京、同年8月天誅組が大和五條に挙兵すると勇躍参戦、諸所を転戦敗走をかさね、のち幕府の捕吏に捕えられ、元治元年(1864)2月16日京都六角獄で斬られた。享年26歳。

岡見留次郎 おかみとめじろう 1842−1864(天保13−元治元)

 水戸藩士。大番組岡見甚兵衛の二男。密勅返上に反対して長岡に屯集したひとり。有賀半弥ら同志15人とともに文久元年(1861)5月東禅寺英国公使館を襲撃。捕縛をのがれて、京都にはしり、尾上菊次郎と名乗って尊攘の志士とまじわる。文久3年8月、天誅組の義挙に参加したが大和古市において津藩の兵に捕えられ、元治元年(1864)2月16日、斬罪に処せられた。享年23歳。

もののふのやまとの心を人とはば 国のあらしに散るぞうれしき

小川佐吉 おがわさきち 1832−1868(天保3−明治元)

 久留米藩志士。名は師久、のち宮田半四郎と称す。久留米苧紺川の人で、真木和泉に師事してその尊王論に心酔していた。京都から江戸を遊歴して、会沢正志斎、安井息軒にも学んだ。文久3年(1863)中山忠光を盟主として天誅組が大和五條に挙兵、佐吉も参戦して勘定方をつとめたが敗戦におわり、大坂の長州藩邸にひそんだのち長州へ逃れた。元治元年(1864)ふたたび大坂に出て長州藩邸にあって斥候の任務につき、六月禁門の変では真木和泉に従って天王山に拠り戦うが、敗れてまた長州に還る。慶応2年(1866)長州藩の遊撃隊司令兼参謀となり、四境戦争において大いに奮戦して功あった。明治元年(1868)1月、遊撃隊長として伏見の戦いで激戦中に負傷、船路で三田尻に下り治療したが3月11日没した。享年37歳。

敷島のわが秋津州のもののふは 死すとも朽ちじ大和魂

尾崎健三(磯崎寛) おざきけんぞう 1841−1864(天保12−元治元)

 鳥取藩士。諱は孝基、通称は健三(蔵)。鳥取藩の老臣池田式部の家臣尾崎治泉の長子に生まれる。同藩の景山龍造の門に入るが、尊王の志抑えがたく脱藩して磯前豊または磯東と変名し京摂の間を奔走する。文久3年(1863)8月、中山忠光を盟主として天誅組が大和に挙兵、ただちに参戦して軍議に列して銀奉行の任についた。しかし京都の政変によって天誅組は逆賊として諸藩の兵に追われ、勇戦しつつも敗走し、ついに捕われて翌元治元年(1864)、京都の六角獄で斬られた。2月16日。享年23歳。

うき雲のかからばかかれ久方の 空にさやけき秋の夜の月

尾崎鋳五郎 おざきちゅうごろう 1842−1864(天保13−元治元)

 島原藩士。肥前島原藩士啓蔵の子。父啓蔵が大砲鋳造に携わるとき生まれたので鋳五郎という。名は靖。江戸藩邸に祗役中、学を藤森弘庵に、剣を斎藤弥九郎に学んだ。諸国の志士と交遊する間、文久3年(1863)6月脱藩して長州へ行き下関で外艦を撃つ。8月、天誅組の挙兵に参戦、小姓頭の役名をもって戦い、捕われて翌元治元年(1864)7月21日斬首。享年23歳。

武士のあかき心はもみじ葉の 散りての後の錦なりけり

北畠治房(平岡鳩平) きたばたけはるふさ 1833−1921(天保4−大正10)

 大和。男爵。平岡武夫、牧岡鳩平と称し、明治以降に北畠姓を名のる。もと大和法隆寺の寺侍。父は末重てその二男。安政年間、河内国八尾の教恩寺住職伴林光平のもとに出入りし、乾十郎らとも知りあう。文久3年(1863)天誅組の挙兵に参加し勘定方をつとめ、敗戦によって伴林とともに額田部(奈良県)の里に逃れたが、この時伴林と駒塚で再会を約したのに違背したとして、伴林や世人から非難されたため、大正4年(1915)に『古蹟弁妄』という冊子を出して弁解している。元治元年(1864)筑波山に天狗党が挙兵し、彼は再び参戦。明治維新東征の時は浪士の一団をひきつれ、総督有栖川宮熾仁親王を守護した。維新後は北畠治房と名を改め新政を翼賛した。維新後も極端な攘夷主義者で長崎の外人居留地に放火などをするが、明治24年(1891)には大阪控訴院長に昇進、29年には男爵となる。大隈重信の改進党創設にさいして彼もまた下野して参加。晩年は法隆寺に隠棲した。政界を引退して大和法隆寺に帰り歴朝の古墳を調査し、悠々自適の生活をした。享年88歳。

楠目清馬 くすめせいま 1842−1863(天保13−文久3)

 土佐藩士。名は藤盛、通称勝馬、または清馬という。土佐郡潮江村に生まれる。家は代々土佐藩に仕えた。幼時、家の許しを得て京都に留学、諸藩の志士と交遊するうちに尊王攘夷運動に奔走するようになる。天誅組挙兵後、各所で転戦したが、9月7日下市駅では彦根藩兵の本陣を夜襲して奇勝を得た。中山忠光卿を護って、敵の重囲を突破するため14日同志と永訣の水盃をし、24日鷲家口に突入した。津藩の兵はその前後を囲い、決死の同志は大半戦死した。土居佐之助と包囲陣を破って渓谷を潜行し、28日多武峯村字鹿路に出た。民家を叩いて休憩、蒸かし芋を食って連日の飢を満たした。ここで農夫の着物を着て、長刀をすて、短刀をもち、変装して出発したが土居佐之助が先ず捕えられた。これを知って山路に入った。農民は彼が遣した着物が絹布であるので怪んで官へ訴え出た。そのため津藩の兵に追跡され遂に殺された。享年22歳。
 津藩兵が清馬のきたない上衣を脱ぐと、下には白絹の衣をつけ、襟上に楠目清馬藤盛の名を記してあった。そこで藩兵はその首を京都に送り、遺骸は倉橋村字雀塚に埋めた。
 明治元年(1868)土佐藩の田中光顕は、清馬の兄楠目民五郎とともに京都に行って、清馬の首を埋めたところを探った。そこを掘ると瓶の中に白亜と食塩とでその首を埋めモトドリに木札をつけ楠目清馬藤盛の名を書いてあった。その首をとりだして付近の流れで洗った。見ると死後6年も経っているが顔形はちっとも変らず、凛然とした志士の姿であったという。この日すぐ洛東霊山に改葬した。

久保成吉 くぼなるきち

 大和十津川の人。天誅組の義挙に参加各地に転戦した。軍敗れ、追討の諸藩が十津川に入った時、紀州藩から、「十津川郷民が我が陣に降伏してくれば永く紀州藩に従属させ、その筋へはしかるべくとり持つ。」と申し入れた。これに対し成吉ら同志は、「我が郷は朝廷直轄地である。何も他に従属することはない。」と答えて、その使者を追い返した。後、京都守護。高野山出兵に功があった。明治22年十津川村初代の村長となり治績をあげた。

熊代佐市郎 くましろよいちろう

 宇智郡坂合部村黒駒の人。16歳で庄屋、廃藩置県後戸長や総代となって村治に60余年つくした。貧民救助、公共事業に寄付するなど、その功績が大きいので度々表彰された。
 文久3年の天誅組義挙の時は、軍資供給で吉村虎太郎から懇談をうけたので、佐市郎が世話をして柴田慶斉、小杉権之助、柴田伝次らとともに金二百両、軍糧五十石を供出した。
 また佐市郎の弟の竹蔵は兄に代って天誅組に参加し、高取城や天ノ川辻の戦いに参加した。が生死不明となっている。佐市郎は明治14年8月20日没。享年71歳。

古東領左衛門 ことうりょうざえもん 1819−1864(文政2−文久3)

 淡路国庄屋出身の志士。名は需または高麿といい衡山と号す。淡路国三原郡津井村(兵庫県)の庄屋万次郎の子。23歳で家職を継ぐ。天保8年(1837)大飢饉のさい貧民の救済に尽し、また津井岩屋の両港を改修して漁農民のために船舶を便にし、あるいは廃池を補修して灌漑の利をはかるなどして大いに人望があった。嘉永以降は所有地に兵舎を設け村人に撃剣の練習をさせて有事に備えていた。この頃藤本鉄石らと交遊、たびたび上京して平野国臣、桂小五郎とも連絡をとりあい、多額の活動資金を融通していた。文久3年(1863)藤本ら天誅組の大和挙兵に家財器具を売りつくして参戦、事敗れて京都三条木屋町の寓居で平野らと再挙を計画中幕吏に襲われ、平野を逃して自ら縛についた。翌元治元年(1864)7月、禁門の変のとき獄中に斬られる。享年46歳。

君のため八重の潮路をのぼりきて 今日九重の土になるとは

三枝蓊(市川清一郎・青木清一郎) さえぐさしげる 1835−1868(天保6−明治元)

 尊攘派の志士。大和(奈良県)二階堂浄蓮寺の僧。僧名を浄尚、号を骨堂、青荷と称す。幼年の時から賢明で気節があった。書画をよくした。今村文吾に漢学を、伴林光平に国学を学んだ。後に上京して東本願寺の学寮に入った。ひそかに勤王の志をいだき、相国寺の学友と公卿諸侯の間に入って時をうかがっていた。天誅組の義旗に参加、奮戦した。が時利あらず因州にのがれ画業を生業とした。しかし尊王愛国の情熱は一日一日と燃え、慶応4年2月同志二百余人と南洋隊を組織した。外国使者拝賀のため入京する途上に遮ろうとしたが、計画がばれて防備は厳重である。そのため他の同志は来会することができない。蓊は播磨の林田衛太郎貞堅と二人で、突撃し貞堅は自殺、蓊は重傷をうけ、3月22日粟田口で斬首。享年34歳。京都東山霊山にその碑がある。

さきかけて散るや吉野の山桜 よしや憂き名を世にたつるとも

酒井伝次郎 さかいでんじろう 1938−1864(天保9−元治元)

 久留米藩士。名は重威。久留米藩老臣有馬右近の家臣。少年の頃江戸に出て大橋訥庵の門に入って学ぶこと3年、帰国後同藩の真木和泉と交遊、その尊攘論に強い影響をうける。文久2年(1862)脱藩して荒巻羊三郎とともに豊後を遊歴、長門に渡り白石正一郎のもとに寄寓していたが、島津久光の率兵上京を聞いて清河八郎の挙兵計画に参画する最中、かえって久光の弾圧にあい、伏見寺田屋に同志荒巻、鶴田陶司らと集合中を襲撃され、藩地におくりかえされ幽閉された。文久3年赦されて上京、禁門守衛の任につくうち藤本鉄石と知りあい、天誅組の挙兵に参加、高取城攻撃のさい鳥帽子を被って真っ先に進み、それを大砲にうちぬかれてもなお前進したという逸話が残っている。のち捕えられ翌元治元年(1864)2月、獄中て斬られた。享年27歳。

