岡 崎 ・ 南 禅 寺

北垣国道銅像
北垣国道

 兵庫県出身。文久3年10月12日に生野代官所を占拠する生野義挙に参加。

明治14年に京都府知事に就任して25年までの在職中、琵琶湖疏水事業を完成させた。京都の恩人と呼ばれている。北海道庁長官などを歴任し貴族院議員、枢密顧問官となって、明治29年には男爵を授けられた。

アクセス 京阪丸太町駅下車琵琶湖疎水沿いの冷泉通を東へ。京都市水道局疎水事業所のある夷川ダム内にある。
妙伝寺(四条隆謌夫妻墓)
 日蓮宗本山妙伝寺の庭園内墓地に七卿落ちの公卿の一人、四条隆謌卿夫妻の墓がある。

 四条隆謌は堂上公卿として尊攘運動に活躍したが、八・一八の政変により長州へ落ちた。慶応3年12月に官位を復され、翌年正月4日、錦旗奉行として、征討大将軍嘉彰親王に従って出征。明治14年2月陸軍中将。明治31年11月没。

アクセス 左京区東大路二条下る北門前町481
京都守護職屋敷門
 平安神宮応天門の西側の並びにある門で、旧京都守護職屋敷の門を移築したといわれている。門内の敷地に武道センターや武道館があり、年に一度剣舞の奉納の時にだけこの門は開くという。

 平安神宮西側の観光バス駐車場に南面している。そんなに目立たないのでしっかり確認をして下さい。
アクセス 平安神宮西側のバス駐車場内
平安神宮
 明治28年(1895)に平安遷都1100年を記念して、平安京遷都当時の天皇であった第50代桓武天皇を祀る神社として創建された。皇紀2600年にあたる昭和15年(1940)に、平安京で過ごした最後の天皇である第121代孝明天皇が祭神に加えられた。
アクセス 左京区岡崎西天王町97
西川耕蔵捕縛の地
 文久3年8月、天誅組の挙兵に際しては、かねて親交のあった安積五郎、林豹吉郎、乾十郎、島浪間らに軍資を送り援助した。元治元年6月5日、池田屋騒動で、密議に加わっていた西川は危うく難を逃れ、聖護院の寓居に(ここ)ひそんでいたが、6月15日、その所在を知られ、新選組屯所に連行された。新選組隊士により激しく威され、町人の分際で幕政を非難するのはもっての外である、と厳しく反省を求められたが動ずることなく、ついに六角牢へ入れられ、慶応元年2月11日朝、斬罪に処せられた。43歳。
アクセス 左京区聖護院山王町 東大路通丸太町上ル一筋目東入ル南側
吉田松陰拝闕詩碑
吉田松陰 思想家・教育者。佐久間象山に西洋砲術と蘭学を学ぶ。ペリー来航時に密航を企てて失敗し、投獄され、萩に幽閉される。幽閉中松下村塾を開き、子弟教育に全力を尽くす。安政の大獄で処刑される。

 この詩は、嘉永6年(1853)、梁川星巌より孝明天皇の時局に対する深い憂慮を聞いて感動して詠まれたもの。

 「京都は山河が取り囲んでいて、自然の城郭をなし、東上して以来毎日、この帝都のことを憶っていた。今朝、手を洗い□をすすいで、宮城を礼拝したが、自分は悲泣の涙がやまず、立ち去ることもできずにいる。皇居はもの寂しく荒れ果てて、今は昔日のおもかげはなく、変わらぬ姿の山河がむなしくあるばかりだ。・・・)

アクセス 左京区岡崎成勝寺町 京都府立図書館前庭
満願寺(山崎久三郎墓)

 示現山満願寺は、元北野七保の一つで、今も境内に文子天神社がある。

 山崎久三郎は伏見の人、京の呉服商、山崎家に養子に入るが、勤王の志厚く、天詠組を支援し、長州兵とともに禁門の変に戦い、鳥羽伏見から、彰義隊討伐に参戦し負傷した。のち伏見に住み、明治9年病没。57歳

アクセス 左京区岡崎法勝寺町130
無鄰庵−足軽の豪邸
          
 山県有朋の別荘。明治28年、小川治兵衛作の庭で「無鄰庵」と名付けた。36年4月21日、山県有朋、伊藤博文、桂太郎、小村寿太郎の4人がここで会議を開き、日露戦争開戦を決定した。明治後期まで生き残り、元勲と称されるほど長生きした山県。彼の権勢を誇るほどの立派な庭である。
アクセス 京都市動物園前にあり、琵琶湖疎水記念館の向かいにある。最寄り駅は地下鉄の蹴上駅。
南禅寺金地院(戊辰伏見鳥羽之役東軍戦死人追悼碑・会津藩戦死者記念碑)
 金地院の東照宮塀外には「戊辰東軍戦死者追悼碑」があるが、今は入ることが出来ない。東照宮には徳川金扇馬印を見ることが出来る。
南禅寺法皇寺(六角獄舎門)

六角獄舎門

南禅寺内の法皇寺の門は、六角獄舎から移築された門といわれている。

アクセス 南禅寺山門前の道を北へいくと門がある。
南禅寺三門
 宮部鼎蔵の下僕であった忠蔵が、池田屋事件前の6月1日、新選組に捕縛され、南禅寺山門に生き晒しにされたが、小川亭のテイ女が助け出したというエピソードがある。新選組は宮部の行動を調べており忠蔵は格好の証人である。過酷な取り調べをしたが白状しないので、見せしめのために南禅寺山門の楼上に縛り付けた。この話自体が事実かどうか不明である。

 ことの真相はテイの口から後日語られた。「宮部の下僕は救出されることなく、(中略)多分獄死したのであろう」。「この方々の首は河原へ晒され、(中略)それより二十年の間は心ばかりの手向けの香華がせめてもの御回向であった。」

