彦  根

天寧寺(五百羅漢像、井伊大老供養塔、長野主膳の墓、たか女の碑)
五百羅漢が有名。「必ず逢いたい人の顔が見つかる」という伝説をもつ五百羅漢がずらりと並ぶ様はまさに壮観。

山門脇には井伊直弼の供養塔が建てられ、桜田門外で襲撃された際の「血染めの座布団」が納められています。また長野主膳、村山たか女の碑もある。

写真左上が井伊直弼の供養塔 中は長野主膳墓 右は村山たか供養塔 左下は直弼妻の供養塔

アクセス 彦根市里根町232
埋木舎
井伊直弼が青春時代を過ごした舎。14男という立場上、藩の掟に従いわずか300俵の捨て扶持で17歳から32歳までを過ごしたところ。

「世の中をよそに見つつも埋もれ木の埋もれておらむ心なき身は」と直弼は和歌を詠み、自ら「埋木舎」と名付け、文武両道の修練に励んだ。徳川幕府の大老として開国の父となった才能は、ここで培われた。

アクセス 彦根市尾松町
「花の生涯」記念碑
舟橋聖一の小説「花の生涯」記念碑 1963年にNHK大河ドラマがスタートした。その第一回目の作品が「花の生涯」である。それを記念して建てられている。
アクセス 井伊直弼銅像付近にある
井伊直弼大老像
          
開国の英雄井伊直弼は、11代藩主直中の14男として生まれた。安政5年(1858)4月、幕府の大老となった直弼は6月「日米友好通商条約」に調印して開国を断行した。反対派を粛清した「安政の大獄」により、反発した水戸浪士らによって、万延元年(1860)3月3日桜田門外で春雪に血を染めて横死した。46歳。

 この銅像は、最後の官職だった正四位上左近衛中将の正装をうつしたもの。

アクセス 彦根城内にある
彦根城天守閣
井伊直政は、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの後、その軍功により18万石にて近江国北東部に封ぜられ、西軍指揮官・石田三成の居城であった佐和山城に入城した。しかし、三成の居城であったことを嫌い、琵琶湖に浮かぶ彦根山(金亀山、現在の彦根城の場所)に彦根城の建設を決め慶長8年から4年の歳月をかけて完成した。

長浜城・佐和山城・大津城など近隣の城の遺材を転用した。特に天守は 4層の大津城天守を3層に縮小して移築したといわれている。

アクセス わかるでしょう
長野主膳幽閉地(牢屋跡)
1860年、直弼が桜田門外の変で暗殺された後も彦根藩の藩政に参与したが、直弼の後を継いだ井伊直憲からは疎まれ、しかも家老・岡本半介に直弼時代の功罪などを暴かれ対立する。そして1862年、半介の讒訴を聞き入れた直憲によって斬罪に処された。享年48。

直弼が安政の大獄を行なったのは、主膳が進言したことが要因になったと言われている。直弼という強力な後ろ盾を失った時点で、主膳は命運が尽きていたのかもしれない。

アクセス 彦根市本町3丁目
長野主膳屋敷跡
長野主膳は嘉永6年(1853)6月19日に彦根城下の立花町に居を構えた。妻のたきや下僕も住まわせた。井伊直弼の埋木舎からも近いため親交を更に深めていくことになる。

その後、主膳は多忙になり、京都や江戸へ度々向かうが、江戸滞在中に、妻のたきはここで病没した。

現在は門だけ残されており、石碑も建っている。

アクセス 彦根市松原町 船町交差点北東あたり
清涼寺(井伊大老所縁 参禅道場)
佐和山山麓にあり、初代藩主井伊直政の墓所として2代藩主直孝が建立した。井伊家歴代の菩提寺であり、井伊直弼が参禅修行した寺でもある。井伊家が、石田三成と戦死者の供養のため、三成の重臣島左近の邸宅跡に建設した。
アクセス 彦根市古沢町1104
龍潭寺(文塚・井伊直弼母墓)
井伊直孝の建立による禅寺。「ふだらくの庭」で有名。境内には石田三成の銅像もある。

直弼の母富の方(彦根御前)の墓や、側室であった里和の文塚がある。

アクセス 彦根市古沢町1104
井伊神社(正二位井伊直憲公髪塚)
          
 天保13年(1842)に彦根藩12代藩主井伊直亮が、井伊家の始祖井伊共保の750回忌にあたり、井伊谷(現静岡県)八幡宮から井伊大明神を分霊して神像を造り、龍潭寺の参道脇に祀ったのがはじめとされます。また、彦根藩初代藩主直政・彦根藩2代藩主直孝も祀られています。
アクセス 龍潭寺の北側にある
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