東吉野村

湯之谷墓地
     
 この墓地に眠っていない人がいる。森下儀之助は翌年京都六角獄舎にて刑死している。しかし弟の幾馬がこの墓地に眠っているので、地元の人々の気持ちで兄弟一緒に眠ることになった。
 写真右は天誅組顕彰の第一人者。この方の努力があったから、現在の天誅組顕彰があるといっても過言ではない。詳しく天誅組顕彰の動きをご覧下さい。
藤本鉄石・福浦元吉戦死の地 紀州藩本陣(日裏屋)跡
                   
藤本鉄石・福浦元吉戦死之地碑                                紀州藩本陣跡

 藤本鉄石は、三総裁のなかで、もっとも壮絶な戦いを演じて死んだ。
 かれが、松本奎堂とともに松本清兵衛の家を出て、御殿越しの間道から伊勢街道(国道166号線)をめざした。はじめは奎堂と一緒だったが、間道をたどるうちに、駕籠の奎堂の方が徐々に遅れ出した。奎堂が、峠の地蔵堂の前まできたとき、鉄石の方は一足早くここを通過して、伊勢街道への間道を下っていた。鉄石は奎堂が地蔵堂の前で駕籠かきの人夫に逃げられたことを知らない。
 鉄石がたどった間道は峠の地蔵堂の前から員の谷という谷伝いに、上鷲家へ抜ける道だった。鉄石は側近の福浦元吉を伴ってここを下り、鷲家の中心部から東約1kの通称岩本谷という所に出た。
 しかし、すでに和歌山藩の兵がいて、街道筋を厳しく見張っていた。これは同藩鉄砲方松村六左衛門の手のもので、10数人はいたらしい。鉄石らはすばやく、そばの林に隠れたが、和歌山兵もそれと気付き、全員で手分けして、山捜しを始めた。
 鉄石らは、紀州藩士的場喜一郎を倒した。が、そのために包囲の輪を狭められ、無事にこの場を逃れ去ることは、もう絶望となった。どうせ駄目なら、いっそのこと・・・と腹を決めたのだろう。伊勢街道を東へ逃れる計画を断念し、西へ突っ走って、和歌山藩の本陣に斬り込んだのだ。

 二人が的場を倒した岩本谷から西へ約1k、鷲家の街中には、庄屋辻四郎三郎の家と、旅宿日裏屋が軒を並べている。和歌山勢は、辻の家を本陣にして、家老の山高左近が陣取り、日裏屋を脇本陣にして軍役方頭取、金沢弥右衛門が陣取っていた。鉄石と福浦元吉は、手前の日裏屋に突っ込んだのだった。
 数十人の兵が屯する脇本陣に斬り込んで、2人がどんな働きをしたか。それは和歌山藩の記録『二十五日未中刻頃、和州鷲家村金沢弥右衛門旅宿にて一揆総裁藤本津之助ならびに下人共討留候次第左之通』【南紀徳川史】にくわしい。文章は少々くどいが、現場の雰囲気を識るのにいいと思われるので、紹介しておこう。

『山内探索鉄砲方等にて、打ちもらし候や。一揆方の両人、刀を振り回し、声をかけ村内へ向け駈け来る、と呼ばある声に、弥右衛門家来はもちろん、同宿にあり合う面々、残らず身構えをする間に、一揆方下人と見え候者、両刀を車輪の如く振り回し、先に立ち、主人津之助もろとも瞋り切って駈け来るを、弥右衛門の家来阪部甚蔵、四、五間ばかり進んで鉄砲打ち掛け候処、人家の軒下へいったん披き、直ちに甚蔵見掛けて打ってかかるを、同人、鉄砲を投げ捨て、傍に居り候仁の槍を取り、立ち合い、一卜手突っ込み候えども、最早追られ、向うより打つ太刀に浅手負い候程に、槍を取り落し、少し後へ披き候節、右下人体の者、自分の脇差を投げ捨て、槍を片手へ拾い取る処を、立花隆斎出合い、浅手負い、これまた少し傍へ披く折節、弥右衛門家来高田熊助、鉄砲打ち掛け候えども、一揆主従両人、稲妻の如く駈け回り、打ちとめかね候うち、両人共旅宿へ駈け込み、津之助は旅宿に所持の長押に掛けたる槍を手早く取り、主従必死に相働き、弥右衛門見掛けて討ってかからんとするを、一同一時に突き立て、下人は刀を真向うにかざし、声をかけ、すでに二階に上らんとするとき、奥村立蔵、上より槍を突っかけ、下より支え候筋もこれあり、段階子上りかね、両人またまた奥庭へ駈け回る。下人の真向うを、梶川三十郎、槍にて一突きに当て、主人津之助は、以前の槍にて林楠之丞見掛け突きかかり候処、楠之丞浅手負い候まま、槍をひったくる。二階の屋根より寺社方陸尺利右衛門、瓦を投げかくる。津之助座敷ヘ飛び上り、なお駈け回る処を、川上七郎家来、花光伊右衛門、駈け来りて槍を合わす。続いて甚蔵、左へ回り、刀を以て左の顎より肩へ七、八寸斬り下げ、津之助たまり得ず、そのまま座敷ヘ斃る。下人は外へ駈け出んとするとき、瀬戸八十輔組み付き、浅手負い、なお挑み合い候処ヘ川上七郎駈け付け、大身槍にて突きとめる。敵はわずかに二人に候えども、不意に駈け込み侯ことにつき、其の場に居合わせ、かつ聞きつけ、駈けつけ候面々、いずれも槍太刀を合わせ、鉄砲打ち立て候者も、外に数人これあり候事。』

 結果、4人に傷を与え、鉄石、元吉ともに討ち死したが、このすさまじい戦闘ぶりはどうであろう。数十人の敵を相手に、これほどみごとに戦って死んだ例は、天誅組には他にない。しかも鉄石48歳、元吉35歳だったというのだからおどろく。
 戦死の時刻は、さきの記録の標題に「十五日未中刻頃」つまり午後3時ごろとあるが、前後の事情から推して、もう少し遅く、奎堂戦死の時刻と前後するのではないか、と思われる。
 鉄石の死後、遺体を検証すると、懐から金35両3分や天誅組の軍令、誓いなどとともに、次の文書が出てきた。

  • 第一神祇を崇敬し、余道に迷うべからず。神は天地を造化し、万物を産出給いし大主本に在せば、昼夜朝暮尊奉し、念に任じ、非礼の振舞あるべからざる事。
  • 主上者一天四海の主宰にて、即皇祖天神の御血統に在せば、弥増その御聖恩を仰ぎ奉り、四民各々神国の古風を守、其の職業に尽力し、年々祭典、朝貢油断なく相勤むべき事。
  • 父母者其身之為に神祖なれば、神祇を敬すると同じ心得を以て孝養を患るべからず。併せて愚子、兄弟、奴僕の末々まで、ことごとく皇祖天神之賜物なれば、軽率暴怠の振舞なく、懇ろに教諭を加え召使うべき事。
  • 賊徒近来、天聴を壅閉し、おのが奸意を以て勅諚と偽り、夷狄に詔びつかえ、忠良を刈尽さんとす。名有って実なし。国家の蠧、夷敵の奴と云うべし。故に賊徒等称する所は皆非也。速に悔悟降参し、賊を去って義挙に従うべし。元来御民の事なれば、決して御粗略これあるべからざる事。

