天誅組がゆく  1

8月14日(現在の9月26日)

【大和日記】には『亥秋八月十四日義兵ノ総大将中山前侍従忠光卿暮レ頃ヨリ京師ヲ御脱発ニツキ諸藩ノ有志相随フ』 この日、朝早くから、かねて盟約した同志の人々に回状がとんでいた。

「今般攘夷御祈願のため、大和表に行幸仰せ出され候ひぬ。之に依り、忠節を心がけ候我輩一同、御先鋒として大和へ罷り下り、戀輿を迎え奉らんため、今日発向之段、治定候に付、有志の徒は正八ツ時限り、方広寺道場へ遅滞なく参着致さるべきもの也  八月十四日 前侍従 中山忠光 花押」

 方広寺を集合場所にしたことについては、いくつかの理由が考えられる。まず、その位置。参着時刻は正八ツ(午後二時)だ。まだ陽が高い。多人数の、武装した浪士が集まれば人目につく。新撰組が飛んで来るかもしれない。いかに皇軍御制先鋒といえども、これは危ない。そこで、比較的参詣人の少ない方広寺がえらばれた。ここは洛南東で伏見湊にも近い。しかも、尊攘浪士なら誰でもよく知っている。それに、ここには徳川家への呪詛がある。家康の首と胴体を切リ離したという「国家安康」だ。

 大和日記に、京都発進時の姓名がのっているが、誤りが多い。出自、年齢を添えて、もう一度書きそろえてみよう。

 一行は南大門をくぐって伏見へ向かった。古来、京から伏見へ下るには二つの道がある。東山の麓近くを行く伏見街道と、その西側を走っている竹田街道だ。後者の方が人通り少なく、目だたないが、危ない。その始発点の西に新選組の屯所があり、よくこの道をつかう。あえて、家並みの多い伏見街道をえらんだ。そして伏見京橋へ着いたときは、船宿の軒行灯が初秋の夕闇に、ぼんやりと浮かんでいた。伏見湊には大小四十軒の船宿があり(寺田屋もその一つ)一行は荷船問屋魚久へ入った。そして虎太郎は三十石船三艘を雇い、武器武具類を積み大坂へ向かった。

8月15日(現在の9月27日)

【大和日記】には『四ツ時前後ノ勢追々大坂土佐堀常安橋へ着船 坂田屋卜申宿屋ニオイテ支度ヲ調ヘ夫ヨリ玉薬早合ノ類相揃早船一艘ヲ借受ル』

 明け方左岸の淀船の発着場八軒家を横目に天神橋、難波橋をくぐると川は二つに分かれる。

 北を行くと堂島川、南は土佐堀川。一行は土佐堀川を進み、淀屋橋、肥後橋、筑前橋をくぐり、常安橋南詰に接岸した。陽はもう高くなっている。土佐堀2丁目船宿坂田屋についた。一行はここで食事を済ませるとだんだん生気が戻ってきた。気の早い者は、ここの2階で武具を身につけ、主人の庄助や、使用人たちを驚かせた。その頃、虎太郎は心斎橋の道具屋へ預けてあった武具を取りに行き、又、松本奎堂は軍令書の執筆に、この両総裁に休む時間はない。

 陽が沈みかける頃、一行は二艘の明石船に分乗し、越中橋、湊橋をくぐり、安治川へと下って行く。天保山に向かう途中、川の要所に監覧所という川の関所があった。ここで水主同心に詰問を受けたとき、虎太郎が「上杉謙信」、池内蔵太が「武田信玄」と名乗ったというエピソードが田中光顕の「維新夜話」に残っている。しかし、生まじめな虎太郎のこと、このエピソードが真実かどうか・・・

 船が天保山沖にさしかかる。虎大部は船頭に堺へ転舵を命じた。そしてこの頃に、天謀組の約規といえる軍令書が松本奎堂より読み上げられた。

 早朝、堺の港に着く。堅川が港へ流れこむところにかかっているのが旭橋。橋の東詰に楡の木が立っている。二艘の船はこの木につながれた。

 「天誅組上陸繋船の楡 大正十五年四月 堺市役所」石碑が、今この地に建っている。

 堺に上陸した一行は菊の御紋をつけた高張提灯をかかげ、栄橋通から櫛屋町へ入り、旅籠扇屋と朝日野に分宿し、朝食を用意させる。そしてわずかな休息の後、武者わらじに足をかためた一行は隊伍を組んで出発。しかし、天誅組一行としては、忠光に馬上姿となって欲しかったのであるが急のことでロバ二頭しか見つからない。ロバでは威厳を示せないのであきらめることにした。