沢田実之助 さわだじつのすけ

 紀州伊都郡富貴村中筒香の人。実之助は武術に通じて高野山三宝院の納所にいた。そうして近辺の若者どもに武芸を教えていた。文久3年中山忠光、大和から密使を遣わし、懇ろにこれを招いた。実之助この義に感じ、大いに周旋するところがあった。ところが一山の僧侶はこのことを和歌山藩に告げ、同藩の守りを乞うた。藩は8月29日阪西又六、津田楠右衛門、永野七郎左衛門に兵八百をつけて高野山に出陣させた。9月1日、紀藩は津田楠右衛門を先陣にして鉄砲組24人一手で出、二番に高野山三宝院納所実之助25人を引き連れ、三番に津田勢140人が出陣した。さて天狗見の辺で実之助は天誅組に通じて、謀計で他の勢に同志討ちをさせた。そうして実之助はその兵二十余人とともに天誅組に参加した。
 この実之助は性剛毅で、幼年のときから高野山に入って小野派一刀流の武術を修めた。29歳で奥儀をきわめ、安政6年京都に出て小野御殿に仕え、名を若狭といい俊信とよんだ。のち再び高野山に帰って録頭代官を勤めていた。
 文久3年天誅組の義挙に参加して糧食等も供給したが、このことが紀藩に知れ、藩士萬歳又六郎(西又六郎ともある)が、部下数十人を率いてこれを捕縛した。
 のち白状して紀藩の手で殺された。また投獄され後に病死したともいう。殉難録稿には京都へ送られる途中死すとある。享年40歳。

沢村幸吉 さわむらこうきち 1845−1864(弘化2−元治元)

 土佐出身。姓は源、名は行敏。土佐国長岡郡大津村の町人辰吾の子として生まれ、土佐郡潮江村上町に住んていた。文久3年(1863)藩命によって京都に上り、禁裡警衛の任にあったが、同年8月、天誅組の大和五條挙兵に応じ、緒戦では五條の代官鈴木源内を屠り、下市駅では彦根の兵営を夜襲して大勝を得るなど寡兵よく、神出鬼没の作戦で功を奏した。しかし京都の政変や十津川郷兵の離叛となり遂に敗戦となり、幕軍の重囲におちた。沢村らは9月24目鷲家口の最後の激戦でよく血路を開いて脱出した。が式上郡芝村の間道に出た時芝村の藩兵に捕えられた。のち京都に送られて投獄。翌元治元年(1864)2月同志19名とともに斬られた。享年22歳。

宍戸弥四郎 ししどやしろう 1833−1863(天保4−文久3)

 三河刈谷藩士。尊攘派。名は昌明。三河国碧海郡刈谷に生まれ、刈谷藩に仕えていたが、出仕をやめて浪人となり、江戸に遊学、窪田助太郎についで山鹿流の兵学を修めた。安政6年(1859)江戸から駿府へ移り、城下で家塾を開き、弟子を集めて兵学を教えた。のち再び江戸に出たが、文久3年(1863)上京して尊攘激派に身を投じ、しきりに討幕挙兵を画策した。天誅組には文人あり学者あり政治家もあるが、弥四郎のように兵学者は少ない。そこで弥四郎は一軍の合図掛ヶとなった。軍の進退よく大いに振った。中でも9月7日大日川の戦いの時は、藤堂新七が兵六百を率いて和田村から進撃してきた。天誅組はこれに応戦した。この時安積五郎と宍戸弥四郎は河の向こうの賀名生村山嶺尾山不動院鎮国寺の前庭で、戦機熟すと見て、大線を手にして全身の力をこめて武者押の譜を吹奏した。このため敵兵は貝の遠音に驚き、援兵がくるぞと狼狽し一度に逃げ足になった。敵将藤堂新七は馬を走らし、士卒を励ましたがその効なく馬は棒立ちになった。そこへ保母健が槍で左腹をつきたてたからたまらない。やっと味方の助けで逃げ延びた。大将が討たれて敵は意気消沈、敗走してしまった。
 9月24日鷲家口での決戦。弥四郎は決死敵陣に斬り入り縦横に戦ったが、誤って河の中におち彦根藩兵に斃された。享年31歳。
 彦根藩士天方道為が首をとり、その遺骸を調べると黄金十両に埋葬費と記してあった。弥四郎の決死のほどがしのばれる。そこで道為は自家の長松院にその墓を建て、これを弔った。
 弥四郎は身長五尺一寸(1.55m)の小柄で眼は細く、幼時天然痘のため満面に痘瘡があったため、一見すると恐ろしいようであったが、一度笑うと愛嬌たっぷりで子供もなついたという。
 愛知県刈谷市の地に弥四郎の姪宍戸昌−大蔵省国債局長−が同宗と謀って記念の碑を建てその殉節を永久に伝えている。

今はただ何かおもはむ敵あまた うちて死にきと人のかたらば

渋谷伊予作 しぶやいよさく 1842−1864(天保13−元治元)

 下館藩士。名は実行。父は利左衛門という。安政年間は江戸外桜田邸の玄関番役だったが、経史に通暁し奇才といわれる。藩主石川侯の近待となり江戸藩邸に住んだ。文久2年(1862)一書を遺して京都に上り、八木成太郎と名を変えて諸国の志士と交遊。長州の下関攘夷にも加わった。文久3年、中山忠光を盟主として天誅組が大和五條に挙兵のとき、忠光の小姓頭として参戦。島原の尾崎鋳五郎らとともに天誅組の四天王と呼ばれた。挙兵後津藩兵と対戦中、天誅組の挙兵が義挙であることを弁明するため自ら志願して忠光の書面をもって津藩の陣営に使いした。結局捕えられたが、その態度は、のちに津藩が幕府に助命を請うたほど潔いものであった。京都六角獄に送られ翌元治元年(1864)2月、同志とともに斬られた。享年23歳。

桜花夜半の嵐もあるものを いさぎよく散れやまとだましひ

島浪間 しまなみま 1843−1865(天保14−慶応元)

 土佐の志士。名は義親、浪馬とも通称す。吾川郡長浜村の郷士与助の二男に生まれる。その遠祖が長曽我部元親であるとして長曽我部四郎を称したこともある。文久年間上京、藩命により三条実美の衛士となった。文久3年(1863)8月攘夷親征の先駆けとして、同藩出身の吉村寅太郎らと中山忠光を擁して大和五條に挙兵したが、朝議一変して幕兵に追われ敗走をかさねながらも、上田宗児ら6人で中山忠光を守衛して重囲を突破、かろうじて大坂の長州藩邸に入り船路で三田尻に渡った。元治元年(1864)脱藩してきた井原応輔、千屋金策の3人で中国路諸藩の遊説の途につき、伯耆にしばらく留って慶応元年(1865)1月、再び間道をとって上京するところを美作土居の関門て関守にとがめられて狙撃され、井原と刺しちがえて死んだ。享年23歳。天誅組敗走のとき乾十郎に送った軍衣は今も保存されて

世に出でて時をもまたで散るものは 我れと嵐の紅葉なりけり

島村省吾 しまむらしょうご 1845−1864(弘化2−元治元)

 土佐藩士。名は正文。土佐国安芸郡羽根村出身。はやくから江戸、京都、大坂などを遊歴して文武の修業をし、特に砲術にすぐれていた。安政6年(1859)ごろから国を脱け、本格的に尊攘運動に参加しはじめた。土佐藩の藩論が一時武市瑞山ら尊攘派に握られるようになると、藩邸の吏に挙げられて、しばしば諸藩に密使として奔走する。文久3年(1863)8月、中山忠光を盟主として天誅組が大和に挙兵、省吾も同藩出身の吉村寅太郎らとともに参戦、本隊にあって鎗一番伍長をつとめ、9月9日下市の彦根藩本陣を夜襲した。25日は鷲家口に吉村虎太郎と最後の別れをし、峠の民家清三郎にたのんでその納屋で一泊した。傷の治療をしたことを紀藩本陣に密告され、翌25日新田で紀州の藩兵に捕えられた。辻四郎三郎のもとに一週間つながれた。この間泰然自若として過去を思い出し筆をとり、三条碩の晒首のさまを書き絵にして残した。この晒首の絵は法隆寺の北畠家に所蔵しているという。その他の筆跡は紀州藩兵が持ち去った。後京都六角獄に投獄。元治元年(1864)2月享年21歳。。現在のような満年齢だと19才である。天誅組烈士中土佐藩士では最若年である。

竹志田熊雄 たけしだくまお 1864−1863(弘化3−文久3)

 肥後藩士。名は重楯、肥後玉名郡大浜村(熊本県)に生まれる。文久2年(1862)薩摩の島津久光率兵上京のことを関き、尊攘の志抑えがたく京都に走ったがたまたま病気にかかり伏見の薩摩邸に身を潜めているとき、寺田屋事件がおこって同志先輩の多くは殺されまた捕われたので、急遊のがれて国に帰った。この年7月、藩主細川慶順の弟長岡護美が上京、これに随って熊雄も再び京都にてて禁裡守衛の任にあたる。翌3年、中山忠光を盟主とする天誅組が大和五條て挙兵、勇躍馳せ参じて伍長となって各地を苦戦のうちに転戦、負傷して風屋寿福寺で没す。このときわずかに20歳であった。

玉きはる命は死して大君の 御代を護りの神とならなむ

武林八郎 たけばやしはちろう 1841−1864(天保12−元治元)

 河内勢。八木八兵衛と名乗ったこともある。河内国錦部郡長野村(大阪府富田林市)の津武双四郎の子。農事に従いながら同郡の吉年米蔵、水郡善之祐と交わる。文久3年(1863)天誅組が水郡邸を出発の後数日おくれてあとを追い、水郡ら河内勢が本隊と別れたときもそのまま残って、天ノ川辻、風屋、白川、武木、鷲家口と転戦したが、桜井で津藩の兵に捕えられた。しかし津藩は彼らの行為を義として京都守護職に追討厳罰の非を申し出たほどであるから、八郎ら囚人は厚遇された。その後京都の六角獄におくられたが、元治元年(1864)1月に放されて郷里に帰ることができた。だが同年7月の禁門の変では再び参戦し、京都男山て戦い鷹司邸内で戦死した。この戦の混乱の中で、京都六角獄ではかつての同郷の同志が斬殺されていた。享年24歳。

出でしよりまた帰らじと梓弓 死して正しき名こそとどめん

田所騰次郎 たどころとうじろう 1837−1864(天保8−元治元)

