中書島・丹波橋

長州藩伏見藩邸跡
 長州藩並びに七卿の復権を目指した長州藩は、多方面に働きかけたが、幕府・会津・薩摩の妨害により、思うように進まなかった。ついには兵力をもって解決しようとした。元治元年7月、福原越後は伏見藩邸に入り、18日深夜、武装した兵500とともに京へ進軍した。伏見街道を守る大垣藩兵に阻止され、竹田街道からの会津・桑名・新選組に攻められ、福原は負傷落馬、彦根兵に追撃きれ、長州藩邸に戻った。勝ちに乗じた彦根他の連合軍は、京橋際から長州藩邸を砲撃した。このため藩邸は炎上、民家30余戸も類焼した。
アクセス 伏見区表町 京都市伏見土木事務所付近
寺田屋(寺田屋騒動・寺田屋事変)
          
                寺田屋概観                      竜馬通り商店街にある龍馬館
          
寺田屋庭にある龍馬とお登勢の顕彰碑
 文久2年4月23日の薩摩藩急進派有馬新七ら35名が京都所司代と関白の殺害計画を立てた。計画を知った藩主は藩命で藩士を鎮圧に向かわせ大乱闘になった寺田屋騒動と慶応2年1月21日坂本龍馬が伏見奉行所の捕方に襲われた寺田屋事件と二つの事件の舞台になったのがここである。

 寺田屋騒動は4月23日朝、大坂の薩藩邸を出て、中之島から数艘の舟に乗り、京を目指した。有馬新七・橋口壮介・是枝善助・吉田清右衛門・篠原冬一郎・田中謙助・橋口伝蔵・柴山竜五郎・柴山愛次郎・富田猛二郎・真木和泉・田中河内介等を主とする35名であった。

 彼らは、「関白九条尚忠と所司代酒井忠義を討ち取り、幽閉中の青蓮院宮をお助けして参内して頂き、討幕の詔勅をいただこう」というもので、青蓮院宮を大将軍に戴き、折から上洛中の久光公を副将軍として、攘夷倒幕を行おうという作戦を立てていた。そしてこの日の夜にいよいよ蜂起しようということであった。

 彼らの計画は、夕刻伏見に着いたら、船宿寺田屋で準備をととのえ、京都へ進撃する、京都の長州勢は、家老浦靭負以下久坂玄瑞ら100余名が、所司代の攻撃、御所の警護、その他随所へ遊撃するつもりで、手ぐすねひいて待ち構えていた。土佐藩の吉村寅太郎その他は遊撃隊として出動する、ということであった。

 久光の命を受けてやってきた、鎮撫使の到着であった。すでに夜更けの10時頃になっていた。有馬、田中、柴山、橋口の4名が階下に下り、奈良原ら4名と対座した。奈良原は、有馬らに向い、「我々は久光公の使いで出向いた。公は大変心配せられ、諸君と直接話をしようと、待っておられるから、ただちに錦小路の邸ヘ来てくれるように」と話し、鎮撫につとめた。話し合いは平行線のまま時間だけが過ぎてしまった。もはやこれまでと武力による鎮圧が始まった。

 新七は道島とまだ戦っていたが、有馬の刀はやや道島の剛刀より細身であったか、刃を合せているうちに、新七の刀は鍔元から折れて飛んでしまった。新七はすかさず両手をひろげて、道島に組みつき、壁ぎわに道島を押えつけた。ちょうどそばに来合せたのは、橋口壮介の弟で、弱冠20歳の吉之丞であった。吉之丞は新七の助勢をしようにも、どうしてよいか迷うところを、新七は「橋口、オイごと刺せ― オイごと刺せ!」と叫んだ。吉之丞も今はためらわず、自分も叫び声のような気合もろとも、有馬の背中から道島の身体へ刀を突き入れた。刀は壁まで通り、2人は死んだ。

 鎮撫使側の死者1名、負傷数名。暴発組のうち、西郷信吾(従道)、伊集院直右衛門は帰順した。田中河内介、真木和泉は陳謝、残る一同は藩邸に出頭。後に同盟の藩士21名と、田中河内介父子、千葉郁太郎(河内介の甥)、中村主計(島原藩)、海賀宮門(秋月藩)の5士は鹿児島へ護送されることになった。なお藩外の5士は、護送の海上で斬り殺されて海に棄てられた。

