相 国 寺

薩摩藩二本松藩邸跡−薩長同盟締結地
 薩摩藩は藩邸を錦小路と伏見に持っていたが、三番目の藩邸として烏丸通り今出川上る東側の相国寺領地6946坪を借地し、二本松藩邸を建てる。維新後は元会津藩士山本覚馬の手に渡り同志社英学校に譲られた。
 ここは慶応2年1月龍馬の助力により薩長同盟が成立した舞台でもある。慶応3年11月18日には御陵衛士の伊東甲子太郎が油小路で新選組に襲われ死亡、七条油小路に捨てられた遺体を引き取りに行った7名も待ち伏せにあい3名が死に、三木三郎・加納道之助・富山弥兵衛ら3名は脱出し二本松薩摩藩邸に駆け込むが、夜中のことゆえ門番が取り合わず、ならば門前で切腹すると言うと中村半次郎に取りついでくれ、無事保護される。残るひとり篠原泰之進は別ルートを頼り翌日二本松薩摩藩邸に入った。事件当日巨椋池に釣りに出かけ不在だった阿部十郎・内海次郎は土佐藩邸に保護を求めるが拒絶され陸援隊に行こうとしたところ、その門前で心配した中村半次郎に声をかけられ二本松藩邸に保護される。

 同志社大学西門に向かって左手に立っている。門を行き来する学生と碑の対比は不思議な感じがする。

薩摩藩邸門
 同志社南面に立つ藩邸門は当時中村半次郎等薩摩藩士が行き来したであろうが今は開かずの門となっている。

 藩邸近くに西郷隆盛や小松帯刀の寓居があるが、詳細な場所は不詳なので、この近くにあったと紹介する。

小松帯刀

薩摩藩家老。天保6年10月14日の生まれ。文久2年、久光に従って上京し、公武周旋にあたり、家老となる。元治元年、禁門の変には、兵を率いて長州軍と戦った。敗兵を追って嵯峨天竜寺に行き、火を放って帰った。慶応2年1月には先のごとく、薩長同盟結成に参画した。3年10月、将軍慶喜の大政奉還の折には、薩摩代表として出た。そして西郷、大久保とともに帰国し、藩主久光・忠義父子に、兵を率いて上京するようにすすめた。
 維新後、参与兼外国事務係と総裁局顧間となった。明治元年末から2年にかけて、大久保とともに版籍奉還について策を練った。明治3年7月20日没、享年35歳。従四位。

アクセス 上京区新北小路町。同志社大学。最寄り駅は地下鉄今出川駅。石碑は烏丸今出川交差点北西にある。
藤井右門邸跡
藤井右門

播磨赤穂藩の遺臣の子で、享保5年(1720)富山県小杉町の生まれである。京都にでて竹内式部らと交わり、皇学所教授となって公家に尊王論を説いた。
 宝暦8年(1758)幕府が右門ら尊王論者を弾圧した宝暦事件がおこり、右門は江戸に逃れて山縣大弐の元に身を寄せ、その塾で尊王論や兵学を講義した。
 しかし、幕府は明和3年(1766)ある事件にかこつけて右門と大弐を捕らえ処刑した(明和事件)享年48才。
 それから約100年右門らがさきがけとなった尊王論は多くの志士の心をとらえ、明治維新の思想の主流となった。末孫九成、多門らもその遺志を継いで、勤王家として活躍した。
 右門の旧宅は、現同志社大学の地に薩摩藩屋敷があった関係から、志士たちの会議連絡場所としても活用され、明治維新の史蹟としても忘れ難い。
 屋敷は大正11年(1922)区画整理のため取り壊されたが大正12年(1923)右門の顕彰碑がが建てられた。
 右門の旧邸は、薩州藩邸と地つづきであったので、西郷隆盛、大久保一蔵、香川敬三、桂小五郎、田中顕助らも始終出入りした。そして彼らの密議の結果を密書にして、三条・岩倉の両卿に届けたという。使者の役目は主水が勤めた。主水の父は直嵩、母は歌子といい女丈夫で、常に志士の世話をして、志士達に慕われた。大原重徳が征討総督として出陣の際、右門の旧宅で揮亀した「忠義貫鉄石 誠精感鬼神」の文字は、主水の嗣子の秘蔵するところである。主水は戊辰戦争にあたり、東山道鎮撫使岩倉具定に従って軍監として征討軍に参加した。また、後に岩倉家家令を勤め、太政官、宮内省等に出仕した。明治43年7月没。74歳。大正4年従五位を追贈された。

