天誅組 時系列表

 嘉永6年のペリー来航から諸外国の脅威により、幕府は日米通商条約など諸外国と条約調印を行った。そのため、反対する諸藩は桜田門外の変など攘夷運動をおこす。朝廷も佐幕・攘夷派が対立し、三条実美ら急進激派の公卿が重要なポストにつくと、文久3年倒幕計画が動き始めた。

文久3年(1863)

3月 4日 攘夷の勅命に奉答のため将軍徳川家茂入京 その後、長州藩と三条らが将軍に無理難題を吹っかける

3月11日 孝明天皇 賀茂社に行幸攘夷を祈願

4月20日 幕府 5月1日を攘夷期限とする旨を朝廷に返答

5月10日 長州藩 下関通航の米艦を砲撃

5月23日 長州藩 仏艦を豊浦沖に砲撃

5月26日 長州藩 蘭艦を下関に砲撃

6月 1日 米艦 下関を砲撃

○老中小笠原図書頭が急進派制圧のため海路大坂へ募兵1400人率いるが、将軍が入京を制止。朝廷は震えるが尊攘派をいたく刺激し倒幕の声が一気に高まる

6月 5日 仏艦 下関を砲撃 

6月 7日 高杉晋作 奇兵隊を編成 

6月10日 仏・英・米・蘭の代表が横浜に会合し長州藩攻撃を決定 

6月16日 将軍 海路で帰府 

7月 2日 薩英戦争起こる 

8月 4日 朝廷三港閉鎖令を幕府に伝達 

   5日 中川宮が御親兵として十津川郷士に出兵準備をさせる 

  13日 真木和泉らが伊勢行幸を提唱し、朝議で計画を一部修正のうえ大和行幸の詔勅を布告

  14日 京都にて中山忠光・吉村寅太郎・松本奎堂・宍戸弥四郎らは方広寺に浪士を集め大坂へ下る 

  15日 大坂で武器などを調達後、長州への勅使といつわり洋上で方向転換 

  16日 堺より千早峠を通り観心寺、八幡神社へ

堺へ上陸後、狭山を通り、河内甲田村(富田林市)の水郡善之祐の邸で装備を整える。

水郡善之祐ら河内勢70人と合流。三日市を通り、観心寺の楠公首塚で旗揚げ後、南朝ゆかりの千早峠を越え八幡神社へ。代官所から約4qの八幡神社で集合し一気に襲撃したといわれる

  17日 五條代官所襲撃後 桜井寺に「御政府」を開き本陣とする

  18日 維新布告第1号を発布 明治維新発祥地(旧代官所−現五條市役所−の近く)

襲撃理由は代官所管轄(吉野・宇智・宇陀・高市・葛上各5郡450村7万1千石の天領)を押収し天朝直轄にすること。、年貢半減など。大和国中の大名や武士に加盟を勧誘 高取藩が天皇来訪の折は加盟を約束。民衆に対し訴えを聞き賞罰や募兵を実行、軍資調達などを行う

●代官所襲撃から1〜2時間後 京で中川宮が会津・薩摩藩と結び、激派の公卿と長州藩を宮廷から一掃、大和行幸を白紙に戻す。三条ら激派の七卿らは長州に亡命

    京の諜報古東領左衛門から早駕籠の知らせを聞き色を失う

  19日 天誅組本陣(桜井寺内)

軍議で平野らが再起を期せよの主張(三条からの指示)と吉村の大楠公のごとく死力を尽くし、各地の勤王の士が彷彿として起つのを待つ意見が対立。結局、徹底抗戦と決まり皇室との繋がりや天然要塞の十津川方面の本陣移動を決定 

  20日 水郡ら河内勢を中心に約50人は追討軍に備える

忠光と藤本・松本総裁らは約50人の本隊を率い、十津川の入口で天辻峠に陣を張る 

  21日 忠光らは戦略の面(阪本は窪地で本陣に不適切)から天辻峠へ引き返す

天辻峠の鶴屋治兵衛の屋敷(最高所)に本陣を置く。吉村らは十津川郷長殿村着 

  22日 吉村らは十津川郷士野崎主計(留守居役)と会見し協力を要請 

  25日 天辻本陣集結 高取城奪取に向かう

早朝までに、田中主馬蔵ら1200人の十津川郷士が天辻本陣に集合。休憩なしに高取城(2万5千石・兵250人)奪取に向かう。五條の陣に伝令より追討の郡山藩兵が御所に現れたのを知る。全軍を2隊に分け、忠光の本隊が高取へ、吉村の支隊が郡山勢を向かい討つために御所方面に向かうが十津川兵の体力は限界に達す。重坂峠(五條から約7kの地点)で本隊は夜半過ぎ休止する 

