日光市

回向庵(土佐藩戦死墓・佐賀藩兵戦死墓)
          
今市攻防戦で亡くなった土佐藩士と佐賀藩士の官修墓がある。佐賀藩は6月下旬に土佐藩と交替で今市に入った。土佐藩士10名、佐賀藩士18名。
アクセス 日光市瀬川145
和尚塚(無名戦士墓)
日光街道沿いに「無名戦士の墓」がある。
和尚塚とも呼ばれ、会津藩士が埋葬されたといわれている。
今市攻防戦での会津藩士戦死者は約100名ともいわれ、20数名の遺体を付近の住民が埋葬した。
また下木戸に晒された首級(16とも27とも)を葬ったともいわれている。
アクセス 国道119号線 今市市役所前を北上し、小林歯科とゼネラル石油の間、右手にある。(2007年6月現在)
如来寺(戊辰戦死者供養塔)
          
 山門にある供養塔は、大正6年、戊辰戦争50年に今市町の有志が建立した。政府軍・旧幕府軍・会津軍・住民を問わず、戦争でなくなった人々の冥福を祈っている。
アクセス 日光市今市710
法蔵寺(戦災で焼けた樫の木)
 法蔵寺のある旧大桑村は日光参りのための御三家の本陣や、宿屋、茶屋、造り酒屋などある村であった。
 慶応4年閏4月19日、5月7日、8日と3回、土佐藩兵の焼き討ちにあい、64戸中60戸が戦火に見舞われた。
 法蔵寺も山門を除き焼けてしまった。その時の火焔の跡が、樫の木に残っている。
アクセス 日光市大桑町270
明静寺(阿久津安之助墓)
「北関東戊辰戦争」に
今市攻防戦のころ、東西両軍の中間地帯であった瀬尾村に会津兵士がきて、「若者を従軍させよ。さもなくば村を焼く」と村人を脅した。
 村では一同相談の上、安之助ら3人の若者を差し出し焼き討ちをまぬがれたが、若者達は会津まで同行し、安之助はそこで戦死した。
 遺族は、同僚が持ち帰った遺髪と小刀を埋めて村惣代という墓を建てた。
阿久津安之助は 明治元辰年10月6日卒 忠運全恵清信士霊位
「会津軍行村惣代死安之助」と墓碑に刻まれている。
アクセス 日光市瀬尾791
来迎寺(斎藤嘉平墓)
 明治元年7月26日、旧幕府軍に兵糧を提供したため斬首された森友村名主斎藤嘉平の墓がある。
アクセス 日光市森友1116
弾痕のある墓石
          
          
 大桑・柄倉の戦いでは、中間地点の栗原も激戦地になった。旧幕府軍は「正兵」(伝習隊)と「奇兵」(猟師鉄砲隊)が連携を取り策略を用いながら土佐藩兵を攻めた。山上より狙い撃ちする猟師鉄砲隊が活躍した。
 栗原地区北側山裾にある墓地に直径5センチの弾痕が墓碑に残っている。
アクセス 国道121号線栗原交差点角にあるウェスタン村を左手に見て、栗原公民館近くに車を置き、北に見える山の手前の道を歩くと右上写真が墓地へはいる入口が見える。なかなか探しにくい。
大草保助墓・広田太郎墓

 大草保助、広田太郎は宇都宮城の攻防戦で戦死した旧幕臣。旧幕府軍陸軍士官兼軍監だった。旧知の高野熊之助が建立した。

アクセス 日光市野口と七里の境界付近 野口小学校付近。国道119号線沿いの日光東照宮に向かって右手にある。
板垣退助銅像
 日光を戦火から救った恩人として、昭和4年に建てられた。総督府参謀だった板垣は旧幕府軍に日光を戦場に巻き込むなと話し合い、旧幕府軍がこの地から退却したとある。
 板垣退助一人の尽力ではなく、様々な事情と思惑と、たくさんの人が動いた結果、こうなったのであると歴史書に書かれている。
      
アクセス 日光の神橋脇 金谷ホテル入口
砲弾杉
          
 土佐藩と旧幕府軍は、旧今市市と旧日光市の境界で行われた。現在の日光街道下瀬川・和泉みちの交差点に位置し、瀬川十文字とか野口十文字と呼ばれている。街道はここで緩やかに曲がるため、前進する新政府軍を防ぐには格好の場所となった。この付近の杉並木には砲弾が命中した痕跡が残っている。
アクセス 日光市和泉 国道119号線を日光に向かい、上今市駅を通り越し瀬川のバス停を越え、昭和シェルのGSを越えて、すぐにホンダプリモの販売店がある。ちょうどその販売店の付近の杉並木の旧街道にある。(2007年6月現在)
龍蔵寺下寺十王堂(臼井清左衛門墓)
 臼井清左衛門は土佐軍に属した断金隊の一員。板垣退助が甲府入城の時、地元民への協力を呼びかけた。その際に民心を掌握するため、「武田信玄に仕えた板垣信方の子孫だ」として、姓を乾から板垣に改名した。
 その甲州で住民を組織したのが「断金隊」である。隊長は美正貫一郎で専ら情報収集が任務であった。
 臼井は天然理心流を学び旧幕府誠忠隊に入った。しかし江戸で断金隊結成を聞き入隊。板垣から隊外探索の任を与えられ、誠忠隊に留まり敵の情報を流させた。4月29日、今市の土佐藩本営に大鳥軍の動向を報告、日光に戻る途中、捕らえられ殺害された。墓は尾崎行正(尾崎行雄の父)が凱旋の帰路に建てた。
アクセス 日光市日光 日光消防署南側山手 志渡渕川を渡ったところ 寺もわかりにくいが、墓の位置もわかりにくい。墓石横にある白の木碑を目印に探してください。
日光奉行所跡
日光奉行所が置かれていた場所を示す石碑
アクセス 国道120号線 日光東照宮南側 国道沿いにあるのでわかりやすい
陣地跡(鬼怒川公園)
         
会津藩陣地跡
          
鬼怒川戊辰公園
         
鬼怒川維新公園                            塹壕跡
          
小原激戦地  弾除けの松
 慶応4年6月26日、会津・幕府軍は伝習歩兵部隊・草風隊・会津藩。戦場となった小原沢はモウキ山が鬼怒川に突き出たところで、通行には難所の一つであった。会津幕府軍を追撃する新政府軍が難所を越え、上り坂になっている切り通しを通行すると、小高い丘から、会津幕府軍は一斉射撃をした。現在も溝型の塹壕が残っている。
小原沢殉難碑
 慶応4年6月25日の藤原の戦いで戦死した新政府軍・会津幕府軍双方の兵士を供養した殉難碑。昭和56年建立。会津・幕府軍10名、新政府軍26名の名前が刻まれている。
アクセス  東武鬼怒川線 鬼怒川公園駅下車 鬼怒川戊辰公園内
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