高 瀬 川 ・ 木 屋 町

四条大橋
四条大橋での出来事

@初期の新選組には、芹沢鴨、近藤勇、殿内義雄と三派あった。近藤と芹沢は会津藩への窓口一本化と主導権争いから、文久3年3月25日夜、殿内義雄暗殺を実行する。粛正者第一号。享年34歳。殿内一派は新選組を脱し江戸へ帰った。家里次郎は大坂で切腹させられる。この事件後、芹沢・近藤一派は結束を固めるが、次第に両者の考えが異なり、会津藩の意向も働いて芹沢一派暗殺計画へと進んでいく。

A慶応3年1月7日。土佐の那須盛馬と十津川の中井庄五郎が飲酒帰りに、沖田総司・永倉新八・斎藤一の3名と出会う。そして斬り合いになった。新選組側の記録にはないが、「維新風雲回顧録」に書いてある。那須は手紙で2人を殺害したとあるが、相手が新選組とは書いていない。真相は・・・。

⇒現在南側の橋の欄干に原田左之助が付けた傷がある!と看板が出ています。どうやって傷を付けたのでしょうか? 無駄話をひとつ−鴨川の土手には夏になるとカップルが沢山座りますが、誰が決めたか等間隔に座っています。不思議な法則のひとつです。

アクセス これはわかるでしょう
中村半次郎寓居跡
桐野利秋(中村半次郎)

 天保9年(1838)12月2日、薩摩生まれ。示現流達人。文久2年4月上京。しばらく錦小路藩邸正門の守衛をつとめ、青蓮院宮の警護もつとめた。文久3年5月20日、姉小路卿襲撃事件があり、田中新兵衛が犯人とされ自刃したことによって、薩摩藩の乾御門の警備の役は解かれた。それに伴い青蓮院宮警護も終った。京都滞在中、四条小橋東詰南側の煙管屋村田の娘おさと(またはお駒)と仲良くなり、たびたび同家に出入りした。(これがこの場所のことである)

 人斬り半次郎の異名があり、幕末の京において腕を振い、鳥羽伏見の戦では小枝橋でその度胸を示し、また東征に従軍し会津まで戦い進んだ。明治2年、名を桐野利秋と改める。明治4年東京に上り陸軍少将となり、新編成の陸軍の幹部となる。明治6年10月、西郷隆盛が遣韓大使に自ら志願したが、大久保・岩倉らの反対にあい辞任して下野した(明治6年の政変)。西郷は帰郷し、心服していた桐野利秋、篠原国幹両少将、近衛兵の将校下士官ら数百名が、西郷を追って鹿児島に帰郷。

 明治10年西南戦争では参謀を務めたが、9月24日城山で戦死。享年40歳。後に西郷とともに、賊名を除かれて追贈された。大正5年4月11日桐野は正五位を贈られた。

アクセス 下京区四条通り四条小橋東詰南側
土方楠左衛門寓居跡
土方久元

 天保4年生まれ。土佐藩士。文久元年、土佐勤王党に入り、同3年藩命により上京、鷹司、三条、姉小路卿へ出入りして薩長の志士と往来した。同藩の間崎哲馬とともに、公武合体派の山内容堂に直言してその怒りを買い、帰国を命じられた。しかし、彼は三条実美の信頼を得ていたため、脱藩して京に留まり、四条小橋西入ル所の土佐藩用達の薬種商亀屋七兵衛方に下宿した。8.18の政変の折には、七卿に従って西下し、幕府の第一次征長後、五卿の太宰府移住について尽力した。その後上京し、倒幕運動に活躍した。また、中岡慎太郎とともに薩長連合のために働いた。維新後は東京府判事、宮中顧問官、農商務大臣、宮内大臣等諸要職を歴任し、晩年は教育関係の仕事に尽力し、大正7年11月4日、86歳で没した。明治28年に伯爵になっている。

アクセス 中京区四条通り河原町東入ル南側真町 四条河原町の三井住友銀行あたり
岡本健三郎寓居跡
岡本健三郎の下宿先。ここの娘といい仲であった。

岡本健三郎
 天保13年(1842)生まれ。土佐藩士。軽格に属し下横目を勤務、龍馬と親しみ、慶応3年10月越前福井に同行して三岡八郎(由利公正)に会見した。維新後は大阪府に勤め、太政官権判事から大蔵大丞に昇進、明治5年には博覧会用務をもってオーストリアに出張、翌年征韓論で辞職。10年西南戦争では、立志社挙兵計画に参画して禁獄2年の刑を受けた。晩年実業界に投じ、日本郵船会社の重役となる。明治18年没。享年44歳。

アクセス 中京区河原町通四条下ル西側 みずほ銀行のあたり
中岡慎太郎寓居跡
中岡慎太郎

 天保9年(1838)4月生まれで、土佐北川郷柏木の大庄屋の長男。学問を間崎滄浪に、剣術を武市瑞山に学ぶ。土佐勤王党に入り、江戸で久坂玄瑞らと、佐久間象山を訪ねて、時勢論と新戦術を聞く。文久3年10月19日土佐を脱藩し、三田尻に行き、石川誠之助と変名。その後、河原町四条上ル東側の土佐藩用達の書林、菊屋こと鹿野安兵衛宅に隠れ棲む。中沼了三に学び、禁門の変では長州勢に加わって戦い、鷹司邸で負傷したが、幕軍に紛れ、無事逃れて長州ヘ下った。中岡は長州で龍馬とともに薩長の和解に尽力。やがて西郷、桂の京都における会談はようやく成り、慶応2年1月21日に薩長連合成立。慶応3年5月21日には、相国寺付近の薩藩家老小松帯刀の宿舎において、中岡の仲介で土佐藩の乾(板垣)退助らが薩摩の西郷、小松、吉井幸輔と会談し、討幕の密約(薩土盟約)が成立。討幕の武装蜂起の拠点を作ろうと、吉田に陸援隊を組織して隊長となる。

 慶応3年11月15日夕方、中岡は、龍馬を近江屋に訪れた。用件は、昨年制札事件で重傷を負って新選組に捕えられていた宮川助五郎が、情勢の変化で、新選組から身柄を引き渡したいとの申し入れについて、陸援隊で宮川を預かりたいがどうかと、龍馬に相談にいった。中岡はこの夜凶刀に倒れ、襲撃された様子を駆けつけた谷干城に語り残し、17日夕方、ついに死去した。享年30歳。

⇒石碑のまわりに小銭がある。え?御利益あるの?まあ頭は良くなると思うけど、刺客に襲われる災厄はないでしょうね。

アクセス 中京区河原町通り四条上ル東側米屋町 河原町通四条上ル東側のあぶらとり紙屋前に石碑がある。ここには土佐藩用達の菊屋があり、慎太郎は潜んでいた。 
谷干城寓居跡
 
谷干城

 天保8年(1837)2月11日生まれ。安政3年以降二度、江戸に出て、安井息軒に学んだ。文久元年秋、帰国し、藩校致道館の史学助教になり、尊王攘夷論に賛成し、国事に尽くした。慶応2年12月、藩命により、長崎から上海に出張した折に外国事情を学び、攘夷論を棄てた。同3年3月小監察となり、上京し、この場所に住んだ。京都にあっては中岡・板垣らと交わり、また西郷・大久保と会見して、倒幕の密約とその準備を計った。11月15日夜、龍馬・中岡が遭難した際には、すぐさま駆けつけ、田中光顕らと、中岡慎太郎の枕頭にあってその日から、その夜の様子を聴き、刺客について調査した。

 明治元年東征軍の大軍監、5年陸軍少将、6年熊本鎮台司令官、7年台湾征伐参軍、9年に再び、熊本鎮台司令長官となる。10年、西南の役では、50日に及ぶ寵城で名を挙げた。その後、陸軍中将、学習院長、子爵を授けられ、農商務大臣を歴任。貴族院議員となり、従二位勳一等に叙せられた。明治44年5月13日没、享年76歳。

アクセス 中京区河原町四条上ル1筋目東入ル米屋町 桝屋古高俊太郎邸跡(しる幸)の並び南側にある
枡屋跡 古高俊太郎邸跡
古高俊太郎

 文政12年(1829年)生まれ。近江国(守山市)の郷士。変名・湯浅喜右衛門。梅田雲浜の門下生。文久2年8月に薪商を営んでいた升屋喜右衛門が亡くなり、古高は養子となって升屋を継いだ。早くから宮部鼎蔵らと交流し、長州間者として情報活動と武器調達にあたった。

 元治元年4月以降、多数の長州人が入京している情報をつかんだ新選組は6月5日早朝武田観柳斎ら8人が升屋喜右衛門を捕縛。屯所に連行し、旧前川邸の土蔵で拷問すると計画が暴露。

 長州藩士が多数入京していることや、風の強い日を選び、御所に火を放ち、中川宮、松平容保を襲撃し、天皇を長州へ連れ去る計画を白状した。

 一方古高捕縛を知った浪士は池田屋に集結する。運命の日、元治元年6月5日である。 升屋の家屋は没収され町内預けになった。明治元年12月までは当時のままに残されていたという。升屋の敷地は西木屋町四条上ル一筋目入ルしる幸から高瀬川まであった。高瀬川沿いの西側の家には大高又次郎が住んでいた。