 土佐藩士。名は重道、通称はじめ辰次のち騰次郎に改める。土佐藩医田所春井の二男として生まれ、田所小助の養子となる。代々城下潮江に住み歩行格持筒をつとめていた。文久元年(1861)江戸在勤中脱藩して京都に走り、諸国の藩士と交わる。文久3年8月、攘夷親征の急先鋒として同藩吉村寅太郎らいわゆる天誅組に参加して大和五條に挙兵した。銃一番組長をつとめ、前田繁馬らと下市に駐屯中の彦根兵営を襲い大勝を博したが、9月7日同志数十人とともに下市駅の彦根の兵営を夜襲して大勝を得た。24日鷲家口に最後の血戦をした。騰次郎はこの日は山中を潜行して、山辺郡三味田村(今の天理市)の権現社内に入った。連日の不眠不休の上に食事もとってないので疲労がひどく思わず眠ってしまった。そこを不意に津藩兵に捕えられ、京都六角獄に投獄。元治元年(1864)2月京都町奉行永井主水正から斬刑の申渡しを受けた。するとみな青天白日御請仕るべく候といってこれを受けた。騰次郎は刑に臨むと従容としてまず皇居の方に向って遙拝し、さらに西方郷里土佐の方に向かって拝んだ。それがすんで悠々と刀をうけた。見るもの皆、その最後の沈着に感激しないものはなかったという。享年24歳。遺骸は京二条西土堤竹林中に埋める。

田中楠之助 たなかくすのすけ 1843−1864(天保14−元治元)

 河内勢。河内国大県郡法善寺村(大阪府柏原市)の田中兵左衛門の二男、祐信と号す。田中家は代々法善寺村の大庄屋で、広大な田畑持ちであったから、楠之助は幼時から物心ともに恵まれて成長した。しかも田中家は、辻幾之祐の家とも親戚関係にあったので、その縁で甲田村の水郡善之祐方に出入りし、尊王攘夷論の影響をうけた。文久3年(1863)楠之助は長野一郎とともに、中山忠光ら天誅組一行を案内して、京都から甲田村水郡家に導いた。楠之助は終始、水郡善之祐と行動をともにし、五條代官所を襲ったのち本隊と河内勢が訣別したときも水郡に従っている。のち紀州藩屯所に自首し、京都六角獄につながれたが、翌年水郡らと同様に獄の中で殺された。享年22歳。柏原市法善寺の田中家に彼の記念碑が建っている。享年22歳。

田中主馬造 たなかすめぞう 1832−1866(天保3−慶応2)

 十津川郷士。名は通胤、はじめ光治郎、ついで常陸と称し、のち邦男と名のる。大和十津川郷上湯川の人。父は千葉周平、母は的場氏でその二男。兄千葉良平とともに紀州田辺藩の儒者平松良蔵のもとで漢学を学び、同藩の柏木兵衛に剣を習った。以後、郷友深瀬繁理、野崎主計らと交わり国事に関心を寄せる。文久3年(1863)4月には深瀬らと十津川郷由緒復古のことを上願し、中川宮から令旨と金子三百両を貰い感激する。同年8月天誅組の挙兵にさいし一郷を率いて勇躍参戦するが、紀州藩に捕えられた。同年10月赦免、その後もますますさかんに活動を続け、土佐藩の脱藩者浜田辰弥らをかくまったりしているが、慶応元年(1865)幕吏に捕えられて獄に投ぜられ、獄中で病み、翌2年放免され帰郷した。文筆にすぐれ嘉永以降の日誌を残している。享年35歳。

数ならぬ身にしあれども君がため つくすまことはたまゆまざりけり

谷塚与三郎 たにづかよさぶろう

 河内国富田林甲田村の人。農家である。青年時代相撲がすきで力士になった。平素水郡善之祐の邸に出入りしていたのでその感化をうけた。天誅組義挙の時は東奔西走し特に請うて従軍を許された。各地に転戦、特に五條、高取の戦に奮戦しその功が顕著であったので忠光卿から賞をうけた。大日川の戦で先鋒となっで進撃したが、その時銃丸にあたって苦痛がひどく、深山幽谷に逃れたが糧食なく困った時樵夫に助けられ、救護をうけること20日間。傷が若干癒えたので昼夜兼行して家に帰ったが後、捕えられて投獄。在獄50日で放されて帰宅したが病いに倒れた。

辻幾之祐 つじいくのすけ 1835−1864(天保6−元治元)

 河内勢。名は続茂、のち単茂。京都の人平井主殿正直の6男として生まれ、幼時、河内国道明寺村役人三根文治方にもらわれ、成長してさらに同国富田林村の本締屋辻為次郎の奏子となった。その後幾之祐は三根文治の娘ユタを妻に迎えているから辻家と三根家は重縁であり、その辻家は中村徳治郎家の隣家で、吉田松陰が森田節斎と中村邸を訪れたとき幾之祐も同席している。また辻家は水郡家とも親類であり、父為次郎は毛人谷の庄屋をつとめている。だから文久3年(1863)8月水郡善之祐らが天誅組に参戦したとき、むろん幾之祐も行動をともにし記録方をつとめ、敗走のさいもつねに水郡とともにあった。紀州藩の屯所へ自首して米倉に幽閉されたあと、京都六角獄に移され、禁門の変のさい処刑された。京都の竹林寺に埋葬されている。享年30歳。

辻宇吉 つじうきち

 河内国富田林甲田町の人。森本伝兵衛に仕えていたが、文久3年の天誅組に参加して大和五條を進発すると、森本に頼んで義軍に参加を願ったが許されない。そこで単身五條へ行って池内蔵太を介して忠光卿に謁見。その赤誠を許されて従軍ができた。忠光卿に従って各地に転戦したが、衆寡敵せず軍敗れ9月10日捕えられ大阪の獄に送られ、30日京都に移された。その間問責厳しかったが遂に許されて帰郷。慶応3年(1867)12月8日鷲尾侍従の義軍に参加した。のち二条城大寺門警衛を命ぜられた。また伏見練兵隊、散兵隊に編入した。明治2年(1869)2月10日帰村。病没。

鶴田陶司 つるたとうじ 1840−1864(天保11−元治元)

 久留米藩士。名は道徳または孝良。久留米藩医道全の二男に生せれたが、兄仙奄が早逝したので家を継ぐ。文久2年(1862)2月同藩の志士とともに脱藩して大坂に出て、薩摩藩士に加わり、島津久光の率兵上京を待って尊攘の旗揚げを期待していたが、案に相違して久光は尊攘志士を弾圧、陶司も同藩のもの10余人と大坂の藩邸にひきわたされ、国もとで謹慎を命じられた。文久3年、赦されて禁裡守衛のため上京。この年8月中山忠光を盟主として天誅祖が大和五條に挙兵、陶司も参戦、隊の伍長をつとめた。各地転戦ののち捕えられて、翌元治元年(1864)2月、京都六角獄において斬られた。享年25歳。久留米藩主有馬侯は陶司の最期を聞いて、のち後嗣の者を祐筆格にとりたて禄7人口を与えたという。

たたかひの花を散らして今よりは よみじの月を見るべかりけり

土居佐之助 どいさのすけ 1841−1864(天保12−元治元)

 土佐藩士。名は金英。土佐郡小高坂村の池田有年の第2子として生まれたが、土居弥十郎の養嗣となり同郡新町に住した。早くから書を田内喜参次、徳永千規に、撃剣を川崎専輔に、砲術を吉村来平らに学んだ。また武市瑞山を領袖とする勤王血盟党に加わっている。文久3年(1863)脱藩して上洛、また長州にも行き、高杉晋作、久坂玄瑞らと交遊する。その長州へ土佐藩士吉村寅太郎らが船路でやってきて久坂らと会合、8月、中山忠光を盟主とする天誅組の大和五條挙兵に参戦、鎗一番組長をつとめて各地を転戦する。最後まで中山忠光卿を護衛したが、9月24日の鷲家口の決戦に重囲を脱した。そうして野に伏し山をくぐって最後まで潜行をつづけた。がしかし28日多武峯村字鹿路におりて来た時、たまたま倉橋村津藩兵の屯所の前を通った時、捕縛された。義挙の同志で津藩の捕虜になるものは全部で11名である。京都六角獄に送られ投獄された。翌元治元年(1864)2月獄中で斬られた。享年24歳。この日二条西土堤竹林中に埋められた。

伴林光平 ともばやしみつひら 1813−1864(文化10−元治元)

 国学者、天誅組の一人。南河内郡道明寺村(大阪)の真宗尊光寺に、父を賢静、母を原田氏として生まれた。二男。法名に大雲坊周永、号に破草鞋道人、八丘など多数ある。貧困の中て読書に励み細字と画を得意とした、天保元年(1830)18歳のとき八尾の真宗教恩寺の住職となる。のち奈良薬師寺で仏学を研究した。その間寺男など苦学を続け、本山本願寺て因明を講ずる間、漢学の必要を痛感して浜松の儒者川上東山についで朱子学を学んだ。だが仏教にも儒教にもあきたらず、26歳のとき、伊丹の中村良臣に国学を学び、さらに和歌に興味をもつようになり、天保10年因州の神官飯田秀雄の門に入って、その子の七郎年平と兄弟の盟約を結び、名を伴林六郎光平と改めた。伴林は彼の故郷の伴林氏神社にちなんだものだ。光平は国学研究を精カ的に究め、加納諸平に入門、ついで江戸に出て伴信友についた。28歳、この頃並木春蔵を名のる。翌天保12年よび返されて丹南郡野村の西願寺に入り再び僧となるが、歴朝の山陵を踏査し『陵墓検考』『野山のなげき』を著す。弘化2年(1845)中河内八尾の数恩寺に移る頃には国学歌道の光平の名は高く、彼の門に入る者も多かったが、文久元年(1861)には、ついに寺を出て妻子とともに大和法隆寺村東福寺内の駒塚の茅屋に移り住み、国学と和歌を教えた。文久3年、天誅組挙兵の報を聞いて直接大和五條に駆けつけ、記録方をうけもったが、その後天誅組本隊は連敗し、光平は歌弟子牧岡鳩平(北島治房)とともに逃れるうちに捕えられ奈良奉行所に送られた。この獄中で『南山踏雲録』を書く。のち京都へ送られ元治元年2月、同志19名とともに刑死した。享年52歳。顕彰碑は尊光寺境内にある。
 御代之歎、野山之歎、思出草、園之池水、稲木抄、政事慨論、我御世之事、白鳥陵考、陵墓周垣図記、阿濃之湊田、海潮降梨、藤之嘉佐之、歳晩急務、京遊紀事、葎屋独語、河内国上古水土考、小田之中道、月瀬紀行、芳野道記等の著述がある。

大君の醜の御楯と身をなさば 水漬く屍もなにかいとはむ

中垣健太郎 なかがきけんたろう 1841−1864(天保12−元治元)

 久留米藩士。名は幸雄。真木和泉の薫陶をうける。文久2年(1862)正月、清河八郎が中川宮の令旨を奉ずると称し、伊牟田尚平、安積五郎らとともに北九州に来訪し、島津久光の率兵上京に呼応して挙兵を呼びかけた。真木のほか平野国臣、河上彦斎らがこれに加担、い健太郎もむろん加盟、2月には原道大、荒巻半三郎、酒井伝次郎とともに脱藩して大坂に入り討幕の兵を挙げようとしたが、久光の弾圧により寺田屋事件が突発、計画は挫折し、健太郎も藩地に送還され獄につながれた。翌文久3年、救されて京都守衛の任についていたが、8月天誅組の挙兵を聞いて勇躍参戦、五條代官所を襲撃した。天誅組敗走後も奮戦し鷲家口で捕えられて京都六角獄につながれた。翌元治元年(1864)2月斬刑にあう。時に24歳。