アクセス 伏見区南浜町 見学時間は10時から16時まで。寺田屋近くには竜馬通り商店街があり、様々なイベントが行われている。
龍馬が隠れた材木小屋跡
          
慶応2年1月21日、龍馬の努力で薩長同盟が成り、23日夜、寺田屋に戻った龍馬は、三吉慎蔵に成果を告げともに喜んだ。同夜半寺田屋は伏見奉行所の捕方に包囲された。入浴中のお龍の知らせで、龍馬と慎蔵は応戦し、龍馬の短銃にひるむ捕方の隙をみて、二人は裏手より脱出し、濠川端の材木小屋にかくれた。三吉の急報を受け、薩藩伏見邸から大山彦八が船に藩旗を立てて出迎えに来た。やがて龍馬は西郷の差しむけた兵士に護られて、二本松邸に移った。
アクセス 伏見区大手筋村上町(写真右) 諸説有り写真左が土橋付近
紀州藩伏見邸跡
 大手筋に面した現大倉酒造の地は、江戸時代には紀州藩伏見邸のあった所である。文久3年8月の天誅組追討や慶応2年の第二次長州征伐には藩主茂承が総督として広島に赴き指揮を執ったが、幕府軍は敗退した。

 戊辰戦争では官軍側についたが、敗走する幕軍が紀州に入り、庇護したが、そのことを新政府から詰問され、恭順を示すため官軍に協力し出兵した。

アクセス 伏見区片原町
東本願寺伏見別院
 慶応4年正月2日夜10時すぎ、薩摩藩兵数名が知らせにより伏見別院に来てみると、堂内は会津兵で一杯であった。会津の重役林権助に問い質すと、上洛する慶喜公の先供であると答え、薩摩藩士は林に暫く留まり、勅命を待つようにと伝えた。翌3日も通す通さぬのあげく、戦いの火ぶたは切られた。東本願寺伏見別院は慶長7年の創建。会津藩の宿所となり、付近は戦場となったが、戦火は免れた。
アクセス 伏見区大阪町
大光寺 横田蔵之允の墓
          
 伏見奉行所与力の横田蔵之允が慶応3年11月8日殺害された。犯人は新選組の後藤大介。その理由が余りにも手前勝手。禁猟区の巨椋池で鳥を撃つ新選組隊士がいるとの通報で奉行所は警戒していた。すると後藤が鳥を撃っているのを横田が発見し、厳しく譴責した。自分の罪を棚に上げ後藤は、横田に逆恨みし2・3名をともない、横田の役宅を襲い惨殺。天誅の斬奸状を残し、首は竹田街道蓮心橋に晒した。享年43歳。その首は息子の米之助が持ち帰り大光寺に埋葬した。
 横田蔵之允は京都東町奉行所与力西尾新太郎家より横田家の養子となった。文武に秀で、伏見奉行所与力中、右に出るものはいないという腕前であった。
 その後後藤は、鳥羽伏見の戦いを経て江戸帰還後に脱走し、薩摩軍に加わったが、強盗を働き梟首されたといわれている。

 商店街に面して寺門がある。本堂裏に墓地があり、墓地に入ってすぐ左手にある。「重宣院日誉義生居士横田蔵之助源義生墓」とあり妻フキの名前と並んでいる。

アクセス 伏見区伯耆町1‐1。京阪伏見桃山駅か近鉄京都線桃山御陵前駅下車。商店街を西へ。アーケードがなくなる手前北側にある。
薩摩藩伏見邸跡
 慶応2年1月21日、寺田屋で襲われた龍馬は三吉慎蔵とお竜のお陰でここ伏見藩邸に運ばれる。そしてお竜の必死の介護で指の傷を快復する。薩藩邸の留守居役大山彦八であった。

 慶応3年11月18日油小路で襲われた伊東甲子太郎ら御陵衛士の生き残りがここで保護される。12月18日、復讐のためここを出て近藤を狙撃する。

 慶応4年1月3日、戊辰戦争に際しては、薩軍の五小隊と一番砲隊および臼砲隊が、長州の二小隊、土佐の二小隊とともに伏見を守った。薩藩邸1月3日の戦の最中白井五郎太夫の率いる会津の大砲隊の手によって火をつけられて焼かれた。

アクセス 伏見区東堺町530 現・松山酒造付近
大黒寺(寺田屋殉難九烈士墓・平田靱負墓)
           
 寺田屋事変で亡くなった有馬新七等9名が眠っている。また宝暦年間に幕府の命令で薩摩藩が行った木曽川改修工事の責任者・平田靭負の墓もある。30万両予算で始まった工事は200万両以上かかったといわれている。天明の伏見義民の遺髪塔などがある。

