守山・愛荘

【守山】殉難国士古高君碑

 文政12年(1829年)生まれ。近江国栗太郡古高村(現・守山市)の郷士の子。変名・湯浅喜右衛門。梅田雲浜の門下生。文久2年8月に薪商を営んでいた升屋喜右衛門が亡くなり、古高は養子となって升屋を継いだ。早くから宮部鼎蔵らと交流し、長州間者の大元締として情報活動と武器調達にあたった。

 元治元年4月以降、多数の長州人が入京している情報をつかんだ新選組は6月5日早朝武田観柳斎ら8人が升屋喜右衛門を捕縛。屯所に連行し、旧前川邸の土蔵で拷問すると計画が暴露。

 長州藩士が多数入京していることや、風の強い日を選び、御所に火を放ち、中川宮、松平容保を襲撃し、天皇を長州へ連れ去る計画を白状した。升屋の土蔵には武器弾薬が隠してあり、具足や火薬を押収する。その中には不穏な文字が書かれた文書が発見される。近藤勇は会津藩本陣に報告し、松平容保は禁裏守衛総督の一橋慶喜、京都所司代で桑名藩主松平定敬と打合せ、夕方に祇園会所に集結することにした。

【守山】古高俊太郎生誕地
守山市立守山女子高校の西側に「焔魔堂」のバス停がある。その付記人にカーシャワーランドがある。その前にある。わかりにくいかもしれませんが、案内碑の横の道を北西方向に向かうと顕彰碑がある。写真の水路を先に向かう。「古高俊太郎誕生地 此の西一粁」
【愛荘】金剛輪寺(赤報隊結成地)
          
 赤報隊の首領、相楽総三は天保10年(1839)生まれ。本名、小島四郎左衛門将満。
 関東方面の各義勇軍に参加し、元治元年(1864年)の天狗党の乱にも参戦。その後、西郷隆盛、大久保利通らと交流を持ち、慶応3年(1867)、西郷の命を受けて、江戸近辺の倒幕運動に加わった。総三らがやったことは、江戸市中に火を放ち略奪や暴行をくりかえした。これは大政奉還によって徳川家を武力討伐するための大義名分を失った薩長が、江戸の幕臣たちを挑発し、戦端を開く口実とするためであった。西郷の策は上手くいき、屯所を襲撃された庄内藩が薩摩藩邸を焼き討ちする。これが、鳥羽・伏見の戦いのきっかけとなった。
慶応4年(1868)1月、戊辰戦争が勃発すると赤報隊を組織して東山道軍先鋒として活躍。新政府軍に年貢半減令の建白書を提出して認められたため、同令を掲げて進軍するが、新政府軍の方針変更によって赤報隊が偽官軍とされ、相楽は捕縛される。手を下したのは官軍参謀、進藤帯刀である。
同年3月、下諏訪にて処刑。享年30。妻の照はこれを聞き、息子の河次郎を総三の姉に託し、総三の後を追って自殺したという。後に総三の首級は地元出身の国学者で総三とも親交があった飯田武郷の手によって盗み出され、秘かに葬られた。
明治3年(1870)、同地に相楽塚(魁塚)が建立された。孫の木村亀太郎の努力により名誉が回復され、昭和3年(1928)に正五位が贈られる。
アクセス 愛知郡愛荘町松尾寺874
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