円通寺      荒川区南千住1-59-11

慶応4年(1868)5月15日上野の山内にて戦死した、彰義隊の遺体は「賊軍」がゆえ、戦場に散乱放置したままで在ったのを、円通寺二十三世「大禅佛磨大和尚」が、上野の山に出向き、斬首覚悟で供養していた。勿論、官軍に拘束されるが、幸いにも当寺に埋葬供養を許すという官許をとった。
 明治時代に唯一「賊軍」の法要が、おおっぴらに出来る寺として、旧幕臣の信仰を集める結果となった。
 「彰義隊戦死者」は義商「三河屋幸三郎」の助力をえて、現在の西郷銅像の後方にて火葬し遺骸266体を当寺に埋葬している。
黒門
上野戦争の激戦を物語る寛永寺黒門は、維新後に帝室博物館に収蔵されていたが、明治40年10月、彰義隊の戦死者を埋葬していた円通寺に下げ渡された。昭和61年に大規模な修理が行われた。
戦死墓
 旧幕臣の戦死者の供養に尽力した義商三河屋幸三郎が向島別宅に、鳥羽、伏見、函館、会津などの戦死者の氏名を彫って供養をしていたものを官許のある円通寺に移築する事により、彰義隊と合わせて供養が出来ることになったという。昭和58年日荒川区史跡に登録

(左側)

松平鉄五郎、大舘昇一郎、石川春十郎、市川寅五郎、笹間金八、三好源七郎、吉永徳太郎、戸井田源之丞、三宅與茂七、藍葉老之丞、大野吉之助、塩田又五郎、蟹江錦之助、風間駒吉、藤野伊之助、新嶋楮之助、中村鋳三郎、大谷栄治郎、栃堀休二郎、林一弥、金井弥一郎、福嶋鐘吉、遠山鐘五郎、藤井銹三郎、三宅八五郎、横田祐三郎、諏訪部信五郎、狩谷秀蔵、本山小太郎、忠内次郎三、吉沢文五郎、古橋丁蔵、金井米蔵、古屋作左衛門、永井堂之介、奥山八十八、春日左衛門、大岡幸次郎、石井楳太郎、川島金治郎、

(裏側)

慶応戊辰之夏於野州日光山下戦没
高林磯次郎、杉江誠一郎、高木詮之助、吉沢鎌五郎、平山弥三郎

翌己巳之夏於奥州宮古及箱館戦没
土方歳三、甲賀源吉、中島三郎助、伊庭八郎、鈴木蕃之助、内田量太郎、杉山敬次郎、高木鐘次郎、塚本禄輔、大塚浪次郎

(右側)

佐久間近江守、窪田伊勢守、近藤勇、松村五郎、大野新太郎、菅野三五郎、松岡岩吉、南條武蔵之助、岡田斧吉、木下海蔵、諏訪常吉、石井八弥、榊原只太郎、矢作平三郎、森田貫助、松平五左衛門、中田納助、宮地仙之助、小笠原新太郎、佐久間貞二、渥美三平、野村理三郎、長尾八郎、設楽範助、小野又治郎、春日辨茂、長谷川得蔵、酒井兼五郎、塩嶋松太郎、稲村性治郎、大沢精一郎、杉本浪江、磯田庄蔵、中嶋恒太郎、酒井□(金篇に扇)太郎、筒井専一郎、新宮勇、和多田貢、関口有之助、神木隊二十八名

戦死墓(彰義隊士墓)
慶応4年(1868)5月15日、上野東臺の戊辰戦争で戦死し放置されていた多数の彰義隊士の遺体を当時の円通寺の住職仏麿和尚と寛永寺御用商人三河屋幸三郎・新門辰五郎が集めて遺骸266体を上野山内にて荼毘(下町篇上野戦士之墓)に附し円通寺に埋葬した。明治37年5月15日に榎本武揚によって建てられた。墓碑銘も榎本の書。
天野君八郎碑
天野八郎墓
正二位勲一等子爵榎本公追弔碑
彰義隊頭並。農家に生まれ幕臣の広浜家の養子になる。慶応4年彰義隊が結成されると副長格の頭並に就任。渋沢成一郎脱退後は隊長として指揮した。捕らえられ慶応4年11月8日、日比谷の牢内で病死。38歳。

日比谷の牢内で病死後、小塚原に埋葬され、3年後に同志がその場所に墓碑を建てた。明治23年遺族によって円通寺に改葬されその時にこの碑を建てた。題字は榎本武揚。

明治41年10月26日に没した。翌年2月に有志によって建てられた。

荒井郁之助君追弔碑
大澤常正の句碑
彰義隊士八人合同慰霊碑

明治42年7月19日に没した後、翌年1月に建てられた。

「さがるほど 見あげる人や ふぢの花」 明治時代の弁護士で、維新後の彰義隊に関する世話人をつとめた。

「合同舩」と題された彰義隊士8人の合同慰霊碑。
 右から上段に山田八郎(遊軍隊組頭のちの16番隊組頭)、松本義房(第三青隊隊長のち三番態組頭)、大塚嘉久治(第二白隊隊長のち頭取並)、小林一知、下段に西村賢八郎(18番隊組頭)、前野利正(第一赤隊伍長)、羽山寛一、百井求之助(会計係)の名が刻まれている。

