天誅組顕彰の動き


 梶谷留吉は和歌山県日高郡西本庄村(現南部川村)の生まれで、明治15年(1883)25歳のとき、鷲家の鍛治職梶谷家へ養子に入った。腕をみこまれてのことだろう。仕事一筋によく働き、稼業も繁昌していたが、養子にきて8年目の明治22年、かれの人生に転機が訪れた。

 この年、留吉の実兄で、当時、愛知県碧海郡岩津村(現岡崎市)の浄土宗西山派、円福寺の住職をしていた中西慈芳が、大和にやってきて、鷲家の留吉宅に数日泊まった。滞在中の1日、慈芳は留吉を誘って天誅組志士の墓に詣でた。当時、鷲家にあった志士の墓は「西国の浪士高木左京」が建てた吉村虎太郎の墓碑と、越後三条在住の弟子が建立した藤本鉄石の墓石だけで、それも草に埋もれるがままになっていた。

 慈芳は、荒廃した墓の前で、弟に天誅組の悲劇を語ってきかせた。隊士の純粋な思想や行動と、いさぎよい最期を涙ながらに話したようだ。留吉は、兄の話に感動し、その志士たちの墓が、こうして荒れるにまかせてあることに慚愧の念を覚えた。かれはその場で志士たちの顕彰に生涯を捧げる決意をしたという。

 留吉がまず取り組んだのは、天誅組の記念碑と、殉難志士の墓石建立事業だった。かれは村内の有志と語らって自宅に「天誅組史蹟保存会」「殉難志士建碑事務所」を設立、全国に趣意書を配って募金することにした。募金には有力者の賛同が不可欠だが、留吉にはそんな知り合いも伝手もない。考えた末、奈良に出て、当時の知事古沢滋に陳情することに決めた。が、当時の知事は、田舎の鍛治屋風情がたやすく会えるような相手ではない。留吉は苦心惨憺、八方手を尽くしてようやく古沢に会うことができたという。

 古沢は土佐出身で、吉村虎太郎や那須信吾らとは土佐勤王党の仲間だったから、留吉の熱心さに感動、土方直行、田中光顕、北畠治房(平岡鳩平)ら知名士を紹介した上、政府や県の方でも顕彰運動を応援することを約束してくれた。

 こうした有力者の協力もあって、明治28 年の秋、留吉はやっと念願を果たし、鷲家の湯ノ谷など数ヶ所に、殉難十六士の墓碑と記念碑を建立、翌29年4月18日には各界の名士や遺族を招いて、建碑祭と三十三回忌の慰霊法要を行った。地元の高見村(当時)でもこれに刺激され、9月25日を天誅組の命日として毎年供養することを決め、小学校では毎週一回、全校児童が参拝、墓地の清掃奉仕をするなど、顕彰熱もようやく盛り上がってきた。

 だが、運命は皮肉なもので、それから間もない明治29年8月30日、思わぬ不幸が留吉を見舞った。吉野地方一帯に大風水害が襲い、苦労して建立した墓碑をほとんど流失、埋没させてしまったのだ。

 留吉はくじけず、また復旧のための募金運動をし、7、8年かかってどうにか修復を終えたが、そのときには、かれの養家梶谷家は被産状態になっていた。募金が思うように集まらぬ上、関係者の使いこみなどが発覚して、やむなく募金を中止、修復費用はほとんど自費で賄ったからだ。

 これでは親類縁者がおさまるわけがない。留吉はついに養家を追い出された。かれはやむなく和歌山の姉のもとに身を寄せ、天理教の布教師になった。以後16年、かれは天理教中芳養宣教所長として各地を布教して歩くかたわら、暇をみてはひそかに鷲家に帰り、志士の墓掃除や年忌法要などを営んで過ごした。

