東福寺・泉涌寺

東福寺退耕庵(戊辰役殉難士菩提所)
 鳥羽伏見の戦いの際に長州藩の本陣となった。防長殉難者の菩提寺になっている。庵内には戊辰勤王殿と位牌がある。内部見学不可。特別公開の際は内部に入ることが出来る。
アクセス 特別拝観の時期のみ拝観できる。
東福寺善彗院(吉井義之墓)
善彗院(ぜんねいん)

吉井義之 但馬矢名瀬町出身。荒物商の身で尊王に志し、京へ出て梅田雲浜と交わり、学習院に出仕し、生野義挙に加わり、奇兵隊に参加し、池田屋事変では無事に逃れ、禁門の変で負傷。戊辰戦争では北越方面に従軍した。明治25年没。享年67歳。

アクセス 指定日のみ拝観できる。
東福寺(九条尚忠墓・防長忠魂碑)
防長忠魂碑

 大正6年11月、長州藩殉難の士五十回忌に建てられた。表には戊辰戦争の概略と長州軍の活躍をたたえた文面、裏には鳥羽伏見で戦死した48名の名前が刻んである。

九条尚忠 寛政10(1798)−明治4(1871) 公卿。安政3年(1856)8月から6年間関白。安政5年2月、老中堀田正睦が上洛して条約調印の勅許を求めたとき、勅許不可の意見だったが、井伊家の長野主膳や島田左近の説得により勅許論に転じた。公卿の大勢は勅許反対運動に押され、実質上勅許不可を意味する勅諚に改変させられ、以後つねに幕府との間に立って苦慮する立場となった。万延元年(1860)2月、幕府の和宮降嫁秦請が積極化するとこれに協力した。文久2年(1862)危険を感じて4月末関白の辞職。明治4年8月、74歳で没し、京都・東福寺の九条家墓所に葬られた。

九条道孝 天保10(1839)−明治39(1906) 公卿。関白尚忠の長男。元治元年(1864)5月国事御用掛。徳川慶喜大政奉還後の慶応3年(1867)11月、近衛忠房ら同僚御用掛と議して王政復古後の綱紀確立、大政官八省再興案を建議し、これを基に新体制が進んだ。明治元年(1868)2月奥羽鎮撫総督に就任し、薩・長・筑前などの兵を率いて海路東征、3月19日松島に上陸、仙台に入ったが、会津救解を主張する仙台、米沢及び小藩群の結束にあい政治的に苦慮した。6月盛岡、7月秋田に転陣、他方面の政府軍進撃と相まってようやく戦功を得た。明治2年6月弾正尹に就任したが、4年6月罷免後は政界表面に出ず、宮内省掌典長などをして、39年1月4日、68歳で死んだ。正一位大勲位。

アクセス 京阪・JR東福寺駅下車 東福寺境内にある。三門の右側山寄りに建つ。
東福寺即宗院(薩摩藩士東征戦亡碑・田中新兵衛墓・中井弘墓)

  即宗院は、藩摩藩6代藩主島津氏久の建立したもので、島津一族の出身、東福寺54世剛中玄柔禅師が開山である。

 即宗院は立ち入り不可。墓石の公開もされていないが、特別公開の際は内部に入ることが出来る。

薩摩藩士東征戦亡碑

 鳥羽伏見の戦とそれに続く東征の戦いで戦死した薩藩の武士を葬うため建てられた碑が、東福寺即宗院の東北の山上にある。西郷隆盛の筆蹟を刻む碑は南面して建ち、石の柵が巡らされ、傍に墓標5基が西面して並んで建てられ、524名の戦死者の名が所属等肩書とともに刻まれている。中井弘、田中雄平、奈良原喜左衛門の墓などある。