アクセス 下京区西木屋町通四条上ル西入真町。現在は志る幸が営業している。最寄り駅は阪急河原町か京阪四条駅。四条河原町交差点から北へ一筋目を西へ行くと北側にある。
北村義貞寓居跡・大高又次郎邸跡−桝屋(古高俊太郎寓居跡)の横
北村義貞
 通称善吉、天保10年(1839)姫路の百姓伊兵衛の長男。甲冑製造業の播州林田藩の大高又次郎が京都に移って、西木屋町四条上ルの桝屋喜右衛門の借家に住むようになると、北村も一緒に上京し、同所に住んだ。文久3年、等持院の足利三代木像梟首を行い、天誅組の大和挙兵に参加し、負傷して京都に帰り、大高又次郎方裏手、路地の離れ家に隠れ、生野義挙には平野国臣に武器弾薬を送った。
 元治元年6月4日夜古高が捕縛された。北村は前日より又次郎とともに、本屋町三条上ル丹虎に出かけていて難を免れた。明くる夜、池田屋の変が起き、北村は槍傷を負うが、裏手の高瀬川の舟入りに隠れ、川伝いに逃れて死を免れた。7月、禁門の変では長州軍に身を投じ、姫路から長州まで逃れた。慶応元年には、姫路藩の同志が多く獄中に捕えられているのを救おうとしたが、警戒が厳重なため、自分も危うくなり果さなかった。慶応3年12月、高野山における侍従鷲尾隆聚の挙兵にも参加。後、姫路に帰り、士籍に編入され、家禄を給与された。維新後政府に仕えた。明治32年5月7日、姫路病院で没。享年61歳。

大高又次郎
 文政4年(1821)播州林田藩大高六八郎義郷の二男。幼少より武芸を志、甲州流兵法および西洋砲術を習い、革具足製作に精通していた。安政の初め、姫路の河合惣兵衛と交わり、姫路呉服町に住み、甲冑製造にあたったが、安政5年、脱藩して京都へ。梅田雲浜、頼三樹三郎らと交わって、尊王攘夷を論じた。又次郎は小泉仁左衛門と山口薫次郎が開き、雲浜が塾頭をしていた三条東洞院梅忠町の塾に寓居した。吉田稔麿、宮部鼎蔵、平野国臣らと交わって、もっぱら同志の武具を製作していた。後、古高俊太郎が、西木屋町四条上ル所に住み、薪炭商を装い密かに勤王のために策謀しつつあるのを知り、宮部の勧めによって古高の宅内別棟に移り住んだ。元治元年6月5日朝、古高は突然踏み込んだ新選組に捕えられた。又次郎は、前夜より宮部とともに、木屋町三条上ル丹虎に泊ったので難を免れた。古高逮捕の報に、同志ら30余名はその夜三条小橋西入ル池田屋惣兵衛方に集って、善後策を相談していた。そこへ新選組を始めとする幕吏が襲撃した。池田屋一帯はたちまち一大修羅場となり、又次郎も同志とともに戦ったが闘死。時に44歳。

アクセス 桝屋(現しる幸)の横 中京区西木屋町四条上ル真町
塩屋勘兵衛宅跡
塩屋勘兵衛

 京都の人で、木屋町四条上ルに住み、山陵の荒廃を憂い、文化3年頃よりひそかに同志を募り、山陵の調査捜索を行った。調査の結果、得ることが多く、水戸藩弘道館の訓導として、後に明治政府も山陵調査にあたり塩屋の調査を参考にした。塩屋は、畿内の地理に精通しており、彼の調査は的確なものであった。彼は多年私財をなげうって山陵捜索を行い、その他漢学、国学も学び、家業は弟勘右衛門につがせて、自分はついに独身で、自らの目的に邁進した。晩年に自ら捜索した諸陵記をまとめて「山陵大全誌」を著した。文政3年(1820)3月7日、56歳で没した。

 山陵大全誌は二部あったが、その一部貴族院議員金杉英五郎氏蔵は、大正12年関東大震災で灰燼となった。残る一部は建仁寺大統院に勘兵術の遺言で寄付されていたが、大正13年9月29日、放火によって大統院が焼失したときに灰燼となった。

アクセス 中京区木屋町四条上ル鍋屋町 木屋町通四条上がる真橋東側あたり
宮川助五郎寓居跡
宮川助五郎

 土佐藩士。三条制札事件の当事者。宮川の寓居には、同藩の志士が多く滞留し、平井収二郎らも同居し、尊王倒幕に尽力していた。三条大橋の西詰には高札場があった。禁門の変の後、第二次征長戦の失敗で、潜伏していた浪士の動きは活発になった。慶応2年8月29日夜、十津川郷士中井庄五郎、前岡力雄、深沢仲麿らは、先の高札を抜き取り、文字を墨で塗りつぶし、鴨川ヘ投げすてた。町奉行所は9月2日に再び同じ制札を掲げたが、4日の夜、これもまた鴨川へ投げすてられていた。市民は面白がったが、奉行所は、幕府の威厳にかかわると、9月10日に3度同じ制札を立て、新選組が監視した。隊士30数名を橋の付近に置いた。9月12日夜、宮川助五郎、安藤鎌次、藤崎吉五郎、松原和助、沢田屯兵衛、岡出禎六、本川安太郎、中川鎌太郎の8名は、宮川宅で、制札取捨ての計画を練り、円山の料亭で酒を飲み、酔いに任せて三条大橋西詰に至り、高札に手を掛けようとした。突如新選組は襲いかかり、宮川らは抜刀して防ぎ、月光明るい夜半の鴨河原の死闘となった。浪士側の藤崎は斬死、宮川は重傷を負い捕えられ、安藤は傷を負いながらも土佐藩邸へたどりついたが、翌日自殺した。他は逃れた。新選組は原田左之助らが負傷した。宮川の家も新選組に襲われたが、すでに空き家となっており家は町預けとなった。宮川は六角牢へ入れられた。後に土佐藩へ引渡されたが、脱走して潜伏した。

アクセス 中京区木屋町四条上ル鍋屋町および三条大橋西詰北側
本間精一郎遭難地
  
本間精一郎

 越後三島郡寺泊出身、安積艮斎に学んだ。同門人には松山飯山、日下部伊三治がいる。文武に長じ、弁舌さわやかで知友が多かった。安政の大獄ののち入洛し、尊王攘夷の急進派として、雄藩に属さぬ自由な行動をとり得たる京都の公卿に接触し、長州に遊説し、土佐にも入り、那須信吾らの脱藩を促したりしたが、ちょうど伏見寺田屋事変によって急進派の動きがくじけてからは、精一郎は悲憤慷慨の体に至り、ついには酒色に身をもちくずし、時には堂上公卿を、また薩長土の志士を激励するあまりに罵倒するなど、目に余る態度がたびたび見られた。そのため、ついに土州武市瑞山を始めとする薩土両藩士に毛嫌いされ、暗殺されるという結果になった。その日、本間精一郎は、昵懇の蜂須賀家の宿所、南禅寺を訪れた帰りに、木屋町二条に住む知人の江州木之本の郷士・安達湖一郎を尋ねた。たまたま同家にいた大音竜太という者から「貴殿もこの頃危険だという噂だ。雨傘をさしていくより、兜でも被って行け」と冗談をいわれ、「兜はよかった」と破顔豪語しながら雨中を辞し、先斗町三条下ルの近喜という料亭に遊んだ。折しも浪人体の者につけられていたので、先斗町を酔歩し、芸者とともに大胸に入ったのであった。精一郎暗殺の下手人は、薩摩の田中新兵衛、土佐の岡田以蔵、平井収二郎らであった。

 文久2年(1862)閏8月20日夜10時過ぎ、先斗町四条上ル大駒料理店の帰途、本間精一郎は浪人数人に襲われた。精一郎が相手を組敷こうとすると、相手は逃げ去った。北へ歩を進め、下瓢亭の向いの瓢箪路地を、先斗町通りから木屋町へ抜け出ようとするところを、先廻りした者2人、後から追い来る者を含め8人が一時に斬りかかり、ついに精一郎は惨殺され、首を斬られて死骸は高瀬川に棄てられた。翌日四条河原に本間の首が梟されていた。7尺余りの青竹に首をつきさして、河原に南向に立てられた。

 先斗町39番路地は、通称瓢箪路地といわれ、現在は通り抜けできないが、かつては木屋町からこの路地を東へ抜けられ、途中の民家の窓格子には、本間らが斬り合いをした時の刀痕が残っていた。先斗町へ抜けて左へ(北へ)折れて数軒ゆくと、瓢亭という料理屋があった。維新当時、土佐・福岡などの藩士がよく飲みにいった店である(現在、格子窓は取外され、刀痕の残る柱だけが木屋町沿いの2軒北隣の小野醤油店に保存されている)。

アクセス 中京区木屋町通り四条上ル1丁目小野方前 酒屋の南側に袋小路の路地がある。その路地の北側に刀傷が残っている。
福岡孝弟寓居跡
福岡孝弟

 土佐藩士、天保6年(1835)2月に高知城下に生れた。吉田東洋の鶴田塾で後藤象二郎、岩崎弥太郎らと学んだ。東洋の参政復職とともに、孝弟も大監察になったが、東洋暗殺とともに辞任した。文久3年、藩情一変し、藩主山内豊範の側役となり、慶応初年には、板垣退助、中岡慎太郎とともに、江戸、京都で活躍した。慶応3年3月、弥太郎らと長崎に赴き、後藤と海援隊の編成を決め、龍馬の脱藩の罪を許した。この年藩の参政となった孝弟は、10月に後藤とともに上京し、河原町通り蛸薬師下ルの、龍馬の住んだ近江屋の南3軒目の酒屋に下宿した。福岡は後藤とともに王政復古の大義を称え、藩主山内容堂に建白書を提出し、二条城の徳川慶喜将軍に謁して、後藤と小松帯刀、辻将曹とともに大政奉還に大賛成しこれを勧めた。

慶応3年11月15日午後3時頃、龍馬は、3軒隣りの福岡の下宿を訪れた。福岡は不在であったので、再び午後5時頃同所を訪れた。福岡はまだ帰宅しておらず、彼の従者和田某が先経名刺をもった使者が隣の坂本先生は御宅に来ておらぬか、と尋ねてきましたと告げた。龍馬はこれを怪しむこともなく、福岡の愛人白拍子のおかよに、福岡の帰るまで、僕の宿へお出でといって帰って行った。この後、間もなく龍馬は遭難するのである。福岡は薩長の武力討幕論に対して、公議政体論を主張した。維新政府にあっては参与となり、由利公正とともに五箇条の御誓文の起草に預かった。王政復古への功績により永世賞典禄400石を下賜され、文部大輔、司法大輔等を歴任し、元老院議官から参議兼文部卿となり、子爵を授けられ、枢密顧問となった。大正8年3月6日没。享年85歳。

