天誅組とは・・・・・

 幕史研はどうも天誅組が好きである。これは自称天誅研究家がメンバーの半分を占めているからと思われ、10年以上前から彼らの足取りを追いかけている。 

 天誅組が活躍する地域は我々が住む関西である。京都で文久3年(1863)8月14日に方広寺で集結し、奈良の五條で挙兵し、壊滅する9月28日までの約40日間を、奈良の西吉野、天川、大塔、高取、御所、下市、大淀、十津川、下北山、上北山、川上、東吉野と奈良県南部地方をさまよった。  河内(現在の大阪府南東部)の有力者が参加していたので、富田林、河内長野なども関係がある。

  天誅組のどこがいいのか・・・ よく聞かれる質問である。一言で言えば判官贔屓か、それとも滅び行く武士としての生き様か・・・ まあ、心意気だろうか。 

 最近、この天誅組がメジャーになりつつある。五條を中心に天誅組ゆかりの自治体が協力して、顕彰活動をはじめている。マニアックな幕史研にとって、天誅組は格好の調査対象であり、興味がわく。かなり研究されているが、それでも無名の志士は多い。志高い彼らを世に出すことが我々の使命と思っている。(大げさかも)



天誅組って何?

 と思われるかもしれない。ので、天誅組の行動や人物を紹介したいと思う。

 江戸時代末期の幕末、時代は嘉永6年(1853)、ペリーが浦賀に来航して、世情が騒然となった。これ以降、開国か攘夷か、尊王か公武合体か佐幕か議論沸騰。弱体化した幕府に代わって、朝廷がにわかに注目され、薩摩藩や長州藩といった雄藩が台頭し、相争い国内は大揺れとなった。

 文久3年(1863)2月、朝廷では三条実美らの過激攘夷派の公家達が実権を握り、長州藩や土佐藩などの尊王攘夷派の志士達と結び、朝廷の主導権を握ることとなった。

 同年8月、尊王攘夷派は攘夷親征と討幕計画を進めるため、孝明天皇の大和行幸を画策する。この計画は、攘夷祈願のために天皇が神武天皇陵・春日大社を参拝したのち、供を命じた在京各藩の兵力を利用し討幕へと進めようとするものだった。朝廷で主導権を握った攘夷派の公家達により8月13日、大和行幸の詔勅が出た。この詔が出されたことにより尊王攘夷運動は最も盛り上がり、特に、大納言中山忠能の七男で明治天皇の叔父に当たる過激派の公家忠光は、この大和行幸の先鋒として大和で挙兵することとなる。

天誅組の結成理念
天誅組の行動記録
天誅組の史蹟紹介
奈良県上北山・下北山
奈良県十津川村