長野一郎 ながのいちろう 1839−1864(天保10−元治元)

 河内勢。本名吉井儀三、諱は寛道。河内国錦部郡長野村(大阪府)の医師吉井寛斎の三男。青年時代、大坂の緒方洪庵のもとで西洋医学を学び、郷里に帰ってからは貧民のため働いたので人望厚かった。また早くから水郡善之祐らと交友があり尊皇攘夷運動に関心をもっていた。文久3年(1863)中山忠光ら天誅組を田中楠之助と2人で甲田村水郡家まで道案内をつとめた。一郎の天誅組での役割は伍長薬投兼であった。その後本隊と河内勢は袂を分つが、森本伝兵衛と一郎は本隊に残って苦戦、ついに鷺家口で芝村藩に捕われ、翌年京都六角獄で刑死。なお一郎の長兄見蔵は天誅組出発後、岡部藩で取調中に自刃、次兄正一郎は慶応4年(1868)北陸方面に出陣、医業を役だてた。享年26歳。

中村徳次郎 なかむらとくじろう 1839−1917(天保10−大正6)

 河内勢。河内富田林の豪商中村徳兵衛の子。嘉永6年(1853)吉田松陰が中村家で20余日滞在したとき、徳治郎は15歳である。また水郡家とも親戚関係にあった。文久3年(1863)水郡善之祐が河内勢を率いて天誅組に参加したとき徳治郎も陣中見廻り役をつとめたが、水郡ら河内勢が敗走の際、東条昇之助とともにはぐれてしまった。しかしかえってこれが幸いし郷里に帰ることがてきた。帰郷後、徳治郎は分家し、明治に入ると郡役所につとめ、明治21年(1888)には大阪市博物館、大阪府土木課、大阪市役所などに職をもった。享年79歳。

中山忠光 なかやまただみつ 1845−1864(弘化2−元治元)

 天誅組の盟主、公卿。大納言中山忠能の第七子。忠光の姉中山慶子と孝明天皇の間に生まれた祐宮がのちの明治天皇だから、忠光は明治天皇の実の叔父にあたる。中山家で生育された明治天皇が宮中にもどると、安政5年(1858)忠光も待従として出仕するようになった。公卿中もっとも過激な尊攘派で、文久2年(1862)9月、自らその頃京都三条にいた土佐勤王党の武市瑞山のもとに直接訪れ刺客の貸与を申入れるなど、当時の公卿としては破天荒の行動をとっている。また和宮の降嫁問題に憤激し尊攘派志士と結んでそれを推進した三卿両嬪を弾劾して辞官落飾を強制した。ついで翌文久3年3月、忠光は土佐の吉村寅太郎の誘いをうけて、賀茂行幸の供奉のあと無断で京都を脱出、摂津沿岸を巡見しそのまま長州に走って名も森秀斎と名のり、折から5月10日、長州藩の馬関攘夷に参加して自ら軍艦庚申丸に搭じて外艦を砲撃した。6月には吉村らと再び帰京、真木和兵、桂小五郎、久坂玄瑞ら尊攘激派の中心人物とさかんに会合をかさねていたが、彼らの画策が効を奏してこの年8月13日ついに大和行幸、攘夷親征の詔勅が出た。その先駆けたらんとし、忠光を盟主として天誅組が結成され、吉村寅太郎、藤本鉄石、松本杢堂らが中心になって大和五條の代官所を襲い代官鈴木源内を斬って討幕の第一声をあげた。だが京都では8月18日の政変によって長州系尊攘激派は敗退し、大和行幸は取消されたため天誅組は孤立してしまった。頼みとする十津川郷士も離反し、作戦上の意見の違いから忠光ら本隊と河内勢も別行動をとることになり、本隊は各所を転戦、敗走を重ねながら驚家口の戦いで大きな犠牲を払うことで、忠光を長州に脱出させることに成功した。この頃しばらく下関の白石正一郎邸に潜んていたが、長州藩は幕府を恐れてさらに辺鄙な豊浦郡田耕村の山中に送りこんだ。そして元治元年(1864)11月15日、この山中で長州藩からさし向けられた数人の暗殺者に絞殺された。享年20歳。

夷狄らと共に東夷もうたずして いかで皇国のけがれすすがん

那須信吾 なすしんご 1827−1863(文政10−文久3)

 土佐藩家老深尾和泉守重良の家臣浜田宅左衛門の三男として生まれ、田中光顕の叔父にあたる。名は重民。はじめ医術を学び剃髪と号したが、身長6尺て膂力剣術にすぐれ、その健脚は馬より速いといわれた。それを同国高岡郡檮原村で槍指南をしている郷士那須俊平に認められ、長女為代の婿養子となる。以後、医術の修業をやめて信吾と改名し、高知に出て武市瑞山と交わり、土佐勤主党に加わった。武市の指令により信吾は安岡嘉助、大石団蔵と組んで藩の参政吉田東洋を暗殺、ただちに脱藩して長州に走った。文久2年(1862)4月のことである。翌文久3年8月、中山忠光を擁する天誅組の結成に参加、十津川を敗走後も常に忠光を護り、鷲家口で血路を開くために決死隊を組織して彦根藩と激戦し、部将大館孫左衛門を斃したが、銃弾にあたって戦死した。墓は鷲家口明治谷にある。享年37歳。

君ゆえにをしからぬ身をながらへて いまこの時にあふぞうれしき

鍋島米之助 なべしまよねのすけ 1840−1863(天保11−文久3)

 土佐藩士。土佐郡潮江村の鍋島外八の二男に生まれる。同藩の楠目清馬と仲が良かった。文久3年(1863)別俸をうけるようになり、京都藩邸詰となる。このとき土佐藩出身の吉村寅太郎の影響をうけ、彼の活動を助けて8月、大和五條の天誅組挙兵に参加した。以後天ノ川辻の陣など各所を転戦、最後に首領中山忠光を落すために驚家口で決死の戦いをし、米之助は那須信吾、宍戸弥四郎とともに決死隊となり、藤堂藩彦根の陣営を襲撃しようとした。出店の表前に来た時不意に四方から狙撃をうけ重傷をうけた。それにも屈することなく奮戦して鷲家谷まで逃れ、辰巳屋友七の納屋に入り傷の手当をした。そこへ彦根の隊長村田権右衛門らが兵をつれこれを包囲した。米之助は刀をふるい飛び出してこれと戦い倒れた。享年24歳。

鳴川清三郎 なるかわせいざぶろう 1825−1887(文政10−明治20)

 河内勢。河内国錦部郡新家村(大阪府富田林市)の庄家鳴川甚右衛門の長男。鳴川は成川と併用され、現在も両姓の家がある。清三郎は隣村甲田村庄屋の水郡善之祐と交友があり、文久3年(1863)天誅組の挙兵に参加、兵糧方をつとめた。のち水郡ら河内勢は中山忠光の率いる本隊と別れ、紀州へ向けて十津川に入り血路を開こうとしたが、下湯川村の山小屋で火薬を仕掛けられて一行が負傷したとき、清三郎と浦田弁蔵は水郡らとはぐれてさまようところを捕えられた。紀州本宮の御師辻佐太夫に預けられ、自殺をはかったが見破られて果さず、水野藩にひきわたされた。だが辻佐太夫の助命嘆願などもあって、翌年許されて郷里に帰る。慶応3年(1867)高野山挙兵にさいして浦田らと参戦、翌年大阪から京都に進み京都守護の軍務につく。明治4年(1871)帰農して3年後に新家村の戸長となり、明治20年9月死去した。享年63歳。

皇国の曇りをはらす大丈夫が 時ならずしてまたの世にいる

水郡善之祐 にごりぜんのすけ 1826−1864(文政9−元治元)

 河内勢の首領。河内国錦部郡甲田村(大阪府富田林市)の庄家水郡岩五郎の長子。本名長雄、のち大和五條て小隼人と改める。嘉永6年(1853)家を継ぎ、神戸藩(甲田村は伊勢本多伊予守の知行地)の士籍に列する。天保末年から自邸に道場を設け、20歳で柔術初伝の免許をうけた。また軍学を好み、彼自ら講ずることもあった。近隣の者にも文武を学ばせ、のちにその多くが彼に従って天誅組に参加している。安政に入って尊王攘夷論が熾烈になるにつれて、善之祐の交友関係は、熊本藩の松田重助、宮部鼎蔵、江戸の安積五郎、福岡藩の平野国臣、三河刈谷藩の松本奎堂ら全国的な広がりをもち、甲田村の自邸にはこれら来訪者、寄食者が絶えなかった。善之祐自身も家業を実弟謙三郎に任せてたびたび上京、その京都で土佐の脱藩浪人吉村寅太郎と出会い肝胆相照らした。文久3年(1863)8月、攘夷祈願のため大和行幸の詔勅が発行されると、松本奎堂、吉村寅太郎らは天皇親征の先鋒隊たらんとして天誅組を結成、中山忠光を盟主とする総勢38名が京都を発して甲田村に至り、水郡家を拠点にして軍旅を整えた。善之祐はかねてから用意していた銃砲刀鎗、旌旗鼓鐘を拠出し、森本伝兵衛ら郷党10数名と百姓数十名を率いて参加、この中に善之祐の一子英太郎(13歳)もいる。善之祐は池内蔵太とともに輜重器奉行になる。一行は千早峠を越えて大和五條に向かい、代官所を襲って代官の首級をあげたが、8・18の政変によって行幸は中止、天誅組は孤立して四方の諸藩に攻められ、十津川に敗走した。善之祐の率いる河内勢はよく戦ったが、忠光を中心とする京都勢に失望し本隊と別れて独自に戦いながら紀州領菅野に入る。ここで挙兵の理由を天下に明らかにするために自首を決意、日高郡龍神村の紀州藩衛所に善之祐はみずから出向き降伏を告げた。10月京都の六角獄に投ぜられ、翌年夏、禁門の変の混乱の中て斬られた。墓所は甲田の養楽寺にある。享年39歳。

皇国のためにとつくすまごころは 神や知るらん知る人ぞ知る

水郡英太郎 にごりえいたろう

 水郡善之祐の長男である。嘉永5年(1852)生まれ。父とともに天誅組の義挙に参加、各地に転戦した。戦い破れ、父一行とともに逃れて丹生村の志士田中主馬蔵宅に落着いた。敵兵の奸計に陥り熟睡中、囲炉裏に火薬を投げ込まれ爆発、吉田重蔵、辻幾之助とともに重傷を負い、のち紀州藩兵に捕えられた。しかし15才未満のため特に赦された。
 成長して勤王の志厚く父の遺志をつぐ。慶応3年12月鷲尾侍従の軍に従い、北越に奮戦して功があった。明治3年東京府小属に任ぜられたが辞し、5年4月米国で勉学、同7年11月宮内省属官、在職6年。明治15年4月熊本始審裁判所検事補。のち浦和裁判所、20年7月検事に任官。以降大阪、和歌山、姫路、金沢等の地方裁判所検事。従五位勲五等に叙せられた。明治37年12月退官、奈良市で公証人となった。明治41年7月病気になり堺大浜で療養中に死去。3年7月18日。享年59歳。