アクセス 中京区河原町通り蛸薬師下ル西側塩屋町
近江屋(坂本龍馬中岡慎太郎遭難之地)
坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地

 脱藩浪人で後ろ盾すべき藩がなくとも、大政奉還、薩長同盟をやり、龍馬は海運業に力を入れ、慎太郎は討幕に全力を尽くした土佐を代表する二人。司馬遼太郎の小説「竜馬がゆく」で一躍有名になり、青年の憧れ的な生き方を自然にやってのけた龍馬。物事の真相を探求し、理路整然と話す慎太郎。この性格の違う2人が土佐勤王党で出会い、時代の流れに突入していく。

 慶応3年11月15日夜半、龍馬と慎太郎はここ近江屋の二階で会談中に何者か賊に踏み込まれ暗殺される。龍馬33歳、慎太郎30歳。暗殺団は見廻組説が有力で、刑部省口書(取調調書)に今井信郎の自供があり、渡辺篤の経歴の中にも龍馬暗殺がでてくる。2人とも見廻組隊士である。

 一昔前までは見廻組以外の見方説が大いに評価された。武力討幕を目指す薩摩・長州藩と大政奉還を目指す龍馬・土佐藩との間に溝ができ、倒幕路線が少しずれ始める。そこで岩倉具視らが仕掛けたという話ができる。研究者の間では裏付け史料に重きを置き、その考えで行くならば見廻組説が一番裏付けできると評価されている。刺客は一体誰なのであろうか? 今もって謎である。

近江屋跡の遭難碑
 昭和2年京都市教育会が建立した。北面には旧井口新助氏宅 寄贈者井口新之助 水島善太郎とある。

アクセス 中京区塩屋町。最寄り駅は京阪四条か阪急河原町駅。四条河原町交差点を北上すると西側に京阪交通社がある。その前に石碑がある。
西導寺(安岡勘馬墓)
安岡勘馬

 土佐藩士。天保14年(1843)生まれ。文久3年上京し、河原町の藩邸にいたが、8.18の政変で脱藩し三田尻に赴いた。中国・四国を遊歴し志士と交遊した。元治元年3月上京し、大仏辺りに潜伏したが、尊攘派の力を得るときでないのを憤り、3月10日、松原通鴨川河原で自刃した。父助市が遺骸を西導寺に葬った。

アクセス 中京区裏寺町蛸薬師下
常楽寺(麻田時太郎墓)
          
常楽寺 麻田時太郎墓

 元治元年6月10日、清水産寧坂の料亭明保野で飲酒中だった土佐藩士麻田時太郎は新選組の浪士狩りに遭遇し、慌てて逃げようとして不運にも怪しまれ、会津藩士柴司に刺され負傷した。土佐と会津は一触即発の状況になり、麻田は切腹して収まった。遺書から本人の意志を越える何かが働いたことが伺える。
 入りにくいような門構えであるが、墓参の際、必ず寺の方に一声かけること。

 墓石に刻まれた没年月日の日付は6月12日となっている。柴司と同じ日になる。享年35歳。

アクセス 中京区裏寺町通蛸薬師下ル西側、裏寺町598。最寄り駅は阪急河原町か京阪四条駅。四条河原町交差点から北上し一つ目の信号を西へ。初めての四つ角を南へ行くとすぐ。
誠心院(吉岡庄助墓)
 吉岡庄助

天保2年(1831)生まれ。江戸で学び帰藩後、塾を開いた。京都藩邸の作事方として上京するが、元治元年6月5日の池田屋事変で、河原町御池辺りの松井酒店にて飲食中、会津藩兵に襲われ斬死した。墓石は、誠心院裏手墓地内、北側の無縁墓内に家紋と吉の字だけ見える。

アクセス 中京区新京極通六角下る中筋町487
誓願寺(山脇東洋墓)
 慶応4年閏4月、三条河原で晒された近藤勇の首は、誰かの手で誓願寺に運び込まれた。誓願寺ではゆかりのある愛知県岡崎の法蔵寺に近藤の首を埋葬したという。法蔵寺の首塚は、現在の研究によると近藤の首塚というよりも箱館戦争で亡くなった伝習隊士らの慰霊碑ではないかと考えられている。

 誓願寺は浄土宗西山深草派の総本山。天正年間にここに移った。

アクセス 四条通から新京極通りを北へ行くと、右手にある。
土佐藩邸跡
                     
 土佐藩邸跡
 新選組史の中で、土佐藩との関係は様々あるがその中でも明保野亭事件は有名である。会津藩との関係に亀裂が走ることを心配した麻田時太郎は責任を感じ藩邸内で切腹した。会津藩士の柴司も切腹し、事件は解決した。
御陵衛士が油小路事件後、土佐藩に庇護を求めたが拒否された話もある。

 土佐藩邸は明治4年に撤収された後、民有地となり幾多の変遷を経て、立誠小学校校地となった。閉鎖された立誠小学校跡に土佐藩邸はあった。石碑は、蛸薬師橋脇にある。藩邸は南北に分かれ、裏門が高瀬川沿いにあった。

 蛸薬師通をはさんで北側のビルに「土佐藩役宅跡」の石碑が壁面に埋め込んである。看板が立っているのでわかりにくいが、看板をどけると見ることが出来る。 現在はないが、土佐四天王の銅像がビルの中にあった。(写真右・現在はありません)

アクセス 中京区木屋町通り蛸薬師下ル備前島町、元立誠小学校の地
角倉了以顕彰碑
元立誠小学校正門前に角倉了以のレリーフがある。

 角倉了以は、吉田が元の姓で、大堰川に舟を通じ、富士川を開き、大仏再建にあたっては、鴨川運河を開き、後これが高瀬川の開削となった。角倉家はまた海外貿易も行い、国内の鉱山開発にも尽力した。高瀬川は、了以・素庵父子2代の事業として完成し、明治に至るまで運河としての機能を果した。

 角倉家は高瀬川開削の功により、河川奉行に任ぜられ、その俸禄は200俵であったが、実収は数千石あったといわれ、徳川家も旗本格で遇したという。

アクセス 中京区木屋町通り蛸薬師下ル備前島町、元立誠小学校の地
中井弘蔵寓居跡
中井桜洲

 薩摩藩士横山詠助の子で、天保9年(1838)10月10日生まれ。藩校造士館で学んだ後、幕末の世情に刺激され脱藩して江戸に行き、鮫島雲城と名のり活躍したが、捕えられて国許へ送還された。再度脱藩した彼は土佐ヘ入リ、後藤象二郎と会い、その奇才を愛されて、後藤の援助で慶応2年、英国へ留学した。翌年帰国した中井は、宇和島藩主伊達宗城に招かれて、同藩の周旋方として京都で活躍した。当時彼は中井弘三(弘蔵)と改名して、木屋町通り六角下ル山崎町に住み、諸藩の志士たちと交わった。

 明治維新ののち、慶応4年に外国事務各国公使応接係となった彼は、同年2月30日、御所紫宸殿での朝見に赴こうとする英国公使パークスの行列の先導役をつとめた。行列は縄手通りで、朱雀操と三枝蓊2人の暴漢の襲撃を受けた。中井は負傷しながらも身をもってこれを防ぎ、公使は無事であった。後年、神奈川県判事、東京府判事、滋賀県知事、元老院議官、貴族院勅選議員、京都府知事になり、上京区荒神口通り河原町東入ル南側の亀屋町(現財務局の地)に邸を構えたが翌27年10月10日に病没した。享年57歳。

アクセス 中京区木屋町通り六角下ル山崎町、中井喜右衛門宅跡 高瀬川を挟んで彦根藩邸石碑の向かい側
彦根藩邸跡
 彦根に本城を置く井伊氏は、直政以来の譜代大名で、当初は18万石、家光、家綱の頃に加増され、35万石であったが、桜田門外の変のあと、25万石となる。溜間詰であった。安政5年(1858)4月23日、13代藩主直弼が、幕府の大老となり、紀州徳川慶福を将軍に推して、家定の後継とし、勅許を待たずに、日米通商条約に調印した。そのために、違勅調印として批判攻撃され、尊攘派の志士たちからもこれを非難する火の手があがった。直弼は、反対派の大名を処罪し、志士達の活動を封じるために、猛烈なる弾圧政策をとった。安政の大獄である。嘉永7年4月9日に、京都警衛の幕府命令を受けて、同年に、河原町三条下ル東側の高瀬川に面した、北は大黒町、南は山崎町に至る727坪、浜地5か所211坪余と道路120余坪が屋敷地を取りまいている場所を、屋敷地として買得したとある。

 井伊直弼は、苛酷な弾圧の報いて、万延元年(1860)3月3日、登城の途中桜田門外で、薩藩士有村次左衛門、水戸藩士、関鉄之助ら18名に襲撃されて刺殺された。桜田門外の変という。

 文久3年9月の天誅組追討、蛤御門の戦での長州軍との戦、第二次征長と戦いを重ねたが、鳥羽伏見の戦では薩長側に立ち、大津の警備についた彦根藩が、はっきり官軍についたことは、各藩に大きな影響を与えた。以後、桑名藩征討、東山道進撃、流山での近藤勇の捕縛、甲府城守備、新発田城攻撃、会津若松城の攻撃等、戊辰戦での西軍に味方した当藩の活躍は大きいものがあった。

