護国寺

護国寺
          

徳川綱吉の母、桂昌院の発願によって天和元年(1681年)に創建された。開山は亮賢。本尊は如意輪観音。江戸三十三箇所観音霊場の第13番札所である。

近代以降は宮家の墓所(豊島ヶ岡御陵)が造られた。これは1873年(明治6年)、明治天皇の皇子の死去を機に護国寺境内の東半分が皇族墓地とされたものである。 また茶道の総本山としても有名である。

三条実美
三条実美

最後の太政大臣。官位は内大臣正一位大勲位公爵。尊王攘夷派の公家として国事御用掛となる。長州と密接な関係を持ち、姉小路公知と共に尊王攘夷激派の公卿として幕府に攘夷決行を求め、孝明天皇の大和行幸を企画。八月十八日の政変により朝廷を追放され、京都を逃れて長州へ逃れる(七卿落ち)。長州藩に匿われるが、大宰府へと移送され、3年間の幽閉生活を送った。王政復古で表舞台に復帰、成立した新政府で議定となる。右大臣、太政大臣、内大臣として生涯政権の中枢にあり続けた。征韓論をめぐる政府内での対立では、西郷隆盛らの征韓派と、岩倉具視や大久保利通らの征韓反対派の板ばさみになり、岩倉を代理とする。55歳。死の直前に正一位授与。その死後は、国葬が行われた。大正時代になって京都御所に隣接した三条邸跡の梨木神社に合祀された。

山県有朋
山県有朋

第3・9代内閣総理大臣。元老。元帥。萩藩の下級武士。久坂玄瑞の紹介で松下村塾で学ぶ。奇兵隊軍監、戊辰戦争では北陸道鎮撫総督・会津征討総督の参謀となった。維新後、軍制改革を行い、徴兵制導入。陸軍卿となり、参謀本部の設置、軍人勅諭の制定。内務卿となり、自由民権運動を弾圧するとともに、市制・町村制・府県制・郡制を制定した。内閣総理大臣に就任、元老となる。日清戦争や日露戦争では戦争遂行の指揮をとったが的外れのものが多く、日清戦争時は「天皇に軍情報告せよ」という名目で第一線から呼び返され。その死に際しては、維新の元勲として国葬が行われたが、参列したのは、陸軍や警察の関係者がほとんどで、一般の参列はあまりなかった。大隈重信の葬儀が国葬にならなかったにも拘らず、各界の著名人や一般参列者によってごった返すほどだったのに比べてもなんとも寂しいものであった。85歳。

山田顕義
山田顕義

陸軍軍人。萩藩士。藩校明倫館に学び、松下村塾に入門。普門寺塾で大村益次郎から西洋兵学を学ぶ。大田市之進、品川弥二郎らと御楯隊を創設し、軍監となり、四国連合艦隊、功山寺決起に参加。戊辰戦争では、仁和寺宮嘉彰征討総督の副参謀に任命。陸軍参謀兼海陸軍参謀として官軍を率い、東北諸藩との戦いや箱館戦争で勝利した。兵部大丞に就任。長州藩少参事兼任を命ぜられる。岩倉具視欧米使節団に兵部省理事官として随行。西南戦争において、別働第二旅団長として出征を命ぜられる。参議兼内務卿に就任。 司法卿兼参議に就任。日本法律学校(日本大学の前身)を創設。司法大臣就任。 但馬・生野銀山を視察中、事故死。49歳。

清岡公張
清岡公張

土佐藩士。安芸郡田野浦の郷士で野根山殉難二十三士の首領清岡道之助の弟。少壮時伊勢に遊学して経史を学んだ。上京して諸藩の志士と交わり、藩命により三条実美の衛士となり、8.18の政変で長州までお供した。禁門の変の時、上京して堺町御門に進んだが、敗れて天王山に退き、再び長州に走った。三条実美に従って太宰府に移り、王政復古により上京した。維新後、東山道鎮撫総督府大監察、甲斐府権判事、福島県・白河県権知事、二本松権令を勤め、司法省に出仕。元老院議官・宮内省図書頭・枢密顧問官を歴任した。61歳。

大隈重信
大隈重信

第8・17代内閣総理大臣。東京専門学校(のちの早稲田大学)の創立者。佐賀藩士。藩校弘道館で学ぶ。攘夷運動に奔走する。維新後、外国事務局判事に任ぜられた。金融行政にも携わった。地租改正などの改革に当たるとともに、殖産興業政策を推進した。征韓論には反対し、また自由民権運動に同情して国会開設意見書を提出して早期の憲法公布と国会の即時開設を説く一方、開拓使官有物払下げを巡りかつての盟友である伊藤博文ら薩長勢と対立、下野した後、立憲改進党を結成、東京専門学校を東京郊外の早稲田に開設した。板垣退助らと憲政党を結成し、内閣総理大臣を拝命、日本で初めての政党内閣を組閣した。「隈板内閣」(わいはん)である。しかし旧自由党と旧進歩党の間に対立が生じ、組閣からわずか4ヶ月後に内閣は総辞職した。南極探検隊後援会長への就任など、精力的に文化事業を展開した。84歳。

大倉喜八郎
大倉喜八郎

日本の実業家。中堅財閥である大倉財閥の設立者。明治・大正期の実業界の雄である。男爵。越後国新発田(現新潟県新発田市)出身。庶民からは“死の商人”と忌み嫌われたが、公共事業や教育事業には惜しみなく私財を投じた。 鹿鳴館、帝国ホテル、帝国劇場などを渋沢栄一らと共に、設立したことでも有名である。 現東京経済大学の前身である大倉商業学校の創設者でもある。

田中光顕
田中光顕

尊王攘夷運動に傾倒して武市道場に通い、土佐勤王党に参加。八月十八日の政変で弾圧されると、自宅謹慎処分を命じられる。脱藩し大坂や大和国に潜伏。やがて長州藩の高杉晋作と会って長州を頼り、中岡慎太郎の配下として働き、薩長同盟の成立に貢献。陸援隊が組織されると幹部となった。中岡が龍馬と共に暗殺されると、その現場に駆けつけて中岡から経緯を聞いた。中岡の死後、陸援隊の指揮官となって戊辰戦争を戦って活躍した。維新後は功労者の一人として昇進。陸軍省会計局長、陸軍少将、初代内閣書記官長(現在の内閣官房長官)、警視総監、元老院議員、宮内大臣などを歴任したが、収賄疑惑で周囲から非難を浴びて辞職を余儀なくされ、政界からも引退した。97歳。

南部利剛
南部利剛

盛岡藩主。兄の利義が父と不和となり、隠居の後を受けて嘉永2年藩主となった。生来温厚にて、藩政は全く家臣に任せ、安政の大地震で負傷してから身体的にも故障が多く、この間東条一堂らの利義擁立運動、嘉永6年の三閉伊通百姓一揆、勤王党と佐幕党の対立抗争等、結局家臣の任用を誤り朝敵となって、社稷を減ぜられ、隠居をやむなきに至り、信直以来の旧領を失うこととなった。71歳。

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