           九月                               上下一心同力

 端的にいって、これは鉄石の理念であるとともに、天誅組の信条そのものでもあった。
 先述した和歌出藩の記録のつづきの部分を紹介しておこう。

『津之助儀、弥右衛門旅宿へ切込候節、弥右衛門は何れへ罷り越し候や、相見えず。共の後、津之助主従討取り、弥右衛門を相尋ね候処、同人、旅宿の後ろに宮これあり。右ほこらの内に隠れ居り、真青に成り、出で来り候由。』

 和歌山藩の副隊長、金沢弥右衛門は、日裏屋の裏座敷から、小川に飛び下り、川向うの八幡神社の祠に逃げ込んで震えていた。隣の本陣にいた総大将の山高左近も、同じように逃げこんでいたという。そして2人は、翌26日、山狩りをする他藩勢を尻目に、逃げるように鷲家を去った。

竜泉寺
          
左 藤本津之助(鉄石)、松本謙三郎(奎堂)、福浦元吉、村上萬吉、森下儀之助、的場喜一郎 菩提寺  右 的場喜一郎墓
藤本鉄石歌碑

雲をふみ 岩をさくみし もののふの よろひの袖に紅葉かつちる

的場喜一郎戦死の地
 紀州藩軍役方頭取、金沢弥右衛門の藩への報告によると、賊が逃げ込んだ山中を調べたところ、具足一領と荷物一荷が放置されてあるのをみつけた。そこで付近を捜索中、隊から離れて、一人で林中を検めていた銃手の的場喜一郎が、街道近くの草地で、賊2人と遭遇した。的場は発砲したが当たらず、賊は長刀をふるって突進してきた。的場はやむなく銃を捨て、刀を抜き合わせたが、2人を相手の格闘ではかなうはずもなく、全身を数ヶ所斬られて倒れた。この斬り合いは、近くの民家からもよくみえ、村人たちは戸のすき間からのぞき見ながら、「後ろには味方が大勢いるのだから早く逃げればいいのに」と、はらはらしていたが、的場は少しも恐れる様子がなく、立ち向っていったという。的場はこのとき19歳。「惜しむべき若物、誠に惜しき事と何れも申合候」と、金沢の報告書は結んでいる
天誅組史蹟公園 松本奎堂先生戦死之地 村上萬吉戦死之地
山上にある終焉之地碑の縮小版が、国道沿いに建っており、その近辺は天誅組史蹟公園になっている。
松本清兵衛屋敷跡

 松本奎堂 は9月24日の午後、武木村の大西家で最後の会食をし、忠光らの本隊出発後、一時間ばかりして武木村を出た。かれは視力を失っていたので、十津川以来ずっと駕籠を用い、安岡嘉助や安岡斧太郎ら傷病者と一緒に後陣にいた。

 この後陣に、武木から藤本鉄石ら壮年組が数人加わった。みな30歳以上だが、元気だったので、傷病者の護衛として配属されたのである。

 奎堂は、この鉄石と一緒に、足ノ郷峠を越えた。そして五本桜まできたとき、鷲家口の方角で激しい銃声を聴いた。本隊が敵と遭遇した、と察した奎堂らは、相談の上、鷲家ロヘ出るのをやめ、山道を右へ下って小の蟻通神社(現在の丹生川上神社中社)前の谷へ出た。地図でみると、鷲家口から3kほど東南になる。

 伝承によると、奎堂らはここからさらに、高見川をさかのぼって通称御殿越しの間道を登り、夜半過ぎて伊豆尾村(現東吉野村伊豆尾)の奥地、笠松にたどりつき、庄屋松本清兵衛宅の戸をたたいた。
 
笠松は伊豆尾の枝村で、本村の奥地、標高600mの山中にある。十戸足らずの民家が、山のひだに隠れるように散らばり、昭和40年代の前半まで、自動車の通る道もなかったほど隔絶された集落である。松本清兵衛の屋敷は、その最奥部の山肌に、樹木に囲まれて建っていた。落人の隠れ家としては、これほど格好の場所はないが、奎堂らは、どうしてこの家の存在を知ったのだろう。位置からみても、逃避の途中、たまたま発見して入りこんだとは思えないし、雨の降る暗夜の山路を、こんな辺境まで迷わずにやってきたのも、考えてみれば不思議である。

 それはともかく、鉄石、奎堂の一行は、同夜、この清兵衛宅で泊り、翌9月25日も昼過ぎまで腰を落ちつけていた。ここにいれば、しばらくは安心、と思ったのかもしれない。が、かれらの潜伏は、この日の午後、早くも鷲家にあった和歌山藩の本陣に察知されていた。伊勢・田丸藩士木村修平の見聞報告書は、こう語る。

『山高左近様(中略)二十五日暁七ッ半時御出陣相成られ候処、最早浪士共は四方へ散乱、其辺の山々谷々に駈込み候に付き、近辺の山々に御人数御返し御穿鑿これあり候処、同日八ツ半頃、伊豆尾村と申す処に浪士十四、五人駕をつらし罷越し、同処にて支度等仕り侯処に付、直様御人数御差出し、伊豆尾村と申す処へ罷出候処、最早浪士通り過ぎ侯に付、同所庄屋清兵衛と申す者、厳しく御穿鑿に相成侯処、同人宅の押入れに具足六領、槍一本、書類一行季隠しこれあり候、とりあえず御引上に相成云々。』

 清兵衛の家は八ツ半ごろ、つまり午後3時ごろ、和歌山勢によって家宅捜索を受けたのである。鉄石、奎堂一行は脱出したあとだったが、押し入れを探ると、具足や槍、書類などが出てきた。具足六領とあるから、鉄石、奎堂以外にも、隊士が数人いたことがわかる。おそらく二総裁護衛の隊士で、前夜、一行をここに導いたのも、そのうちのだれかだろう。このあたりの地理にくわしいことからみて、案内したのは橋本若狭の一統かと思われるが、確実な記録はない。ただ、これらの隊士は、鉄石、奎堂とはちがって、無事に脱出を果たしたことだけは確かである。

 和歌山藩の探知は、潜伏していた鉄石、奎堂らにも勘でわかったようだ。鉄石らは、ただちに護衛の隊士らに脱出を命じた。途中で見咎られてはならぬからと、全員具足を外させ、大小だけの身軽ないでたちにして送り出したのは、午後一時少し前だったと思われる。

 鉄石、奎堂と、鉄石の側近福浦元吉、奎堂の従者村上万吉の4人は、わざと残った。鉄石も奎堂も高齢、病気の身では逃げ切るのは難しい。いっそ囮になって踏みとどまり、若い隊士らの逃走を助けようと覚悟したのだろう。忠光らの消息を確かめたい気もあった。とにかく残った4人が、武具や書類を清兵衛に預け、この家を出たのは午後二時過ぎだった。鉄石と福浦元吉が先行し、奎堂は土地の若者がかつぐ駕籠に乗って後を追った。