8月16日 (現在の9月28日)

【大和日記】には『四ツ時 北河内国狭山へ着ス』

 西高野街題(現国道310号線)を南進して来た。一行は池の原から狭山の北堤を通って報恩寺境内に入った。実はこの地に用がある。狭山藩陣屋は狭山池東北の地に構築されていた。現在狭山藩の遺構は何も残っていない。堺の西本願寺別院に大手門だけが移築され残っているだけである。虎太郎はこの陣屋の西門から中に入り、狭山藩に「藩主、相模守殿にお取付願いたい」と面会を申し込んでいる。この時、狭山藩より「甲冑十領。銃十五筋、ゲベール銃十挺、米塩若干」差し出す約束をとっている。それから一行は狭山から約一里、廿山という所を通り、富田林甲田の水郡善之祐宅へ到着する。

【大和日記】には『水郡宅へ八ッ時頃着陣、同所ニテ菊ノ御紋ヲ打タル旗一流同ク幡一本拵へ、夜半過二大将軍、御馬上陣太鼓ニテ出陣ス』

 水郡家にて、河内勢と合流した一行は休息のあと、大和へ向けて夜半、松明をかざして出発した。その時の様子を想記した絵「天誅組河内国甲田村水郡邸出発ノ図」が、現在水郡家に残されている。

8月17日(現在の9月29日)

【大和日記】には『暁八ッ時過、三日市駅本陣へ着 夜明迄休息五ッ時頃出陣観心寺ヘ昼前着ス』

 真夜中に水郡家を出発した一行は観心寺へ向かうのであるが、現在の国道310号線をなぜか途中高野街道の方へ足を向ける。それは格好で休息地三日市の旅籠油屋があるからである。―行が三日市へ着いたのは午前3時頃である。三日市は古来、高野詣での宿駅として栄えた地で大坂八軒家から八里、高野山へ八里のところである。この三日市の油屋の子孫の方の話「なにしろ何十人という人数であるから、わたしのところへは中山忠光以下主だった方々が泊まられ、残りの浪士や人足たちは脇陣の菊屋や鍋屋へ行かれたのです。忠光卿のお休みになられた奥座敷は、庭に面した高台になった所でした。それから油屋をお発ちになったのは午前8寺頃です。」

 夜が明ける。久しぶりに畳の上で熟睡した浪士たちは山あいの畦道を観心寺へ向かった。この観心寺は南朝史跡の充満するところで勤王の浪士達の決意はみなぎった。その時痩せた男がゆっくり石段を上がってきた。軍資金調達のため一行に遅れて京都を出発した藤本鉄石はようやく一行と合流することが出来たのである。

 観心寺出発は午後2時頃になった。一行は菊の御紋を翻し、鳩の原、大井、下小深という所に着く。

 ここで路は二つに分かれている。右は石見川から大沢峠、左は千早村から千早峠。忠光ら本体は千早峠へ、別働隊は石見川へ向かった。共に難関である。一歩上がっては止まり、二歩進んでは休んだ。

 やがて峠を越えて大和に入る。一行はいよいよ幕府五條代官所を襲撃することになる。【大和日記】には『大和河内境山々ニ陣ヲ取大和ノ国五條代官ヲ、遙ニ見聞シ代官鈴木源内ハ幕ノ姦吏ニテ是迄有志ノ妨ト相成候者也血祭ノ為討潰スベシ・・・・ゲベール銃ノ長池内蔵太ハ其組連表門ヨリ左ノ裏手ヘ廻リテ炮發ス和炮隊長ノ半田門吉ハ其組引連表門ヨリ右手ニ廻リテ炮發ス孰レモ空炮打ニシテ勢ヒニ乗スル為鬨ノ聲ヲゾ揚ケタリケリ鎗隊ノ長吉村虎太郎上田宗児ハ鎗組引連裏門ヨリ館ヘ無二無三ニ乱入セリ大将軍裏門前ニ御馬ヲ扣ヘラレ君側ノ輩固メタリ上田頻リニ進ンテ鈴木源内ヲ捕フ』とある。