現身の此世の旅も今日限り 神の御そばに帰り侍べらん

野崎主計 のざきかずえ 1824−1863(文政7−文久3)

 大和吉野郡十川郷川津の人。利七郎の長男。川津村の庄屋をつとめる。丸田監物、深瀬繁理、上平主税、藤井秀蔵と親しくし、安政元年(1855)には深瀬らと京都に上り、梅田雲浜を訪ねている。以来尊攘派志士とたびたび交友し、その間、亀山藩士長沢俊子、長州藩士宍戸左馬之介、雲浜らが来郷し、主計ら郷士をオルグしている。そのため文久3年(1863)8月天誅組が五條に入り十津川に兵を募ると、主計は吉村寅太郎と会見、深瀬ら同志とともに天ノ川辻に馳せ参じたが、高取城攻撃に敗れ、また天誅組討伐令とさらに十津川郷士脱隊の命が出されたのを知って、十津川に累が及ばぬよう自刃して果てた。主計は若年の頃臀部に癌疾があって13年間歩行ができず「川津のしりくさり」とあだ名されたが、その間読書に励み地方第一の物識りであったという。享年39歳。

大君につかへぞまつるその日より わが身ありとは思はざりけり

橋本若狭 はしもとわかさ 1822−1864(文政5−元治元)

 大和の郷士。名は藤馬、綱幸と称す。宇智郡滝村の郷士益田藤左衛門の第四子に生まれたが万延元年(1860)吉野郡長谷丹生川上神社の祠官橋本信政の養嗣となる。幼より武技に長じ自ら一派を創めて二葉天明流と号し、村内に練武場を開いて郷党に剣を教えた。文久元年(1861)江戸に遊学中、諸国の志士と交友があって幕吏に狙われる身となりひそかに帰国、その後機をうかがっていたが、文久3年天誅組挙兵の報を開いて、同志中井元定、欣求寺良厳をさそって勇躍参戦、義挙の趣意を聞いて感激した。中山卿は若狭に、皇威増進、国土安穏の祈願を委嘱され郷里に戻った。京都の政変が伝えられ、長藩は禁衛をやめさせられ、三条実美以下七卿は長州に走ったという報があった。一座は大驚きでしたが、若狭は、「事の真偽はまだわからない。たとえ事実としても驚くことはない。今中山忠光卿の依頼をうけて義旗を掲げた。これを助けることは君国につくすことで、臣民のつとめを全うするものである。これこそ我軍の名誉である。諸君河内党にまけないよう努力しようではないか。」と言うと皆が同意した。翌23日若狭は中山首将の本営に行き曰わく。「朝議は一変した。追討の兵はやがてくる。僕らは不肖ではあるが身をもって義旗に従い卿を護る。ついては敵は必ず吉野川沿岸に出陣してくる。僕らは幸いに地理に詳しい。それで椎原、樺の木で敵にあたろう。どうか我が郷のものに下知してもらいたい。」 そこで衆議一決。募兵のために田所騰次郎、楠目清馬の二人を出した。若狭らは帰って同志に告げ募兵に力をつくした。
 24日以後5日間若狭はもっばら祭祀にあたった。そのうち吉村虎太郎、乾十郎らの力で十津川郷兵が一千人も参加したので、軍容は整い、各地に転戦し効を奏した。しかし、十津川兵は後に離散し、幕兵が大挙包囲するようになり敗色濃く、遂に鷲家口の戦で敵の重囲を破って、29日京都に逃げた。ここで三上某の家に潜んでいた時、平岡鳩平(後の北畠治房)とあい、在京の志士村上忠明の郷里に逃れるため、10月23日平岡と三河国碧海郡新馬場村の村上承郷の家に入った。翌元治元年2月大阪に下って道頓堀の日本橋筋に住んだ。若狭は大阪屋豊次郎といい材木仲買商をして同志の往来の場所にした。平岡鳩平も来たことがある。ところが11月29日幕吏に捕えられ、京都六角獄に入れられ、慶応元年6月斬られた。享年44歳。

秦将蔵 はたしょうぞう 1831−1863(天保2−文久3)

 河内勢。河内国錦部郡向野村(大阪府)の代官達野(北辻)孫三郎の三男。嘉永2年(1849)和泉国大島郡田園村(大阪府)の旗本小出伊織の代官小島沢右衛門の養子となる。名は則久、号は松峰。水郡善之祐、藤本鉄石らと交友して討幕を計画し、養家に累を及ぼすのを恐れて秦将蔵と名のり、紀州伊都郡慈尊院の田村又兵衛方に寄寓していたが、天誅組の挙兵に参加、本隊とともに苦戦したが、初瀬の長谷寺付近で戦死した。享年32歳。

林豹吉郎 はやしひょうきちろう 1817−1863(文化14−文久3)

 大和の志士。名は豹、大和宇陀郡松山(奈良県)の人。父兵蔵は鋳物師、豹吉郎はその長男として生まれ、幼時より絵を好んだ。天保5年(1834)の夏長崎の画人中島青淵が大和に来遊した折に師事し、ついには青淵に従って諸国を遊歴。天保8年、青淵と別れてから蘭書の研究を志し、大坂の緒方洪庵のもとで炊夫をしながら苦学した。こうして旅費を調達し、念願の高島秋帆の門に入るため長崎に急いだが、秋帆幽閉の直後であったので、韮山代官江川太郎左衛門の学僕となって教えをうけた。その後諸国を遊歴して大砲改鋳の要を説いて回ったが邪説視された。だが安政元年(1854)にはようやく認められ郡山藩に招聘され大砲鋳造を依頼された。文久3年(1863)天誅組に参戦、兵糧方をつとめて那須信吾らと奮戦、鷺家口で戦死した。享年47歳。

原田亀太郎 はらだかめたろう     −1864(   −元治元)

 備中国上房郡松山村に生まれたが、その生年は明らかでない。父市十郎は松山城下の商人。名は広のちに一作という。安政元年(1855)江戸に遊学して岸淵蔵の門に入り、のち大和五條の森田節斎や大和の谷三山のもとで5年間学んだ。その才幹を藩主に認められ士籍に加えられたが、文久の初年にはそれも辞して京都に出て各地の尊攘派と交わった。文久3年(1863)中山忠光らが天誅組を組織、亀太郎も勇んで参加し、五條の代官所襲撃から高取城攻撃、十津川各地の攻防戦を戦ったが、9月、作戦上の不一致から本隊と水郡善之祐ら河内勢が訣別したとき、河内勢に従った。その後上湯川から下湯川へと苦戦、ついに力つきて紀州藩に自首し、和歌山から京都六角獄に送られ、翌元治元年(1864)7月、禁門の変のさなか殺された。

梅の花としのはつひに匂はずば うれしき春に何をかざらん

半田門吉 はんだもんきち 1834−1864(天保5−元治元)

 久留米藩士。名は成久。久留米藩の軽輩であったが、安政元年(1855)目付役につく。真木和泉に傾倒。藩命によって武田二郎と名を変えたびたび時勢視察のため上京するうちに、文久3年(1863)8月、中山忠光ら天誅組の挙兵に参加、砲隊長となる。上田宗児とともに十津川を踏査し、この地に中山らを導く。上野地の本陣で天誅組解散後も中山につきそい、鷲家口で負傷したが重囲を脱して大坂から三田尻に逃げのび長州にしばらく潜伏した。翌元治元年(1864)7月の禁門の変に、真木和泉らとともに東上し鷹司邸て戦死した。時に31歳。門吉は文才すぐれ『大和戦争日記』を記す。享年30歳。

はりつめてたゆまぬものは大丈夫の あかき心の弓にぞありける

深瀬繁理 ふかせしげり 1826−1863(文政9−文久3)

 十津川郷士。名は維正、大和吉野郡十津川村重里の人、父は幸右衛門、母は大畠氏でその二男。嘉永3年(1850)郷里を出て諸国を遊歴する。ことに梅田雲浜としばしば会いその影響をうけた。安政5年(1858)に野崎主計らと上京、長州藩宍戸左馬之介らと物産交換を口実に時事を談じ、雲浜の商会で中川宮に十津川郷の由緒書を呈上した。文久年間になると、土佐の北添佶摩ら来郷して繁理のもとを訪れること頻々、同3年に郷友とともに中川宮に十津川由緒復古の儀を願い出た。同年8月の天誅組の大和挙兵には野崎ら郷兵を率いて参戦したが、事敗れて伴林光平らと逃走中、白川村で藤堂藩兵に捕えられ、9月白川河原で斬られた。享年37歳。

あだしのの露と消えゆく武士の 都ののこす大和だましひ

福浦元吉 ふくうらもときち 1829−1863(文政10−文久3)

 淡路の志士。淡路国三原郡福良浦出身、のち洲本に出て穀商を営んだ。はやくより同国の志士古東領左衛門からその尊皇攘夷論の影響をうけ、また商人ながら剣を梶浦四方之助に学んていた。文久元年(1861)藤本鉄石、安積五郎らが淡路へ遊説に来島したさい古東とともに会談、他日を期した。翌2年古東とともに大坂に出て、これより京摂の間に奔走する。ついで3年8月、中山忠光を盟主として天誅組が大和に挙兵したとき、元吉も勇んて参戦、五條の代官所を襲い天ノ川辻に拠った。その後十津川郷兵の離反などもあって敗走をかさねる間、つねに藤本鉄石を助けて戦ったが、鷲家口で紀州藩兵に包囲され力戦ののち群槍の中に戦死した。享年35歳。

誰がため我が身捨つるかますらをの ゆく道遠し秋の暮れかも

藤井織之助 ふじいおりのすけ

 大和国吉野郡十津川村永井の郷士。幼名は五郎、千葉定之助の子である。19才で江戸に遊び、桃井春蔵の門に入り武芸に励む。嘉永以来、時事を憤慨し、同志と国事に奔走した。文久3年(1863)十津川郷中で禁裡を守護した。8月には天誅組義挙に参加。各地を転戦した。野崎主計の自刃のため罪を許されたが、慶応3年12月8日鷲尾侍従の高野山挙兵には軍監兼隊長となり功を奏した。明治元年2月東征に従軍。3月監察。6月軍防局、北越総督仁和寺宮の先鋒となる。7月29日長岡城追撃の時敵弾にあたり重傷。その回復の困難を知り自刃。享年42歳。
 遺骸は自刃の地の極楽寺に葬った。明治2年6月軍務官から戊辰北越の役の戦功によって、家禄六十石を永世下賜せられる旨伝奏があった。3年12月積年の功で金二百両をいただいた。

藤本鉄石 ふじもとてっせき 1816−1863(文化13−文久3)