 和歌山藩山高左近の手のものが、清兵衛宅に踏み込んだのは、その直後のことだった。同藩軍役方頭取、金沢弥右衛門の報告によると、かれらはまだ天誅組の残党が潜伏しているものと思い込み、清兵衛宅を遠まきに包囲、100mほど手前から一斉に鬨の声をあげ、鉄砲を撃ち込んだ。そしてまさに槍を入れようとしたとき、清兵衛がまっ青になって飛び出してきて、昨夜以来のあらましを供述したという。

地蔵堂 松本奎堂先生戦死之地 村上萬吉戦死之地 松本奎堂歌碑
  この鬨の声と銃声は、脱出途上の松本奎堂らにも聞こえた。かれらは前夜通った御殿越しの間道を、伊勢街道へ抜けようとして、ちょうど峠の地蔵堂の前まできたときだった。銃声を聴いた人夫たちは、ふるえ上がって奎堂の駕籠を道ばたに放り出し、われ先にと林の中に逃げ込んだ。奎堂と従者の村上万吉は、峠の上に置き去りにされた。前記の伊勢・田丸藩士木村修平の見聞報告をつづける。

『(清兵衛の供述後)そこら其辺の山御狩らせ候処、人足体の者一人見付け候に付、四郎三郎(鷲家の庄屋)駈けつけ見候処、同伊豆尾村人夫に付、其方浪士の駕をかぎ参り候段、不届の至りとかけ合い候処、直に白状に及び候に付、同人に案内致させ、右駕下し候処へ罷越し、右山へ御人数相回候処、果たして駕一丁下しこれあるに付、右駕へ鉄砲打掛候処、中より一人転び出候に付、右討取に相成申候。』

地蔵堂

 峠の地蔵堂前に放り出してあった駕籠に銃弾を撃ち込んだところ、中から奎堂が転がり出たというのだが、これは少し事実とは異るようだ。前記の金沢弥右衛門の報告によると、駕籠に発砲、槍を入れたが、中はからっぼだったので、付近の山狩りをし、草むらに銃弾を撃ちこんでいるうちに、一人の男が不意にはね上がって、そのまま草むらに倒れた。これが奎堂だったという。地元の伝承でも、人足に逃げられた奎堂は、従者の万吉に助けられて1kほど東の笠松の山中まで逃げたが、ここで和歌山勢の銃弾に倒され、ついで従者の万吉も撃たれたという。文久3年9月25日の暮れ方、場所は前夜泊まった清兵衛宅から200mも離れていない笠松の山の尾根上だった。辞世は、君がため身まかりにきと世の人に語りつぎてよ峰の松風 と伝えられている。

 奎堂最期の地は、標高640m近い山上だけに眺望がよい。東の正面に高見山が、ピラミッド型の全容を惜しみなく見せ、右手には足ノ郷越えの山々が、垣根のように連なる。東吉野村は景観のよい村といわれているが、このあたりなどは、まさに絶景である。

 奎堂戦死の伝承場所には、いま端正な記念碑が立っている。昭和17年、天誅組八十周年祭に、奎堂の故郷、愛知県刈谷市の有志が建立、同57年改修したものである。

松本奎堂・村上萬吉戦死之地
松本奎堂歌碑

君がため みまかりにきと 世の人は 語りつぎてよ 峰の松風

       
現在の地蔵堂付近 昔は御越峠があり、人馬の往来もあった
藤堂藩陣所(油屋)跡
     
 紀州街道と東熊野街道、伊勢街道の交差する地点に油屋があり、そこに藤堂藩が陣所を構えた。この陣所よりすぐ東には紀州藩が陣所を構えている。彦根藩は最前線の鷲家付近に陣所を構えた。上記写真の建物横の車の横に道標と一緒に藤堂藩陣跡の石碑あり。建物にも陣跡の看板あり。
森下幾馬・儀之助 戦死之地

 木津川で吉村虎太郎と別れた森下兄弟は鷲家谷を越える途中、はぐれてしまった。兄を求めて赤谷まで下ってきた幾馬は、藤堂藩西荘源左衛門の追っ手に見つかり狙撃された。この街道は紀州へ抜ける道で、参勤交代の時にも利用されていた幹線道路である。首を落とされた遺骸は、村民の手で湯ノ谷墓地へ埋葬された。この場所から1km上の所である。

 吉村の負傷を守りながらその後を追って、木津川の堂本源五郎宅に潜んでいた。ところが25日夕刻、敵に密告するものがあるのを知って、急いで深山をよじ登って逃れるだけ逃れようと蟻通神社の裏山、小牟漏ケ岳の山中に分け入った。さらに闇に紛れて辿り着いたのは、鷲家の石の本。ここから本道に出たのは26日の未明であった。総裁吉村の疲労のため一歩も進むことができない。近くに一軒の茅屋がある。老婆が一人住んでいた。一同は安心して暫らくここで休息した。ここから一度新田という処まで出たが吉村の身体の自由が利かない。この時吉村は、「こうなった以上最早生を全うすることは難しい。君らは山谷の間を潜行して活路を開かれたい。私一人のために機を逸してはならない。」と。
 
そうして島村、森下を諭し、西某には金二十両を与え、吉村は石の本の老婆の家にもどった。
 吉村と別れた幾馬は兄儀之助、島村省吾、辻宇吉、西某とともに山峡をぬけ山をよじ、鷲家領赤谷のヨワ谷に出た。この時紀州藩のものに知られ包囲された。幾馬は一谷の道路のところで、津藩隊長西荘源左衛門のため狙撃せられた。鷲家口で戦死した。享年30歳。

吉村虎太郎戦死の地・天誅組終焉之地
       
天誅組終焉の地                         吉村虎太郎墓
         
墓に行く橋のたもとに案内碑がある吉村虎太郎    歌碑 吉野山 風にみだるるもみぢ葉は  我が打つ太刀の血煙と見よ

 吉村虎太郎の死は、どの記録も9月27日早朝、鷲家谷の石ノ本において、となっているが、その最期の模様や前後の事情は諸書まちまちで、よくわからない点がある。

 吉村は、9月24日の夕方、忠光の本隊のあとを追い、駕籠に乗って足ノ郷峠を越えた。その駕籠をかついだ川上・白屋村の井筒庄七の懐古談が『いはゆる天誅組の大和義挙の研究』におさめられている。庄七によると、吉村は重症にもかかわらず、気力は旺盛で、道中でも庄七らに、「辛抱せよ。辛抱せよ。辛抱をしたら世は変わる。それを楽しめ」と、励ましたという。この話から推しても庄七の証言は、信頼性が高いとみていいだろう。創作では、とてもこんなせりふは出てこない。
 その庄七の証言では、吉村の駕籠をかついで、鷲家口の東約1kの烏原まで下りてきたが、鷲家口ではすでに戦闘がはじまっていて、目の前のかがり火の洪水や、すさまじい銃声に、庄七らは足がすくんで動かなくなった。「空砲だ。空砲だ。行け。行け」と、吉村は叱咤したが、とても進む気になれず、山の神の祠の前で、駕籠を放り出して林の中に逃げこんだ。
 吉村は歩けないのに、烏原の山道に置き去りにされたのである。時刻は24日の夜8時すぎで、付近には隊士は一人もいなかった、と庄七はいっている。いなかったから、庄七らも逃げることができたのだろう。