アクセス 上京区鳥丸通リ上立売上ル西側柳ノ図子町 地下鉄今出川駅 北側すぐ
養源院(薩摩藩臨時病院)
養源院・薩摩藩臨時病院

 相国寺の塔頭で薩摩藩邸の東隣にある。イギリス人医師ウイリアム・ウイリスを招いて、鳥羽伏見の戦で負傷した官軍負傷者の手当をする野戦病院となったところ。

相国寺(ロッシュ宿舎・薩摩藩本陣跡)
相国寺(しょうこくじ)

 臨済宗相国寺派の大本山 足利三代将軍義満が座禅修行寺院として創建は1382年。
 相国は太政大臣の唐名で足利義満が太政大臣になったのにちなむ寺号で、初め承天相国寺と称した。
 幕末の相国寺は御所の北隣と言う立地から、幕府・朝廷と係りが深く、多くの史事、史跡を残している。
 安政6(1859)年 安政の大獄で尊融法親王(中川宮)が、相国寺桂芳軒に永蟄居。
 文久元(1861)年 皇女和宮降嫁の護衛として上洛した幕府軍宿舎となる。
 文久2年 薩摩藩邸を錦・伏見に次ぐ3番目として、相国寺領地6946坪を借地して建設。
 慶応4(1868)年 王政復古後の外国使臣初参内で入京のフランス公使レオン・ロッシュの宿舎となる。

長州戦死者墓−長藩士戦亡霊塔(相国寺)
          
相国寺の境内を西へ、大光明寺と浴室の間を入ってゆくと、総墓地の入口の門がある。この墓地内に入ると、すぐ南に藤原定家の五輪塔が見える。その西隣に「長藩士戦亡霊塔」と刻まれた石碑が建っている。元治元年7月、禁門の変で戦死した長州藩士の墓である。禁門の変での長州藩の戦死者は、約200名に上るというが、その中の20数名の遺体が、ここに葬られた。ただし氏名は、湯川庄蔵(長州藩士、遊撃隊参謀、蛤門で戦死。年齢不詳)と、有川常槌(長州藩士、精兵隊士、鷹司邸で戦死。18歳)の2人しか判っていない。
薩藩戦死者墓(相国寺)
寺町通りから西へ折れて上立売通リを西進すると、やがて、相国寺の東門に至るが、その手前右(北側)に、林光院(林光院は門内南側で相国寺塔頭の一つである。足利義嗣の牌所であり、もとは紀貫之の屋敷であったが、応仁の乱の後、相国寺内に移築された)の墓地があり、その一画、通りに面して元治甲子(1864)禁門の変、および、慶応戊辰(1868)の鳥羽伏見の戦いなどの戦死者72名を葬った薩藩戦死者の墓がある。
 大正4年10月、合葬を表す大石碑の背面には、元治5年より明治5年に至る薩藩士72名の戦死者の戦没地、所属、階級、氏名が刻まれている。

徳嶋仲祐

新選組に西郷隆盛と間違えられて慶応2年12月25日暗殺された。墓は薩藩戦死者墓の奥にある。

アクセス 上京区今出川通烏丸東入上る相国寺門前町701。最寄り駅は地下鉄今出川駅。御所の今出川門を北上すると総門につく
本満寺(田中寅三潜伏地)
日蓮宗の本山で関白近衛通嗣を弔い、その邸内に広宣流布山本願満足寺を創建したのが始まりで後現在地に移された。慶応3年4月、新選組で過激な攘夷論を唱えていた田中寅三が新選組を脱走、御陵衛士に加入しようとするが、約定により加入が許されず、本満寺に潜伏するが、翌日捕らえられて切腹する。
 上京区の寺町通りにあり、山中鹿之助の墓もある。名古屋より引き上げてきた赤報隊二番隊・三番隊の宿舎にもなった。
アクセス 上京区寺町通今出川上る2丁目鶴山町16
十念寺(武田信発墓・曲瀬道策墓・竹内式部墓)
十念寺
 華宮山と号し、西山浄土宗。本尊阿弥陀如来は空海作といい、「雍州府志」は恵心作とする。永享3年(1431)真阿(後亀山天皇皇子)に帰依した将軍足利義教が誓願寺中に一宇を建立したの起りで、当初宝樹院と号した。宝樹院から十念寺への経過は明らかでないが、分明年中頃以前には十念寺となっていたことがわかる。

