二 条 城

西町奉行所跡
 JR嵯峨野線二条駅のやや北寄りの東側、千本通り押小路東入ル北側の地に江戸時代、西町奉行所があった。現在、中京中学校がその主要地を占めている。付属地6000余坪で、三条屋敷及び、古屋敷と呼ばれた。その構成は東町奉行所と同様で、職務は同じく京都の司法・行政・警察を担当し、畿内の幕府領の租税徴集、寺社領の訴訟処理にあたった。東町奉行所と隔月交代で任についた。ただし新規事件の受理についての隔月交代であり、処理中の事件については当番月でなくても作業はしていた。両奉行所とも、人員が少ないため、市政に関しては五人組、町役等、各町の自治組織を利用する所が多かった。東西両奉行所ともに、本来の業務の外、禁裏の警固、皇室会計の検査、所司代参府の際の代役等も果した。
 文久3年天誅組の中村徳治郎は熊野で捕まり京都西町奉行所に送られたが名が知られていなかったので村預けとして富田林に帰郷を許されたという。また元治元年、禁門の変の際、六角獄舎では西町奉行所滝川播磨守の判断により平野国臣や古高俊太郎などが斬殺されている。
アクセス 中京区押小路通リ千本角 JR嵯峨野線二条駅下車 向かいの北東角に石碑がある
出世稲荷神社(新門辰五郎寄進灯籠)
          
 新門辰五郎寄進と言われる狛犬がある。新門辰五郎は江戸の町火消し十番組頭取として有名である。娘芳が一橋慶喜の側室となり、慶喜から重用されて、上京の際には子分を引き連れて入京した。二条城の警護をしていたが、後に慶喜の身辺警護を行うようになった。維新後は慶喜と共に駿府へ移住した。
アクセス 上京区千本通二条下 出世稲荷神社境内に狛犬がある
松林寺(佐々木只三郎寓居跡)
 見廻組与頭・佐々木只三郎がこの寺に下宿していた。見廻組は京都守護のため組織された幕府の警備隊で、京都守護職配下であった。
アクセス 上京区智恵光院出水下ル分銅町575
永井尚志邸跡
 永井尚志は東町奉行、幕府大目付を、若年寄格を歴任し、数度京都に滞在しているが、ここ日暮通の元郡山藩邸には慶応3年4月から12月まで役宅として住んでいた。

 土佐藩の後藤象二郎が度々永井邸を訪問しているが、後藤は永井より近藤勇を紹介されてる。近藤は後藤への接近を図り、再会を願う書簡を二度送っているが、後藤のほうでは風邪や宿酔を理由にして面会を断り続た話がある。

 元郡山藩邸は日暮通下立売西南、二条城北小学校の東側あたりまでが跡地になる。

アクセス 上京区日暮通下立売下る西側
所司代屋上敷跡

 京都所司代は二条城の北一帯に広大な敷地を持ち上屋敷・中屋敷(堀川屋敷)・下屋敷(千本屋敷)・新屋敷からなっていた。江戸初期に所司代が住んだ私邸を下屋敷と称していたが、付属屋敷が増えた結果この下屋敷は中屋敷と名が変わり、勤番者及びその家族の居住区域になった。現在はひまわり幼稚園や社会福祉会館などが建っている。上屋敷は執務所と所司代や家臣の住居区域となっており、その一部に明治3年我が国最初の中学校が建てられたが、現在は待賢小学校が建っている。

 幕末の慶応3年12月9日に、最後の所司代松平越中守定敬が廃された。慶長5年9月に就任した奥平美作守信昌以来、58名がその職につき、近畿、西国に睨みをきかせてきた。

 当時、所司代屋敷は、東は東堀川通り、西は七本松通り、北は椹木町通り、南は竹屋町通りの範囲7万坪。慶長6年の設立で、元禄16年に拡張された。中央に本庁たる上屋敷、東に中屋敷(堀川屋敷)、西に下屋敷(千本屋敷)、さらに西に新屋敷と呼ばれた与力同心組屋敷があった。

所司代という名は、鎌倉幕府において武士を取り締まる機関を「侍所」といい、その長官を「所司」と称したことに由来する。足利三代将軍義満の頃、侍所の司佐々木道誉が、家来の吉田源蔵にひそかに自分の仕事を代行させたことから、所司の代官という意味で所司代の名が始まった。徳川幕府の所司代の役目は、町奉行の上に立ち、二条城を監督し、禁裏御所の事務、監増、警備にあたるなどで、朝廷にとつては大変煙たい存在であった。所司代は老中につぐ要職で、譜代大名から選任され、奏者番、寺社奉行、大坂城代等を経て就任した。