 その吉村が、3日後の27日早朝、鷲家谷の山小屋に潜んでいるところを発見され、藤堂兵に銃撃されて死ぬ。これは伊勢・田丸藩士木村修平の次の見聞報告によって明らかだ。
 『二十七日に、鷲家谷と申す処にて獅子(猪)小屋へ浪士一人駈込候筋を藤堂人数かけ付、打取申候。右は吉村虎太郎と申、天朝組総裁役。之より外に両人、鷲家村へ出候は藤堂様へ討取、一人は生捕候よし。』
 鷲家谷は、烏原から北へ約3kのところ。一人ぼっちで置き去りにされ、歩くこともできぬはずの吉村が、どうやってこんなところまで出てきたのか。また置き去りにされてからまる2日間、どこで、どうして過ごしていたのか、いまもって確かなことはわからない。
 地元の伝承では、路傍に捨てられた吉村は、鷲家口へ出るのを断念、近くの石船垣内という集落で人夫を雇うと、高見川をさかのぼって、3kほど東の木津川村に出、庄屋堂本孫兵衛の家に宿を乞うた。同情した孫兵衛は、自宅の土蔵に吉村をかくまったが、追討軍の探索が厳しくなってきたため、孫兵衛に難が及ぶのを懸念した吉村は、26日の夜になってここを出た。そして翌27日の夜明けに鷲家谷にたどりつき、休息するつもりで小屋に隠れようとしたところを、地元民に目撃されたという。

 前記、木村修平の報告書には、吉村の他に2人の隊士がいて、1人は討ち取られ、1人は生けどりにされたとあるから、この2人が烏原で路傍に放置された吉村と出会い、以後、付き添って世話をしてきたのだろう。元東吉野村天誅組顕彰会長、山田辰次郎氏所蔵の『和州騒擾始末』によると、この2人は高取脱藩の岡見鉄蔵と力士上がりの山崎吉之助だという。

 小屋に潜伏した吉村をみつけ、藤堂藩の本陣に通報したのは、小屋の持ち主で、近くに住む駕籠屋の老女だった。藤堂方では、すぐ金谷健吉の五番隊を現場に出動させた。吉村は、この金谷隊によって撃たれたのだが、その最期の模様は本によってまちまちで、どれがより真実に近いのかわからない。
 たとえば和歌山藩の記録【和州一揆浪士名録】『金谷健吉付撤兵、鈴木勘助と戦い死す』と記し、【浪士組姓名事跡風聞書】『木沢勘助と申者と出逢い、姓名を申述べ、切腹致すべきの処、勘助より言葉を懸け候に付、楽々名乗り、尋常に討死いたし候由』と書いている。
 ところが明治初年出版の【大和の花】には、金谷健吉の眼前で切腹して首を取られた、とあり、【土佐勤王史】は 吉野山風に乱るるもみぢ葉はわが打つ大刀の血煙と見よ との辞世を高らかに吟じたあと、刀をふりかざして屋外に出たところを狙撃され「残念」の一語を残して倒れた、とする。
 一方、地元の梶谷信平【天誅組烈士戦誌】は、小屋の中で文書を寸断したあと、尋常に名乗りを上げ「武士の情けによって切腹を許されよ」といったが、金谷はきかず、部下に乱射を命じた、としている。
 以上、いずれも吉村の世間的な人気の推移をしのばせておもしろいが、実際には、問答無用、ほとんど抵抗の暇もなく無残に撃ち殺されたのではないか。松本、藤本二総裁に遅れること2日、吉村総裁もこうして悲劇の最期を遂げた。主将の忠光だけは死地を脱し、ちょうどそのころ、大和と河内の国境あたりを大坂へ奔っていたことになる。

 吉村の首は実検のため京へ送られた。地元鷲家谷の人々は、残された遺骸を近くの鷲家川畔にある巨岩の根元に埋葬し、小さな石碑を立てて供養した。ところが、その墓がまもなく不思議な霊力を発揮して、近郷に騒ぎをまき起こしたのである。五條北之町の町人たちが、毎月当番制で、主要なできごとを書き残した【月番行司順番帳】(亥九月行司木綿屋利右衛門)に記述がある。
『此処にて天誅組の内、主たる人吉村虎太郎様戦死、其土地浪士の石碑をきざみ、其土地に葬りけり。然るに其後、近村近国より参詣人夥敷追々増々群集いたし、天誅吉村大神儀として、様々の立願相込め、御利益之在り候よし。誠に追々参諸人夥敷群集いたし候故、其御支配御役所より差止候処、中々百姓共更に聞入れ申さず、益々参詣人弥増不思議なる次第、恐るべし々々。』

 吉村の霊は、願いごとならなんでもかなえてくれる流行神になったのである。伝承では、鷲家の庄屋、兵吉の娘おかつが難産で足がたたなくなり、夢のお告げで吉村の墓に三度参ったところ、霊験あらたかで元の体に戻った。これが評判になって願いごとを持った老若男女が続々と参拝にきた。
 天誅踊の歌詞に「大和国中申すもおろか 京や大坂 和泉や河内 紀州熊野地 伊賀 伊勢 志摩よ 近江殿にも忍びにしのび 通りも狭しと歩みを運び 花や線香を供えておがむ」
 とあるから、評判のほどが想像できる。鈴木源内の後任の五条代官中村勘兵衛は、これが癇にさわったとみえ、翌元治元年12月28日、この吉村大神儀と、鷲家口にあった那須信吾の墓を、鷲家川に投げ捨て、吉村をまつった村民24人を投獄した。ところが、まもなく「西国の浪士、高木左京」と名乗る人物が現われ「わしが責任を持つ」といって、石碑を元の場所にひき上げさせた。地元でも墓の前に広場を造って、参拝者の便を図り、祭祀をつづけたという。

 明治29年、天誅組の三十三回忌を機に、吉村の墓は、鷲家口で戦死した他の六隊士と一緒にまつられることになり、鷲家口の明治谷に移された。
 
いま、明治谷墓地には九士の新しい墓碑が並んでいるが、その背後、旧碑の列の右端に立つ、角が取れて丸くなった碑が、吉村大神儀である。角が取れたのは、川に投げこまれたときに欠けたからだという。
 この大神儀の傍らに、円筒形の小さい碑が寄り添うようにして立っている。碑面は「天仲吉村市之神」とあり、下の方に「吉村内分」と横に刻まれている。これは吉村の妻お明が建立したとも、吉村と浮名を流したといわれる京・木屋町の料亭「丹寅」の娘おくみが、ひそかに建てたとも伝えられているが、女性には縁の薄い天誅組にとっては、唯一といっていい艶話である。