正二位勲一等男爵大鳥圭介君追弔碑
彰義隊八番隊長木下福治郎
彰義隊遊撃隊長鷹羽玄道追悼碑
小芝長之助墓
明治44年6月15日に没した。7月に有志によって建てられた。

木下福治郎・鷹羽玄道は兄弟で、兄の木下は彰義隊第二青隊隊長、八番隊組頭をつとめ、弟の鷹羽は本営詰組頭などつとめ、二人とも箱館まで転戦している。木下は明治13年1月16日に42歳で没し、鷹羽は明治44年6月6日に69歳で生涯を閉じた。この追悼碑は鷹羽の娘・登宇によって建てられた。

箱館市中取締頭取格をつとめた。土方歳三戦死の折には、五稜郭からその遺体を引き取りに行った。維新後は円通寺の墓守を生涯の仕事として続けた。大正5年9月2日に88歳で没。
彰義隊後藤鉄次郎追吊碑
佐野豊三郎墓
佐久間貞一君記念之松
御書院番をつとめ、彰義隊に入隊。慶応4年5月15日、上野戦争で戦死した。実弟の後藤鉄郎が建てた。

彰義隊士。上野戦争で敗走後、箱館に渡る。しかし箱館市中で隊名を騙って借金に及び、これを彰義隊頭取の大塚霍之丞(嘉久治)に責められ、明治元年12月27日に切腹した。佐野の介錯をした鷹羽玄道らによって明治29年6月に建立された。

彰義隊に入隊したが、水戸蟄居の徳川慶喜に同行したため、上野戦争には参加しなかった。明治以降は政財界で活躍し印刷所秀英舎を設立。のちの大日本印刷の創業者となる。明治33年5月13日建立。
澤太郎左衛門君記念之松
新門辰五郎碑
南無妙法蓮華経為戦死人
明治31年5月に65歳で没した。翌年の4月に建立された。

町火消組頭。明治8年9月に76歳で没。上野戦争では鉄砲よけの米俵を運搬した。

上野戦争で亡くなった彰義隊士を弔うために建立されたと思われる。墓碑裏面に「慶応4辰年5月15日 明治4辛未5月建立 駒込住 酒井八右エ門」とある。

相馬翁輔君之碑
高松凌雲君追弔碑
土肥庄次郎之碑
彰義隊士。慶応4年3月、結城城攻略に支援部隊として参加。その際、古河藩から大砲を借り入れる役目を果たした。しかし、古河藩の方針が一変し、4月5日、同藩兵の手で殺害された。彰義隊戦死者第一号となった。
五稜郭の戦いでは箱館病院頭取をつとめ、新政府軍の信頼厚く、戦争終結のため尽力した。大正5年10月12日、上野の自邸で没。翌年の5月に追悼碑が建立された。

長子であったが生来の放蕩で廃嫡となった。武芸に熱心。弟とともに彰義隊に入隊。第一赤隊の隊外応接掛として諜報活動を行った。維新後は吉原の幇間・松廼舎露八(まつのやろはち)とし名をはせた。明治36年11月に71歳で没。

中田正廣之碑
永井尚志君 永井岩之丞君追弔碑
二十三世仏磨大和尚之墓
旧幕臣。慶応4年3月に江戸を脱走。4月8日上総木更津で戦死。33歳。明治33年4月に建立。書は榎本武揚。
永井尚志は明治24年7月1日に76歳で没。岩之丞は息子(大審院判事などつとめ明治40年5月25日に63歳で没)の追悼碑。
円通寺23世住職。上野戦争後、野ざらしとなっていた彰義隊士の死骸を弔った。そのため新政府軍に捕らえられた。拘束後、改めて埋葬許可をとり三河屋幸三郎とともに、遺体を上野山で火葬にし、遺骨を円通寺に持ち帰り葬った。その後も旧幕臣の生活苦に援助を惜しまなかった。明治25年1月66歳で没。
町野五八君追弔碑
松平太郎君墓
樵村丸毛君碑

堀覚之助の名で箱館戦争に参戦した。維新後は旧幕府の復権に尽くし、大正5年3月8日に没した。碑は5月に建立された。

維新後は官職につかず、明治42年5月24日に伊豆で71歳の生涯を閉じた。円通寺に墓が建立されたが、その後文京区の大林寺に移転した。
彰義隊では第二白隊伍長、本営詰組頭をつとめた。維新後は横浜税関の官吏や横浜毎日新聞の記者として働いた。明治38年8月6日に56歳で没した。明治40年8月に建立され、題字は榎本武揚が書いた。
三幸翁之碑
有縁諸霊之碑
良馬之碑

義侠心に厚く仏磨和尚とともに彰義隊士の埋葬に尽力した。明治23年5月に建立された。

彰義隊士の霊を弔ったものと思われる。大正9年4月15日、二世桝屋によって建立された。
陸奥下手渡藩主の立花種恭から八重垣という名馬が彰義隊に下された。この名馬も殺害された。明治32年5月に建立。
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