和 歌 山
岡公園(陸奥宗光銅像・四役戦亡記念碑・長屋喜弥太顕彰碑)
陸奥宗光 銅像

 1844年(弘化元)生まれ。紀伊藩藩士。1858年(安政5)江戸に出て活動。1867年(慶応3年)海援隊に加わって活躍する。龍馬暗殺後、紀州藩士三浦休太郎を暗殺の黒幕と思い込み、海援隊の同志15人と共に彼の滞在する天満屋を襲撃する事件(天満屋事件)を起こしている。明治維新後は外国事務局御用係、兵庫県知事、神奈川県令などを歴任する。1878年(明治11)の西南戦争の際、土佐立志社の林有造・大江卓らが政府転覆を謀ったが、陸奥は土佐派と連絡を取り合っており、禁固5年の刑を受け、投獄された。

 1883年(明治16)出獄。ヨーロッパに留学。帰国後は外務省入省。駐米公使兼駐メキシコ公使として、メキシコとの間に、日本最初の対等条約を締結することに成功する。 帰国後、山縣有朋内閣の農商務大臣に就任。大臣在任中、足尾銅山鉱毒事件をめぐり、帝国議会で田中正造から質問趣意書を受けるが、質問の趣旨がわからないと回答を出す。第2次伊藤博文内閣の外務大臣に就任。イギリスとの間に日英通商航海条約を締結。幕末以来の不平等条約である治外法権の撤廃に成功する。伊藤と下関条約を調印。

 1897年(明治30)8月24日、肺結核のため療養先のハワイで死去。享年54歳。

四役戦亡記念碑

 岡公園山頂付近にある。四役とは、明治七年の佐賀の乱、台湾出兵以降、神風連の乱、西南戦争に至るまでの戦乱のこと。この戦で戦死した和歌山出身者の兵士は491名。この碑は明治12年に旧藩主徳川茂承らの発起によって建てられたもので、有栖川親王の筆による。隣に「四役戦亡記念碑側記」が建っている。

長屋喜弥太顕彰碑

 初代和歌山市長。長屋喜弥太は、1838(天保9)に紀伊藩家臣の家に生まれた。紀州藩御親兵に任じられると天誅組の鎮圧、長州征伐に従軍した。維新後も兵部省に出仕し、慶應義塾大学を出て私塾自修社を創立する。1880年(明治13)、旧藩主徳川茂承が主唱して士族支援のために徳義社が設立されると、その総代に選出された。明治22〜30年まで初代和歌山市長。1897年(明治30)、59歳にて死去。

アクセス 和歌山城南側に岡公園がある。SLが展示されている公園。
勝海舟寓居地
勝海舟寓居跡

 1863年(文久3)4月、海岸砲台検分のため勝海舟は和歌山へ来る。橋丁の清水平右衛門宅に滞在。この滞在先に石碑が建つ。滞在期間は数日で、和歌浦・加太間の30数カ所を検分した。

 坂本龍馬も4月10日に海舟を訪ねている。勝海舟の生涯でも最も多忙な時期であり、海舟がここに逗留したのはほんの数日だったという説と長期間だったという説がある。

 勝海舟と和歌山のつながり

 幕府は安政元年12月29日に、紀淡海峡は大阪を防衛する上で重要な地点ととらえ、対岸の淡路島の由良浜とともに、台場の新設を命じている。紀州藩はこの年の5月25日、大砲家佐々木浦右衛門に友が島砲台築造を命じたが、彼も台場築造の専門的な知識を持っておらず、台場が竣工するのは文久3年のことであった。海防巡検の一行の中に勝海舟もおり、加太浦を訪れたのはこうした事情によるものだった。勝は「此度御見分之大略」を上申した。それには嘉永6年に築造された加太浦海岸の台場を、「その位置を失い、多くは児戯に類して歎息に堪えず」と厳しい評価をしている。それは外国船が紀伊水道から大阪湾に侵入するのを防ぐのに、友が島以外にないと考えるからで、それにしてはあまりにも貧弱な防備であることを心配したからであろう。勝は大阪に対する加太浦を軍艦の建造地の候補にあげ、もしこの上申が採用されたならば、浦賀奉行に準ずる「加太奉行」を設置すると主張している。

アクセス  南海和歌山市駅の真正面の商店街を南東に5分ほど歩いた右手角に石碑が建っている。
海善寺(加納諸平墓)
加納諸平

 江戸時代後期の歌人・国学者。別名兄瓶。号は柿園。夏目甕麿の長男、加納伊竹の養子。遠江生。本居大平に師事する。歌壇の第一人者。著書に『類題和歌鰒玉集』『紀伊続風土記』等がある。

 幕末の国学者であり、紀州藩国学所総裁を勤めた。『紀伊続風土記(きいしょくふどき)』『紀伊国名所図会(きいのくにめいしょずえ)』の編者であり、また歌人としても有名であった。安政4年(1857)歿、52才。

 天誅組の伴林光平など多数の弟子がいる。

アクセス 和歌山市太田88 和歌山地方気象台前にある。
紀三井寺(佐々木只三郎源高城墓)

紀三井寺

 関西一の早咲き桜の名所として有名で西国二番札所。宝亀元年(770)、唐の僧為光上人によって開かれた。歴代藩主が訪れ,紀州徳川家の繁栄を祈願した寺。寺名の由来は三つの井戸「吉祥水」・「楊柳水」・「清浄水」から。