 彦根藩邸跡の川沿いの浜納屋等は道路となり、舟入りは埋められて、人家が建ち、藩邸地跡も人家が建ち並び、現在は飲み屋街として娠わい、高層ビルも林立している。

アクセス 中京区西木屋町通リ六角下ル大黒町
後藤象二郎寓居跡
後藤象二郎

 天保9年3月15日生れ、土佐藩士正晴の子。早く父を失い、義理の叔父吉田東洋に訓育された。幡多郡奉行、近習目付、普請奉行を歴任、大監察となり、勤王党の粛清を行った。参政、家老を勤める。慶応3年6月13日に後藤は長崎より上京した。そしてここ壷屋方に入った。龍馬と共に大政奉還に邁進する。そして10月13日に徳川慶喜が大政奉還を表明し、15日には御所に参内して上表した。

 大政を奉還された朝廷には、まだ指導する能力もなく、当分は旧の如く徳川幕府に一任するという状態であった。大政奉還の陰の功労者龍馬は間もなく暗殺された。後藤は新政府の参議に任ぜられた。以後この年が終えるまで京洛にうずまく風雲は異様なものがあり、ついに戊辰戦争へと発展してゆく。慶応4年2月30日、英・仏・間三国公使参内の接待役であった象二郎は、縄手新橋の路上で、暴漢に襲われかけたパ―クスを救った。象二郎は英国女王陛下より名誉の剣を贈られた。後年征韓論に敗れて官を辞したが、なお政界にあり、種々の役につくが、晩年は病気となり、30年8月4日没した。享年60歳。叙正二位。

アクセス 中京区河原町通り三条下ルニ筋目東入ル南側
酢屋(海援隊屯所跡)海援隊京都本部
 龍馬率いる海援隊の本部が置かれたところである。材木商酢屋・中川嘉兵衛方で当時は6代目。近江屋に移るまで、龍馬はここに滞在していた。大政奉還の成功はここで聞いたかも。

 慶応6年6月15日、龍馬は海路大坂へ上陸したのち、入京して河原町三条南入ル車道東入ルの材木商、中川嘉兵衛方へ投宿した。同行した長岡謙吉も同宿した。同家は、高瀬川の舟入りに面し、代々酢屋嘉兵衛を名乗り、高瀬川の舟便で上る材木の元締をしていた。龍馬在宿の頃は、6代目であった。龍馬はここを海援隊の屯所にして、日夜同志長岡謙吉、陸奥陽之助、白峰駿馬、菅野覚兵衛らと会し、海援隊の活躍を期した。7月6日に長崎丸山で起きた英水夫殺害事件の処理に巻き込まれ、龍馬は苦心の作「船中八策」を後藤象二郎に進言したままで、長崎方面へ行った。再び龍馬が上京してくるのは、10月9日になってからである。

 龍馬の建白書に基づいて、後藤が土佐藩を代表して斡旋した結果、二条城でついに大政奉還が決定した。10月13日のことである。11月の末龍馬は越前へ赴き、三岡八郎と会い、財政策について問い、11月5日京へ戻り、身辺が危険であるからという忠告を入れて、酢屋から近江屋へ移った。

 しかし、その配慮も空しく、11月15日夜、近江屋において龍馬は中岡慎太郎とともに遭難した。

 現在は木工製品が販売され、二階はギャラリーになっている。毎年11月には「龍馬からの手紙展」を開催している。

アクセス 中京区河原町三条下ル、東入ル北側 京劇会館前
池田屋騒動之址
                    
 元治元年6月5日朝、新選組が升屋を手入れし、古高俊太郎を捕縛する。旧前川邸で拷問の末、恐るべき計画を聞き出す。強風の日を選び御所に火を放ち、中川宮、松平容保を襲撃して、八・一八の政変の復讐するとのこと。事の重大さに近藤勇は会津藩に通報。6月5日午後7時ごろ、祇園会所に新選組・会津藩・所司代らが集結し一斉に三条近辺を家宅捜索する。新選組は二手に分かれる。近藤は沖田総司・永倉新八・藤堂平助・谷万太郎・武田観柳斎ら9名を、土方歳三は原田左之助・井上源三郎・斎藤一・谷三十郎・松原忠司ら23名を率いた。土方一行が祇園界隈を捜索したことは記録にのこっている。近藤らは土方隊より先の10時頃に池田屋に到着している。周りを固めた近藤は5人で池田屋に斬り込む。20名以上集結している池田屋にである。

 一方池田屋には浪士達が古高捕縛の報を聞き参集。今後の策を練っているときに新選組が乱入してきた。長州の桂小五郎はその場に居合わせなかったため助かっている。宮部鼎蔵・吉田稔麿・望月亀弥太ら16名が死傷し20名以上が捕縛された。その後獄中で死んだ人も数多い。遺体は三縁寺に埋葬される。

 新選組側も3人死傷し永倉・藤堂もけがをしている。この働きによって新選組は一躍有名になり、京の治安を守る警察となっていく。8月4日、幕府は新選組の働きに対し会津藩を通じて感状と報奨金600両を出した。新選組一行が屯所に戻るのは6日昼頃であった。一昼夜の戦いと残党狩りでさぞ疲れたことであろう。報奨金も10両以上受け取っている。

 現在は空き店舗になっている。昭和2年に京都市養育会が建立している。寄付者は佐々木フサとある。

池田屋事変跡地
 
石碑から数メートル東の歩道にこのプレートが埋め込まれている。かつてここに石碑が建てられ、東寄りに池田屋があった。

アクセス 中京区三条通河原町東入ル北側中島町。京阪三条駅から三条大橋を渡り、小橋を渡ってすぐ。

古東領左衛門寓居跡
古東領左衛門(1819-64)

 古東家は佐々木源氏の流れを汲み、江戸初期より淡路島津井にて代々庄屋を務める名家である。現在、屋敷跡には下水道処理場が建設されているが、ほぼこの敷地が庄屋屋敷に当たり、相当の豪邸であったようである。11代当主、古東領左衛門は勤王の志を抱いて上京し諸藩の志士と交わった。文久3年(1863)の天誅組の挙兵に加わったが途中で脱出し、三条の桝屋藤十郎方に潜んだ。

 天誅組義挙を止めるため平野国臣は五條へ向かうが失敗、隠れ家の山中成太郎方が新選組に襲われたため、古東の家に身を潜めた。しかし、ここも新選組の探索を受け、古東は平野を庇って捕らえられた。平野は生野義挙を起こすが失敗。八鹿で捕らえられ、六角獄舎に入れられた。

 そして元治元年7月20日古東と平野は同志32人と共に斬られた。

アクセス 中京区三条通木屋町東入ル がんこ三条本店の西横の飴屋ビルのあたり。
三条制札場跡
三条大橋の西詰北側にあった。

 慶応2年8月末頃、制札が引き抜かれ鴨川へ捨てられる事件が続発した。

 新選組は制札場の警備を任命され、9月12日土佐藩士宮川助五郎ら8人が引き抜いたところ捕獲するが乱闘になる。藤崎吉五郎が斬死、安藤鎌次が藩邸で切腹、宮川助五郎ら捕縛される。

 事件後の19日、土佐藩側は、新選組の近藤勇・土方歳三・吉村貫一郎らを、祇園の料亭栂尾に招いて酒宴を催し、双方和解したという。また、同年12月20日、この三条制札事件に対し、会津藩から新選組に報奨金が下されたのであった。

 三条制札場は、明治6年2月の法令公布の制により、高札の廃止となった。

アクセス 中京区・三条大橋西詰北側 三条大橋西詰に建つビル前は、オープンカフェのあたり
三条会所跡
 
 慶応2年9月12日夜、三条大橋西詰の制札場付近において、新選組と土佐藩士が白刃を交え、戦闘に及ぶという「三条制札事件」が起こった。これは、この年の夏ごろから、制札場に立てられた幕府の高札を引き抜いて壊したり、墨を塗って鴨川に投げ捨てるなどの行為に出る者が続いたため、新選組が警備を命ぜられて、監視をしていたなかでのことであった。

 事件当夜、この三条会所には、原田左之助が指揮する一隊12人が配されていたという。会所には、斥侯役の橋本会助が、制札場に入ろうとした人数を見て通報に向かったが、これより早く、原田隊は、8人の浪士が鴨河原を北進して、橋際に行くのを目撃すると、彼らを尾行した。そして、高札が鴨川へ投げ込まれたのを合図に斬り込み、乱闘となって、ここに新井忠雄隊と大石鍬次郎隊も加わり、激しい闘いが展開された。原田はこの戦闘で軽傷を負ったという。

アクセス 中京区木屋町通三条下ル東入ル石屋町 三条大橋西詰南側のローソンの南側あたり
吉村寅太郎寓居跡
吉村寅太郎

 天保8年(1837)4月18日、土佐高岡郡に、庄屋吉村太平の長男として生まれた。庄屋として頭角を現し、高知城下で楠山庄助の塾に入り、間崎哲馬に師事し、また武市瑞山の門にも出入りし、文久元年8月、勤王党の結成とともにこれに加盟した。文久2年3月6日、同志宮地宜蔵とともに脱藩、長州から大坂ヘ入り、島津久光の上京を擁して倒幕の兵を挙げようと伏見に集結したが、計画は失敗。捕えられて土佐に送還された。この年12月まで、高知の獄中に繋がれた。やがて朝廷の内旨により許されて、翌3年2月、再び上洛して木屋町三条上ルの当所に隠れ住んで、国事に奔走した。ここにあって半年余り、平野国臣、藤本津之助、古東領左衛門らが毎日のように訪れた。また、すぐ北隣の丹虎旅館(武市瑞山寓居の所)の娘で、木屋町小町といわれたおくにもよく遊びにきたので、吉村と2人の間の浮名が流れたという。