 備前国上道郡宇野村(岡山県)の小役人片山佐吉の末っ子。17歳のとき叔父藤本彦右衛門の家を継いで藤本姓を名のる。幼名学治、のち津之助、号は柳門契民、天真漁老、海月浪士など。天保11年(1840)脱藩して大坂から京都に移り住み、その間花房厳雄の門に入って天心独明流の皆伝と長沼流の軍学を学んだ。天保14年には京都の家を出て一管の筆をたずさえ、旅から旅にあけくれた。行先は大和、紀伊、関東から東北、さらに信越から西に北陸、中国、九州、四国とほとんど全国をくまなく歩いている。旅費は自分の書や絵を売って稼いだ。嘉永4年(1851)再び京都伏見に住み、私塾を開き碧梅寒店と称し、この間『日鑒』『神典皇謨』などの大著を著わしているが、この頃の政治思想は公武合体論に近かった。しかし安政条約調印と和宮降嫁事件によって討幕論に進み、梁川星巌や真木和泉らとの交友がさらにその傾向を強めた。文久2年(1862)島津久光の率兵上京に呼応して、真木、平野国臣、清河八郎、田中河内介ら尊攘激派の士と連絡しあい討幕の挙兵をはかったが、久光が公武合体論者であったために挫折した。だが翌文久3年、朝議で大和行幸攘夷親征が決定するとその先駆けになろうとして、中山忠光を主将に吉村寅太郎、松本奎堂らと天誅組を組織した。河内の観心寺に水郡善之祐ら河内勢と本隊が合流したところに、久留米藩士中垣健太郎とともにかけつけ、そのまま千早峠から大和五條の代宮所を襲撃、討幕ののろしをあげた。だがその後高取城攻撃には4番隊長をつとめたが惨敗した。京都の政変で天誅組追討命令が出されたので十津川に拠ることを発議、十津川敗走のなかを鷲家まで逃れたが、紀州藩陣営に斬り込み戦死した。彼の墓も鷲家字湯之谷にある。享年48歳。

雲を踏みいはほさくみしもののふの 鎧の袖にもみぢかつ散る

保母建 ほぼたけし 1842−1864(天保13−元治元)

 代々島原藩に仕え、中小姓で禄は六石二人口。名は景光、通称鉄之進、のち建と称した。平田流国学を学び、剣を斎藤弥九郎に師事した。文久2年(1862)京都に出て各地の尊攘派と交友しついに脱藩。天誅組の大和挙兵に参戦し、9月河内勢とともに本隊とわかれたが、ついに紀州藩に自首し、元治元年(1864)禁門の変の時、京都六角獄の中で殺された。享年23歳。

すめらぎのみいくさ人にさき立ちて 四方の夷を攘はざらめや

前木鏡之進 まえききょうのしん

 大和国十津川の郷士。天誅組挙兵の時24歳で参加。各地に転戦した。敗戦後郷里で善後策にあたる。のち京都に出て御所守衛につく。日本に新式操練が取入れられた時、鏡之進は在京の同志と意見を異にした。その反対意見が十津川郷にまで反映して大騒動となった。鏡之進は騒動の巨魁というので兵部省から捕えにきた。鏡之進は自刃した。享年30歳。

みいくさの魁をせむ八咫烏 大和魂あらんかぎりは

前倉温理 まえくらおんり

 吉野郡十津川郷永井の人。通称を萬吉という。文政11年(1814)4月5日生まれ。性温厚、事務の才あり。文久3年(1863)郷中の同志と京都禁延守護、国事に尽力。天誅組の義挙に参加、転戦したが、こと敗れた。野崎主計らの計らいで罪を計された。その後も活躍して慶応3年(1867)、鷲尾侍従が高野山に兵を挙げた時には沼田龍らと武器弾薬を献じた。明治元年正月親兵掛となった。奈良と京都を護った。同年1月沼田龍、千葉正中らと郷士精撰を命ぜられ、監司職、監察職となり、3年12月国事に勤めたので金二百両を拝受。5年十津川郷相談役となり、もっぱら自治内政に従事した。7年には十二大区十津川郷一団の副区長を命ぜられたが病気といって出ず。8年以来十津川郷賞典禄五千石奉還のために、下賜せられた十萬余円の共有金取扱い担当となった。在職5年の間その責を全うした。明治19年12月2日病死。享年59歳。

前田繁馬 まえだしげま 1838−1863(天保9−文久3)

 土佐の志士。名は正種、高岡郡檮原村松原(高知県)の庄屋。はじめ土佐藩士下元善平についで書を学び、のち前田恒五郎に従って浅山流の武技を修め、また公文藤蔵についで長沼流の兵学を究めた。安政6年(1859)過失によって庄屋の職を追われていたので、文久3年(1863)2月、親戚の前田要蔵が藩務で京都守衛のため上京するとき、奴僕となって京都に出て、宿願の尊攘の士と交わった。天誅組挙兵後、9月7日彦根藩兵が大和下市に駐屯するところを同志とともに襲い、兵糧その他を奪って翌日駄馬11頭に積んて本営に帰陣、その任務を立派に果した。 北山郷から伯母ケ峯を越えて川上村にでて、武木の大西のうちで休み鷲家口の鷲家に出た。ここで紀州、藤堂、彦根の大軍と戦い囲みを破り、関為之助とともに初瀬町に出た。26日のことである。繁馬が、ここの樫木屋で休んで朝食をとっていると、津藩士の町井八郎が部下十余人を引き連れてやってきた。そうして戸の外から小銃を乱射した。繁馬は大刀を振りかざして敵の中におどり出たが、もはや身に数弾をうけて万事休すである。享年29歳。関為之助もまた同所で恨を呑んだ。

松本奎堂 まつもとけいどう 1831−1863(天保2−文久3)

 名は衡、字は士権、通称謙三郎。三河の刈谷藩士印南維成の二男、のち松本家に養子に入る。18歳の時槍の稽古中過って左眼を傷つけ隻眼の人となるが、藩主土井侯は彼の才能を惜しんて江戸に遊学を許す。まず大槻磐渓に学び次に羽倉簡堂につき、さらに嘉永5年(1852)昌平學に入り舎長となった。友人に松林飯山、原仲寧、岡千仞らがあり、俊才の中で奎堂の学問、詩文の才は抜群にすぐれ、特にその美声は名高かった。帰国後、教授兼侍読を勤めたが、藩老の専横を面詰したために禁固1年に処せられた。安政6年(1859)名古屋で塾を開きこの頃結婚したが、折々博徒供客の類を集めて酒を飲むなど奔放な生活をしている。文久2年(1862)妻子を捨てて上京、大坂に移って松林、岡らと双松岡塾を開いたが、有名になるにつれて幕府から弾圧をうけ、ついに閉鎖せざるをえなくなった。以来再び放浪の生活に入った。ローンク売りに身をやつして十津川や河内をたびたび訪れ地方の土豪の信頼を得るようつとめた。この間藤本鉄石や吉村寅太郎とも親しく往来している。文久3年8月、攘夷親征、大和行幸のことが朝議で決定されたのを待望の好機として、中山忠光を主将にして、藤本、吉村らと挙兵を決意し、総勢38名が京都を発して河内の水郡善之祐の家に立ち寄って軍旅を整えた。天誅組が構成されたのである。天誅組の声明文のほとんどはこの奎堂が書いた。挙兵後の五條代官所襲撃は成功したが、すぐそのあと京都の政変で大和行幸が中止され、天誅組は逆賊として近隣諸藩の攻撃をうけるようになった。高取城攻撃の失敗の後、いくどか戦いながら敗れ、十津川を逃れて上野地の本陣で解散した。奎堂は忠光に随従していたが、左眼のみならず右眼もほとんど失明状態になったので駕籠て運ばれているところ、銃声に驚いた人夫に萩原の上御殿峠の地蔵堂の側にうち捨てられ、ここで乱射を浴びて戦死した。享年33歳。

君がため身まかりにきと世の人に 語りつぎてよ峯の松風

松実富之進 まつみとみのしん

 大和国十津川の人。後に漏器と改める。天誅組の挙兵に参加して、高取城攻撃をはじめ各地に転戦した。のち京都御所の守衛につき、鳥羽、伏見の役に従った。郷中監察の任につく。のち吉野郡書記を勤める。紀和変災のため北海道に移住し彼の地で没。享年69歳。

三浦主馬 みうらしゅめ 1816−    (文化13−   )

 河内勢。河内国丹南郡石原村今井の庄屋和田林右衛門の弟として生まれ、当初は義右衛門といったが、その後万延元年(1860)頃富田林に移り、姓を三浦と改めた。通称一之輔、医を業とする。元来医術の修業のため主馬は大和その他の地へたびたび出かけ見聞を広めていた。水郡善之祐とも親しく交わり、水郡家の道場で柔道を修業したらしい。平野国臣らとも交友があった。したがって文久3年(1863)8月、天誅組が挙兵したとき、その2日前に郷里に帰って暇乞いをし、和田家の財産を半分持ちだして軍資金に供した。その後天誅組敗走のとき中山忠光の本隊にあったので、河内勢とは行動をともにしなかった。のち南部藩に捕えられるが医者ということで許されて帰国したらしく、その後の消息はわからない。ただ一子駒四郎は明治6年(1873)貧困のうちに石川堤で死んだとある。

村上忠明 むらかみただあき

 字は明卿、明司といい、望斎の号がある。三河国碧海郡堤郷新馬場村の人。父は忠順、号は蓬廬、博学で世に聞えている。先祖は村上源氏で名和長年の後である。忠明は年少の時から詩歌にすぐれ、武芸にはげんだ。17歳名古屋の松本衡に入門して勉学。賀島東周に医学を学んだ。忠明は松本について西遊、京都、大阪の間を馳せ、名を堤次郎と改めた。外人の不遜な態度を憤り、藤本鉄石、吉村虎太郎とともに意気投合、攘夷の時を伺っていた。文久3年8月、中山忠光卿の挙兵を聞き、馳せて参加しようとしたが政変のため義党敗戦。忠明は遺恨やるかたなく、その遺志を継がんとするおりから、有栖川宮を蔭の人として援助する。幕府の探索きつく、忠明洛中洛外と変転、身を潜める。千辛万苦遂に宿志を果さず憤慨のあまり病気となる。慶応3年(1865)5月16日没。享年22歳。

森下幾馬 もりしたいくま 1834−1863(天保5−文久3)

 土佐の志士。名は茂晴のち茂時。儀之助の弟。父才次郎に従って城北秦泉寺村に浪居したが安政6年(1859)足軽雇として高岡郡与津詰を命じられ足軽格に昇進した。武市瑞山の土佐勤王同盟に加盟、文久2年(1862)五十人組に列して東行、帰藩後歩行役として藩主について上京、翌3年兄とともに天誅組の大和挙兵に参戦、五條の代官鈴木源内を襲った時、手代高橋勇造を斬り、その後各所に転戦して軍功があった。総裁吉村虎太郎が高取城夜襲の時うけた銃創が重く歩行も困難になった。その傷に紫の幔幕を巻いて暖を与え、戸板にのせて交替でこれを運びよく総裁を慰めた。兄儀之助、島村省吾、辻本宇吉、外西某と鷲家口の南端高谷の岐路で道を迷い、松本謙三郎、藤本津之助の一行から離れた。なお吉村の負傷を守りながらその後を追って、木津川の堂本源五郎宅に潜んでいた。ところが25日夕刻、敵に密告するものがあるのを知って、急いで深山をよじ登ってのがれるだけのがれようと蟻通神社の裏山、小牟漏ケ岳の山中に分け入った。さらに闇に紛れて辿り着いたのは、鷲家の石の本。ここから本道に出たのは26日の未明であった。総裁吉村の疲労のため一歩も進むことができない。近くに一軒の茅屋がある。老婆が一人住んでいた。一同は安心して暫らくここで休息した。ここから一度新田という処まで出たが吉村の身体の自由が利かない。この時吉村は、「こうなった以上最早生を全うすることは難しい。君らは山谷の間を潜行して活路を開かれたい。私一人のために機を逸してはならない。」と。
 そうして島村、森下を諭し、西某には金二十両を与え、吉村は石の本の老婆の家にもどった。
 