 石見川から大沢峠をこえてきた別働隊も合流し、陣容を立て直して五條の町へ進入した。

【会津藩庁記録】には『十七日申之刻頃(午後4時頃)和州五条大ぞう越と申す山中より、凡そ百五六十人程ばかり、うち駿馬十四五疋も相見え、何れも兵具著し、菊之紋附旗立て、五条に向け追々駈け寄せ候に付、近在は勿論、五条中の者立ち騒ぎ候処、右人数のうちより申し聞き候には、紀州路へ罷り越し候間、立ち騒ぐまじき旨相制しおき、そのまま人数残らず五条御陣屋を取り巻き候』

 五條陣屋は吉野・宇智・宇陀・葛上・高市の5郡405ヶ村7万千余石の天領を支配する代官所である。

 このときの五條代官所には、代官/鈴木源内、元締手代/長谷川岱助 手代/梅田平三郎・近藤米太郎・矢崎信太郎・高橋勇蔵・小泉五郎三・森脇弥太郎・壬崎粂蔵、取次/木村祐治郎、書役/恒川庄次郎(長谷川元締息子)、用人/黒沢儀助、侍/伊東敬吾らの役人がいた。

 五條の町を横断して、吉野川へそそぐ小さな流れを西川という。緑橋という小橋が、その西川をまたいでいる。虎太郎は、緑橋の手前で行進をとめた。人足、駕籠、小荷駄などを西川のほとりに休ませ、橋の袂に監視の者2名を置いた。浪士たちは緑橋をわたった。銃隊、槍隊以外の者は抜刀。

 陣屋には、代官所のほか、元締長屋、手代長屋、侍長屋などの建物もある。土塀で囲まれ、表御門と裏門が出入口だ。(ここには今『五条代官所跡』の石碑がある。五條市役所の前。)

 池内蔵太がゲーベル銃隊をひきいて表門から左へまわった。右手は半田門吉の和銃隊。中山忠光は馬にのったまま裏門前に陣どった。

 五條陣屋へ使者に立ったのは誰か? はっきりしない。常識的には、狭山陣屋で使者になった吉村虎太郎である。だが、大和日記によると、虎太郎は裏門から槍隊を率いて飛び込んでいる。

 藤本鉄石は、この場にいない。桜井寺へ本陣借受けの交渉に出かけている。会津藩庁記録には、『重立ち候者御陣屋へ罷り出で』とある。奎堂なら五條に土地勘がある。浪士組姓名事跡風聞書にも書かれている。『・・・是迄?燭売或ハ銭縄売卜身フ変ジ、度々五条表エ入込ミ候由、尤モ同所細川屋喜助卜云フ旅籠屋ニ而モ三度バカリ止宿致シ候趣・・・』とあり考えられるのは松本奎堂だけである。

 会津藩士広沢安任の記録によれば、五條代官所襲撃の状況はつぎのようなものである。

『日まさに暮れんとするとき、にわかに陣大鼓の声のごときを聞きて、館中、皆おもふ、村民たわむれに仁輪加(即興的茶番野外芝居)をなすなりと。仁輪加は村戯の名なり。館前にいたりて声をあげ、砲を発し、前後より乱入し言語を接するにいとまなく、ただちに刃を加ふ。館中の吏智走る。源内は時に一刀をおび、歩して園をめぐる。乱を聞き室に至らずして殺さる。妻子はとらへてこれをつなぐ。役人あるいは小刀を抜きて防ぎ、あるいは走る。殺さるるもの五六員』

 陣太鼓の音を聞いて、仁輪加と思っている。太平に馴れた代官所の役人、のん気なものだった。

 侍伊東敬吾を斬ったのは竹下熊雄である。竹下熊雄は腕が立つ。労咳(肺結核)にかかっており、血を吐いた。そのため、乾十郎の家で介抱をうけることになった。乾十郎の妻いはおは臨月である。そのうえ、手のかかるやんちゃ坊主が二人もいるのに、熊雄のため親身になって世話をしてやった。

 皇軍浪士たちもいささか血迷ったか、按摩の嘉吉まで殺してしまった。嘉吉は黒の紋服を着ていたから、役人と見間違えられたのであろう。事件後、嘉吉の女房が桜井寺本陣へ出かけて嘉吉の首をもらいうけ、極楽寺へ葬ったと「本城久兵衛日記」は述べている。その後の処置として、『御上より御不便御加へ御憐愍を以て葬料として白米五斗金子五両也頂戴奉り候』とある。

