愛宕茶屋(東軍戦死者埋骨地)
          

 堤防上に渡船場の利用客を相手にする愛宕茶屋という茶屋があった場所であり、鳥羽伏見の戦いのおり会津藩上田隊が陣地を張り兵を潜ませて、新政府軍の来攻に備えた。
 
慶応4年1月5日朝、新政府軍は総攻撃を仕掛け激戦となり、淀にいた会津藩白井隊、堀隊は応援に向かうが、新政府軍の砲銃及び散弾が雨の如く降り注ぎ本道を進む事が出来ず、堤下や人家に潜みながら戦い進んだが、新政府軍の攻撃も猛烈を極め進退を繰り返した。双方共に多くの死傷者を出し、旧幕府軍は納所から淀へ敗走することとなる。
 伏見街道の旧幕府軍もやぶれ、戦場は淀に移動し大砲銃により、市中に火が起こった。旧幕府軍の大垣藩が抵抗する中、高松藩、松山藩の兵が応援にくるが支えきれず。死者は淀の寺院に葬り、負傷者は船に乗せて大坂に下った。
 
伏見、淀周辺には、東軍戦死者埋骨地が点在するが、この地もそのひとつである。
 
現在は、鳥羽伏見街道の堤防下の大きな銀杏の木の元に石碑だけが建ち、昔の面影は何も無い。

アクセス 愛宕茶屋は伏見区納所外島。金井病院バス停「納所岸ノ下戊辰役碑」の隣にある。これが目印。納所会館は伏見区納所南城堀。納所小学校を目印に行くとよい。大きな銀杏の木の下、土手沿いにある。
鳥羽伏見之戦地跡地碑
 京阪電鉄淀駅から伏見方向へ、府道沿いに約一キロ半。北城堀バス停を過ぎたあたりの競馬場側に、五輪塔型の石碑が建つ。建立地は納所団地入り口へ向かう角の、歩道とマンション敷地の空問に挟まれた場所にある。
 正面には「宝塔者為鳥羽伏見戦跡地有縁無縁之諸霊追福菩提也」という刻印。さらに「空・風・火・水・地」を表す梵字。裏面には、建立者が連名で記されている。ここから少し離れたところには以前納所村の共同墓地があったそうだが、旧幕軍戦死者をこの墓地に埋葬したという話も記録も残ってはいない。建立されたのは、昭和47年。当時、ここは競馬場利用客を対象にしたレストランの駐車場で、妙教寺の住職が語るところによると、レストランの店主が「古戦場跡」を客引きの宣伝材料にすることを思い立ち、そのために駐車場の隅へわざわざ石碑を建てたという。確かに石碑は府道側が裏面で、競馬場を向くかたちで設置され、競馬場帰りの客から見やすい状態である。その後レストランは廃業し、建物なども変わったが、敷地の端にあった慰霊碑だけが取り残され、現在に至る。
 鳥羽・伏見戦のころ、この碑が建っているあたりは湿地帯の真ん中で、古地図を見ても「池」として描かれている。水とぬかるみが広がるばかりで、とても人間が戦える場所ではなかったそうだ。ここで戦闘行為があった事実は、おそらく皆無であろう。
アクセス 伏見区納所星柳17-2 府道京都守口線沿い、納所団地北西入り口の角にある慰霊碑。
妙教寺(戊辰役東軍戦死者之碑・砲弾跡)
 妙教寺は、鳥羽伏見の戦の戦闘に巻き込まれ、本堂に飛び込んだ不発弾の跡などが残る。

 本堂の南壁外面に砲弾の貫通穴が残り、4日に打ち込まれたとの話であるが、この辺りが主戦場になるのは5日以降になるため、旧幕府側が放った砲弾だと思われる。

 榎本武揚書による「戊辰役東軍戦死者之碑」の碑文には、「戦死者埋骨地三所一在下鳥羽村悲願寺墓地一納所村愛宕茶屋堤防一八番楳木」と書かれている。

 大砲の弾が貫通した柱などが本堂内部には残るが、本堂内部は原則非公開のため、外部から見るしかないが風雨防止の為板が張り付けられ位置の確認程度しか出来ない。

アクセス 京都市伏見区納所北城堀49。納所小学校の北側にある。細い路地なので注意すること。
戊辰戦場址碑
 富之森愛宕茶屋の南の堤防上にあったものが現地に移されたものである。道より高い上部にある納所会館を見上げた右側に樹木のそばにひっそりとたたずむ。
アクセス 納所小学校の南側に納所会館
淀小橋旧碑跡
 明治の淀川改修工事で小橋はなくなった。慶応4年1月5日、富の森や千両松で戦った旧幕軍が敗走し、永倉新八の「浪士文久報国記事」には、淀城下へ引き揚げると川向こうは敵地となっており小橋では銃撃戦が激しかったとあり、かなりの激戦があったと思われる。