 8月14日中山忠光を擁して天誅組を結成。義挙に踏み切った。吉村は、藤本鉄石、松本謙三郎とともに天誅組の総裁となり、14日夕方京を発ち、17日の五条代官所襲撃。8月20日に十津川へ入って、兵器人員の調達をし、26日夜高取城攻撃の際、味方の鉄砲の玉に腹を射抜かれてしまった。傷の療治はしたものの、山中を駕籠に乗って指揮しながら戦ううちに、膿して破傷風になった。後日、鷲家を目指して、忠光の後より、武木という所を出発した寅太郎は、むしろを二つ折りにして縄をつけたものに乗せられて、3人の男にかわるがわるかつがれて進んだ。9月27日早朝、鷲家口の北の鷲家にある駕籠茶屋に現われた吉村と若党正一郎は、茶屋の老婆にかくまうことを拒まれた。傍の小屋に休む寅太郎を置いて、正一郎が食べ物を求めて出て行った後、老婆の報を受けた藤堂の散兵隊40名が隊長加賀谷謙吉の指揮の下、小屋を取り囲んだ。加賀谷を相手に切腹を乞う吉村に対して、加賀谷は銃隊に射撃命令を下した。吉村は、『吉野山風に乱るる紅葉葉は わが打つ太刀の血煙と見よ』との辞世の句を絶叫しながら、太刀を振りかざして小屋から躍り出て、敵兵へ向かった。ひるむ藤堂兵に、続いて下された加賀谷の撃てという命令による一斉射撃の砲煙の中で、吉村寅太郎27歳は、「残念」の言葉を残して散った。贈正四位。墓は戦死の地、吉野郡鷲家石ノ本から、宝泉寺明治谷へ移された。石ノ本のもと墓地には記念碑が建てられた。

アクセス 中京区木屋町通り三条上ル東側上大阪町 武市半平太寓居跡南隣
武市瑞山寓居跡(四国屋・丹虎跡)
 元治元年6月5日、池田屋事件当日、御用改めに踏み込んだといわれている。近藤の手紙には、三条小橋と縄手通りの二手に分かれて探索したとある。三条小橋は池田屋で、四国屋は縄手通りではない。しかし西村兼文の「新選組始末記」に「池田屋、四国屋へ、六月初めごろより長州藩や諸国の脱藩志士が多く集まり、密議をしている」とあり、新選組は池田屋と四国屋に絞って探索したと考えられていたが、近年の研究で三条界隈を探索中に四国屋に土方歳三率いる一隊が到着したと考えられる。違う記録には西国屋(肥後藩の記録)とある。西国屋は池田屋の西側にあった。西と四、ひょっとすると勘違いか確信犯か。それとも偶然か。

 文久2年から一年近く寓居とした武市半平太は土佐藩京都留守居役として絶頂の極みにいた。女遊びに誘われても断り、女は妻のみを通した堅物であった。8.18の政変で国許に呼び戻され切腹。慶応元年閏5月11日、享年37歳。土方歳三と同じ日に亡くなる。


月形半平太
 新国劇に登場する月形半平太。すこぶる美男子。春雨じゃ、濡れて参ろうか。有名なせりふ。モデルになったのが武市半平太。

 隣には吉村寅太郎寓居跡、北隣には宇喜多一恵寓居跡がある。

アクセス 中京区木屋町通三条上ル上大阪町。最寄り駅は京阪三条か地下鉄三条京阪駅。三条大橋を西へ、一つ目の信号が三条木屋町の交差点。これを北上すると東側に二つ並んで石碑がある。
宇喜多父子寓居跡
 宇喜多一恵・松庵の父子は、尊攘画家として安政の大獄の犠牲者となった。一恵(1751-1859)は京都生まれ。大和絵を学び、尊攘志士と交わり、青蓮院宮や三条実万に時務策を建言するなど活躍したが、それがきっかけで安政の弾圧にかかり、安政6年所払いの刑になり、11月14日病没した。

 松庵も父の影響で尊攘運動に尽力したが、弾圧を受けた。安政の末頃に父子はこのあたりに住んでいたと思われる。

アクセス 木屋町通三条上ル 武市半平太寓居跡の北隣
対馬藩邸跡・対馬藩控屋敷跡
 元治元年6月5日の集まりに参加する桂小五郎は早めに池田屋に行き、人が集まっていなかったので対馬藩邸留守居役大島鞆之丞を訪ねたため、池田屋事件に巻き込まれずにすんだという。

 禁門の変で長州藩は敗退したが、小五郎は情報収集のため対馬藩邸にも出入りしていたという。

アクセス 三条小橋を北に行くと、高瀬川に架かる橋で姉小路橋がある。この橋の西詰め北側に当時あった。
頼三樹三郎寓居跡
頼三樹三郎

 頼山陽の三男として、文政8年(1825)5月26日に、京都三本木に生まれた。幼い頃から優れて利口であったので、山陽は特に愛したが、三樹三郎8歳の時父を失い、母の手で育てられた。母は女丈夫であり、よく貧窮に耐えて彼を育成した。彼の江戸遊学の資金は三本木の邸を売ってこれをこしらえたといわれている。大阪で篠崎小竹に学び、羽倉簡堂の知遇を得て、これに従って江戸に遊学し、昌平坂学問所に入った。そのかたわら佐藤一斎について詩を学んだ。弘化3年、奥州から蝦夷へ渡り、松浦武四郎に会い大いに意気投合した。

 嘉永2年、京都へ帰り、河原町三条上ル東入ル南側の地に家塾を開き、志士と交わり尊王論を唱えた。折から条約勅許の問題が起きるや、父の旧友梁川星巌や、梅田雲浜らと計り、尊攘派の公卿の間に出入りし、将軍継嗣問題には、一橋派と結んで活躍した。安政5年8月、水戸藩へ密勅降下のため梁川星巌とともに大いに運動をしたが、9月4日、星巌は急死。三樹三郎も安政の大獄に連座し、11月晦日に捕えられて、六角牢へ入られた。翌6年1月、江戸送りとなった。福山藩邸に預けられ、評定所へ呼び出されて訊問されたが、「自分は尊王攘夷を唱え、朝志を奉戴して同志と語らったのは、父祖の家訓による。朝旨に背くものは賊臣である。自分も不肖ながら、家訓に背き賊臣となることはできない」と断じて返答したので、ついに安政6年10月7日、小塚原で死罪に処せられた。享年34歳。その死体は、坂下門外の変の志士、大橋訥庵によって葬られ、墓碑が建てられた。贈正四位。

アクセス 中京区河原町三条上ル東入ル南側恵比須町 ロイヤルホテルあたり
岩国藩邸跡
 岩国藩は山口県岩国市に陣屋をもつ長州藩の支藩。文久元年の春以来、岩国藩の吉川経幹は、上京して長州藩主毛利敬親の名代として、京都に滞在して尊王攘夷に尽力した。

 文久3年8月18日、大和行幸の延期と政変に伴う七卿落ちには、経幹は兵600名余りを率いて、総勢2000余名の西下の護衛にあたった。禁門の変への長州進撃軍の殿をつとめた経幹は、進撃の途中長州藩の敗退を知り、軍を還した。長州藩は三家老の首と引き替えに謝罪を計ったが、幕軍は第2次の征長戦を起こし、岩国藩は長州兵と協力して、幕府軍を大いに破った。

 鳥羽伏見の戦いで岩国藩は薩長とともに淀、鳥羽で大いに幕軍と戦い、これを撃破した。

アクセス 中京区河原町通り恵美須町東入ル南側 現在、京都朝日会館のあたり。
佐久間象山寓居跡
佐久間象山

 文化8年(1811)2月28日、松代藩士一学の子に生れた。幼少より神童の名あり、藩主真田幸貫はその才を愛して、近習にしようとしたが、未だ学問が十分でないと固辞したので、幸貫は学資を与えて江戸に遊学させた。天保4年江戸に出て、林述斎、佐藤一斎の門に入り学問に励んだ。

 象山は伊豆韮山代官江川太郎左衛門について、西洋兵学を学び、弘化元年には黒川良安より蘭学を学んだ。そして熱心に洋書を読み、銃砲兵制・築城造艦等の知識を得て、嘉永3年より、深川の藩邸で砲学の教授を始めた。門下には、勝海舟・吉田松陰・橋本左内・河井継之助など多くの人材が集った。

 嘉永7年3月27日、米艦に乗り込んで外国行きを企てた吉田松陰が幕吏に捕えられたが、象山はこの事件に連座して伝馬町に投獄された。そして同年9月から、文久2年12月までの8年間を松代で蟄居。

 元治元年3月、幕命に応じて上京。4月3日、象山は老中から「海陸御備向掛手附御雇」を仰せ付けられ、「20人扶持御手当金15両」下さる、という通知を受けた。自信家の彼は、この処遇に怒ったという。しかし、登城して慶喜公にお目見えしたり、山階宮家に招かれて時務を談じ、また乗馬を御覧に入れるなどして感激している。

 日記には、5月16日に、木屋町三条上ル所へ転宅したことが記されている。象山はここに妾とともに住み、毎日のように、洋風の鞍を置いた馬に跨り、諸方に出向き、開国論を吹聴した。

 元治元年7月11日(今の8月12日)、連日猛暑の好天が続く京都であった。この日も、西三本木の山階宮家を訪れての帰りみちに、木屋町三条上ル所で、刺客に待伏せされ、馬上のまま斬られて死んだ。53歳。

アクセス 中京区木屋町通り御池下ル東側 木屋町通御池下ル東側の木屋町モータープールの入口に石碑がある。
加賀藩邸跡
 御池通りは昔は、北側の現在歩道になっている所の道幅が、本来の御池通リであった。昭和20年空襲による火災発生の際に、延焼をくい止めるために設けられた疎開地区(堀川通り、五条通りなども同じ)が道路に拡張され、現在は幅50mの広い道となった。

 ちょうど現在の御池通りの河原町と高瀬川の間が、加賀藩前田氏の藩邸が慶長以来置かれた場所である。文久3年藩主に代って京都警備に上洛した慶寧は、長州のために斡旋に努めたが成功せず、禁門の変となるや、病気と称して藩領の近江海津へ退いた。加賀藩は朝幕両派ともに苦境に立たされ、藩主斉泰は慶寧を幽閉し、側近を処断した。加賀藩勤王派はこのとき全滅したのである。