 戦いは終った。20名足らずの五條陣屋は、一時間あまりの戦闘だった。

 代官/鈴木源内・戦死 元締/長谷川岱助・戦死 手代/梅田平三郎・捕縛、近藤米太郎・捕縛、矢崎信太郎・捕縛、高橋勇蔵・逃亡(後、9月4日、賀名生大日川において変死)、小原五郎三・逃亡、森脇弥太郎・逃亡、壬崎粂蔵・逃亡、取次/木村祐治郎・負傷(翌18日、隣村大島村において戦死)、書役/恒川庄次郎・逃亡、用人/黒沢儀助・戦死 侍/伊東敬吾・戦死

 いかに不意を襲われたとはいえ、代官所の役人が5人も逃亡とは情ない。しかし、取次の木村祐治郎だけは別だ。

 木村は当初の剣戦で吉田重蔵に手傷を負わせたが、かなわずとみて脱出した。ところが、またひきかえしてきた。妻女を助け出すためである。木村の妻女は妊娠中で、長屋で寝ていた。北側から逃がすと、木村も塀を飛び越えた。中垣健太郎が見つけ槍をくりだす。木村は右の太股を刺されたが、はずして走る。追いかけようとして健太郎、茄子に足をとられた。木村は宵闇に消えた。須恵村まで逃げてきた木村は庄屋の米屋広吉方へ転がり込んだ。応急手当を受けて更に逃げる。下僕に背負われ大島村の年寄八平の家まできたが、ここも危ない。寺のほうが安全だということで明西寺へ隠れた。

 夜道を照らしながら、血痕をたどってきた浪士たちは吉田重蔵ほか4名。八平の家へやってきて、どこへ隠れたかと詰問した。八平の老父は、最初、知りまへん、存じまへん、で押しとおしていたが、つつみかくさず申せ、さもないと火をつけるぞ、と脅されて、探してみまっさかい、待っとくなはれと、引下がってもらった。

 そのあと、寺へかけつけ、木村に話すと、さすが武士。「そうか、これ以上お前らに迷惑をかけては相すまぬ。どこへでも出してくれ」きっばり言いきった。

 そこで、手傷の木村を堤防の上へはこび出し夜が明けてから、桜井寺の本陣へ届け出た。やってきたのは吉田重蔵と田所騰次郎の2人。騰次郎は木村の首を打落すと、刀に突きさして、桜井寺へ帰って来た。

 鈴木源内が五條代官所へ着任したのは、文久2年(1862)4月のこと。能吏ではないが、悪代官でもない。平岡鳩平は、「源内という男は六十位で、ごく品のよい奴だった。けっして、悪い奴ではなかったのだが緒戦の血祭にやられたわけだ」と言っている。

 たまたま、五条代官として勤務していたという不運が鈴木の命を奪ったのである。

 かつて、十津川郷士が禁裏守護の令旨を賜わったとき、十津川郷でも賛否両論があった。困り果てた結果、代官所に訴えてきた。そのとき、鈴木は、「朝廷からの仰せならば名誉なことだ。反対があっても上京し、必ずご奉公せよ。わしが責任を持って後始末をいたす」と御用を勤めさせた。

 胸板に槍先を突きつけられても、正体不明の浪士の要求を致然と断った鈴木代官の態度は、立派といってよかったろう。年は五十有余とみられる。

 藤本鉄石は、桜井寺へ村役人を呼び出し、以下のような命令を発した。「これより桜井寺を新政府本陣といたすから左様心得よ。ついては、次の条々承知のうえ、早速手配いたせ。

 代官陣屋は焼払うから、陣屋内の武器を人足にここへ運ばせよ。また、書類は紛失せぬよう保管いたせ。陣屋の詣道具雑品は、五條、須恵、新町の三ヶ村へ分配せよ。300人分の晩飯を炊き出し、握りめし4個づつ竹の皮につつんで持ってまいれ」

 桜井寺の門に、大きな表札がかけられた。『御政府』。境内では河内人足97人、腹をへらし、地べたにへたりこんでいた。ようやく竹の皮づつみが渡された。握りめし4個に梅干が1個ついている。日当が出たのは午後12時すぎになった。

 このあと、浪士たちの一軍役割が発表されたと、どの天誅組関係の本にも書かれているが、これは間違いであろう。浪士役割には伴林光平も記録方として名がのっている。光平が忠光卿に拝謁したのは翌18日であるから、役割の発表はそれ以後でなければならない。