 このエピソードは作り話だった? 忠蔵が新選組に捕らえられたのは記録にもあるので事実かも知れない。が、生き晒しやテイ女の必死の救出劇はフィクションだったのかも知れない。

南禅寺三門

 石川五右衛門の絶景かな絶景かな! 山門に登ること出来るのが嬉しいですね。楼上からの景色はまさに絶景である。

アクセス 京都市左京区南禅寺福地町86。最寄り駅は地下鉄の蹴上駅。蹴上駅の北。

南禅寺天授庵(梁川星巌・紅蘭墓・横井小楠墓)

 天授庵は、南禅寺を開山された大明国師を奉祀する塔所。

 文永元年(1264)、亀山天皇が母大宮院の御所として離宮禅林寺殿を造営。その後、正応4年(1291)当時の東福寺第三世大明国師に帰依された天皇は法皇となり、離宮を禅寺に改め国師を奉じて開山され竜安山禅林禅寺としたのが南禅寺の起源。

横井小楠墓

横井小楠 熊本藩士。8歳の時、藩校時習館に入学した。研学の末29歳で居寮長となるが、進んで実践を主とする大塚退野、李退谿に学び、朱子学について学んだ。天保10年30歳の時江戸に遊学し、藤田東湖らと交わり、水戸学の影響も受けた。同12年国に戻されていた彼は「時務策」を書き、藩政を批判した。長岡監物(家老)、下津休也、荻正国、元田永孚らと実学党を結成したが、後に長岡監物と対立し、小楠は下士層の立場に立った。小楠は水戸学を学んだが、米艦来航の頃よりその攘夷論に疑いを持ち、安政2年以降、彼は開国論者となった。安政5年から文久3年に至る6年の間に、4度越前藩に招かれて、己の理想実現に努力し、同藩の由利公正(三岡八郎り)とともに殖産、貿易事業を進めた。彼の旧制打破の施策と開国佐幕の説は、世俗に受け入れられず、また尊攘志士に憎まれた。明治元年3月、お召しにより徴士として新政府に仕え、当所に住んだ。閏蘭4月岩倉の頼みにより新政府の参与となり、多年研鑽した知識をもって新政府に仕えるべく張り切ったが、腸の病となり、自宅休養をしていた。同2年、参賀を終えて帰る途すがら、数人の刺客に襲われて斬り殺された。享年61歳。

梁川星巌・紅蘭墓

 漢詩人。通称は新十郎。星巌は号。美濃国安八郡曽根村の郷士の子に生まれる。文化5年(1808)に山本北山の弟子となり、文政3年(1820)に女流漢詩人・紅蘭と結婚。紅蘭とともに全国を周遊し、江戸に戻ると玉池吟社を結成した。
 梅田雲浜・頼三樹三郎・吉田松陰・橋本左内らと交流があったため、安政の大獄の捕縛対象者となったが、その直前にコレラにより死亡。星巖の死に様は、詩人であることに因んで、「死に(詩に)上手」と評された。 妻・紅蘭は捕らえられて尋問を受けるが、翌1859年に釈放された。
 出身地・岐阜県大垣市曽根には梁川星巌記念館があり、近くの曽根城公園に妻・紅蘭との銅像がある。

若王子墓地(新島八重子墓・新島襄墓・山本覚馬墓)
新島襄・八重子墓

新島襄

明治時代のキリスト教の布教家で、同志社大学の前身となる同志社英学校の創立者。1843年2月12日、江戸の安中藩邸にて生まれる。福沢諭吉らとならび、明治の六大教育家の一人に数えられている。本名を七五三太(しめた)と言うが、アメリカ合衆国への密航中に潜伏先の船長ホレイス・S・テイラーに「Joe(ジョー)」と呼ばれていたことから以後その名を使い始め、帰国後は「譲」、「襄」と名乗った。大隈重信と親交があり、現在同志社大学と早稲田大学の間で学生交流(国内留学)があるのはそのためである。1872年3月9日から翌年1月にかけて、岩倉使節団にも参加している。このときに、正式な留学免許状とパスポートを手に入れた。襄はこの使節団で、通訳の仕事に従事した。

新島八重子

 弘化2(1845)年〜昭和7(1932)年 会津藩士山本権八の娘で山本覚馬の妹。戊辰戦争の際、男装して会津の大砲隊式に参加。開城の折り「明日よりはいづこの誰かながむらん なれし大城に残す月影」の有名な歌を城壁に残す。後に京都に出て覚馬の指導のもと、英語や洋風生活を身に付ける。新島襄と知り合い結婚、キリスト教の洗礼も受ける。新島襄の東北伝道には彼女の影響があった。

正面に新島襄、左手奥に山本覚馬の墓石がある。新島襄の墓は昭和61年に倒壊したが、再建。勝海舟の揮毫。

山本覚馬

 文政11(1828)年〜明治25(1892)年 会津藩士山本権八の長男。日新館に学び文武兵学を修得、後江戸へ出て佐久間象山、勝海舟を訪ね、蘭学、様式砲術を研究。会津藩蘭学所を設置し、会津軍近代化に功があった。禁門の変では砲兵隊の指揮を取ったが、鳥羽・伏見の戦いで捕らえられ薩摩屋敷に幽閉された。失明と脊髄を損傷しながらも、口述筆記の「管見」と題する経世論を認められ明治2年釈放される。やがて京都府顧問や京都商工会議所会頭として活躍。またキリスト教に共感、新島襄らの同志社創立にも協力した。

アクセス 若王子神社から山頂へ徒歩20分ぐらい 鬱蒼とした場所なので一人歩きは避けたほうがいい。