●鳥ヶ峰で高取藩は防衛に徹し、堅固な陣地を築き待ちかまえる

  26日 鳥が峰の戦い

鳥ヶ峰に午前6時、高取城の手前で高取軍の一斉攻撃を受ける。天誅組の被害が戦死約10名・捕虜約50名に対し高取勢は軽傷2名のみ。重坂峠まで引き返し本隊の敗兵をまとめるが、忠光のさい配に不満が広まる。御所の吉村の支隊は御所まで行き、追討軍は誤報としり一泊し引き返す。支隊は本隊と遭遇し、吉村は忠光に激高。高取城下では吉村は十津川兵ら24人で高取城を夜襲するが誤って味方の弾が吉村の下腹部に命中し遁走 戸毛村で村の医師の応急手当を受ける

  27日 吉村は正午頃重坂村に到着後本格的に治療し五條へ向かう 

吉村らは夜五條に戻るが忠光は天辻に逃げ帰っていた

    ●和歌山・津藩は五條に、彦根・郡山藩などは下市に迫っていた

  28日 五條の天誅組は天辻に脱出する

    ●和歌山藩の一陣600名が五條(二見)に入る 

吉村らは夕刻に天辻に着くが、本隊は16キロ奥の長殿村に移動 

  29日 忠光は吉村に天辻を離れ新宮から長州に脱出するので合流せよと伝言するが無視し河内勢らと約40名止まる 

●和歌山藩が五條に布陣 

  30日 忠光らは吉村を待つが結局新宮に向かいゆっくり風屋まで進む

●伊賀上野藩が五條に布陣 

●津藩が五條に布陣 郡山藩が五條の東数キロの所(現在の大淀町)に布陣 

●京都では孝明天皇が各藩に忠光討伐の催促をする 

吉村ら40人は和歌山勢(現在の橋本市付近)に夜襲をかけ、遁走さす 

9月 1日 忠光ら本隊は風屋で滞陣 

●彦根藩が五條の東数キロの所(現在の大淀町)に布陣 尼崎・岸和田藩も金剛山を固め、天辻峠を討伐軍計1万人強で三方から包囲 新宮藩が熊野川筋の船着き場をすべて押さえる 

   2日 忠光は本隊を武蔵村まで退避(現在の湯泉地温泉) 

   3日 吉村は忠光に追討軍は混乱しているので五條から血路を開き脱出したいと伝言

   4日 忠光ら本隊は天辻に向かう 

   6日 本隊が9日ぶりに天辻本陣に着く(軍夫合わせ合計300名)

軍議で北曽木(五條の手前数キロ)に砦を築き追討軍を向かい討ち、隙を突き堺へ向かうことが決まる 十津川に逃げた郷兵を再度募兵に向かわせた 

●追討軍の連絡・役割がようやく決まる 和歌山藩は高野山から富貴をぬけ左翼を攻撃 津・伊賀上野藩は五條から和田を経て正面を攻撃 彦根・井伊勢と郡山藩は下市から十日市をぬけ正面に 彦根藩別働隊は下市から洞川を迂回し阪本をぬけ後方を固める 小泉・高取など大和各藩は下渕付近を固める 

   7日 

北曽木陣地構築は準備終了後、忠光らは途中(大日川)に伊賀上野藩約650名と接触(北曽木防衛作戦が水の泡となる)大日川で午後3時過ぎから3時間近く戦闘が続く

    ●伊賀上野勢は五條に引き返す(退却?) 

天誅組は陣を夜中村(西吉野村白銀岳−五條と下市の分岐点)に移す 白銀岳で橋本若狭らが屯営場所として準備 栃原と樺ノ木峠の塁に水郡善之祐隊(河内勢) 最前線の広橋峠に橋本若狭隊(地元勢)と安岡嘉助(土佐)や松実富之助ら 平田沼に本隊と遊撃隊 

   8日 天誅組の各隊は激戦の末白銀岳に撤退

●彦根藩二千名が樺ノ木峠攻撃(〜10日) 郡山藩と小泉藩の軍勢(二千名)が広橋峠を攻撃

   9日

●栃原を占領した彦根藩は藤堂藩の加勢を受け白銀岳を襲撃 天誅組は陣を死守 黒滝の彦根藩が逃げた橋本若狭隊を討つ為、丹生に引き返し襲撃 

かろうじて逃げた若狭らは森下幾馬ら20名と下市の彦根藩を夜襲 下市の建物約五百件が消失(天誅の大火) 忠光の本隊は大日川に敵迫る(天辻への退路)の報を聞き河内勢に連絡せず移動