 光平は、【南山踏雲録】に、『十八日朝、中山公に謁す。精々天朝の御為に、忠勤有るべき由仰せられ、即ち軍紀草案の役儀を蒙る』と、書いている。

 光平が見た忠光卿の印象は次の通りである。『君公御年十八才、色白く眉黒し、大声さわやかにて、御下知の声、隊中に徹して実に衆心一致に成り候こと神妙と云うべし。激発なること雷の如く、慈愛あること父母の如し。誠に復古の主将と仰ぐべきことなり』

 須恵(五條市須恵町)に楢屋という宿屋があった。その前に一挺の駕籠がとまった。若い男がついている。駕籠から出てきた男が、吉村虎太郎から手紙をもらってかけつけた平岡鳩平である。その後伴林光平もやってきた。兼ねてからの盟約通りに。

8月18日(現在の9月30日)

【大和日記】には『十八日ヨリ十九日迄桜井寺御滞陣 鈴木源内ヲ初メ五人ノ首ヲ五条町外ニ梟首シ其ノ罪ヲ札ニ顕ハシタリ、夫レヨリ庄屋、村役人等悉ク呼出シ、幕府ヲ討ツベキ趣意ヲ申シ聞カセ、天朝ノ御為忠ヲ尽スベキ人ノ道ヲ教ヘ、制度ヲ定メテ制札ヲ改メ、当秋ノ年貢ヲ免ジ、人民ヲ安ンジ、旗、差物其ノ外兵器等大略調フ』 村に布告文高札等を立てる。

五条代官 鈴木源内  元締 長谷川岱助  用人 黒沢儀助  取次 木村祐治郎  恒川庄次郎

 比の者ども、近来違勅の幕府の意を受け、専ら有志の者を押しつけ、朝廷幕府を同様に心得、僅か三百年の恩儀を唱へ、開闢以来の天恩を忘却し、然も、これがために皇国を辱しめ、夷狄の助と成り候ことも弁へず、且つ収斂の筋も少からず、罪科重大なり 依って誅戮を加へるもの也  亥八月十七日

 この高札は須恵の村はずれ、小高いところに建てられた。

 戎堂の前に制札場があった。代官所の制札を立てる場所である。浪士たちは、その制札を引きぬいて、新しい高札を立てた。

 『皇祖大神、天地を闢き、万物を生じたまひしより以来、皇孫、其の天地を統制したまふところなり すなわち、皇帝は天地の大宗主なり、この故に、万民といへども庶流裔孫なれば、神は祖なり、祖は神なり 先祖あらん限りは臣なり、子なり、すなわち、先祖に仕へ奉る如くつかへ奉るは、忠孝一たること疑ひなきものなり 土民、主家有る者も、君家の臣にして、主家の従なり、故に、衣冠これある者は皆天朝の授くるところ明白なり この君臣主従の分をわきまへ、土民各々其の職業に勤め、祭祀を助け、藩屏として天恩に報じ奉るべし 是れ、すなわち、天人一致の大道、日夜敬ひ奉るべきことなり 亥八月』

 桜井寺本坊で、 一軍の役割が発表された。

 しかし、この日天誅組一行にとって運命の日を迎えることになる。「八・一八の政変」である。中川宮をはじめ、会津・薩摩藩ら公武合体派の策謀により、尊攘派の追い落としである。これにより大和行幸は中止。大義名分を失った天誅組は一夜にして朝敵という汚名を着せられることになる。

 極楽寺へ行くには、ごくらく橋を通って西川を渡る。苔むした五本の墓石が木柵の中で寄りそっている。

真光院殿実誉相義居士(鈴木源内正信)、堅寺院忠岩光訓居士(長谷川岱助)、広普院寂誉深入居士(木村祐治郎)、徳隣院有誉仁恵居士(高橋勇蔵義敬)、迎雲院頓覚浄生信士(黒沢儀助)・敬徳院倹道良温信士(伊藤敬吾)合碑

8月19日(現在の10月1日)

 午前、桜井寺に18日の政変を知らせに来た者がいる。天誅組同志、古東領左衛門である。しかし、一夜にしての政変を古東から聞いたものの詳しいことがわからない。古東と入れ替わりに平野国臣が駆けつけた。一行は平野から用向きは天誅組鎮撫だという。忠光卿に差し出した三条実美の手紙は「大事な場合だから自重されたい。代官所を襲撃することなどは、まことに軽挙な行動である。それよりも外夷の軍艦に脅かされている長州へ行って戦え」というような文意だった。