竹内式部
 
正徳2年(1712) - 明和4年12月5日(1768年1月24日))は、江戸時代中期の神道家、尊王論者。父は越後の医師竹内宗詮。通称は竹内式部。号は正庵・羞斎(しゅうさい)など。
 享保13年(1728)頃上京して徳大寺家に仕え、山崎闇斎門下の松岡仲良・玉木正英に師事して、儒学・垂加神道を学んだ。家塾を開いて、若い公家たちに大義名分を重んじる垂加神道の教義を教授したことから、宝暦8年(1758)の「宝暦事件」では中心人物として重追放の処分を受けて京都を追放された。その後、明和4年(1767)山県大弐らによる「明和事件」の際、関与を疑われて八丈島に流罪となり、送られる途中に三宅島で病没した。

武田信発

青蓮院諸大夫 元治元年4月18日、母と下僕が暗殺される。明治22年1月31日没。

曲直瀬道策

医者。曲直瀬を斬殺したのは御陵衛士の富山弥兵術であるという。京都向日神社神主・六入部雅香の次男(長男?)として生まれ、代々朝廷の医官で加賀藩の嘱託医を務める曲直獺家の養子となり家督を継ぐ。
 慶応年間、大型船を購入して諸国と物産交易を行い勤王活動の資金にしようと、紀州出身の陸奥陽之助、対馬出身の島正作らと船舶購入の準備をすすめていた。京にいた時より島にたびたび金の無心をしていた富山が大坂へ下り、道策の寓居を訪れいろいろ無礼な挙動をするため、外へ誘い出したところ、難波新地で富山はいきなり背後から斬りかかり道策を殺害した。慶応3年5月24日夜九つ時であったという。享年31歳。
 墓石には贈正五位 曲直瀬 亨徳院道策法橋墓 と刻まれ、没年月日は慶応3年5月25日となっている。

アクセス 上京区寺町通今出川上る、鶴山町13
西園寺(若江薫子墓)
 幕末・明治の勤王家、女流漢学者。京都生まれ。名は薫子、号は秋蘭。岩垣月洲の門人。伏見宮家に仕えた修理大夫量長の娘。昭憲皇太后の養育に当る。また攘夷活動により幽閉されたこともある。著書に『和解女四女書』『杞憂独語』等がある。明治14年(1881)没、享年47歳。
アクセス 上京区寺町通鞍馬口下る高徳寺町358 地下鉄鞍馬口駅東側
上善寺(長州藩士首塚)
          
 上善寺は、千松山遍照院と号し、浄土宗知恩院派である。境内墓地の西南隅に、元治元年7月、禁門の変で、鷹司邸付近で討死した入江九一弘致(長州)、原道太盾雄(久留米)、半田門吉成久(久留米)、那須俊平重任(土佐)、田村育蔵直道(長州)、小橋友之輔以義(高松)、緒方弥左衛門真澄ほか1名の計8士の首塚がある。碑に名のない人は久坂義助であるという。禁門の変で敗れた長州軍は、死体を収容することもできず退却した。当時堺町御門警衛隊長、越前藩軍務官、桑山重蔵は、戦の後、敵ながら天晴れな働きをして死んだ武士の遺骸をそのままにしておくのは忍びないと、主君松平春獄公に報告のうえ、「敵とはいえ、皇国の為に働いた尽忠の士である、首級を清めて葬ってやれ」との許しを得たので、彼らの首級をあげて持ち帰り、越前藩の菩提寺の上善寺へ葬り、長州人首級とだけ彫った墓標を建てた。誰が葬られたか分らないままであったこの墓標を、明治36年に、桂半助が発見し、存命中の桑山重蔵から当時の話を聞いて、右の8名を葬った事情が初めて判明した。
 長州人首塚は一時荒廃したが、明治38年、毛利家縁の田辺政之助という人が毛利家にその有様を伝えたところ、同家により墓地の修築がなされ、祭祀料が寄せられ、永く菩提が弔われることになったという。なお、最初に出た石柱の建立者勇山こと小畑岩次郎は、幕末の伏見の侠客で、素人角力で勇山の名をもち、東征軍に従って錦旗持ちもつとめた男である。大仏正面の耳塚の周囲の石柵や土佐稲荷の石柵にもその名が刻まれている。

アクセス 上京区鞍馬口通り寺町東入ル北側