足利市

弾痕の松

梁田戦争の衝撃を語る弾痕の松
この松は当時「中田屋」という旅館があった。庭の松に砲弾が突き刺さったという。
梁田小学校に寄贈され、校庭内の招魂社に移植されたが、昭和48年に梁田公民館敷地内に招魂社と共に植え替えられた。
弾痕にはセメントを詰めている。
梁田公民館には「弾痕の柱」も残っている。明保乃屋の大黒柱で昭和59年に取り壊された。その一部が公民館に寄贈され展示されている。

アクセス 足利市福富町398番地2
祟聖寺(柳田勝太郎墓)
会津藩士柳田勝太郎墓碑
旧幕府軍の衝鋒隊軍監で、梁田の戦いで銃創を受け戦死した。享年34歳。
彼の首を部下が付近の農民に埋葬の依頼をし立ち去った。
明治になって父が首を探し当て、当地に改葬した。
勝太郎の娘が「明治戊辰梁田戦跡史」を読んで墓の場所を確認し、大正14年に墓碑を建立した。
「そよと吹く 風のたよりを聞くならば 花はみやこに散るとこそ知れ」
アクセス 足利市松田町1235
自性寺(戊辰戦争幕軍之墓)
          
 下渋垂村で戦死した旧幕府軍兵士を、村人が当地に埋葬した。碑の建立年月は不明。現在は寺の入口にある。
アクセス 足利市大前町1342
長福寺(戦死塚・明治戊辰梁田役東軍戦死者追悼碑・衝鋒隊戦死塚)
          
明治戊辰梁田役東軍戦死者追悼碑
裏面に 大正13年9月 当時従軍衝鋒隊士 従四位勲三等内田万次郎建之」とあり、他に尽力した人の名が刻まれている。
内田万次郎は父と共に従軍し、15歳で五稜郭落城。薩摩藩預かりとなり、大蔵省印刷局に勤めた。
梁田戦争 戦死塚
当時、地元民が渡良瀬川堤防脇の砂地に埋葬した。64名の旧幕府軍兵士が埋葬されている。
洪水で塚の一部がえぐられたので、旧薩摩藩士樺山資紀の後押しで、明治43年碑を星宮神宮東に移し、遺骨か長福寺に改葬した。
碑も昭和6年当地に移築された。
アクセス 足利市梁田町540
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