八  幡

石清水八幡宮
文久3(1863)年4月11日、孝明天皇は攘夷祈願のため石清水八幡宮に行幸した。これは、主として長州藩が画策したもので、神前にて天皇から将軍へ攘夷の節刀を授けさせ、幕府を攘夷戦争へ踏み切らせようというもの。無論、幕府が攘夷戦争を実行出来るはずもなく、真の目的は幕府を二律背反の窮地に追い込む事にあった。この狙いを看破した将軍後見職徳川慶喜は、将軍徳川家茂には病と称させて供奉させず、自身が名代として行列に供奉する。しかし、慶喜も石清水八幡宮まで来ると、腹痛と称して山下の寺院に籠もった。慶喜は、攘夷祈願をすませた天皇に社前までくるよう召されたが、腹痛を理由に神前へは行かずに済ませた。
アクセス 京阪電車八幡市駅下車 ケーブルカーで山上へ 八幡市八幡高坊30
念佛寺(名波常蔵墓)
念佛寺 山門

右下の石碑に「戊辰史蹟 念佛寺」とある。

大垣藩兼用隊名波常蔵(藤原忠好)の墓

慶応4年1月5日、鳥羽にて戦死。享年24歳。他にも大垣藩の森国蔵、矢野才次郎、渡辺右一郎らが葬られているが墓石は見あたらない。

アクセス 八幡小学校北側 大谷川北側にある 八幡市八幡山路29-1
番賀墓地(東軍戦死者埋骨地)
 長円寺に建つ戊辰之役東軍戦死者之碑に八番番賀と書かれている東軍戦死者埋骨地のひとつである。新選組は八幡堤・八幡山中腹でも戦闘をつづけており、「浪士文久報告記事」によると、永倉新八と斎藤一は土方歳三の引き揚げに気づかずに敵に囲まれ、ようようのことで橋本の陣屋に戻ったとある。番賀墓地に葬られている戦死者の名は分からないが、新選組隊士も幾人かは葬られたであろうとおもわれる。

 広い田んぼの中に墓地があり、かなり遠くからも確認することが出来る。古くからの墓地であり、焼けた跡が残る墓石などがあり、この戦いの火災により焼けたのであろうか。

アクセス 八幡市役所の北の道を西方向へ。大谷側を越えてすぐの細い道を右へ入りまっすぐ行くと墓地入口になる。車の方は川を越えたところで止めたほうがいい。