西郷隆盛密議の地−採薪亭跡

即宗院本堂から薩摩藩士東征戦亡碑に行くまでに、表記の駒札がある。安政5年頃、月照と西郷は即宗院山中の採薪亭で密議を行っていた。安政の大獄の時である。

アクセス 特別拝観の時期のみ拝観できる。
防長殉難者墓・祟忠之碑
防長殉難者墓

防長忠魂碑に刻まれている48士の墓所。48基の招魂碑が建っている官軍墓地である。

祟忠之碑

勤王のために戦死した彼らを讃えるため、幕末から明治にかけて活躍した山口の国学者近藤芳樹が記した記念碑である。

アクセス 東福寺南東の月輪南陵と仲恭天皇九条陵の間にある。東福寺六波羅門を出て東・山のほうに向かうと右手に墓地入口の石碑がある。
久邇宮朝彦親王墓
 伏見宮邦家親王の第四王子として、文政7年(1824)1月28日生誕。母は鳥居小路信子。富宮と称した。この方は、改名の多い方なので、列記してみる。文政7年誕生の時、富宮と称す。天保8年12月10日、親王となり、成憲と名のる。同9年閏4月20日(15歳)、落飾、尊応法親王となる。嘉永5年3月22日、勅命により青蓮院門跡となる。23日、尊融と改名。安政の大獄となり、安政6年(1859)9月、相国寺内、桂芳軒に永蟄居。この頃、獅子王院宮と称す。文久2年(1862)4月(39歳)、御赦免青蓮院へ還住さる。しばしば参内朝議に参画。3年1月28日勅命により復飾(御還俗)。2月17日、中川宮と称す。河原町広小路、一乗院里坊の新殿へ移る。8月18日、深更参殿、政変決行す。尊攘主義者から非難される。27日、弾正尹に任じ、御名を朝彦と賜わる。以後、尹宮。元治元年(1864)10月10日、賀陽宮と改めらる。明治元年(1868)8月16日、事により、住孝天皇養子、親玉、宮位共に停止。3年閏10月20日、伏見宮に復帰。5年1月6日、宮号を称し、三品に叙す。8年5月8日、仁孝天皇養子・親王に復す。20日、久邇宮と称す。7月12日、神宮祭主に任ず。12月31日、勲一等に叙す。19年12月29日、大勲位に叙す。24年1月29日甍去。68歳。
アクセス 京阪・JR東福寺駅下車 日吉ヶ丘高校裏側 わかりにくいところにあるので地元の方に道を聞くと良い。悲田院山町 泉涌寺泉山墓地
孝明天皇陵(後月輪東山陵)
孝明天皇陵

第121代。天保2年〜慶応2年。

父は仁孝天皇、母は正親町雅子で皇后は九条夙子。明治天皇を生んだのは中山慶子。御陵は後月輪東山陵。京都市東山区今熊野泉山町にある。

尊王攘夷思想渦巻く激動の時代に象徴として扱われた。江戸時代を通じ幕府に意見した天皇でもあった。

アクセス 泉涌寺を通り越し、山道を登ると後月輪東山陵がありそこに孝明天皇陵がある。
戒光寺(伊東甲子太郎墓・藤堂平助墓・服部三郎兵衛墓・毛内監物墓・連刻墓)
戒光寺 御陵衛士墓地

 泉涌寺塔頭の一つ。油小路事件で亡くなった伊東甲子太郎ら御陵衛士の墓がある。当初伊東、毛内有之助、藤堂平助、服部武雄の遺体は光縁寺に埋葬されたが、慶応四年三月この地に改装され、明治2年11月には墓碑が建立された。御陵衛士拝命にあたっては戒光寺長老の尽力があったという。 

右から服部武雄、藤堂平助、伊東甲子太郎、毛内有之助。御手洗盤には「奉納 明治己巳仲冬日 弘前藩」とある。
左手には新井忠雄従者・高村久蔵の墓があり、合葬墓には篠崎信八郎、富山弥兵衛、清原清、茨木司、佐野七五三之助、冨川十郎、中村五郎の名前が刻まれている。
アクセス 東山区泉涌寺山内29。最寄り駅は京阪・JR東福寺駅。九条通(東大路通)を北上し、泉涌寺道の交差点を泉涌寺方面へ。山門手前即成院横の小道を北へ入ると墓地がある。