 231段の急な階段を上ると眼下に海が見える。この階段は一気に登った方がいい。途中で休憩するとかなり疲れます。

佐々木只三郎源高城墓

 231段を登りきった本堂の右手の石段を登り、墓地へ。登りきったところを左手にひたすら進むと右手の上の方に墓がある。

 幕末の幕臣。京都見廻組の与頭。会津藩士佐々木源八の三男として会津で生まれる。長兄は、会津公用人の手代木直右衛門。 1860年(万延元)江戸に出府。佐々木家の親戚に当たる旗本、佐々木矢太夫に養子入りし、その家督を継ぐ。幕府の命により清河八郎を殺害したほか、坂本龍馬・中岡慎太郎殺害の最有力候補ともされている。慶応4年1月6日、鳥羽伏見の戦いにおいて腰に被弾、紀州に運ばれたが、12日に亡くなった。享年36歳。

 昭和50年頃、作家の早乙女貢氏が会津へ改葬した。墓石はその後に再建されたようだ。会津の墓石は苔むしている。

アクセス 和歌山市紀三井寺1201
境橋の仇討ち
          
土佐藩士広井大六が安政2年に土佐藩の棚橋三郎に殺害された事件が発端。大六の息子の磐之助が17歳の時、仇討ちの免許を藩より得た。四国・九州・中国などを仇を求め、9年間仇討ちの旅が続いた。磐之助は龍馬にこの話をし、勝海舟を紹介された。勝は諸国の役人に協力を求める書状を渡した。それを懐中に入れ探索を続けた。棚橋が加太の砲台工事の人夫として働いていることを突き止めた磐之助は、勝に報告するが、不在だったが、紀伊藩に棚橋捕縛を要請した。加太砲台の工事指導者の勝の言い分に、直ちに役人が棚橋をとらえた。

 文久3年6月2日、棚橋は紀伊藩の役人に紀州街道の雄山峠の、紀伊と和泉の国境へ連行され追放された。磐之助の助太刀に、勝の命で、海軍操練所の佐藤与之助、勝塾の千屋寅之助、新宮馬之助が待ち受け、磐之助は本懐を遂げた。

 龍馬手帳に「見物の人、数百人といふ数を知らず、皆々高声を発して喜ぶ」とあり、乾十郎はその場面を絵で描いている。

アクセス JR阪和線山中渓駅から和歌山と大阪との県境に向かって歩くと左手に阪和自動車道高架下に石碑がある。正確には大阪側にある。
陸奥宗光生誕地
 1844年(弘化元)紀伊藩藩士伊達宗広と政子の六男として生まれる。生家は伊達騒動で知られる、伊達政宗の末子、伊達兵部宗勝の後裔と伝えられるが、実際は古くに陸奥伊達家から分家した駿河伊達家の子孫。伊達小二郎、陸奥陽之助と称する。学者としても知られていた父の影響で尊王攘夷思想を持つようになる。父は紀伊藩に仕え財政再建をなした重臣であったが、宗光が幼い頃に失脚したため恵まれない幼少時代を送った。その後の活躍は銅像で紹介。
アクセス 国道42号線小松原5丁目バス停前のUFJ銀行南和歌山出張所前に石碑がある。
和歌山城
 和歌山城は、戦国時代末期の1585(天正13)年3月、紀州を攻めて平定した羽柴秀吉が、藤堂高虎らに命じて自らの縄張りで築城したと伝えられている。その後、1600年(慶長5)の関ヶ原合戦で勝利を得た徳川家康は、浅野幸長を和歌山城主として甲斐国から入城させた。幸長は、石垣の積み替えや城郭の拡張を始め、天守や城門、櫓の建設を行い、今に残る和歌山城の基を作り上げた。

 1619年(元和5)、幸長に変わって徳川家康の十子頼宣が55万5千石の地領で和歌山城へ入城。以来幕末の第14代藩主茂承までのおよそ250年にわたって紀州藩主としておさめ、和歌山城がその藩政の中心となった。

 現在の和歌山城は、内堀で囲まれた内部の天守曲輪、本丸跡の虎伏山、その麓の二の丸、砂の丸、南の丸などの石垣が残されているが、当時の4分の1の区域。

 幕末に紀州藩は翻弄される。将軍継嗣問題で、大老井伊直弼は幼少の慶福(後の家茂)を14代将軍に。激動の時代の将軍として、激務が重なり、21歳で死去。

 紀州徳川家14代当主茂承は、第二次長州征伐で征長軍先鋒総督を勤める等、幕府を支えた。鳥羽伏見の戦いで敗走した旧幕軍将兵が藩内に逃げ込んだため、新政府の討伐を受けかけた。茂承は病を押し釈明し、叛く意志はないことを証明するため、藩兵を新政府軍に提供し、15万両もの献上金を差し出し、京都警備の一翼までもを担った。この努力で、和歌山藩の討伐を取りやめた。版籍奉還で和歌山藩知事となり、廃藩置県で東京に移住する。その後、窮乏しつつある士族を見て、「武士たる者は、政府の援助など当てにしてはならない。自らの力で自立するものだ」と、徳義社を設立して、窮乏する士族の援助育成に努めた。1906年、63歳で死去。

アクセス 和歌山城。これは案内なしでわかるでしょう。