 大正4年(1915)3月21日、留吉は挫折した顕彰運動と、自らが傾けた梶谷家の家運に思いを残しながら、この世を去った。息をひきとる前、かれは長男の信平を枕元によんで遺言した。内容は@義士全員の慰霊A永久にもつような碑の建立B留吉の尽力ぶりを記録にとどめること、の三ヶ条で、田中光顕、土方久元、北畠治房三名士に頼ってなんとか実現してくれ、と信平の手をとり、涙ながらに訴えた、という。

 信平は父の遺言を果すため、上京して土方らを訪ねた。しかし三名士とも老いて往年の気力も力もない。個々の隊士の事跡を調べ、いちいち碑を建立するのは至難だから、鷲家に神社を建立して全隊士を合祀してはどうか、ということになり、北畠が神社建立と募金趣意書を書いてくれた。信平はそれを持って各地を回ったが、どこも警戒して相手にしてくれない。そんなことで、この神社計画はご破算になった。

 失敗の原因は、天誅組が世に十分知られていないことと、自身、説明を求められても、相手を満足させるほどの知識を持ちあわせていなかったことにある、と覚った信平は、自ら天誅組の史実を掘り起こして公刊しようと決心した。

 これは、義務教育を受けただけの「村の鍛治屋」には至難の業といってよかったが、かれは臆せず、前記三名士の紹介状を持って維新の功臣宅や大学、研究所などを尋ねて回った。一介の田舎職人が、華族や大学者の家に気安く出入りするのが珍しがられ、新聞のゴシップ欄を賑わしたこともある。

 信平はこうして4年がかりでようやく一冊の本を書き上げ『天誅組烈士戦誌』と題して公刊した。大正9年3月のことだった。

 しかし、素人記述の悲しさで、この本には誤謬や生硬さが目立った。そこで信平は改訂版の発行を志す。その失先の大正12年9月、関東大震災が起こり、東京の本郷弓町にあった信平の家も被災して、多年収集した史料はもちろん、大切な本の紙型までそっくり焼いてしまった。

 もう本の改訂どころではなく、食うのに精いっばいになったが、信平はくじけず、苦闘の末に大田区麹町でやっと鉄工所を再開、養子も迎えて、さあこれから、というところまでこぎつけたが、天はあくまでも信平に非情だった。昭和20年4月、米軍の東京空襲で、かれは家も工場も焼失、妻や養子まで失ってしまったのだ。信平は仕方なくかばん一個を下げて故郷の鷲家に帰ってきた。

 鷲家で農具鍛治をやりながら、信平は改訂版の稿を起こした。脱稿したのは昭和31年だった。村の有志はよろこんで村当局に働きかけ、村費で出版の話も出てきた。しかしその矢先、こんどは伊勢湾台風が村を襲い、大火も重なって村は大被害を受け、本の出版どころではなくなってしまった。信平は、よくよく不運に魅入られていたのだろう。

 あきらめきれぬ信平は、昭和37年、原稿を抱えて高知県梼原村(現梼原町)に行き、出版を頼み込んだ。梼原村は吉村虎太郎、那須信吾ら土佐出身隊士の縁故の地である。ちょうど天誅組百年祭の年だったので、同村は村費で出版を引き受けてくれた。信平多年の労作は『天誅組義挙録』と題してやっと日の目をみたのである。

 以上は『天誅組義挙録」公刊後、信平が自身でしたためた『天誅組墳墓の由来と本書編纂する迄』と題する手記(東吉野村村長松山建治氏蔵)から抄録した。この手記を書いたとき、信平は吉野郡大淀町の老人ホーム「美吉野園」で、一人寂しく老いの身を養っていたが、昭和42年2月同園を退園、東京・日野市に転居し、45年1月11日、85歳で死去した。娘の婚家を頼っていったものと思われるが、確かなことは、わからない。後継者も財産もなく、ただ2冊の著書だけが、かれの生きた証しとしてこの世に残された。