有馬新七 正義      法名 養法院観阿有信居士  享年28 田中謙助 盛明      法名 忍辱院寂居謙了居士  享年35
柴山愛次郎 道隆    法名 悲田院堪然芳愛居士  享年27 橋口壮介 隷三      法名 真実院双照玄荘居士  享年22
橋口伝蔵 兼備      法名 法伝院賢徳泰巌居士  享年22 弟子丸竜助 方行    法名 精進院善覚就孝居士  享年25
西田直五郎 正基    法名 常明院西山智雲居士  享年25 森山新五左衛門 永治 法名 不断院夏山良勇居士  享年20
山本四郎 義徳      法名 緑樹軒智日玄居士    享年24


アクセス 伏見区鷹匠町西側、伏見区役所前の道を北へ行くと鷹匠町に出る。その西側にある
松林院墓地(寺田屋お登勢墓)
          
 大黒寺の向かいに松林院がある。入口から東に向かうと北側に五輪石塔に4人の戒名が刻まれている。その中に「喜道院妙持信女」がお登勢である。6代目伊助の妻で、龍馬など勤王の志士を助けた女傑であった。明治10年9月7日没。享年48歳。この墓碑は7代目伊助の妻花子が建てた。
 寺田屋事変では9人の薩摩藩士が亡くなり、寺田屋事件では龍馬が場庫裡に襲われた。様々な事件の目撃者であった。


アクセス 伏見区役所前の道を北へ行くと大黒寺に出る。その向かい側にある
尾張藩伏見邸跡
 尾張藩伏見邸は、現在の伏見板橋小学校の地にあった。慶応3年12月21日、伏見にいた幕府歩兵や新選組が民家に押し入り、掠奪などをしているとの情報があり、同25日、朝議により、尾張藩士田宮如雲を伏見取締参与として伏見の尾張藩邸に出張させた。そして、薩長土芸の四藩に対し、狼籍者取締りのため 一の巡邏をするように命令が出した。土芸両藩は拝辞して兵を出さなかった。
アクセス 伏見区下板橋町
玄忠寺(長州藩陣屋)
 慶応3年12月21日以来、長州藩第二奇兵隊軍監兼参謀・林友幸は、兵士125名を率い、伏見下板橋の玄忠寺や泉経寺に駐屯して、伏見奉行所に入った幕軍の動きを警戒することになった。なお、玄忠寺の境内には、元和4年正月の伏見騒動(過書奉行の専横を幕府に直訴した)の小林勘次の墓と顕彰碑がある。
アクセス 伏見区下板橋町
魚三楼の弾痕
          
明和元年、今から240年ほど前の創業の老舗料理店。慶応4年勃発の鳥羽伏見の戦いでは、薩摩藩が陣を置いた御香宮神社に近かったこともあり、炊き出しをしていた。
 表の格子には鳥羽伏見の戦いの銃弾の跡が残っている。なかなか歴史を感じさせてくれる建物である。


アクセス 伏見区京町3丁目187番地
御香宮神社(薩長軍本陣・明治維新伏見戦跡碑)
          
 伏見口の戦いで新政府軍が陣を築き、南約200mの近距離にある伏見奉行所に大砲を撃ち込み、北西にある龍雲寺からも砲弾の雨を降らせた。低地にあった奉行所は土方歳三らが守っていたが火災が発生し、斬り込みを行うが被害甚大のため淀方面へ撤退した。
 薩摩の砲隊は、御香宮の北東の高台に位置する龍雲寺(伏見区桃山毛利長門東町)にも置かれた。

 名水百選に選ばれた御香水が湧く。神社には「戊辰之役東軍伏見鳥羽淀八幡ニ於テ戦死及殉難者人名簿」があり、この中に井上源三郎以下二十四名の名前がある。拝殿脇の駐車場に「明治維新伏見戦跡」碑と説明板が立つ。


アクセス 伏見区御香宮門前町、伏見大手筋国道24号交差点西北
龍雲寺(薩摩藩砲台跡・佐々木采女慰霊碑・御親兵総嚮導 楢澤信之助墓・十津川親兵隊墓)
           
 桃山善光寺と呼ばれる龍雲寺は、明治以前は現在地の東方500m程の桃山町三河にあった。慶応4年正月3日夕方、龍雲寺高地(標高65m程、西南方600mの位置に奉行所を望む、標高差35−40m)に進入した、薩軍大山弥助の指揮する第二砲隊は、伏見奉行所を中心に展開する幕軍に対して猛烈な砲撃を開始した。奉行所一帯は火災を起こし、幕軍は敗退した。龍雲寺には戊辰戦に散った、十津川御親兵の墓がある。