 忠光は憤激した。「もう倒幕の賽は投げられた。あとには引けない。」忠光の一言で全員腹が決まった。

 そのあと陣中では、国臣を囲んで酒盛りとなった。帰京を前に国臣は天誅組のために一首詠みあげた。「ささら潟錦の御旗なびけよと わが待つことの久しかりけリ」

 浪士の留め役で来た国臣だったが、いつの間にか鎮撫使が扇動使になった。後日、生野義挙の中心人物となる。

 仲間が増えた。

8月20日(現在の10月2日)

【大和日記】には『五條留守居トシテ池内蔵太、安積五郎、水郡善之祐父子、荒巻羊三郎、磯崎寛等六十人残シ置キ、四ッ時ゴロ御出陣、十津川差シテ発向ス』

 桜井寺本陣の留守居役は池内蔵太、群司に水郡善之祐・渋谷伊予作、郡方向役に三浦主馬・林豹吉郎、取次に森本伝兵衛・滝田弁蔵、ほかに安積五郎、磯崎寛、荒巻羊三郎、岡見留次郎、水郡英太郎。一行は本陣をあとに陣太鼓を轟かせて吉野川へ向かう。

 野原から丹生川に沿って、途中、南朝皇居の旧跡がある。賀名生の皇居跡である。住人は掘又左衛門。ここで昼食となった。「家には後醍醐天皇の御太刀や御冑、それに勅書など蔵にしまってございます」又左衛門の言葉に浪士たちは「この次お邪魔するときは、ぜひ拝見させて頂きたい。」と依頼し行った。

「里の名あはれ阿那不といひいひて獅々追ふおぢも年はへにけむ」 又左衛門に一首書きあたえると、光平は大またで一行の後を追った。賀名生から大日川を通って浪士達はようやく天辻にたどりついた。

8月21日(現在の10月3日)

【大和日記】には『八月二十一日より二十四日迄 天ノ川へ御滞陣』

 21日に天ノ川辻に到着した一行であったが、最初は天ノ川辻の奥坂本という所にて本陣を構える予定であった。しかしこの坂本という所は十津川ベリにあり、すり鉢の底のような所(当時の坂本村は現在猿谷ダムの底に水没している)幕軍が攻めてきては、防ぎようがない。しかし天辻峠の頂上台地にある鶴屋治兵衛宅なら見通しはきき、どこから敵が攻めてきても容易に撃退することが出来る。衆議一決朝霧をついて、一行は天辻峠へ引き返し、天辻を本陣と定めた。

 又、この日高取ヘー人軍使として交渉に出かけていた那須が、数々の献上品を持って天辻に引き上げてきたのだった。

8月22日(現在の10月4日)

 天辻本陣へ橋本若狭が登ってきた。義軍に参加したいという。彼は丹生川上神社の神官で、このあたりに、隠然たる勢力をもっていた。小さい頃から武芸に親しみ、神社の横に練武場を開設し、門弟二人を従え、そして天辻へ足を向けた のだった。

 一方五條では『一筆啓上致し候 過日、中山前侍従殿より那須信吾をもって差し立てられ候御趣意、御感服の上、武器ならびに米百石当分借用の段御許容の趣、満足致され候間、早々五條政所迄、御運送御首尾下さるべく候以上 池内蔵太 八月二十二日 林伝八郎様』

 那須信吾は多々の献上品をもって本陣へ入ったのではあるが、高取にて約束した食料米百石なかなか届かない。しびれを切らした五條留守居役の池は筆を取った。しかし、この時高取藩は京都守護職より『早々人数差し向け召捕り、手余り候はば斬捨て致さるべき事』との御達しが届き、藩をあげて戦闘準備にかかっている。

8月23日(現在の10月5日)

 上田宗児は土居佐之助、尾崎鋳五郎ほか18人と共に高 野山を訪ねていた。多々の協力を求めるとともに、もし山内に「狼藉者」があらわれたときは、ただちに天誅組へ報告するよう申し渡している。しかしそれから5日後、高野山内にこの「狼籍者」があらわれるのであるが、高野山側は報告するどころか、一山あげてこの「狼籍者」をもてなし、天辻へ道案内さえつとめている。「狼藉者」とは紀州藩頭役津田楠左衛門率いる380余人の幕軍である。