 信平の霊はいま、鷲家谷石ノ本の「湯ノ谷墓地」の碑の傍らに眠っている。

 東吉野村にはいま、天誅組隊士の墓が三ヶ所に分かれてある。

 まず、同村小川(旧鷲家口)の明治谷墓地には、鷲家口の戦闘で戦死した植村定七、那須信吾、宍戸弥四郎、林豹吉郎、鍋島米之助ら決死隊員と、吉村虎太郎、山下佐吉、西田仁兵衛、天保高殿ら計九士が葬られ、鷲家の湯ノ谷墓地には藤本鉄石、松本奎堂、福浦元吉、村上方吉、森下幾馬ら、鷲家で死んだ五士と、幾馬の兄森下儀之助の墓がある。そして同村谷尻の宝蔵寺には、奥詰の堂前で割腹した池田健次郎が埋葬されている。

 一方、追討軍側の戦死者、彦根藩の伊藤弥左衛門、大館孫左衛門の二人は小川の宝泉寺に、和歌山藩の的場喜一郎は鷲家の竜泉寺に葬られ、それぞれ墓碑もあるが、里人の判官びいきというのか、天誅組隊士の墓ほど手入れも行き届かず、草むしてなんとはなしに哀れを誘う。

 吉村虎太郎の墓は、もと鷲家谷の石ノ本にあった。吉村が銃弾を浴びて倒れた山小屋から50mばかり下の、鷲家川沿いの大岩の根元で、小さな墓石も立てられていたが、流行神となり、大勢の参詣人が詰めかけるようになったので、鷲家口の村人が遺骨を掘り起こして、鷲家口・明治谷の現墓所に改葬した。改葬をめぐって鷲家口と鷲家の間で、かなりの悶着があったと伝えられる。

 その後、(明治28年)鷲家の梶谷留吉が、石ノ本の旧墓所を掘り返して検めたところ、先の改葬のさい、収骨しもらしたとみられる遺骨が数片出てきた。そこで留吉は、知事の吉沢滋や田中光顕、土方直行ら有力者と相談、ここが元の墓だったことを後世に示すためにと「原墓処」の碑を立てて遺骨をまつった。吉村の墓は厳密にいうと、明治谷と石ノ本のニヶ所ということになる。

 各墓地は、その後何度か改修され、墓石なども新しくなった。小川の明治谷墓地では、明治のころの墓標と、新しい墓標が仲良く二列に並んでいて、その間の推移をしのばせてくれる。玉垣や参道などもすっかり整備され、墓前はいまも香華が絶えない。

 墓地ばかりではない。決死隊員が奮戦した鷲家口の宝泉寺の前には「天誅組義士記念」の碑、藤本鉄石、福浦元吉が死闘をくりひろげた鷲家の近くには「天誅義士戦死の地」の碑、そして吉村虎太郎原?処の前には「天誅組終焉之地」の記念碑がそれぞれ建立され、志半ばで散った悲運の志士たちを称える。各隊士の戦死の地や、潜んだ民家など、ゆかりの場所には、すべて記念の碑や説明板が備えられ、活動の跡が大切に保存されている。大正4年、梶谷留吉が死に臨んで長男信平に託した三ヶ条の遺言は、現在、ほぼ果されているといっていい。

 もっとも、当の長男信平は、先述したように著書2冊を残して孤独のうちに死に、留吉が望んだ遺跡の顕彰までは手が回らなかった。信平に代わって、遺言を果したのは現在の東吉野村天誅組顕彰会と、村当局である。

 いまの顕彰会は昭和51年の秋、同村小川の銘木商、山口辰次郎氏(故人)が中心になって結成された。戦後、皇国史観が否定され、天誅組は歓迎されざる存在となったので、村でも表立った顕彰運動はしばらく控えていたが、昭和38年、義挙百周年を迎えたのと、復古の風潮も手伝って再び新しい顕彰会が結成されることになったという。

 村当局も、天誅組の顕彰運動には熱心で、宣伝活動にも力を入れている。昭和37年10月、全国から隊士の子孫ら関係者を招いて天誅組百年祭を執行したのを皮切りに、10年ごとに記念祭を行っている。

天誅組紀行(人文書院) 吉見良三著より引用しています。

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