鷲家本隊解散地

 『凡そ十六、七町にして鷲家へ至り見れば、紀州の大軍、勢を張り、かがりを焚てひかえたり。此時、大将に随う面々は、上田宗児、島浪間、伊吹終(周)吉、池内蔵太、森下儀之助、楠目清高(馬)、島村省吾、沢村幸吉、酒井伝次郎、半田門吉、同人家来山口松蔵、荒巻佐之介、安積五郎が家来万吉(藤吉の誤まり?)等、僅々十七人。最早討破る気遣なし、運命を天に任せ、一先づここを落ち延びて、他日義兵を揚んと評議一決して、各諸方へ別れて落ち行きたり。』【大和日記】

 和歌山勢は、9月25日の夕方、鷲家に落ち着いたばかりだったが、鷲家口の彦根方から、敵襲来の急報を受け、総員非常配備についていた。そのものものしい警戒ぶりをみて、忠光らはとても突破できぬと観念し、こうなれば各自思い思いに落ちのび、大坂の長州屋敷で再会するしかない、ということになった。文字通り最後の解散である。従うものはわずか17人、なかには手負いの者もいる、とあっては解散もやむを得ない仕儀だったろう。一同は、夜空を焦がす和歌山勢のかがり火を目前に方向を転換、思い思いに左手の山中に分け入った。場所は鷲家の手前、1kの鷲家谷のあたりだったといわれる。

 伝承によると、解散を決定したあと、忠光は真っ先に立って左手の山に分け入った。従うものは上田宗児、伊吹周吉、島浪間、半田門吉、同家来山口松蔵、安積の家来藤吉の6人だった。残された10余人は、街道筋の山崎という民家の女主人を連れ出し、これに案内させて、間道を赤谷から小名峠に出、夜明けまでに宇陀方面へ脱出した、という。

 では、先に山に分け入った忠光ら7人はどうなったか。再び【大和日記】をみてみると『或は大小の根をよじ、葛を伝て登り、又は茂りし林の中を押分け、辛うじて上り、又は下り、案内は知らず、闇夜のことなれば方角は分らず、精神既に労れ果てたる故、松柏の茂りし中に芝居して、前後も知らず寝たりける。』
 方角もわからぬ闇夜の山中を、やみくもに登り下りしているうちに、心身ともに疲れ果て、その夜は茂みのなかに身をかくして前後不覚に寝てしまった。
『二十五日、夜明け前に各自目覚てみれば、麓に人家あり。ここにも敵出陣せりと見えて、太鼓を打ちて勢を出し、山中へ所々より頻りに発砲す。皆々思を凝らして相忍び、腰兵糧を遣い、昼前ひそかに山を降り、一筋の道を乗り越え、向の山を駈上り、逢かに方角を見定め、谷を伝ひ下り、三つ四つの山を越え、向を見れば道筋往来と見えて、是れその内へ出るにて有らん。日暮まで山中に忍び、暮るるを遅しと待ち居たり(中略)。早日も暮れければ、山を下りて道に出で、飢を忘れて急行、火を焚やせる人に遇えば、俄に山に隠れ、或はひそかに百姓の家に立寄り、道を問い飯を貰いて行く程に、宇陀と言うところに、井伊の本陣をかまえ、往来の人を吟味する趣にて聞えければ、金を与えて百姓に案内を頼み、間道より岩清水の村を経て、遙に宇陀を回りて行過るにも案内者を頼み、半坂を打越えて、夜明る頃、三輪の山にぞ着きにける。』

 岩清水とは、現在の宇陀郡大宇陀町岩清水のことである。大宇陀町の中心街、旧松山町から東南約2kのところ。鷲家谷からは真北へ4・5kほどになる。忠光らは、わずか4・5kほどを進むのに、ほぼ一昼夜を要したわけだ。道のない山中で、いかに悪戦苦闘したかが察せられる。
 暮れるのを待って山ふもとの農家で周辺の様子を聞き、金を与えて道案内を頼んだ。そして彦根兵のいるという松山の町を北へ大きく迂回して、間道伝いに西進、未明に半坂村に着いた。
 
半坂村は、いまの大宇陀町半阪、桜井市との境界付近にある村落である。ここの小名峠はいまの国道166号線の女寄峠が開かれるまでは、桜井と宇陀地方を結ぶ重要な峠だった。【大和日記】は、未明にこの峠を越えて、夜明けごろ三輪の山に着いた、というから、粟原、忍坂、朝倉(いずれも桜井市)のコースを行ったのだろう。日記の記述はつづく。
『二十六日、東雲の空晴れ渡り、夜はほのぼのと明けたれば、小松の茂りたる中に忍び登り、落葉をかき集めて芝居しつつ、用意の飯を食し、行く末、越し方の事ども窃に語らいつつ四方を見れば、三輪より桜井の駅路を逢かに見下ろし、麓の千草枯れ果てて、花咲きにけるも目に面白からず(中略)暫くまどろみける内、降り来る時雨に袖を絞りて山を出で、麓の人家に立寄って雨具を求め、案内を頼むに、桜井の駅には藤堂勢陣所を構え、其他芝村家中より三輪の里にも張番を置けり。昨夜も落ち来る天誅組二人を殺し、一人を生捕にせし由にて、穿鑿一方ならずと聞えければ、すべて間道にても自昼は行き難し。今は止むことを得ず、此家の者共に事実を明かし相頼み、暮るる迄あやしき水屋の中に潜みけるが、此家の者、心まめなる者にて、飯を炊き、茶を煎じ、田舎振りのもてなしも、時にとって山海の珍味に勝る心地して、金もて厚く心を謝し(後略)』

 この親切な家は、現在の桜井市慈恩寺にあった。三輪の商人「油新」こと今西新右衛門の別荘で、慈恩寺から金屋へ行く途中の道路を上った奥に、一軒ぼつんと建っていたという。
 
忠光らをかくまい、世話したのは別荘番の弥七夫婦で、忠光らは夜が更けるのを待って、この弥七の案内で、間道伝いに西進、飛鳥川を渡って高田(現大和高田市)に着いた。ここで案内の弥七を返し、夜通し歩いて、27日朝9時には大和と河内の国境、竹之内峠に達した。もう追討軍の警戒圏外だったので、大手を振って往還を急ぎ、昼過ぎ大坂に着き、道頓堀の船宿で酒食や衣服をあつらえ、舟遊びを装いながら、日暮れ時に長州藩大坂屋敷に入った。
 鷲家谷で別れた他の10余人の隊士は、用心がなさすぎた。かれらは24日夜、鷲家谷の山崎家の女主人の案内で、間道伝いに小名峠を越え、たやすく死地を脱し得たためか、事態を甘くみたようだ。その証拠に、かれらは翌朝宇陀へ出てから、落人らしくもなく、往還を数人ずつ連れ立って堂々と押し通った。これが追討軍の目につかぬわけはなく、その日から次々と捕われたり、殺されたりする羽目になった。