8月24日(現在の10月6日)

 乾十郎と保母健をつれて十津川の奥深く入った吉村虎太郎の募兵方法はいささか強引なものだった。『火急の御用につき十五才より五十才まで、残らず明二十四日御本陣へ出張これあるべし、もし、故なく遅滞に及び候者は、御由緒召し放たれ、品により厳科に処せあるべく候条、その心得を以て早く出張これあるべく候  八月二十三日卯刻 総裁吉村虎太郎』

 勤王精神にかけては人後に落ちないと、自負している十津川郷士である。(遅れをとっても恥をかくようなことがあってはならない。)まさかすぐ戦争とは思っていなかった。天辻峠から南を見下ろすと列を組んで十津川郷士が登ってくる。忠光卿も本陣から飛び出して一行を迎えた。

 しかしこの中に五條代官所襲撃に意見する者が出てきた。十津川の玉堀為之進と河内の上田主殿である。朝議一変でムシャクシャしていた忠光が癇癪玉を割り、十津川郷兵の見せしめのために斬られてしまった。反主流派はいなくなった。

8月25日(現在の10月7日)

 忠光らは十津川郷士約1500人を従えて五條に帰ってきた。五條留守居役池内蔵太からは煮え切らぬ高取藩の態度、それに中川宮の命令で紀州・郡山の各藩が動いたとの報告を受ける。

 軍議の上、直ちに隊の編成がおこなわれた。第一隊隊長・吉村虎太郎、第二隊隊長・松本奎堂、第三隊中軍・中山忠光、第四隊隊長・藤本鉄石、第五隊隊長・那須信吾。各隊およそ200人。25人に一人の伍長がついている。まず目的地は高取城である。五條からまっすぐ北上、御所へ向かった。道は暗い。それに不案内な土地の為後続隊が道を間違えた。第五隊は三住から右へ、伊勢街道へ折れた。忠光の第三隊は住川という所より重坂峠の中街道へ入った。これが手違いの第一歩となる。この頃高取藩はボード砲、ライフル、ダライパス砲を据え、敵が来るのを待っていた。

8月26日(現在の10月3日

【大和日記】には『六ツ時過ギ、総軍進発、道法五十町程高取ノ城下入ロニ攻メ寄セル 他方ニテモ備ヘアッテ頼リ二大砲小砲打掛ケル』

 早朝忠光らは一勢に攻撃をかけた。しかし二三日前に作ったばかりの木砲は生木の砲身がしめっている。よく見るとヤニがいっぱいである。これでは火がつかない。林豹吉郎は腹が立ち足で思いきリ蹴飛ばした。勢い余り砲身は二つに割れてしまった。また街道は目白押しに進んで来た十津川勢で身動き出来ない。その真中へ敵弾が落ちると十津川勢は逃げ出した。総崩れである。そこへ高取勢は雨あられで打ち込んでくる。忠光の馬が驚き竿立ちとなり、忠光は落馬してしまう。又、久留米脱藩の酒井伝次郎はえぼし形の兜をかぶっていた。

 頭に敵のダライバス砲が直撃し兜はペシャンコにつぶれてしまった。しかし幸いにもそれだけですんだ。後日伝次郎は「二日ほど首筋がしびれて耳が聞こえなくなった。」とぼやいている。ムチ打ち症である。白兵戦なら引けをとらぬ浪士達も敵と刀を合わすこともできず、わずかに戦ったのは、裏門で襲撃をかけた那須ぐらいであろう。この戦いも夜襲をかけておけばどうなったかわからない。京都の政変で拠り所を失った彼らにとってこの山城を乗っ取リ、ここより諸国の者に呼びかけようと目論んだのはうなずけるが、しかし戦術がまずかった。主将中山忠光は挙に際し、四つの過ちをおかした。

@前日来、ほとんど不眠不休の郷兵を使った。

A部隊を散開せず、狭い街道を一列縦隊で進撃した。

B昇る朝日に向かって攻める形になった。C彼我の火砲を十分比較検討しなかった。

 そのうえ、このとき本隊には、吉村虎太郎や那須信吾らの勇将がついていない。この時点、虎太郎の第一隊は、御所方面を探索している。しかし、その日の夜、吉村は士気をあげるためもう一度夜襲をかけることにした。小川佐吉、中垣健太郎らそれに十津川兵二十名を引きつれ、高取の城下町に入った。そしてこの城下町に見物に来ていた高取藩の槍術馬術師範の浦野七兵衛と戦うことになる。暗闇の中で虎太郎と浦野七兵衛が、組んでほぐれずの格闘中、火のような衝撃をに右脇腹に感じた。暗闘の中味方の銃弾に倒れたのである。その場にいた西島吉右衛門が虎太郎を背負い退散した。又、この虎太郎の傷を手当した話が奈良の御所に多々残っており、虎太郎の血染めの弾痕が残る肌襦袢も残されている。それに虎太郎の負傷箇所についても目撃者の証言が残っている。

