竹 田 ・ 下 鳥 羽

安楽寿院(官軍本営跡)
鳥羽伏見の戦いのとき、官軍の大本営が置かれた。明治5年には天皇が休息を取った。その石碑が建っている。
アクセス 伏見区竹田内畑町74  近鉄京都線竹田駅から南西方向。油小路通り沿いにある。
城南宮(官軍本営跡)
 慶応4年1月3日、城南宮表参道に四門のアームストロング砲が並び薩摩軍百余人が守備していた。

 当時の新聞には「薩長より無法に発砲仕候」とあり他の記録からも、戦を仕掛けたのは薩長側であった。

 鳥羽伏見の戦い当時は城南宮の南側の道を西に向かうと、旧小枝橋に行くことが出来たので、薩摩軍はここに大砲を備えた。

アクセス 城南宮は方除けの神様として知られ、京都南インターすぐ一号線沿いにある。
秋の山・小枝橋・鳥羽伏見戦跡碑−鳥羽伏見の戦い勃発地
小枝橋・秋の山

 旧幕府軍は慶応3年12月の王政復古の大号令が発布されると、無用な争いを避けるため、大部分の兵力を大坂へ退かせ、将軍自ら大坂へ退去した。

 慶応4年1月3日、徳川15代将軍慶喜はあまりにもひどい新政府軍の要求に激怒し、薩摩討つべしと号令をかけ進軍する。君側の奸を排除するため、大挙して京街道・鳥羽街道を北上、小枝橋で新政府軍と対峙する。将軍様が勅命で京に上るのだから通せ! 勅命ありとは聞いてないから通せない!の押し問答。新政府軍は優位に戦うため、時間を引き延ばし陣地を構築。戦闘準備が整ってから旧幕府軍を挑発する。

 あまりの対応の仕方に頭に来た旧幕府軍が強行突破しようとすると、薩摩藩がアームストロング砲を発砲、この砲声を合図に旧幕府軍一万五千人と新政府軍六千人の戦いが始まる。ここでは3・4日間激闘があったが旧幕府側の敗色濃厚となった。

 ここから一年以上続く戊辰戦争の火蓋が切られたのである。

旧小枝橋

現在は北へ30mの所に小枝橋がある。以前は鳥羽伏見戦跡碑前から鴨川に橋が架かっていた。

秋の山の碑

鳥羽伏見戦跡碑である。漢詩で書かれ、明治45年に建てられている。秋の山は正式には「鳥羽離宮跡公園」である。

鳥羽伏見戦跡

旧小枝橋のたもとにある。以前はガードレールの後ろに碑があり写真が撮りづらかったが、見やすいところに碑が移動した。

アクセス 京都市伏見区中島。近鉄京都線竹田駅から約1.6キロ。バス停城南宮から西へ約400m。

悲願寺墓地(東軍戦死者埋骨地)
 悲願寺墓地には寺院はなく墓地のみが残っている。墓地中央に「東軍戦死者埋骨地」の墓碑が建つ。鳥羽伏見の戦いのさい、下鳥羽で戦死した数多い旧幕府兵士の遺骸を近隣の住民の手で手厚く埋葬した。昭和五十九年区画整理で墓地が南の柳長児童公園中央のやや北西から現在地に移動した。
アクセス 伏見区下鳥羽柳長町にある。柳長児童公園を目印に探すのがよい。公園北側に悲願寺墓地がある。
法伝寺(東軍戦死者埋骨地・戊辰東軍戦死之碑)
 浄土宗瑞華山。鳥羽伏見の戦いで亡くなった旧幕府兵の供養碑がある。

 慶応4年1月3日から続く鳥羽伏見戦は昼夜をとわなかった。

 鳥羽街道沿いに「戊辰東軍戦死者之碑」があり、横には「戦死者埋骨東北悲願寺墓地」の石碑がある。遺骨は悲願寺墓地に埋葬されたのであろう。

 旧幕府戦死者名簿と会津藩使用の遺物が残っている。ここから鳥羽街道を南に下ると「鳥羽伏見戦跡」碑がある。

法伝寺前の道を川沿いに南下すると、鳥羽伏見戦跡の石碑がある。大きな屋敷前に立っているのでわかりやすいと思う。
アクセス 伏見区下鳥羽三町 鳥羽老人ホーム近く。