吉村に別れた幾馬は兄儀之助、島村省吾、辻本宇吉、西某とともに山峡をぬけ山をよじ、鷲家領赤谷のヨワ谷に出た。この時紀州藩のものに知られ包囲をうけた。幾馬は一谷の道路のところで、津藩隊長西荘源左衛門のため狙撃せられた。鷲家口て戦死した。享年30歳。

かねてより思ひの雲のはれしかば かかる宵よき月のすずしさ

森下儀之助 もりしたぎのすけ 1831−1864(天保2−元治元)

 土佐の志士。名は茂忠。幾馬はその弟。長岡郡本山村(高知県)に生まれたが、父才次郎に従って土佐郡秦泉寺村に移り、貧第の浪人暮しのなかて武技をたしなみ、つねに朱鞘の大刀を帯びていたという。文久3年(1863)土佐藩主山内家連枝豊積の上京に随行、天誅組挙兵後、五條の代官を襲撃したのをはじめ各地に転戦した。特に激戦であったのは白銀嶽、下市方面である。9月9日の夜儀之助らは同志とともに彦根兵を急襲した。敵はあわてて四散し奇勝をえた。この時井伊の兵は祖先伝来の系図や甲冑、感状等を捨ててそのまま逃げ去ったので笑い話となって世に伝えられている。儀之助はこの時木樵の使う大きな斧を振った。何分刀幅が一尺もある大斧である。それを振り廻して彦根の本営に突進したので一度に勇名をうたわれた。総裁吉村虎太郎が負傷すると、弟の幾馬とともにその側を離れず終りまでこれを守ったことは、陣中美談として今に伝えられている。また弟をいつくしみ京都出発以来戦時中少しも離れず行動をともにした。
 鷲家石の本で吉村虎太郎と別れた。弟幾馬、島村省吾、辻本宇吉、外一名とともに山中から鷲家領赤谷に逃れる時紀州藩兵に包囲された。この激戦で敵の囲みを破り脱出したが、翌日途を失って山中で遂に津藩兵に捕えられた。「南山踏雲録」には「森下の太鼓は、善く歩卒を進めて気力衰えず」と評されている。その森下儀之助も捕えられ、後京都に送られた。元治元年(1864)2月同志とともに斬られた。享年34歳。

天の川波ことなるとししらずして 流す浮名のあはれなりけり

森本伝兵衛 もりもとでんべえ 1834−1864(天保5−元治元)

 河内勢。河内国錦部郡宮甲田(大阪府富田林市)の浅川八左衛門の二男。甲田村の森本(元)家の養子となり勝定と号す。同村の水郡善之祐と親しく、文久3年(1863)ともに天誅組に参加。小荷駄方となる。のち水郡ら河内勢は本隊と訣別するが、彼は中山忠光と行動をともにし、天ノ川辻、鷲家口で苦戦、芝村藩に捕えられ、京都六角獄で死んだ。墓碑は甲田の養楽寺にある。享年30歳。

森本久蔵 もりもとひさぞう

 河内国富田林市甲田町の人。家が貧しく馬をひいて一家の生計をたてた。馬に慣れていたので何時も水郡善之祐邸に出入りして愛顧を受けた。文久3年中山忠光卿が大和五條進発の時、乗馬の取者をつとめた。久蔵は誠心誠意つとめたので忠光卿は大いに喜ばれた。五條、高取と各地に転戦。大日川の戦に足を怪我した。そのため身体が自由にならず山内にかくれた。糧食がなく苦痛と空腹になやむこと数日。遂に乞食に変装して家に帰った。天誅組が敗れ四散すると捕えられ大阪の獄に入れられた。在獄20日、許されて帰村したが家がまずしく病いで倒れた。

安岡斧太郎 やすおかおのたろう 1838−1864(天保9−元治元)

 土佐藩の志士。名は直行。土佐国安芸郡安田浦の庄屋亀五郎の子に生まれる。撃剣を檜口直吉に、砲術を田所左右次に学ぶ。武市瑞山を領袖とする勤王血盟党に加わり、同志五十人組として山内容堂を護衛して上京。文久3年(1863)同藩士北添佶摩、能勢達太郎らと脱走し、遠く蝦夷地を視察し北国諸州を一周、海防について大いに学ぶところあって江戸に帰り、まもなく京都に戻った。ここで吉村寅太郎に会い、中山忠光を盟主として大和五條に挙兵することを聞き、ただちに天誅組に参戦して鉄砲組の隊長となった。義軍の多くは疲労と食糧不足で病気にかかり歩行さえ困難の者が出た。斧太郎も遂に病魔におかされ、隊後の傷病者の一人として同志の肩にすがり助けをうけて歩行した。9月24日の夜、鷲家口の砲声を耳にしながら、山上の樵径を一人で行っている時、津藩兵に見つけられ遂に捕虜となり本陣に引かれた。のち京都に送られ投獄。元治元年(1864)2月京都六角の獄で斬られた。享年26歳。二条西土堤の竹林の中に葬った。

安岡嘉助 やすおかかすけ 1836−1864(天保7−元治元)

 土佐藩郷士。姓は平、名は正定。土佐国香美郡山北村(高知県)の郷士文助の二男に生まれる。同藩の武市瑞山の門に入り、土佐勤王党血盟に加わった。当時土佐藩は前藩主山内容堂の信頼をうけた参政吉田東洋が藩政を一手に掌握して、頑固に幕府の方針を支持していた。勤王党の領袖武市は藩論転換のためこの東洋暗殺を計画し、文久2年(1862)4月、那須信吾、大石団蔵、嘉助の三人組が東洋を襲撃、暗殺は成功し武市の目論見どおり藩論は一変した。そのまま嘉助らは脱藩して長州に逃れ、その足で京都に出て長州、薩摩藩邸に潜んていたが、文久3年、天誅組に参戦して武器取調方をつとめた。9月9日下銀嶽下市方面の戦闘では、右手に流弾をうけたが屈せず敵将二人を斬って武名をとどろかせた。義軍が幕兵の重囲におちいり傷のため同志に訣別した。銃創いよいよ重く身体自由にならず一度は山に入った。9月25日朝、宇陀町まで逃れ食をもとめたところ遂に芝村藩のため捕えられた。のち京都に送られ投獄。翌元治元年(1864)2月同志とともに斬られた。享年29歳。遺骸はその日二条西土堤の竹林の中に埋められた。

今更に何か命の惜しからむ もとの大君捧ぐ身なれば

安田鉄吉(山下佐吉) やすだてつきち 1830−1863(天保元−元治元)

 大和高取藩士。かねてから十津川にしばしば遊んで尊王の志厚く、みずから古武士をもって任じていたが、文久3年(1863)天誅組が大和に挙兵するとただちに参戦、各所を転戦して、最後に鷲家口の激戦でたおれた。四条屋儀平の宅前で戦死。享年34歳。高取を攻める時、累を一族におよぼすことを心配して母方の姓をとって山下佐吉といった。

吉川治太夫 よしかわちだゆう

 伊賀神戸藩の家臣で、河内国長野市西方方面の代官であった。吉年米蔵と親しく交わり、天誅組の義挙には所管の金銭、米穀を出して志士の活動を助けた。天誅組が戦敗れ四散すると古市の岡部侯の本営に檻致された。治太夫は累を藩主におよぼすことを恐れ、途中壷井村の茶屋で自刃した。

吉田重蔵 よしだじゅうぞう 1830−1864(天保元−元治元)

 本名田中良秀あるいは田中重吉、田中重次郎、源吉秀とも称した。筑前筑紫郡の人。父は田中清助、その二男である。田中家は享保年間にはぜの木からローソクを製造する法を習って莫大の富をなし、後年重蔵が天誅組に参戦するとき、この財産の大半を軍資金に投じたという。歌人大隈言道のもとに伴林光平、平野国臣らが出入りしていたが、大隈家と田中家が親戚関係にあったため、重蔵もはやくからこれら尊攘派と知りあっていた。文久2年(1862)熊本藩士松田重助と京都に上り、その関係で河内の水郡善之祐のもとを訪れ互いに意気投合している。翌文久3年に天誅組が挙兵し、その後本隊と河内勢が訣別したときも河内勢とともに行動し、敗走中を硝煙爆発の難にあって重傷を負って自決を覚悟するが、水郡にとめられてともに自首する。翌年京都六角獄で殺された。享年34歳。

八幡神すめぐにあはれとおぼしなば 内外のえみし攘ひたまへや

吉年米蔵 よしとしよねぞう 1815−1864(文化12−元治元)

 河内勢。河内国錦部郡長野(大阪府)吉年善兵衛の長男。27歳のとき庄屋となり苗字帯刀を許される。地方の名家として水郡善之祐らとの交友も密であったので、文久3年(1863)8月天誅組が挙兵したときただちに参加し、軍の食糧を供出しているが、米蔵は当時すでに49歳、肥満のため実戦には向いていないということで、千早村から本隊と別れて引き返し、後方で糧食、武器の調達にあたった。天誅組敗走後、米蔵は岸和田藩と狭山藩から厳しい取調ぺをうけ、阿波に逃れようとしたが、貝塚で岸和田藩士に捕えられ大坂町奉行所に送られ、その後村預けになっていたところ、自刃した吉川治太夫の懐中から米蔵の遺書が発見されたので再び逮捕され、京都六角獄に投じられ翌年5月病死した。遺骸は京都の法福寺中本堂北墓地に葬られた。享年49歳。

吉村寅太郎 よしむらとらたろう 1837−1863(天保8−文久3)