 名称役職は室町幕府に始まり、徳川幕府に受け継がれた。町方の取締は京都町奉行が行ったが、皇室や公家の監視、諸役人の統率、近畿八ヶ国の訴訟処理、西国三十三ヶ国の大名の動静監視など強い権限を持つもので、老中に次ぐ重要役職であった。幕末には京都守護職が設けられその管轄下に入る。守護職を会津藩主松平容保が務めたことから、遅れて所司代には容保の弟で桑名藩主松平定敬が19歳の若さで任命されている。

 上屋敷は二条城に面して中央に表門、西寄りに公事門をもつ。東西猪熊通リから日暮通りと、南北丸太町通りから竹屋町通りに至る、東西120間、南北93間半の8800坪の敷地に建坪1600坪余の中央南北の馬場を挟んで建つ建物があり、東半分は執務部屋が大部分で、奥の方が所司代自身の居住区であり、西半分は家臣団の居住区であった。

 上記の写真は 待賢小学校の門前の柵内に「京都所司代跡」の碑と「明治天皇行幸所京都府中学址」の碑が説明板とともに立っている。

 下記の写真は 待賢小学校北側の塀の中央部あたりに、塀が三角に内側にくびれ、「所司代屋敷址 東猪熊通西日暮通 南竹屋町通北丸太町通」という上屋敷を示す碑が建っている。

アクセス 上京区丸太町通黒門東藁屋。元待賢小学校。二条城北。丸太町通南側にある。
京都所司代上屋敷跡(板倉勝重・重宗屋敷跡)

 千本屋敷(下屋敷)は、奥平信昌の元私邸であった。東は日暮通りから西は千本通りまで、北は椹木町通り辺から南は竹屋町通りまで、東西221間半、南北185間の敷地4万坪の地域で、敷地内には縦横に道路がつけられ多くの長屋、小屋等が建ち、馬場、鉄砲場、厩などが設けられた外、西北隅には火の見櫓が目立った。

 この千本屋敷には、京都地組と称する所司代附抱え足軽100名とその家族が居住していた。なお、屋敷の中心部には足軽支配の役目をもつ所司代の直臣4名が住んでいた。与力同心組屋敷(新屋敷)は東は千本通りから西は七本松通り、北は椹木町通リから南は旧二条通りあたりまでの東西約148間半、南北181間半の、敷地約21000坪で中央に与力50人の住居があった。

 現在、堀川屋敷跡にホテルニュー京都等が建つ。上屋敷跡は北部に待賢小学校が位置し、その玄関脇と丸太町通り側に所司代屋敷跡の石標が建てられている。千本屋敷跡は北部に出水小学校があり、南部にNHK放迭会館や児童公園等を含む広い地域である。新屋敷跡は北東部に大極殿遺址を含み、南は山陰本線が西へカープして通っている広い地域で、今は主として住宅区域となっている。

アクセス 二条城北側の一帯 石碑はひまわり幼稚園の南側フェンス内にある
二条城
 二条城は堀川通りに面し周囲を堀で巡らせた平城である。徳川家康が京都の守護と将軍上洛時の宿舎として造営した。その後雷火や大火により天守閣が焼失、再建されなかった。文久3年14代将軍徳川家茂が上洛、3代将軍家光以来229年ぶりの上洛であった。新選組は家茂上洛の際、30〜40人で伏見まで出迎え、二条城まで警護している。

 家茂が急死すると15代将軍になった徳川慶喜は二条城で執務にあたり、将軍としては一度も江戸に行くことはなかった。慶応3年10月大政奉還の上奏案を在京諸藩の重役を集め諮問し、翌日朝廷に上奏した。翌月王政復古が宣言されると慶喜は大坂へ退去。

 維新後、明治元年1月27日、ここは太政官庁代となり、2月3日、明治天皇の行幸があり、関東御親征の大号令が発せられた。閏4月に、太政官代は宮中に移され、兵部省の管轄となり、明治4年3月に京都府に引き渡され、同年6月26日、京都府がここに移った。その後、二条離官と改称され大修理がなされた。

 明治26年から2年がかりで、旧御所内の旧桂宮御殿を本丸跡に移築した。大正4年(1915)、天皇即位礼が二条城で行われた。昭和14年、離宮を廃して京都市に下賜されて、史跡元離宮二条城となり、現在に至っている。

 15代将軍徳川慶喜二の丸御殿大広間にて在京諸藩の重役を集め諮問した。そのときの状況を再現した人形が常時展示されている。

アクセス 中京区二条通堀川西入ル二条城前。電話075‐841‐0096。地下鉄二条城前駅下車すぐ。

東町奉行所跡
 東側は神泉苑通り、西側は美福通りに至る一帯は、東町奉行所のあった所である。京都の奉行所は、東と西があり、東町奉行所の始まりは、かつての代官奉行五味備前守の屋敷に建てられた(総坪5327坪)。