アクセス 伏見区桃山毛利長門東町 本堂右に「史跡公園」として、墓地がまとめて移転されている。
伏見奉行所跡碑
          
 10月に大政奉還、12月に王政復古があった慶応3年12月12日、新選組は二条城に入り、14日には大坂へ向かった。そして16日には伏見奉行所に入る。18日には近藤勇が二条城からの帰路墨染で御陵衛士の生き残り狙撃を受け重傷。20日に近藤は結核の悪化した沖田総司とともに治療のため大坂へ下がった。
 伏見奉行所には土方歳三ら150名が宿陣することになった。

 慶応4年1月3日、鳥羽方面の砲声がきっかけとなり、御香宮の薩摩軍から奉行所に対して砲撃が始まった。
 奉行所の表門は会津軍、南北の門は伝習隊、新選組は裏手の方を守備した。
 この戦闘で奉行所は燃え、会津軍と伏見市中へ斬り込みを行った。薩摩軍を御香宮まで追い込んだが、圧倒的火力に押され、味方は敗走し淀方面へ退却した。
 伏見奉行所は、現在の市営桃陵団地五十四棟から桃陵中学校までかなりの大きさがあった。

 写真左は市営桃陵団地53棟前の西門に「伏見奉行所跡」の石碑と説明版がある。魚三楼から徒歩5分の所にある。写真右は市立桃陵中学校のグランドにこの碑は立つ。同じく「伏見奉行所跡」。中学校の許可をもらって入ること。

アクセス 京阪伏見桃山駅から東へ一筋目の信号を南へ魚三楼を通り油掛通を東へ。近鉄桃山御陵前駅から東へすぐの角を南へ。
維新戦碑
市立桃陵中学校正門を入ってすぐの所に「維新戦跡」の碑がある。
また、グランドにこの碑は立つ。同じく「伏見奉行所跡」。中学校の許可をもらって入ること。
アクセス 伏見区桃陵町1番地
明治天皇陵
 明治天皇は、嘉永5年(1852)9月22日、孝明天皇を父とし、中山慶子(よしこ)を母として生まれた。
 慶応3年(1867)1月9日、父孝明天皇が前年の12月25日、35歳で急死したため、第2皇子の当時16歳の祐宮睦仁(さちのみやむつひと)親王が即位し、明治天皇睦仁(むつひと)となった。
 明治天皇は若年で即位したため、側近の岩倉具視らの主導で明治維新は推進された。
 その結果、徳川慶喜に大政奉還の勅許を与え、薩長両藩主に討幕の密勅を下して王政復古の大号令を発した。
 新政府を樹立して、1868年3月には五箇条の誓文を発し、明治4年(1871)6月に廃藩置県を断行して中央集権体制を実現した。
 明治22年(1889)に大日本帝国憲法を発布して帝国議会を開設した。また日清・日露戦争では大本営で戦争指導の重要な役割を果たした。
アクセス 伏見区桃山町古城山
乃木神社
 乃木希典は、明治時代を代表する軍人。陸軍大将・伯爵。第10代学習院院長。東郷平八郎とともに日露戦争の英雄とされ、「聖将」とも呼ばれた。 若い頃は放蕩の限りを尽くしたが、ドイツ帝国留学において質実剛健な普魯西(プロイセン)軍人に感化され、帰国後は質素な生活を旨とするようになったという。また、明治天皇の後を追った乃木夫妻の自殺は、殉死として美談にもなった。
 山口県、栃木県、東京都、北海道など、複数の地に乃木を祀った乃木神社がある。
 乃木少年が長府(山口県)で父母妹達と慎ましい生活をしていた時代の旧宅 や日露戦争時に旅順柳樹房で第三軍司令部として使われた民家を移築した建物 、乃木将軍の遺墨・遺品他日露戦争前後の関係資料を展示した資料館もある。
アクセス 伏見区桃山町板倉周防
松本酒造−時代劇のワンシーン

 寛政3年、初代松本治兵衛により現在の京都市東山区で始めた酒造りが、松本酒造の始まり。大正11年頃に、伏見の地に製造場を増設し、昭和24年に松本酒造株式会社と改め今日に至る。
 時代劇の撮影によく使われる土手側の景色。様々なスターが駆け抜けていきました。

アクセス 国道1号線大手筋を東へ行くと新高瀬川にかかる新大手橋にたどり着く。ここまで来ればすぐわかる。