 土佐高岡郡津野山郷北川村に生まれる。家は代々庄屋、父太兵衛の嫡男で、名は重郷、通称寅(虎)太郎といった。12歳で庄屋を継ぎ、各地の庄屋を歴任して農村復興の指導にあたったので藩の文部下役に任ぜられた。その間同藩の間崎哲馬に漢学を学び、武市瑞山の道場に通いやがて土佐勤王党の血盟に加わる。文久2年(1862)に武市の命令で西国を探索し、平野国臣に会って生野挙兵の計画をきいたので急ぎ帰国したが、土佐藩は当時公武合体派が主導権を握っていたため、この年脱藩して長州に走った。そこで久坂玄瑞や有馬新七らと討幕の先駆になろうとするのだが、薩摩の島津久光の命によって計画は挫折(寺田屋の変)、寅太郎も連座して土佐藩に引き渡され、土佐の牢獄で9ヶ月の幽囚の日を送ることになった。同じく文久2年の12月牢を解かれたが、翌3年には再び脱藩して上京、中山忠光のもとに出入りし、長州の尊王攘夷派と盛んに交接した。文久3年8月、攘夷祈願のため大和行幸の詔勅が発布されると、好機として松本奎堂、藤本鉄石、安積五郎ら同志とともに忠光を擁して挙兵、天誅組を結成した。寅太郎は松本、藤本とならんで総裁の地位にあり、実戦上の指導者となった。天誅組本隊は河内で水郡善之祐ら河内勢と合流し、千早峠を越えて大和五條の代官所を攻め、代官の首級をあげて、農民のための新政を布告した。だが8・18の政変で天誅組は孤立し、しかも寅太郎が別働隊を率いて御所に進軍している間に、忠光らが無謀な高取城攻撃を行って惨敗し、天誅組は決定的な打撃をうけた。寅太郎は劣性挽回のため高取城の夜襲を試みたが銃弾をうけて負傷し、五條から天ノ川辻に退却し、ここで河内勢とともに紀伊・伊勢・彦根・郡山の藩兵と激戦、最後に鷲家口に逃れたところを藤堂藩兵に討たれた。その最後のことばは「残念」てあったと伝えられる。享年27歳。

吉野山風にみだるるもみぢ葉は わが打つ太刀の血煙と見よ

和田佐市 わださいち 1832−1863(天保3−文久3)

 河内勢。河内国錦部郡甲田村和国多八の長男。信勝と号した。農事に励むかたわら、同村の庄家水郡善之祐の邸に出入りし、その道場で武技を学び、尊王攘夷思想の影響をうけた。文久3年(1863)8月の天誅組挙兵のさいは鎗一番隊伍長の役にあった。河内天誅組勢が本隊と別れたとき佐市は水郡に従い、紀州への脱出を計って十津川に入り、上湯川の同志田中主馬造のもとに休んだ。水郡ら一行は主馬造の弟勇之進の案内で山小屋に向けて出発するが、佐市は足痛のため主馬造宅に残っていたところを、藤堂藩兵に襲撃され殺された。勇之進の内通によるといわれている。享年31歳。

高取城攻撃のときの戦死者

 文久3年8月25日には玉置佐助安朝が戦死。26日には橋本成儀周祐。27日には、山香愛之助忠光中野勘助顕功北本安二郎義衛(一説に義勝)岸尾徳三郎武言(一説に武信)油上覚兵衛貞頼島本嘉吉正季倉本常之助正孝(一説に正考)。大和今井村で8月27日丸谷源之助光長が戦死。9月9日大和丹生長谷で乾虎蔵義成が戦死。砲一番組田中弥兵衛は詳細不明である。

上田主殿 うえだしゅでん

 河内国長野市神が丘の庄屋上田楠之丞の二男。天保11年(1840)の生まれ。天誅組参加は24歳。16歳で江戸に入って藤田東湖に学び、識見高く尊王憂国の志が厚かった。
 郷土の志士水郡善之祐、吉年米蔵らと交わり、天誅組に参加した。がしかし識見高く同志と合わず、かえって同志の忌むところとなった。8月19日主殿は十津川の天ノ川辻で、同国の郷士玉堀為之進とともに主将中山忠光卿を訪問した。そうして意見を戦わせたが遂にあわず。反逆者の名のもとに主殿は玉堀と8月24日殺された。
 以前、神ガ丘上田家の墓地に「明治維新勤王志士上田主殿所」と彫った碑があった。昭和12年大阪発行の天誅組河内勢にも「鬼住村上田主殿」と記してその不遇の志士を慰めている。現在は延命寺墓地にある。

沖垣斎宮 おきがきいつき 1842−1872(天保13−明治5)

 十津川郷士。大和十津川郷風屋の人。斎宮の家は乾、前日の両家とともに風屋の三素封家とよばれた。重礼と称す。体躯短小ながら口舌鋭く、渾名を「釘抜き」という。酒を好み、奇行が多い。文久の初年から京坂を往復して各地の志士と交遊。文久3年(1863)の天誅組挙兵には郷民を随えて参加し一方の隊長として活躍した。本隊敗走の後はしばらく僻地に潜み、のち上京して禁裏の守衛にあたる。慶応3年(1867)吉田俊男らとともに紀州藩に対し新宮湊における苛斂な新法を排除するよう交渉する。同年12月、鷲尾隆聚が高野山に挙兵すると、斎宮は十津川郷士勢を従え軍監として参戦した。明治元年(1868)十津川親兵人撰方、伏水二番中隊補助官、翌年軍務官筆生など歴任、最後に同5年海軍兵学寮生徒取締に転じ、その年病没した。芝泉岳寺に葬られる。享年31歳

上平主税 かみだいらちから 1824−1891(文政7−明治24)

 十津川郷士。名は長矩、はじめ主計と称す。大和十津川野尻村に生まれ、医術を紀州松岡梅軒に学び、京都に出て国学を修める。安政年間、同郷の野崎主計らと梅田雲浜のもとに親しく出入りし、また長州藩の宍戸左馬之介、村田二郎三郎を知って時事の談合だけてなく物産の交易も行い、常に十津川の指導的地位にあった。文久3年(1863)天誅組が大和五條に挙兵し多くの十津川郷士がこれに参戦したが、政変によって追討令が出ると、同郷の丸田監物らと脱党を説得、また天誅組の伴林光平らと会見して十津川郷の苦哀を訴え天誅組の十津川退去を求めた。元治元年(1864)の禁門の変にさいしても反長州側に立って禁裡を守衛した。明治2年(1869)の横井小楠暗殺には自宅を会合場所に提供して積極的に関与し、事件後伊豆新島へ無期流刑に処せられたが、明治12年特赦に遭い帰郷、以後、玉置神社祠官をつとめた。

佐古高郷 さこたかさと 1830−1883(天保元−明治16)

 十津川郷士。幼名留吉、通称源左衛門または十郎。大和国十津川郷山手の人。父は源七高行、母は上中氏、高郷はその二男。ペリー来航以来十津川郷の物情騒然たるなかを、高郷は同郷の野崎主計、上平主税、丸田監物らととも に、郷中の壮士千人を集め、武器を調達して尊王攘夷に貢献すべきであるとの建白書を五條代官に提出した。安政年間、亀山藩士長沢俊平、京都の梅田雲浜らを十津川に招じて国事を論ずる。文久3年(1863)天誅組の挙兵にさいしては野崎と応援したが、天誅組が逆賊とされたので離脱し、のち京都に出て禁裏の守衛にあたった。慶応3年(1867)高野山の挙兵に参戦して軍監に任ぜられ、丸田らとともに百余名の兵を指揮して高野山を守備した。明治になって京都に出たが病のため帰郷、多年の功績を表されて金二百両を贈られる。

鈴木源内 すずきげんない      −1863(    −文久3)

 五條代官所代官。文久3年(1863)夏、天皇親征の先駆けとして天誅組が大和五條に挙兵し、幕府の出先機関としての意味を持つ代官所を襲い鈴木源内をはじめ5人の役人を血祭りにあげた。後世、鈴木源内は天誅組を美化するために悪虐無道の奸吏に脚色されてしまったが、その前年まで十津川の代官をつとめ、十津川ではむしろ尊王家としてふるまっている。すなわち、十津川から毎年きまって朝廷に警衛の兵を出すのだが、幕府をはばかって中止にしようかという意見が郷士の中に出たとき、彼は断団朝延のために従来どおり京に兵を送るべきであると説いている。たまたま五條に代官として赴任したことは不運の一語につきるといえるであろう。

上島掃部 うえじまかもん 1814−1869(文化10−明治2)

 大和。奈良中宮寺の家司、尊王家。名は雅後、字は宣子、鳩翁と号す。安芸広島の人。文政10年(1827)京都に出て巌垣松苗の門に入り国学を修めた。熱烈な尊王論者となり、伴林光平、北畠治房らと皇室経済が二万石では不忠不義になると唱え、文久3年(1863)天誅組が大和の挙兵に失敗したとき、件林らに大いに便宜をはかった。享年56歳。

沼田龍 ぬまたりゅう 1827−1879(文政10−明治12)

 十津川郷士。大和吉野郡十津川郷宮原の人、名は義信、はじめ京蔵のち民部と称す。安政5年(1858)正月、上平主税、深瀬繁理と上洛、諸国の尊攘派志士と交友する。翌6年上平、佐古高郷らとともに材木方総代となり、新宮湊口銀の苛政を五條代官に上申し、文久3年(1863)には十津川由緒復古のため奔走。この年8月、天誅組挙兵のさいは京都にあったが、大和行幸中止のため天誅組が逆賊の立場に陥ったことを知り、急ぎ十津川に戻って十津川郷士の脱隊をすすめた。その後藤堂藩を訪ね十津川の事情を陳述、藩主より六匁銃一梃を贈られる。明治元年(1868)2月、十津川親兵人選方を命じられ、ついで軍事監司など諸官を歴任して、同2年堺県に出仕し権大属に任じられる。12年病死する直前に一等警部に昇進した。

前田正之 まえだまさゆき 1842−1892(天保13− 明治25)

 十津川郷士。はじめ清三、ついで雅楽、のち正之と称す。大和十津川郷風屋清右衛門の子。16歳の頃から他藩の尊攘派志士とも会い、文久3年(1863)4月には、深瀬繁理らと上京して十津川郷由緒復古の願いを呈上し、8月には禁裏守衛の任につく。同月天誅組が大和五條に挙兵し十津川からも多くの郷士が参戦したが、政変のため諸藩に追討命令がだされた。このとき正之らは急遷帰郷してひそかに参戦している十津川の郷士を説いて天誅組から離脱させた。天誅組壊滅後、正之はこの功によって藤堂藩から歓待をうけ銃器を貸与された。慶応3年(1867)高野山挙兵のさいは補翼兼参謀をつとめ、明治になってからは十津川親兵人選方、青森口海軍軍監などを歴任、戊辰の役の戦功によって永世高60石を給せられている。その後宮内門監長、皇宮警部などに任ぜられ、25年病没した。

丸田監物 まるたけんもつ 1805−1869(文化2−明治2)

 十津川郷士。名は孝賀、通称藤左衛門のち監物に改めた。大和十津川込上の人。父は甚之丞房頼。同郷の森重蔵に撃剣と柔道を学ぶ。ペリー来航以来とりわけ十津川の武備につとめる。材木商用に託して江戸に行き実状調査をして帰郷後、さっそく郷中59ヶ村に十匁銃をはじめ槍、陣笠などを購入させ、また大坂の荻野正親を招いてみずからも荻野流砲術を習い、一子藤助や郷人にも練習させた。さらに十津川由緒復古のため大いに運動した。文久3年(1863)監物が上京中、天誅組が大和五條に挙兵したが、政変によってかえって追討の身となったため、多数参加している十津川郷士を離脱させる目的で、天誅組の伴林光平、乾十郎と会見し、十津川から退陣させた。野崎主計の自刃を活かし、同志の罪を許し助命に力をつくした。10月8日渡辺相模守、東辻図書権助ら特使として十津川郷を鎮静させた。慶応3年(1867)の高野山挙兵には参謀として参戦、明治になって親兵掛に任じられる。神道を敬し仏教を排したという。