 城内に入ることが出来なかった旧幕府軍は仕方なく城下に火をかけて、残らず橋本宿に引き揚げて行った。

 宇治川に架かり、淀城下町に入るための入り口となるのが淀小橋(幅4間、長さ71間)であった。

アクセス 伏見区納所104 納所交差点を府道124号へ曲がってすぐの所にある。
八番楳木・千両松跡(東軍戦死者埋骨地・戊辰役戦死者碑)
 慶応4年1月5日早朝、伏見を撤退した新選組、会津兵、幕府大砲隊は、千両松堤に布陣する。伏見口より追撃してきた新政府軍とこの地で激戦となる。新政府軍は、会津藩佐川官兵衛率いる槍隊の猛反撃にあい、いったん引き揚げるが援軍を得て攻勢に転じた。旧幕府軍は陣を捨て八幡方面に退却する

 土方歳三も新選組30名ほどを率いて路の中央を猛進するが新政府軍の銃勢が激しく左右の堤の陰に分かれて、会津兵に合流して戦った。

 この戦いに於いて、双方ともに多くの死傷者が出る。新選組にも数十名の隊士が討死する。その中に試衛館からの同志で新選組六番隊組長であった井上源三郎も一発の銃弾を受け戦死する。甥の井上泰助が井上の首と刀を持って大坂に向かうが、他の隊士達より遅れがちになり、「そんなものを持っていると、遅れて敵につかまってしまうぞ。残念だろうが捨てろ」といわれ、ある寺の門前の田圃を掘って埋めたという話であるが、寺の名は伝わっていない。

 後に、江戸城内で土方が鳥羽伏見の戦いの事を聞かれ「もう槍や剣では戦争というものは出来ません」と語ったといわれるが、この戦いの時に実感したのではないだろうか。

 永倉新八の「浪士文久報国記事」によるとこの日の戦いで新選組副長助勤山崎丞も死んだとしているが、御香宮に残る「戊辰東軍戦死者霊名簿」には、山崎丞は負傷後船中に於て死との記載がある。

 京阪本線と宇治川が並行する辺りが古戦場跡と言われている。川沿いには高い木が生い茂り当時を想像すると感慨深い。

 戊辰役東軍西軍激戦之址・戊辰役東軍戦死者埋骨地

 京都競馬場の駐車場脇の高架下に建ち道路を挟んで京阪本線が走り、走る京阪電車内からも見る事が出来る。

 戊辰役東軍西軍激戦之址に建つ、淀・伏見周辺に点在する東軍戦死者埋骨地のひとつである。

アクセス 京都市伏見区納所。京阪淀駅下車。府道13号線に出て納所の交差点へ。セブンイレブン脇の道をまっすぐ行くと京都競馬場の駐車場に石碑がある。千両松古戦場は横大路運動公園と伏見下水処理場の宇治川土手沿いだったと思われる。
淀城址
 慶応4年1月3日夕方、ついに鳥羽口伏見口で鳥羽伏見の戦いの火蓋が切って落とされた。伏見奉行所に布陣する、新選組は薩摩軍の銃撃に阻まれ、淀方面に撤退することになる。

 4日は上鳥羽で小戦を行った新選組はじめ旧幕府軍は淀城入城の為に、淀城下にたどり着いたが、城門は閉ざされたままで入城はかなわなかった。

 当時、淀藩主稲葉美濃守は老中として在府中で幕政に参与していた。国もとでは藩論が二派に分かれて紛糾したが、結局城内の家臣は旧幕府軍の入城拒否することになる。旧幕府軍の敗因の大きな一因となるのである。

 美濃守は、二本松藩丹羽長富の二男として生まれ、淀藩主稲葉正諠の養子となり十五歳で襲封した。京都守護職松平容保と協力して尊王討幕の過激派をおさえることをはじめ、幕末の困難な政局に老中として責務を果たしていたため、中立を宣言する。

 なお、有名な秀吉の側室淀君がいた淀城は、納所の妙教寺付近にあった。

 城内に「淀城址」「田邊治之助記念碑」「明治天皇御蹕址」の碑が立ち、公園になっている。

 鳥羽伏見の戦いのよる戦火により、城下は焼け野原と化し現在は城下町の面影も残らない。後の淀川改修工事のため、地形も変わり、現在は城の石垣と堀を残すのみである。

アクセス 京都市伏見区淀本町。京阪淀駅下車。駅前に淀城跡公園があり石垣が残る。
光明寺跡(東軍戦死者埋骨地)
 鳥羽伏見の戦いの激戦により旧幕府軍にも多くの戦死者がいた。淀、伏見周辺に11ヶ所の「戊辰役東軍戦死者埋骨地」の碑が残る。