 元治元年12月、水戸浪士藤田小四郎・武田耕雲斎ら800余名は加賀藩の軍門に降った。彼ら水戸浪士は幕府側に引き渡され、敦賀船町の鰊倉庫の中に拘禁され、加賀藩その他の寛大な処分を乞う意向も無視されて、厳しい残酷な取り扱いを受けた。

 鳥羽伏見の戦に加賀藩は幕軍として出兵したが、幕軍の敗北を知り慌ててひき返した。戊辰戦争においては官軍の手助けをして、北越に出兵した。京都の加賀藩邸は、天明8年の大火で焼失し、再築の後甲子の兵火は免かれ、明治3年2月、官に上地した。その後民間に払い下げられた。同所が槇村正直知事邸としてあった頃は、高瀬川の水をひき、名園が造られていた。ついで新宮邸、林誠一郎邸となり、庭園はいっそう手入れされた。

アクセス 中京区河原町通り御池下ル東側 御池通南側の高瀬川沿いに石碑が建つ。
古聖堂跡
 今井太郎左衛門は、長州藩の御倉番をしつつ、勤王の志をもち、諸国の勤王の志士と交わった。彼の高倉竹屋町の家の離れは、志士達の謀議の場所となった。彼の家に出入した志士は、桂小五郎、久坂玄瑞、寺島忠三郎、入江九一、杉山松介、吉田稔麿、野村靖、山田顕義、伊藤俊輔、山県狂介、品川弥二郎らの人々であった。

 桂小五郎が三条大橋の下に乞食に身をやつして潜伏中、今井は、毎日自分の家の女中里に、食事を運ばせた。またある日桂が外出中、寺町丸太町で幕府の役人に捕えられて、奉行所へ連行されてゆく途中、便意を催して我慢できないと欺いて、脱兎のごとく逃走し、河原町姉小路の対州藩邸に逃げ込んだ。そして今井似幽の出迎えを受けて、手拭で頼かむりして顔をかくし、今井の家へ行って潜伏した、という話などは有名である。

 維新後、似幽は、木戸公その他の勧めも断って仕官せず、長州藩邸の西河原町御池西角の地に、古聖堂を建設し、勤王志士先賢の遺芳を集めて、人倫の道維持を計り、悠々自適の生涯を送った。似幽は明治10年12月5日没。53歳。古聖堂跡は後に昭和20年4月強制疎開で失くなった。

アクセス 河原町通御池の交差点の真ん中より少し西側の道路上にある。中京区河原町通り御池西辺
長州屋敷跡(桂小五郎像)
          

長州藩の京都屋敷は、天保13年2月3日焼失し、翌14年再建された。

 現在の京都オークラホテル正面に長州屋敷跡の碑が建っているが、敷地4030坪とある。北は一ノ舟入をへだてて角倉屋敷、南は今の御池通りの位置にあった加賀屋敷に隣接していた。東は高瀬川、西は河原町通りに沿っている。表本門は河原町通りに開き、北の一ノ舟入側に裏門(通用門)、東の高瀬川に面して水門があった。

 文久3年8月18日の堺町門の変のあと、乃美織江が9月5日入京して京都留守居役となった。さらに元治元年4月18日桂小五郎も京都留守居役に任命された。堺町門の変後、在京藩邸員は30人ばかりを残すだけとなり、代わって数百人の浪士が広大な屋敷内に潜伏した。元治元年6月5日屋敷からは桂小五郎、吉田稔麿、有吉熊次郎ら数名の長州藩士と、邸内に潜伏していた宮部鼎蔵、同春蔵ら多くの浪士が池田屋へ出かけていった。池田屋騒動で何人かが逃げ帰り事件を知らせた。邸内は大混乱となった。桂小五郎の身を案じて飛び出した杉山松助が途中会津兵と衝突、重傷を負うて帰ってくると、門はただちに鎖された。幕兵乱入に備えて乃美以下決死の覚悟で屋敷を固めた。囲みは夜明け前に解かれ、塀のわきに吉田稔麿が自決していた。

 7月19日禁門の変が起こると、乃美織江はみずから屋敷に火を放って長州へ退いた。池田屋の変のとき、池田屋にて難を免れた桂小五郎は、その後、市中に潜伏して屋敷にはもどらなかった。禁門の変の兵火に追われるように但馬へ逃亡した。

 元和5年に始まった長州藩京都屋敷の歴史は、元治元年幕府に没収されて245年の幕を閉じた。

アクセス 京都オークラホテル 中京区河原町通御池上る 藩邸碑はホテル南側に隠れてある。桂小五郎の銅像は河原町通り沿いにある。
平野国臣潜居跡
平野国臣

 筑前福岡藩士で、文政11年(1828)生まれ。江戸詰藩役人、長崎屋敷詰などを経た。この間、和歌・雅楽・漢書に通じ、有職故実も学んだ。安政5年8月に脱藩上京し、勤王の志士と交わった。安政の大獄を逃れて筑後にひそんだ国臣は、この年10月、薩摩に入った月照の世話をし、ともに鹿児島に入るが、やがて月照水死の後、上京した。その後備前・下関・薩摩・肥後などを転転とし、文久2年には真木和泉と会い、4月になると上京の島津久光を擁して伏見の挙兵を計るが、国臣は藩役人に捕縛投獄された。国許の獄にあった彼は、翌3年3月赦されて、7月には藩役人として上京し、8月16日には学習院出仕を命じられた。

 天誅組挙兵の報らせが京へ伝わって来、国臣は三条実美の内命を受けて、激発を止めるために、8月17日に京を発ち、19日に大和五条に着いた。天誅組が五条代官所を襲い、桜井寺を本陣として次の行動に移ろうとしていた時であった。彼らの挙兵を制止するために出向いた国臣も、内心その壮挙を喜んだ。平野は現地の事情を報告するため帰京。山中成太郎方に潜んでいた。

 8月22日、山中成太郎の家は、近藤勇の率いる新選組隊士数十名に囲まれて、戸を蹴破られて踏み込まれ、家の中は屋根瓦まではがされて捜索された。国臣と鶴田陶司の二人は、鶴田は自邸に戻り、国臣は松村深蔵とともに祇園縄手の「吉松」に遊びに出ていたので難を免れた。山中宅が襲撃されたことを知らずに、翌朝帰宅した国臣は驚くとともに、「今まで遊びに行って登楼のつど、損はあっても得をしたことはなかったが、今度のことで、今までの損を取り戻した」と同志に手紙を出した。

 国臣は天誅組から脱出した古東領左衛門が潜んでいた三条木屋町の桝屋藤十郎の借家に身をひそめたが、24日未明、再び新選組に襲撃された。古東は平野を庇い、捕えられたが、国臣は危うく脱して豊後岡藩邸にかくれた。やがて京都を離れた国臣は、三田尻に行き、先に都落ちした七卿の1人沢宣嘉を戴いて、長州の河上弥市・薩摩の美玉三平らとともに挙兵した。国臣は佐々木将監と名を変えて、10月12日に生野銀山代官所を襲撃した。しかし占拠した銀山本陣から、沢が突如脱走したために、生野の義挙も空しく敗走軍となり、南八郎らの勇壮な自刃の逸話を残したまま、国臣も15日には逃走中を城崎で豊岡藩士に捕えられ、翌元治元年1月に京へ送られ、六角牢へ入れられた。そして彼はその年7月20日に、禁門の変の騒ぎの際に獄中の32人とともに牢内で殺された。先に捕えられた古東領左衛門も、このとき一緒に斬られた。墓はともに竹林寺にある。

アクセス 中京区木屋町通リ御池上ル東側
桂小五郎と幾松ゆかりの地
          
桂小五郎・幾松ゆかりの地

 現在は料理旅館「幾松」になっている。路地奥には鴨川に面した旅館になっている。幾松(名は松子)は献身的な働きで、小五郎を全面的に護った。

 維新後には木戸公夫人となった松子は、明治10年、木戸の死後、木屋町のこの場所に住み、翠香院と号して亡き夫の冥福を祈った。

松子は明治19年4月10日に亡くなった。享年44歳。

アクセス 中京区木屋町通押小路下ル 入口に石碑が建つが、その前には「維新庵」というレストランがある。
佐久間象山遭難之地
 元治元年(1864)7月11日、佐久間象山は、山階宮に伺候したが、宮御不在のため、帰路に門人蟻川賢之助をその宿陣本覚寺(五条通り河原町西入ル)に訪れての帰途、三条通りから木屋町ヘ入った。

 象山は愛馬王庭に西洋馬具を置き、これに騎乗し、従者2名、馬丁2名をつれて通り掛かった。象山の衣服は自縮み紺がすりの竪縞すじ、袴は京繊紺縞、黒絽の肩衣、自柄の太刀、赤皮の長靴、差添は国光の短刀という姿であった。

 象山は木屋町三条上ルで、まず2人の武士に切り掛けられ、馬上奔走のまま、木屋町御池辺に至り、さらに3.4人に切りつけられ、なお5.6人に襲われて、ついに落馬して斬り殺されたのである。

 時間は七つ半過ぎというから、夏のことだから、夕方6時半を回る頃であったろう(この頃は暮六つは夜8時頃である)。象山の疵は大小13か所あったという。急報に接した月番西町奉行遠山隠岐守の配下、御小人目付棚沢清吉郎、畦柳半六、御徒目付岡野敬之進が駆けつけて検視にあたった。

 佐久間象山を襲撃したのは、肥後の河上彦斎と、隠岐の松浦虎太郎というが、襲撃の様子からしてさらに他の下手人がいたはずで、背後には長州人があった。久坂玄瑞などもその一人であったという。