京都町奉行所は慶長5年(1600年)に初めておかれ、寛文8年(1618年)よりは常設の職になった。その後西町奉行所と東町奉行所に分けられ、隔月で交替の任についた。老中の支配に属し、京都畿内及び近江丹波播磨等八ヶ国の幕府領の租税の徴収、市街の訴訟の裁断、また社寺のことなどを管理した。奉行所にはそれぞれ与力20騎同心50名の職員がいた。

 文久2年、渡辺金三郎、大河原重蔵、森孫六、上田助之丞達4名の町奉行所与力が、長野主膳、島田左近の浪士弾圧にくみし、国を憂い嘆くものをことごとく無実の罪におとしたとして浪士団に襲われ首をはねられた。

 東町奉行所は二条城の南にある神泉苑の西隣にあった。碑はNTTの敷地内にあり、塩小路通側の柵内で写真を撮るには不向きである。

アクセス  東町奉行所石碑は二条城南のNTTビルの前にある。
平塚瓢斎宅跡(与力同心屋敷跡)
 東西奉行所には与力20人と同心50人が所属し、組屋敷内に住んだ。二条城の西南地域である。御池通から三条通、坊城通から千本通の区域である。

 平塚瓢斎は与力で、東町奉行所裏に住んでいた。天保の飢饉の際には窮民の救済に尽力した。山陵研究家でもあり孝明天皇陵墓普請に従事した。慶応2年旗本になった。明治8年没。享年84歳。

アクセス 二条城西南方 現在場所を特定中
小浜藩邸跡

 神泉苑町西側の一帯は、若狭小浜藩酒井氏の京都藩邸があった。安政5年に京都所司代になった12代酒井忠義は、井伊直弼の命令で勤王志士の捕縛を強めた。13代忠氏は水戸天狗党を追討した。戊辰戦争では東軍に従い、橋本で敗れ、山陰鎮撫総督に降伏した。

 将軍後見職一橋慶喜が最後の将軍として二条城に入るまでの約4年間ここで過ごし、政権構想した場所とされる。

 石標の文字は酒井家の現当主が揮毫し,近くの住家庭園に残っていた藩邸の燈籠も移された。

アクセス 中京区西ノ京池ノ内町 神泉苑の西側 御池通沿い南側に石碑と灯籠がある
二条陣屋(小川家住宅)
 二条陣屋は二条城や京都所司代に伺候する諸大名の陣屋として利用された。大名などが宿泊するためその安全を確保できるよう、カラクリを持つ部屋があり外部がすべて土蔵造りとなっている完全な防火建築である。落とし階段、釣り梯子抜け穴など、忍者屋敷と間違いそうな作りが施されている。

 見学料1000円で予約が必要だが、当小川家の方の丁寧な説明で充分に満足できる。昭和19年に国宝に指定されたが、現在は重要文化財となっている。

アクセス 中京区大宮通御池下ル137  075-841-0972 地下鉄東西線「二条城前駅」下車徒歩7分
来迎寺(新門辰五郎宿舎)
一橋慶喜と共に上洛した新門辰五郎らの宿舎になった。
アクセス 中京区神泉苑町通姉小路下ル瓦師町
弘前藩邸跡
 釜座通りの姉小路北西角一帯に、寛永以来、津軽藩邸(弘前藩)があった。弘前藩10万石はその支藩黒石藩とともに、幕末の京都における動きは見られない。維新に際し、初め奥羽列藩同盟に加わったが、後に米国船に乗って急還帰国した、京都駐在の用人西館平馬の持ち帰った、朝廷の令書と近衛家の教書を見て、藩主津軽承昭は、新政府に恭順することに決めた。慶応4年7。藩兵はただちに庄内方面へ出陣し、野辺地方面に戦った。明治2年4月末には蝦夷へ進撃し、失不来に戦い、箱館の弁天砲台攻略にあたった。
アクセス 中京区釜座通り御池下ル津軽町西側
紀州藩邸跡
 この一帯に紀州藩邸があった。天誅組追討や第二次長州征伐には藩主茂承が総督として広島に赴き指揮を執ったが、幕府軍は敗退した。