 淀城下は鳥羽伏見の戦いの戦火に焼かれ城下町の面影も残さない。現在は比較的新しい建物の寺院が並ぶが、当時は焼出された地元民などにより焼けた寺院にも運び込まれたのであろう。宗派も違う寺院であるが多くの戦死者の為に宗派も超え協力したのであろう人々の姿が思い浮かぶ。

光明寺は、現在長円寺に合併され現存しない。光明寺墓地にあった墓石も長円寺に移されている。

 明治2年の木津川、明治31年からの宇治川・淀川の改修工事により、著しく、地形が変貌しているため、寺院の移動と共に埋骨地の石碑も移動してると思われる。 

アクセス 京都競馬場乗馬センターに向かう道路沿いの民間駐車場の傍らに供養地蔵尊と並んで石碑が建ち、墓石等は長円寺に移され寺院があったと思わせるものは何も無い。
明親館跡
 万延元年(1860)5月、淀藩主稲葉政邦公が家老の松尾直在に創設させたものである。明治5年学制発布により明親小学校を設立した。
アクセス 伏見区淀池上町106
大専寺(東軍戦死者埋骨地)
 鳥羽伏見の戦いの激戦により旧幕府軍にも多くの戦死者がいた。淀、伏見周辺に11ヶ所の「戊辰役東軍戦死者埋骨地」の碑が残る。

 淀城下は鳥羽伏見の戦いの戦火に焼かれ城下町の面影も残さない。現在は比較的新しい建物の寺院が並ぶが、当時は焼出された地元民などにより焼けた寺院にも運び込まれたのであろう。宗派も違う寺院であるが多くの戦死者の為に宗派も超え協力したのであろう人々の姿が思い浮かぶ。

 山門を入ったすぐ右側の樹齢330年と言われる百日紅の木の傍らにひっそりと石碑が建つ。

アクセス 京阪淀駅下車。淀支所前の道を南へ、大泉寺(淀下津町52)、文相寺(伏見区淀新町58)、東雲寺(淀新町618-1)の順にある。

文相寺(東軍戦死者埋骨地)
 鳥羽伏見の戦いの激戦により旧幕府軍にも多くの戦死者がいた。淀、伏見周辺に11ヶ所の「戊辰役東軍戦死者埋骨地」の碑が残る。

 淀城下は鳥羽伏見の戦いの戦火に焼かれ城下町の面影も残さない。現在は比較的新しい建物の寺院が並ぶが、当時は焼出された地元民などにより焼けた寺院にも運び込まれたのであろう。宗派も違う寺院であるが多くの戦死者の為に宗派も超え協力したのであろう人々の姿が思い浮かぶ。

 本堂脇の通路を本堂裏側の墓地に向かい、墓地に入ってすぐの水桶置き場横に石碑が建つ。

アクセス 京阪淀駅下車。淀支所前の道を南へ、大泉寺(淀下津町52)、文相寺(伏見区淀新町58)、東雲寺(淀新町618-1)の順にある。
長円寺(東軍戦死者埋骨地・森田貫輔首級碑・戊辰役東軍戦死者之碑)
         
 鳥羽伏見の戦いの際に、戦闘により命を落とした旧幕府軍兵士の埋骨地の一ヶ所である。山門前の左側に榎本武揚書の碑が立つ碑文には「戦死者埋骨地六所二存本寺一淀町光明寺墓地一大専寺一文相寺一東運寺及八番番賀」とあり、寺内には「戊辰役東軍戦死者埋骨地」の碑がふたつある。

 小さな川沿いに三つの寺院が並び、高福寺と東運寺に挟まれた真ん中に建つ寺院で、山門前に大きな石碑が建つ。

 この寺院には、ふたつの埋骨地の碑が有り、光明寺が長円寺に合併された際に移されたとの話があるが、光明寺跡にも埋骨地の碑があり、何故ふたつの碑が有るのかは定かでない。

アクセス 京都市伏見区淀新町681。京阪淀駅下車、淀支所前の道を南へ淀新町のバス停をこえたところにある。
東運寺(東軍戦死者埋骨地)
 鳥羽伏見の戦いの激戦により旧幕府軍にも多くの戦死者がいた。淀、伏見周辺に11ヶ所の「戊辰役東軍戦死者埋骨地」の碑が残る。

 淀城下は鳥羽伏見の戦いの戦火に焼かれ城下町の面影も残さない。現在は比較的新しい建物の寺院が並ぶが、当時は焼出された地元民などにより焼けた寺院にも運び込まれたのであろう。宗派も違う寺院であるが多くの戦死者の為に宗派も超え協力したのであろう人々の姿が思い浮かぶ。

アクセス 京阪淀駅下車。淀支所前の道を南へ、大泉寺(淀下津町52)、文相寺(伏見区淀新町58)、東雲寺(淀新町618-1)の順にある。