 24日の夜、小名峠から宇陀に出たかれらは、翌25日昼ごろには、早くも初瀬街道から三輪の上街道付近にあらわれた。先行の岡見留次郎、安積五郎、田所騰次郎、磯崎寛、岡見の僕恒介の5人は、丹波市(天理市)の権現裏あたりまできて、藤堂家の散兵隊に出会い、全員捕われた。
 ついで鶴田陶司、酒井伝次郎が藤堂勢に、沢村幸吉、長野一郎、森元伝兵衛の3人が芝村藩に捕まった。いずれも上街道の三輪から巻向にかけての付近である。
 25日の夕方には、前田繁馬、関為之進の2人が慈恩寺の湯豆腐屋で食事中、藤堂勢に包囲され、射殺された。先述した【大和日記】にある「昨夜も落ち来る天誅組二人を殺し」とあるのは、このことである。
 こうして25日から28日にかけて、桜井の周辺では計17人が捕われ、2人が殺され、1人が自害した。うまく逃げおおせたのは、池内蔵太ら1、2人にすぎなかったという。忠光の一行とは、あまりにも対照的であった。

鍋島米之助先生戦死之地
 驚家口で銃創を受けた決死隊の一人、鍋島米之助は一の谷まで逃げのびた。道の左に農家がある。その物置へかくれた。朝になって主人が物置を開けると血だらけの天誅組がいた。おかゆを出しておいて紀州陣屋へ走った。紀州勢が物置の外から一斉に銃撃し、米之助は茶碗を手にしたまま倒れた。
 以後天ノ川辻の陣など各所を転戦、最後に首領中山忠光を落すために驚家口で決死の戦いをし、米之助は那須信吾、宍戸弥四郎とともに決死隊となり、藤堂藩彦根の陣営を襲撃しようとした。出店の表前に来た時不意に四方から狙撃をうけ重傷をうけた。それにも屈することなく奮戦して鷲家谷まで逃れ、辰巳屋友七の納屋に入り傷の手当をした。そこへ彦根の隊長村田権右衛門らが兵をつれこれを包囲した。米之助は刀をふるい飛び出してこれと戦い倒れた。享年24歳。
山崎吉三郎捕縛地

 吉村総裁を守って木津川村の庄屋堂本孫兵衛方に隠れた。だが、9月26日の夕景近くなって、吉村は鷲家口に突っ込んだ忠光の安否を気にし、消息を探ってくるよう、山崎らに命じた。
 3人は山越えで鷲家谷に出たが、そこで追討軍に発見され、山崎は鷲家谷の泊屋、弥八郎宅の前で彦根兵に捕縛された。
 伊勢・田丸藩士木村修平の次の見聞報告に『二十七日に、鷲家谷と申す処にて獅子(猪)小屋へ浪士一人駈込候筋を藤堂人数かけ付、打取申候。右は吉村虎太郎と申、天朝組総裁役。之より外に両人、鷲家村へ出候は藤堂様へ討取、一人は生捕候よし。』
 元彦根の相撲取りで、森下儀之助の従僕として天誅組に参加、下市の焼き討ちで大功をたてたので士分にとり立てられ、山崎吉之助と名乗ったという。

伴林光平 脱出路
 本隊に先立つこと9月21日午後2時半頃、足ノ郷峠を越えて鷲家口に着いた伴林光平は平岡鳩平と西田稲夫を伴い暫時休憩後、鷲家口の若者6人とこの場所の向かいの下月尾を登り小名、三茶屋を経て宇陀に向かった。
林豹吉郎先生戦死之地

 川口釣具店付近より敵陣の裏を進み、紙屋重兵衛宅前に陣していた彦根勢に斬り込み激戦中、敵の銃弾にて見事な最後を遂げた。
 軒づたいに進み、前から飛んでくる敵が目に入った。息を潜め敵に斬り込む。狙い撃ちされ、前額部を射抜かれて息絶えたという。

 大和の志士。名は豹、大和宇陀郡松山(奈良県)の人。父兵蔵は鋳物師、豹吉郎はその長男として生まれ、幼時より絵を好んだ。天保5年(1834)の夏長崎の画人中島青淵が大和に来遊した折に師事し、ついには青淵に従って諸国を遊歴。天保8年、青淵と別れてから蘭書の研究を志し、大坂の緒方洪庵のもとで炊夫をしながら苦学した。こうして旅費を調達し、念願の高島秋帆の門に入るため長崎に急いだが、秋帆幽閉の直後であったので、韮山代官江川太郎左衛門の学僕となって教えをうけた。その後諸国を遊歴して大砲改鋳の要を説いて回ったが邪説視された。だが安政元年(1854)にはようやく認められ郡山藩に招聘され大砲鋳造を依頼された。文久3年(1863)天誅組に参戦、兵糧方をつとめ那須信吾らと奮戦、鷺家口で戦死した。享年47歳。

宍戸弥四郎先生戦死之地

 副隊長、宍戸弥四郎は、もっとも無残だった。かれは、那須の倒れるのをみて、北へ走り、鷲家口の集落を抜け出そうとしたが、碇屋から北へ250mほど行った前北橋のたもとで、福屋の本陣から加勢にきた彦根の兵に包囲された。やむなく踏みとどまって闘ううち、足を踏みはずして鷲家川に転落、対岸の堤をはい上がろうとしているところを、背後から乱射された。
 彦根藩士天方道為が首をとり、その遺骸を調べると黄金十両に埋葬費と記してあった。弥四郎の決死のほどがしのばれる。そこで道為は自家の長松院にその墓を建てこれを弔った。
 弥四郎は身長五尺一寸(1.55m)の小柄で眼は細く、幼時天然痘のため満面に痘瘡があったため、一見すると恐ろしいようであったが、一度笑うと愛嬌たっぷりで子供もなついたという。

 愛知県碧海郡刈谷の地に弥四郎の姪宍戸昌−大蔵省国債局長−が同宗と謀って記念の碑を建てその殉節を永久に伝えている。今はただ何かおもはむ敵あまた うちて死にきと人のかたらば
 
天誅組には文人あり学者あり政治家もあるが、弥四郎のように兵学者は少ない。弥四郎は一軍の合図掛ヶとなった。軍の進退よく大いに振った。9月7日大日川の戦いの時は、藤堂新七が兵六百を率いて和田村から進撃してきた。享年31歳。

山下佐吉先生戦死之地

 足ノ郷峠を越えて鷲家口へ向ったときも、かれは傷病者の列にいて、かなり遅れた。藤本、松本両総裁の一行よりさらに遅れたらしく、小の蟻通神社の方へは出ずに、足ノ郷道をまっすぐ北上、鳥原の方へ出た。そしてそこで、駕籠かき人夫に逃げられて立往生していた吉村総裁に会った。山崎吉之助、森下幾馬らが一緒だった。