 現在、木屋町通り御池上ル西側の、高瀬川の対岸に、佐久間象山遭難の記念碑が、大村益次郎遭難の記念碑と並んで建っている。右側が佐久間象山の記念碑である。

アクセス 中京区木屋町通り御池上ル 大村益次郎遭難の地碑の隣に建っている。
大村益次郎滞在地と遭難地碑
               
兵部大輔従三位大村益次郎公遺址

 山口鋳銭司村の医者の子。文政7年(1824)5月3日生れ。故郷で蘭学を学んだ後、適塾で蘭学、洋学、航海、造船と兵学を学んだ。帰郷して医者になるが、宇和島藩に招かれて蘭学を教えた。江戸に出て、11月に番町に鳩居堂を開き、蘭学と兵学を講じた。また、幕府の蕃書取調所教授手伝、講武所教授も兼任した。文久元年1月、長州に帰り、萩の博習堂御用係として蘭学を教えた。

 長州藩に戻った益次郎は、慶応元年12月、藩命により大村益次郎と改名。慶応2年第2次征長戦では、石州口に参謀として活躍した。慶応4年2月京に入り、閏4月には江戸城に入った。益次郎は軍防事務局判事加勢となり、軍制改革に努めた。

 5月には江戸府判事となり、また、上野山に籠もる彰義隊の掃討に功をあげ、奥州・北越・箱館の平定に軍功があったとして、明治2年6月には、永世1500石を賜った。この大村の出世の陰には、不遇な古手の志士らの不満の声が多かったという。益次郎とうまくゆかず、江戸を去って、京都弾正台の長官をしていた海江田信義なども、その1人であった。大村の軍功を喜ばぬ海江田の下には、自然不平不満の浪士が集まった。その中に神代直人もいた。

 兵部大輔になった大村益次郎は、仏蘭西式の兵制を採用し、徴兵制による軍隊の創設を提案。武士の帯刀廃止をも主張。士族の間に反感を買い、明治2年8月からの関西方面の軍事施設の巡回視察に出かける際には、不平士族の間に不穏な動きがあるから取り止めるように、と木戸からいわれたが、道筋を変えて中山道としただけで予定通り視察に赴いた。益次郎は9月4日夜、長州藩の借りていた木屋町押小路下ルの宿で、門人安達幸之助、長州藩士静間彦太郎と同室で酒席の最中、不意に襲撃してきた神代直人ら8名の刺客により、別室の吉富吉之助、若党山田善次郎とともに、連れの4名は斬殺された。益次郎は、重傷を負うが風呂にかくれて助かったが予後が悪く、宿舎から高瀬舟で自ら建てた大坂仮病院へ運ばれて片足切断の大手術を受け、手厚い治療を受けたが、破傷風のために11月5日夜死亡。シーボルトの娘イネは、寝食を忘れて益次郎を70余日にわたり看護したという。享年46歳、贈従三位。凶徒は捕えられて12月に処刑された。

 大村益次郎遭難地碑は昭和12年10月、没後70年慰霊祭執行の際に建立された。

アクセス 寓居跡と遭難碑は高瀬川をはさんで向かいどうしにある。中京区木屋町通り押小路下ルニ筋目
角倉了以邸跡
 高瀬川一の舟入りと、二条通りの間の地。現在、河原町通り寄りには日本銀行京都支店が建ち、木屋町通り寄りには銀行会館が建っているが、この場所は、元角倉邸のあった所である。

 角倉了以は、吉田が元の姓で、大堰川に舟を通じ、富士川を開き、大仏再建にあたっては、鴨川運河を開き、後これが高瀬川の開削となった。角倉家はまた海外貿易も行い、国内の鉱山開発にも尽力した。高瀬川は、了以・素庵父子2代の事業として完成し、明治に至るまで運河としての機能を果した。

 角倉家は高瀬川開削の功により、河川奉行に任ぜられ、その俸禄は200俵であったが、実収は数千石あったといわれ、徳川家も旗本格で遇したという。

 角倉邸跡は、9代玄寧の時(明治4年3月)京都府が買収し、明治5年には邸内に、京都府中学の英語教場が設けられた(6年6月、守護職屋敷跡にできた学校へ合併移転)。明治6年、府織殿ができ、織物産業の振興策の場となる。また画学校が併設された。やがて繊殿は廃止され、画学校は移転し、明治16年、民間に払い下げられた。邸の建物は南禅寺、無鄰庵に移築され、庭園は二条城に移された。

 角倉邸南側にある舟入りは、かつては9か所あった舟入りの一つで、大きさは奥行き92m、幅12mあリ、高瀬舟の港の役目を果し、また方向転換をしたところである。一の舟入りは、昭和9年1月20日付で史蹟に指定された。

アクセス 中京区河原町通リ二条下ル東側 島津記念館横の日本銀行京都支店前に石碑がある。
山県有朋別荘第二無鄰庵
がんこ高瀬川二条苑に山県有朋別荘第二無鄰庵の石碑がある
アクセス 中京区河原町通リ二条下ル東側 島津記念館前のがんこ高瀬川二条苑の入口に石碑が建つ
高瀬川一の舟入
高瀬川一の舟入

 高瀬川は慶長16年(1611)頃、京都の中心部に物資を運びいれるため、角倉了以が開いた運河で、ここを通行する高瀬舟の荷物をあげおろしする船溜所を船入といった。

 高瀬川は二条木屋町あたりを起点として、鴨川に平行して十条まで南下し、伏見京橋で宇治川に合流する。江戸時代には、底が平たく舷側の高い高瀬舟が、大阪などの物資を運びいれていた。木屋町の町名はこの辺りに材木屋が多かったことに由来する。

 現在の一之船入は当時の貨物積卸場の掘割の一部に、復元された高瀬舟が一艘あるだけとなっている。

アクセス 中京区河原町通リ二条下ル東側 
神山左多衛寓居跡
神山左多衛

 土佐藩士で、神山久右衛門の子として、文政12年(1829)高知に生れた。慶応3年10月3日、山内容堂の命を受けて、後藤象二郎、福岡藤次、寺村左膳らと示し合せて二条城に板倉伊賀守勝静の命に応じ、主容堂の手になる大政返上と議政所設置の建白書を呈出した。これは維新の新政局の制度案を打ち出した最初のものであった。後藤らは建白書の採用運動を各方面に行い、神山もまた、大政奉還運動に尽力した。

 神山左多衛の住居の跡が木屋町二条下ル東側あたりである。神山は廉直な反面、遊里にもよく足を運んだ。常に遊んだ場所は、先斗町の近喜・木屋町三条上ル松力等であった。当時、先斗町三条下ルの伊勢竹という小料理屋の娘に、菊尾という自前芸者がおり、美人の売れっ妓で、先斗町の近喜・松力・大駒・瓢亭等に出入りし、土佐藩士の座敷によく出入りしていた。

 後神山はこの菊尾をひかして夫人にした。菊尾は名を万佐子と改めて夫に尽くした。後藤象二郎も、先斗町の丸梅という貸座敷の娘小仲という芸妓を夫人にしている。福岡藤次もまた、当時山猫と称した八坂下河原の芸妓、お加代を妻にした。神山左多衛は、維新後参与となり、各県令を勤め、元老院議官から貴族院議員、男爵となった。明治42年8月没。享年81歳。

アクセス 中京区木屋町通り二条下ル、黄檗院坊跡 がんこ高瀬川二条苑北側
島田左近遭難の地
島田左近

 美濃国加納の神主の子で初め京都の商人伊勢屋東兵衛の所で手代奉公をしたが、商人は不得手だと、宮家の青侍になろうと、鳥丸家に取り入って仕えた。後に九条家の老女千賀浦(沙田という説もある)に気に入られ、その娘の婿になり、島田家を嗣ぎ、左近と改名し、九条家の諸大夫となった。

 左近は彦根藩主井伊直弼の家臣長野主膳と仲が良く、これと通謀して、従来幕府の条約勅許奏請に反対していた主人の関白尚忠を説いて、幕府側に味方させた。長野主膳と組んで、紀州慶福を将軍継嗣とする運動に奔走。朝廷側の公卿や、勤王の志士の行動を詳しく探索摘発して、幕府側に知らせ、多くの人々を罪に陥れて大獄の犠牲とした。また和宮降嫁に際しても、幕府のために大いに周旋した。これらの働きで幕府の覚えもめでたく、今太閤と呼ばれたほどの栄華を極めた。

 左近は勤王の志士から大いに憎まれていた。文久2年7月20日夜、木屋町二条下ル茶寮山本ゆう方で、左近は元祇園町三升家の抱え芸妓君香というなじみの女と夕食の膳に向かって酒を飲んでいた。

 真夏の暑さに、左近は丸裸で川辺の板の間で小女2人に後ろからうちわで扇がせているところへ、左近の所在をかぎつけて、田中新兵衛、鵜木孫兵衛、志々目献吉の3人が飛び込んできて左近に斬りつけた。左近は傍らの煙草盆を彼らに投げつけて、鴨川原に飛び下り、北へ一目散に逃げ出した。追いかけた志士らは、木屋町二条突き当たりの善導寺(竜宮門の寺)で追いつき、その首をかきとり長州藩邸へ持ち帰った。7月21日朝、高瀬川筋樋の口に、首のない死骸が浮いていた。誰とも知れぬ中に、翌々23日、鴨川原四条上ル100mほどの先斗町川岸に青竹に貫かれた首が、東南を向いてさらされた。

 時に島田37歳。洛中の人々は寄り集って島田の奸曲をののしり、さそい合って子女に至るまで鴨川へその梟首を見に行ったという。

 島田左近は文久の天誅の最初の血祭りに上げられたのである。彼の胴体は綾小路大宮西入ル南側2軒目の謀寺に埋められた。墓は西大谷にある。

アクセス 中京区堺町通リ丸太町下ル半町西側 フジタ京都ホテル横の善導寺付近
舎密局跡
 舎密とはオランダ語の化学を意味する言葉を漢字で書いたもので、舎密局とは、理化学研究所という意味合いである。

 明治維新後、首都は東京に移り千年の古都京都は、にわかに淋しくなり諸産業は沈滞した。当時、京都府参事槙村正直は、衰微した京都の産業を振興するために、勧業所、織殿、牧蓄場など諸種の施設を作り、その発展に尽力した。その事業の一つが舎密局であった。舎密局の主任になった人は薬種商出身の明石博高で、それ以前から理化学の研究を行い、煉真舎という化学研究所をもつ人であった。