 半田門吉「横腹を七寸ほどうち通された」、伴林光平「胸脇より背後へ射貫けたり」、水郡英太郎「左腹をつらぬく」、西尾清右衛門「横腹から浅く盲貫」、神奈谷乾(天誅組残党)「銃丸左膝にあたる」、井南庄七(虎太郎をかついだ人足)「左の内またにその傷を見た」と、さまざまである。

8月27日(現在10月9日)

【大和日記】には『先陣ノ面々、昨夜五條へ泊陣セシモアリ、和田へ宿陣ノ輩モ之アリ、追々、天ノ辻へ引揚ゲ来タル』

 五條進発のときはゆうに1000人をこえていた兵力が、点呼をとってみると260人しかいない。高取勢が勝利に乗じて追撃してくるおそれがある。このまま五條に居ては危ない。忠光は、要害の地、天辻へ移った。直ちに籠城準備にかかった。

8月28日(現在10月10日)

【大和日記】には『同夕天ノ辻御発場、長殿村御宿陣』

 京都守護職松平肥後守容保は畿内諸藩に天誅組追討を命じる。命を受けた藩は次のとおりである。紀州藩(五十五万石)、津藩(三十二万石)、彦根藩(三十五万石)、膳所藩(六万石)、郡山藩(十五万石)、岸和田藩(五万石)、柳本藩(一万石)、小泉藩(一万石)、柳生藩(一万石)、芝村藩(一万石)、狭山藩(一万石)、高取藩(二万五千石)、尼崎藩(四万石)。石高あわせて百五十万石。十津川勢を除けば、わずか六十数名という天誅組に対して、この大動員は幕府がいかに周章狼狽したかを如実に物語っている。

8月29日(現在の10月11日)

【大和日記】には『長殿村滞陣御決策』

 和州浪士追討の幕命を受けた諸藩の出動ぶりは寝起きの牛のようにすこぶる緩 慢であった。最初の布達は5日前の24日に出されている。すなわち

 『浪士ていの者、大和 五條御代官鈴木源内陣屋を焼き払ひ、同人はじめ手代の者どもを殺害に及び候由につき、早々人数差し出し取り鎮めらるべし 尤も飛道具あひ用ひるも苦しからず候この段お達し申すべき旨肥後守(京都守護職松平容保)より申し聞かれ候こと 藤堂和泉守』

 2度目の追討令である。受けた諸藩は、津・郡山・高取・芝村・小泉・柳本,新庄,柳生の8藩である。どの藩もなかなか尻をあげない。すでに幕府は老いたる虎だった。牙は抜け、威厳は地に堕ちていた。

8月30日(現在10月12日)

【大和日記】には『御旗本勢バカリニテ長殿村御進発、風屋村へ御宿陣』

 この日もいろんなことがおこった。とりわけ、沢田実之助と横幕長兵衛、この二人の遭難事件は天誅組の余波というよりも、追討軍の血迷い騒動とみるべきであろう。ここでは横幕事件を取り上げよう。紀州勢のいる桜井寺へ変な浪人がやってきた。大将に会わせろ、という。横柄な態度だ。敵の間者がまだ、五條にひそんでいるかもしれない。怪しいとにらんだ。とにかく会って見て、それらしいと思ったら煙管を強くたたけ、と言うことになった。「お手前がた、何百人、いやさ、何千人も寄って何をしておられる。たかが千人ぐらいの天誅組が恐ろしいのでござるか。五十五万石が泣きますぞ。拙者を軍師にしてみられい。一日で片付けて見せますわい。」

 口角泡をとばす浪人の顔をみていて堀内、癇癪をおこし、思わず吐月峯をたたいた。息を殺して隠れていた紀州兵、どっと押し込んだ。不意をつかれて浪人、あえなくも、その場で斬殺されてしまった。しかし、調べてみると、この浪人は天誅組ではなかった。