嵯 峨 野 ・ 嵐 山

葵忠社(福田理兵衛)
福田理兵衛

嵯峨村の大庄屋・総年寄で裕福な材木商を営む家に生まれ、西高瀬川改修を行うなど、運河開発で地域産業の発展に貢献した。勤王の志が高く、多くの志士らと交わり、とくに長州藩の多くの志士に莫大な資金を提供した。

 元治元年(1864)禁門の変のときは、天龍寺を借用して長州藩のために武器や食料を調達し、理兵衛自身も息子とともに戦ったが、長州の敗北で薩摩藩士に追われて長州に逃げる。長州では厚遇されたが、明治5年(1872)、帰洛直前に何者かに襲われ59歳で亡くなった。大正4年(1915)、自宅の裏に祠が祀られたが、昭和10年(1935)に、ほど近い車折神社の境内に移され、葵忠社として祀られている。

アクセス 右京区嵯峨朝日町 車折神社境内にある。
正定院(福田理兵衛墓)
アクセス 右京区嵯峨朝日町7 車折神社東側にある。
福田理兵衛邸跡
 理兵衛は勤王の志厚く、長川藩のために尽した。元治元年夏、天龍寺を借用し、長州藩の本陣になった寺へ兵糧米その他を牛車で次次と運び込んだ。理兵衛父子も来島又兵衛の遊撃隊に加わった。長州軍敗北とともに、追撃の薩摩兵は理兵衛宅を探索した。理兵衛は長川へ逃れて住んだ。
右京区下嵯峨中通町、三条通り車折神社の西100mほど北側の地
弘源寺(長州藩屯所跡)
          
長州藩士が滞在した折り、試し切りしたという刀傷が残っている。特別公開時のみ見学できる。
松厳院(坂本龍馬銅像・船中八策碑)
          
 天龍寺内の塔頭松巌寺の墓地に建つ坂本龍馬像は、昭和49年10月14日に除幕されたものである。

壽寧院(楢崎将作・お龍 顕彰碑)
          
又あふと 思ふ心を しるべにて

 道なき世にも 出づる旅かな 

天竜寺(長州藩屯所跡)
 臨済宗天龍寺派の大本山。足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うために創建した。五山の第一位に列せられるほど栄えたが、たびたび焼失し、江戸期に復興したが、禁門の変の戦火で焼失した。

 元治元年6月28日、長州藩家老・国司信濃に率いられた兵団は、天龍寺に入り宿営。7月19日早朝、市中へ向って進軍し蛤御門に戦って敗れた。翌日、薩摩兵は長州の残党を掃討にやって来て、寺に火をかけた。

右京区嵯峨芒ノ馬場町、京福電車嵐山下車
嵯峨二尊院(三条実万墓・鷹司政通墓・壬生基修墓)
 二尊院は天台宗の寺院。山号は小倉山。小倉山二尊教院華台寺という。二尊院の名は、本尊の「発遣の釈迦」と「来迎の阿弥陀」の二如来像による。

 境内の墓地には、角倉了以、三条実美、阪東妻三郎らの墓がある。総門を入った「紅葉の馬場」と呼ばれる参道は、紅葉の名所として知られる。また、奥には、百人一首ゆかりの、藤原定家の時雨亭跡とされる場所がある。

アクセス 右京区嵯峨二尊院門前長神町27
亀山公園(村岡局像・角倉了以像)
津崎村岡の銅像

 近衛家の老女、津崎村岡の銅像がある。左大臣近衛忠煕を助け、慶喜擁立、水戸への密勅降下などを計り、尊王擾夷の志士のために尽したので、安政の大獄に連坐した。永謹慎を命じられた後帰京、直指庵に寵った。

角倉了以像

 角倉了以は、吉田が元の姓で、大堰川に舟を通じ、富士川を開き、大仏再建にあたっては、鴨川運河を開き、後これが高瀬川の開削となった。角倉家はまた海外貿易も行い、国内の鉱山開発にも尽力した。高瀬川は、了以・素庵父子2代の事業として完成し、明治に至るまで運河としての機能を果した。

アクセス 右京区嵐山、亀山公園中腹 角倉了以像の北東
直指庵(津崎村岡住居跡・村岡局墓)

 直指庵は祥鳳山といい、元黄檗宗の伝統をつぎ「直指伝心」の教えを守り寺号はない。今は浄土宗派である。

 帰京後は、直指庵を再興して、地元の子女の教育に尽力し、悠々風月を友とする余生を送った。

 明治6年8月没。88歳。

 明治13年に焼失し、有志によって再建された。

アクセス 右京区北嵯峨北ノ段町