 舎密局においては、受講生を募り、学理を講じた。そして理化学の実地応用をし、各種製品の製造を行い、また薬物の検査等も行った。

 舎密局の製品技術としては、石鹸・氷砂糖・ラムネ・リモナーデ・陶磁器・七宝・硝子・漂白粉・銀朱・石版術・写真術・ビールなどがあった。

 舎密局は明治14年1月、槇村知事の東京元老院行きと、北垣国道知事の赴任により、廃止された。諸施設は民間に払い下げられた。

アクセス 中京区土手町通竹屋町下がる鉾田町542番地  銅駝美術工芸高等学校
木戸孝允邸跡
          
木戸孝允

 長州藩士、医師和田昌景の子として、天保4年(1833)6月26日に生まれ、幼名を小五郎と称した。桂九郎兵衛の養子となった。嘉永2年(1849)吉田松陰の門下になり、同5年、江戸に出て斎藤弥九郎の道場に入った。また中島三郎助に造船術を習い、長州藩士手塚律蔵、とその弟子神田孝平に蘭学を学んだ。

 文久2年(1862)5月、藩命により河原町の長州藩邸に入り、他藩との折衝や公卿との応接にあたった。文久3年8月18日の政変により、長州藩は京都から追放され、七卿も長州へ落ちのびた。桂は京都に留まって、身を乞食の姿にし、三条の橋の下に寝るなどして、幕吏の目をくらまして、夜ひそかに公卿のもとに出入りしていた。当時小五郎の身を案じ、これを庇った三本木の難波屋の芸妓幾松の貞節の話は、世に名高い。禁門の変での長州軍の敗退の後、小五郎は但馬出石に身をかくした。

 長州藩では禁門の変の後、藩論が恭順派と正論派に分れてもめたが、結局、高杉晋作、山県狂介らの正論派が藩論を統一。これを聞いた小五郎は、慶応元年4月に帰藩して正論派のために大いに活動した。幕府による第二次征長戦は失敗し、将軍家茂は大坂で病死。これまで公武合体論一点張りであった薩摩藩と、長州藩は非常に仲が悪かったが、慶応2年1月に坂本龍馬らの斡旋で京都の薩摩藩邸において木戸孝允は薩摩藩士小松帯刀・西郷隆盛と会見し、倒幕を目ざす薩長同盟を密約した。慶応3年10月の慶喜の大政奉還。そして戊辰戦争を経て王政復古となった。木戸は新政府の参議となり、版籍奉還、廃藩置県の大事業を精魂を傾けて行った。

 明治4年11月特命全権副使として、大使岩倉具視とともに欧米諸国を巡視し、6年7月帰朝した。これより先、明治2年の頃には国家統一の必要上征韓論を主張した木戸であったが、彼が欧米より帰朝した折から国内は西郷らによる遣韓論が沸騰していた。しかし木戸は、内治の確立が急務であるとして、大久保利道らとともに、遣韓論に反対した。

 明治7年1月、文部卿を兼任。8年6月地方官会議の議長をつとめ、9年3月参議を辞任、内閣顧問となり、6月奥羽巡幸に供奉した。健康を害した彼は10年2月の西南戦争が起きると国を案じ、友を思い、ますます病が重くなり、再び立つことはなかった。5月19日明治天皇は親しく木戸邸に彼の病を見舞われた。同25日勲一等に叙せられ、旭日大綬章を授けられた。翌5月26日、44歳で永眠。正二位を贈られ、34年には従一位を贈られた。

アクセス 中京区河原町竹屋町東入る ホテル石長と松菊園に3つの石碑が建っている。
木戸孝允終焉の地
          
木戸孝允終焉の地

 長州藩士として激動の時代を走り抜けた桂小五郎。逃げの小五郎といわれるほど命に対しては敏感だった男。

 明治10年5月26日、西南戦争の西郷隆盛を叱責しながら44歳で永眠。晩年は精神的な病と闘う日々が多くなる。王政復古から版籍奉還、廃藩置県など明治の基礎を築いた。

明治天皇行幸所木戸邸

 明治10年5月19日、明治天皇は木戸邸を訪問され見舞われた。この時どのような会話があったのか? 石碑は他に3カ所ある。

アクセス 中京区土手町夷川上る末丸町284 職員会館かもがわの敷地内に、石碑と木戸邸がある。
女紅場跡(にょこうば)
 女紅場は、明治時代初期に全国につくられた、女子に裁縫、料理、読書きなどを教えるための施設であった。

 明治5年(1872)、京都には、新英学校女紅場(現在の鴨沂高校)、八坂女紅場、同志社分校女紅場(現在の同志社女子大学)が設立され、京都近代化政策・勧業政策の一つとして各区に作られ、祗園、島原、上七軒、宮川町などの花街にも設立される。その後、全国の女紅場は閉鎖され、八坂女紅場だけが残る。

 大正12年(1923)、京都府立 京都第一高等女学校と改称

 昭和23年(1948)、京都府立鴨沂高等学校に改称

アクセス 上京区駒之町 丸太町通り 丸太町橋西側 南にある
山紫水明処(頼山陽寓居・頼三樹三郎生誕地)
山紫水明処
 文化8年に広島から出てきた頼山陽は、文政5年に三本木の地に水西荘を建て定住、文政11年に自宅の庭に山紫水明処を建てた。文政9年に大ベストセラーとなった「日本外史」が完成したあと、この山紫水明処で「日本政史」を書き上げている。「外史」は当時の知識人のほとんどが読んだという。

 東三本木にある頼山陽の書斎で国の指定史跡になっており、丸太町橋から西の上流側を見ると瀟洒な茅葺きの建物が見える。

アクセス 上京区東三本木通り丸太町上ルの東側 河原町丸太町の交差点を東へ行くと北側に石碑がある。それに従っていくと山紫水明処につく。完全予約制で見学できる。
難波屋跡
 木戸孝允夫人の松子(幾松)は、東三本木の置屋、難波屋に貰われ、竹中かのの妹分となった。松子は14歳の時、舞妓となり、二代目幾松を襲名した。
吉田屋跡(立命館草創の地碑)
          
 荒神橋より南の鴨川右岸に沿って開けた町を三本木といった。風光明媚なため旅館や料亭がたちはじめ、芸者などの出入りする花街となった。幕末には十軒ほどの料亭があり、そのうち吉田屋はよく攘夷派が密会に使う料亭であった。

 ある日吉田屋で尊攘志士たちの宴席があり、そこへ新選組が踏み込んだため桂小五郎たち志士は鴨川河原へ逃げ、芸妓たちも新選組を恐れて逃げ出したが、のちに桂の夫人松子となる幾松はひるむことなく舞い続けていたため、近藤勇はその胆力に感心し引き上げてしまったという。

 坂本龍馬と中岡慎太郎が浪士代表として同席した薩土盟約はここで結ばれている。東三本木、山紫水明処の少し北で、その後旅館大和屋となった。大和屋では玄関の脇に建物の下を裏の河原まで抜けるトンネル状の通路が残っていた。しかしその大和屋も数年前になくなり駐車場と住居に変わってしまっている。三本木の町も花街だったことさえ忘れられようとしているが、町を歩くとその風情は何となく感じられる。

 吉田屋旅館あとにあった大和屋旅館の看板。とても年代物であった。現在は駐車場になっている。

京都法制学校設立碑

 明治2年西園寺公望が御所内の自邸に「立命館」を創始。彼の秘書であった中川小十郎が明治33年東三本木の料亭「清輝桜」を教室として私立京都法制学校を創立した。

アクセス 上京区丸太町通上ル東三本木東側。グランドコーポ北側。近くに山紫水明処がある。
足利将軍木像梟首跡

 文久3年2月23日の早朝、三条河原の南200mほどの所に、さらし首があり、都の人々を驚かせた。足利3代将軍の木像の首を、等持院から斬って眼をくりぬき、台上に並べ、晒してあった。これらの者の悪逆は、今更云うまでもないが、このように梟首するについて、元来我が皇国は忠義を本とするのに、頼朝以来殊に足利に至って不忠の極みとなった。我々が朝廷に代ってこれを罰し、今や万事復古の機運にある折から、このように尊氏らの像を梟首して思い知らせ、鬱憤を晴らすものである。と駒札に記されていた。

 2月26日夜半、黒谷を出発した捕方は、満足稲荷(野呂久左衛門の居宅)、祇園新地奈良屋、二条衣棚(三輪田綱一郎寓居)、西洞院三条(長尾郁三郎宅)等を襲った。祇園で三輪田綱一郎(伊予松山の人)、建部健一郎(常陸の人)、宮和田勇太郎(下総の人)、長沢真古登(陸奥の人)、大庭機(恭平、会津密偵)を捕えた。稲荷には捜す相手(野呂久左衛門と岡元太郎)がおらず、二条衣棚で諸岡節斎(江戸の人)、高松趙之助(信濃の人)、青柳健之助(下総の人)を捕え、仙石佐多男(因州の人)は自殺、それから長尾郁三郎(京の商人)を捕えた。後に野呂久左衛門(備前の人)と西川吉輔(江州の商人)は江州で捕えられた。そのほか木像梟首の企てに参加した石川一、角田由三郎(信濃の人)、岡元太郎、小室利喜蔵(信夫)、中島永昔(錫胤)、北村善吉(義貞)らは捕われずにすんだ。

 会津の密偵、大庭恭平がともに捕えられているので、容保からは厳刑の処分案が上奏されたが、密告者大庭を、 一橋慶喜、松平春獄らがあわれんで、犯人らをひとしく低い刑に処して、いずれも大名の家臣に預けることとなった。梟首された木像の首は、元に戻され、修復されて、現在は等持院内霊光殿に足利15代の像として徳川家康の像とともに安置されている。  アクセス 中京区三条大橋南200m鴨河原

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