 山下は、吉村総裁を守って木津川村の庄屋堂本孫兵衛方に隠れた。だが、9月26日の夕景近くなって、吉村は鷲家口に突っ込んだ忠光の安否を気にし、消息を探ってくるよう命じた。
 山越えで鷲家谷に出たが追討軍に発見され、鷲家口まで逃げたが、彦根藩の脇本陣、碇屋の近くで彦根兵に囲まれ、激闘の末斬殺された。
 山下が倒れた場所は、2日前の夜、決死隊の隊長那須信吾が血だるまになって死んだ地点のすぐ近くだった。そのために、山下は決死隊員と混同され、後年、かなり長い間、決死隊の一員と思われてきた。

 山下が自分の着込みの背に「岡見鉄蔵」と記していたそうだ。討ち取った彦根藩の国枝守蔵が、遺骸を検めて発見、「岡見鉄蔵」と思いこんで藩に報告した記録が残っている。【和州騒憂始末】。山下こと安田鉄造は「山下佐吉」の変名でもまだ安心できず、死の直前にまた名を変えていたことになる。よほど高取に残した身寄りの行末が気になったとみえる。が、それほど気を配ったにもかかわらず、涙ぐましいまでの企みは、簡単に露見してしまう。死の直前まで、一緒に行動していて捕えられた山崎吉之助が「岡見鉄蔵」は、山下佐吉であることを供述したからである。

 安田の主家、高取藩植村家は徳川子飼いの大名である。その縁故ある藩が、反逆者を出したとなれば、藩の存亡が問われることになるし、家族や親類縁者に累が及ぶのも必至である。安田はそれを思って偽名を使い、素姓を隠して行動した。大義に生きるか、家名を守るか、悩んだ果ての、ぎりぎりの決断だったのだろう。結局は大義に殉ずる途を選んだ。信念の前には、わが名を捨てても惜しくはなかったのだろう。植村や名所ら身元不明の隊士らも、おそらく相応の身分を持ちながら、あとに残る近親や周囲に配慮して、身元を秘して死んでいったにちがいない。
 山下佐吉こと安田鉄造が天誅組に参加したのは、五条で決起後の8月20日前後と思われる。最初は本名の「安田鉄造」で加わったようだ。半田門吉の『大和戦争日記』には、9月7日の大日川の戦いの項で「安田鉄造手庇を負」とみえるから、そのころはまだ「安田」と呼ばれていたのだろう。

 ところが、ほどなくかれは「山下佐吉」と名を変える。安田は決心して「山下佐吉」になり「安田鉄造」の人生を自ら抹殺した。「山下」は、母方の姓だった、という。
 それにしても、山下こと安田の、身寄りを気づかう心情には、正直頭が下がる。安田ばかりでなく、変名していた他の隊士も、胸の底にはみな同じ思いを抱いていたことだろう。大義のためには、命もかえりみなかった隊士にも、やはり繊細な人間としての一面があったのだ。

那須信吾戦死の地・大館孫左衛門戦死の地・彦根藩陣所(碇屋)跡

 出店坂を下りきったところでは、隊長の那須信吾と名所繁馬が撃たれた。那須は銃弾を避けて坂を一気に下り、碇屋の脇本陣前を駆け抜けたところで、彦根の分隊長、大館孫左衛門と出くわして槍で大館を突き殺し、碇屋の前まで戻って、本陣に突っ込もうとしたとたん、左右から狙撃され、血だるまになって倒れた。名所繁馬は、那須とは反対側の道端で銃弾を浴びた。

 那須信吾。この大男は、出店坂から彦根本陣の前を通り過ぎ、四条屋儀平宅前まで来たとき井伊勢の部将大館孫左衛門と出会った。信吾の長槍がうなりを生じてはしった。腹を芋ざしに刺された大館は、太刀を振り上げた格好でしばらく突つ立っていたが、やがてゆっくりと前へくずれた。信吾、振り向きもしない。踵をかえすと、猪突の勢いで碇屋へ飛び込んだ。戸のすき間から火が噴いた。狙撃手は佐藤長三郎である。信吾は槍を投げ付けた。太刀を抜いて佐藤に迫った。間髪をいれず第二弾、第二弾が放たれた。信吾は血だるまになった。だがこのだるまは倒れない。太刀を杖に彦根勢を睨みつけた。第四弾、第五弾。続いて第六弾。恐怖の呪縛から逃れようと、敵は気が狂ったように撃ちまくった。六尺有余の鉄の巨体から鮮血がほとばしった。「うぬっ!」重い空がゆっくり傾いた。そして次の瞬間、ゆっくりとうつ伏せに倒れた。騒雨が襲ってきた。

出合橋跡 天保高殿・西田仁兵衛先生戦死之地

 実はこの二人が非常に困りました。どの記録にも載っていないのです。
 同じ決死隊の一人、名所繁馬という人物も正体不明である。この名は隊士の田所騰次郎(土佐・砲一番方)の姓と、前田繁馬(同・小荷駄方)の名を借りた合成仮名とみられるが、だれが、なんのために、こんな奇妙な名を名乗ったのか謎です。
 玉虫左太夫の【官武通紀】や彦根藩の記録が「側役之者」と、わざわざ断わっているのも、なにか意味ありげである。側役とは通常、近侍(小姓)を指し、天誅組の名簿にも側用人池内蔵太(土佐)池田健次郎(若狭)小姓頭渋谷伊予作(常陸)尾崎鋳五郎(肥前)石川一(因州)の名がみえる。が、この5人は、いずれも最期の模様がわかっていて、決死隊には加わっていない。
 忠光の本隊が、鷲家口の碇屋の前で彦根勢と衝突したとき、1、2人の隊士が銃弾に倒れたことは【大和日記】『此処にも敵勢鉄砲を備え、バラバラと打出すに、味方一両人打斃さるるも顧みず、我れ一にと突破る。』にもみえるし、地元の伝承にもある。が、この人物も、身元割り出しの手がかりとなるようなものを、何も身に付けていなかったようだ。首は京師へ送られたが、姓名すら確認されていない。地元では天保高殿、西田仁兵衛の二人だとして、墓まで作って葬っているが、確かな根拠があってのことではない。

出合橋付近
 9月24日夕暮れ時、那須信吾を隊長とする決死隊の6人は、足ノ郷道三畝峠近くの山の神の祠の付近より上出垣内に下り、この下の橋を渡って宝泉寺前を過ぎ出店坂を駆け下りて彦根勢を急襲した。これは敵の虚をつく見事な奇襲作戦だった。
       
出店坂(旧四郷街道)
           
この坂を一気に駆け下り、彦根藩陣所に突撃していった決死隊の面々。この坂で彼らは何を思い、何の為に死んでいったのか? じっくり語りかける良い雰囲気が残っています。
植村定七先生戦死之地・伊藤弥左衛門戦死の地

 決死隊が、出店坂の上まで進んできたとき、彦根方の歩兵頭伊藤弥左衛門が、たった一人で飛び出してきて、決死隊の行手を阻んだ。天誅組隊士との一騎打ちは避け、離れたところから鉄砲で仕止めるのが、彦根方の作戦だったが、肝腎の鉄砲方が狼狽して、一向に撃たない。坂を下れば本陣である。ここで阻止せねば大変なことになる、という歩兵頭としての責任が、かれにこの行動をとらせたのだろう。だが、これはやはり無謀で、伊藤は、決死隊の先頭に立って走ってきた植村定七に、真っ向から斬り倒された。