  10日 藤本鉄石中心の軍議で河内脱出を断念し十津川で体制建て直し時期を待つことが決定

●大日川 藤堂勢総攻撃を開始 天誅組は総崩れで和田に撤退 藤堂勢は深追いをせずに五條に安積らの別働隊が北曽木の砦を取り戻し、水郡らはなお丹原まで進み陣をはる 吉村・安積・水郡・吉田重蔵・石川一の幹部らをのぞき各隊が戻る 弾薬が尽き、体力消耗も問題になる

  11日 前線の幹部に連絡せず忠光・藤本ら本隊は天辻へ 

水郡らが戻るとまたも忠光が退却したのを知り激怒 河内勢・十津川勢の一部と吉田重蔵など17名は本隊と決別することを決定し十津川へ

  12日 天辻の陣と大日川の陣との間の鳩の首峠に左翼から和歌山藩が突入 

忠光の本隊は、吉村ら30人を残し十津川へ撤退

  13日 忠光らは上野路村着 

●藤堂藩が大日川の陣を奪取 

  14日 十津川郷士は忠光に離脱を宣言

●和歌山・藤堂藩の兵3000名で攻撃 吉村ら30名は退却 

  15日 十津川郷士らは忠光に十津川からの退去を迫る 

吉村ら着後、十津川離脱と風屋移動を聞き落胆

  16日 野崎主計は十津川郷士の責任を感じ深夜に離脱 

竹下熊雄(肥後)は乾十郎の妻亥生(初の従軍看護婦)の看病のかいなく死亡 亥生は臨月の重身と6歳の長男をつれ五條から天誅組を追いかけ隊士を看病し天辻で出産(軍次郎)、その後本隊と離れ和歌山藩に捕らえられ大坂へ 

  17日 忠光の本隊は小原まで南進 伴林光平ら別働隊(退路探索の名目で)は北山郷から前鬼へ 

  18日 大峯山中 忠光の本隊は下葛川から東進し大峯山中へ 伴林光平ら別働隊は白川村へ 

  19日 伴林光平らは堂の森(伯母ケ峰峠の手前)へ 

  20日 伴林光平らは入之波で東(伊勢)への道は望みなしと知る 

  21日 伴林光平らは鷲家口をめざす 

  22日 本隊は伯母谷村へ 伴林光平らは鷲家口から宇陀の松山・黒崎(桜井)を経て額田部(郡山)へ

●追討が十津川経由で下北山から北上する

  23日 忠光の本隊は武木へ

●追討の諸藩が続々鷲家口付近に集結 

  24日 忠光の本隊は五本桜着

鷲家口突入の最後の軍議を開く 追討軍の本陣に那須信吾の決死隊6名が、忠光らを脱出させるため鷲家口に突入、その隙に本隊20名は鷲家口を通過。本隊(その時17名)は後方警備のものものしさをみて離散し大坂長州屋敷で再会を指示

野崎自宅の近くで割腹 

  25日 決死隊6名全滅 忠光ら7名は岩清水経由で三輪から3日で大坂へ 

天誅組の三総裁以外ほとんどが捕らわれるか殺された 視力を失っていた松本と藤本らは東の山中に逃亡し、松本は射殺。藤本らは伊勢街道まできて、警備のすごさに観念し敵の本陣に突っ込み討死

  27日 負傷し置き去りの吉村は3日間鷲家谷の山小屋で過ごすが発見され射殺

  28日 楠目清馬、多武峯にて殺される。土居佐之助、安岡斧太郎ら捕らわれる。

  29日 秦将蔵は初瀬にて戦死する。

10月2日 河内脱退勢8人は和歌山から京都六角獄舎に送られる。

元治元年(1864)

2月10日 中山忠伊 平野海願寺にて自刃した

2月16日 伴林光平 京都にて刑死

2月17日 長野一郎 京都六角獄舎にて刑死

3月16日 18名 京都にで処刑

安積五郎、安岡斧太郎、安岡嘉助、田所騰次郎、土居佐之助、森下儀之助、島村省吾、尾崎鋳五郎、渋谷伊予作、岡見留次郎、酒井伝次郎、鶴田陶司、江頭種八、中垣健太郎、荒巻羊三郎、吉井儀蔵(長野一郎)、小崎建蔵(確崎寛)

3月28日 鳴川清三郎、浦田弁蔵罪を免ぜられ帰村した

5月 4日 吉年米蔵 京都六角獄舎にて病死

7月19日 禁門の変で、武林八郎帰村中であったが長州兵に加わり、鷹司邸内で戦死

7月20日 平野国臣と共に33名が京都六角獄舎にて処刑された

水郡善之祐、森元伝兵衛、田中楠之助、吉田重蔵、辻幾之助、乾十郎、古東領左衛門、石川一、保母健、原田亀太郎、田中楠之助、木村楠馬、中倉才次郎

11月5日 中山忠光 長州で暗殺される

注釈 ●は追討軍の動き。

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