 だが、そのころになって狼狽していた彦根の鉄砲方が、ようやく立ち直った。騒ぎを聞きつけて、対岸の福屋の本陣からも応援隊が駆けつけてきた。鉄砲方の兵たちは、かがり火に照らされて昼のように明るい坂の上を駆け回る決死隊の面々を、一人一人狙いはじめた。

 まず、植村定七が撃たれた。かれは彦根の伊藤弥左衛門を倒した直後、すぐ近くで銃弾をもろに受けて倒れた。

 「大和の植村定七」と名乗っただけで、素姓はだれにも明かしていなかった。京都守護職の調べでもわからず、結局、不明のままで処理された。明治になって、天誅組の隊士に贈位の沙汰があり、明治政府があらためて調査したときも確認できず、贈位もされぬままに終わっている。

 天誅組の本隊が8月20日、五条から天辻へ移る途中、賀名生・和田の堀家に立ち寄り「来賓姓名録」に署名を残していったそのなかに「大和・上村貞心」の署名があり、これが定七の本名で、素姓は五条近辺の郷士ではないか、との説も出ているが、確証はない。あるいは死場所を求めて天誅組に加わった他国の武士が、決起場所の大和にちなんで大和出身と名乗っていたのかもしれない。

福屋跡 彦根藩舟橋七郎右衛門陣所跡
      
     現在の舟橋七郎右衛門邸跡            当時の建物があったときの舟橋七郎右衛門邸跡

 忠光の本隊は、高見川の右岸へ出た決死隊とは逆に、川の左岸へ出たようだ。足ノ郷道をまっすぐ下ると、鷲家口鍛治屋出垣内の集落に突き当たる。その集落のとりつきにある家が福屋、つまり彦根方の本陣だった。この本陣は舟橋七郎右衛門が守っていたが、天誅組の決死隊が対岸の脇本陣を襲ったため、兵はほとんどそちらへ応戦に出払い、本陣の前では、土地の人夫らが、かがり火をたいて控えていただけだった。忠光らにはもっけの幸いで、簡単に突き破り、出合橋を渡って、鷲家街道へ出た。そこには脇本陣の碇屋があり、決死隊と死闘を演じた彦根の兵がいた。決死隊を撃破して、ほっとしたところだったろうか。忠光らは、その彦根兵と衝突した。半田門吉【大和戦争日記】には

『此処にも敵勢鉄砲を備え、バラバラと打出すに、味方一両人打斃さるるも顧みず、我れ一にと突破る。(中略)其内敵三人槍を並べて突きかかるを、半田、吉田同じく槍を以て横へなぐれば、二人は逃げ去、一人進みて突出す槍の鎌首を握り、引寄するを、傍より鶴田陶司敵を突伏する。此時半田は少し手傷を負いたり。味方、敵陣の後より回りて、先へ進みける。中山大将は只一人、衆を抽て有りしが、忽ち敵を切り殺し、あかりを奪い取りて直に進み給う。この時味方大半散々に相成り、旗本勢僅かなれども、大将頻りに進み給う(中略)残れる味方、漸く此陣所を駈破り、およ馳抜け、凡そ十六、七町にして鷲家へ至り見れば、紀州の大軍、勢を張り、かがりを焚てひかえたり。』

 1、2人の犠牲者を出しただけで、どうにか鷲家口の彦根陣所を突き破った。
現在この建物は残っておりませんでした。今は東吉野村役場に変わっております。また維新の史跡が一つ消えたような気がします。

宝泉寺 大館孫左衛門墓 伊藤弥左衛門墓
      
 彦根方は、宝泉寺の高みを防衛の第一線とし、山門前でひときわ大きいかがり火をたいて警戒していたが、決死隊は、まずここに飛び込んで、警備陣を追い散らした。警備陣といっても、大半が地元の農夫だし、不意打ちだったから、現場はパニックをきたして大混乱。背後にひそんでいた狙撃兵も、呆然として、発砲するのを忘れてしまうほどだった。
 宝泉寺は彦根分隊長大館孫左衛門と歩兵頭伊藤弥左衛門が葬られている。明治谷墓地に眠る志士の菩提寺にもなっている。
天誅組義士記念碑
 

 

 梶谷留吉の尽力で「天誅組史蹟保存会」と「殉難志士建碑事務所」を設立、全国に趣意書を配って募金することにした。募金には有力者の賛同が不可欠で、奈良県知事古沢滋に陳情した。

 古沢は土佐出身で、吉村や那須らとは土佐勤王党の仲間だったから、留吉の熱心さに感動、土方直行、田中光顕、北畠治房(平岡鳩平)ら名士を紹介した上、政府や県の方でも顕彰運動に応援することを約束してくれた。明治28年の秋、留吉はやっと念願を果たし、殉難十六士の墓碑と記念碑を建立、翌29年4月18日には各界の名士や遺族を招いて、建碑祭と三十三回忌の慰霊法要を行った。記念碑は土方久元の書。

明治谷墓地
        
史蹟 庄屋・堂本孫兵衛宅・土蔵・薬師堂 吉村寅太郎潜伏地
      
 9月24日夜、吉村寅太郎一行は、この家に来た。堂本孫兵衛の献身的な世話により、この家の土蔵や前の薬師堂の天上で26日まで潜伏し、休養を取りました。写真奥の屋根だけ見えている部分が土蔵
 堂本家前にある薬師堂 この天井裏にも虎太郎は隠れていた。
光蔵寺 宍戸弥四郎戦死之地碑
現在の「宍戸弥四郎戦死之地」碑は二代目で、初代は水害のため倒壊してしまったようだ。その初代の石碑がこの寺に安置されている。なぜこの寺になったのか?は住職も知らなかった。
宝蔵寺 池田謙治郎之墓
池田謙治郎は近江信楽谷の郷士。藤本鉄石の門下生で、8月19日に加わり各地で奮戦した。9月25日、藤本鉄石から軍用金百両を預かって大阪に急いでいたが、谷尻まできたところで軍用金が紛失していることに気が付き、責任を負って自刃した。22歳であった。

明治谷墓地 天誅義士墓所
贈正四位 吉村寅太郎之墓 贈正四位 那須信吾之墓 贈従四位 宍戸弥四郎之墓
 
贈正五位 鍋島米之助之墓 贈正五位 林豹吉郎之墓 植村定七郎之墓
山下佐吉之墓
天保高殿之墓 西田仁兵衛之墓
湯之谷墓地 天誅義士墓所
贈従四位 藤本津之助之墓 贈正四位 松本謙三郎之墓 贈正五位 森下幾馬之墓
贈正五位 森下儀之助之墓 贈従五位 福浦元吉之墓
村上萬吉之墓
贈従四位 藤本津之助之墓
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