 戊辰戦争では官軍側についたが、敗走する幕軍が紀州に入り、庇護したが、そのことを新政府から詰問され、恭順を示すため官軍に協力し出兵した。

アクセス 中京区西洞院三条下ル東側
長尾郁三郎邸跡

 長尾郁三郎は、町人・長尾小兵衛為猶の二男として生れた(天保8年)。身は商人でありながら、幼い頃から学問を好み、国学に傾倒し、江戸へ出て平田銕胤(篤胤の養子。秋田藩士、国学者)の門に入り勉学した。帰京後は尊王攘夷運動に参加した。

 文久3年2月、将軍家茂の上洛に先立って、天下に尊王の大義を知らしめ、あわせて幕府と将軍に警告を与えてやろうという趣旨で、同月22日夜に、同志諸岡正胤(節斎)らとともに、等持院に押し入り、足利尊氏以下三代の木像の首を取り、三条大橋下の河原に晒首にした。事件後一味の中にいた会津藩士大庭恭平の裏切り(密偵であったという)で、長尾も捕えられて、六角牢へ投獄された。獄中でたびたび訊問されたが、正諭でこれに答えて、屈伏することはなかった。

 元治元年7月19日、禁門の変で起きた洛中の大火は、六角牢へも迫るとみて、慌てた幕吏のために、長尾郁三郎も、牢内にあった多数の勤王の志士とともに殺された。翌日の夕暮のことであった。享年27歳。

アクセス 中京区三条通リ西洞院西入ル南側塩屋町
藤堂藩邸跡
 伊勢津藩、藤堂高虎の後裔高猷の代に幕末を迎えた。京屋敷は、堀川通りの蛸薬師と錦小路の間、現在の堀川高等学校の所にあった。

 文久3年(1863)8月末、天誅組追討の命令を受けて、藩兵3000名を率いて出陣し、彦根、和歌山の兵とともに掃討にあたった。9月25日以降、初瀬あたりで藤堂藩兵の手に捕えられた天誅組の士は11名に及んだ。捕虜は、京都所司代の命で古市へ送り(10月2日)、京都へ護送されたのは10月16日であった。

 蛤御門の変、第1次征長、第2次征長にもそれぞれ従軍した。

 伊賀上野の城代家老采女之施が山崎関門の固めを配置した。戊辰戦争では、最初幕軍についていたが、戦況を見、朝廷からの帰順命令を受け、淀城下に向けて大砲を放った。これが鳥羽伏見の戦いの勝敗の分かれ目になった。淀藩も朝廷に帰順し、幕軍は大阪へ退いた。

アクセス 中京区東堀川通リ蛸薬師下ル、四坊堀川町 堀川高校正門左に石碑が建つ
妙泉寺(永持亨次郎墓)
 幕臣。ロシアとの交渉のためディアナ号におもむき、ねばり強く交渉する。安政元年には下田玉泉寺でロシア側と条約の最終的な詰めを行い、樺太(サハリン)の帰属、原住民などの取扱などを除いて大筋で合意に達した。

 安政2年、永持亨次郎が蒸気軍艦観光丸の運用などを目的とする長崎海軍伝習所・第一期生の艦長候補となる。艦長候補は他に勝麟太郎(勝海舟)、矢田堀景三がいた。翌年には第一次長崎海軍伝習の終了をまたずに長崎奉行支配吟味役に転出。

 安政4年にはロシア使節プチャーチンを訪問し条約審議を行い、日露追加条約調印する。 稲佐郡飽ノ島で長崎製鉄所が起工し、永持亨次郎が庶務会計を主宰した。

 文久元年、対馬を占領しようとしているロシアのポサドニック艦長ビリレフと退去に関する交渉を行う。その後、御徒頭過人兼外国御用出役頭取取締を仰せ付けられる。

 元治元年、禁裏警守のため上洛する。 目付介を仰せ付けられる。

 元治元年10月1日 永持亨次郎が禁裏守衛総督兼攝海防禦指揮徳川慶喜公配下の目付介として勤務中38才で客死。

アクセス 中京区三条通大宮西入上瓦町70
六角獄舎跡

 六角獄は東西69m、南北53m、面積約3660平方メートルで、現在の六角通の南側、神泉苑通から財団法人盟親のあたりにあった。中は揚り屋、本牢、切支丹牢などに分かれていたが、文久以来の国事犯の収容で牢内は一杯になっていたという。

 天誅組、生野義挙や池田屋事件などの政治犯が多数収監されていたが、禁門の変による戦火が六角獄に迫ってきたとき囚人の逃亡を恐れ、西町奉行の判断で平野国臣や古高俊太郎などの囚人を斬殺した。その状況は当時牢内にいた村井政礼が「縲史」のなかに書き残している。

 六角獄は被災することなく、滝川播磨守はのちに守護職松平容保の叱責を受けたという。

「平野国臣他数十名終焉之趾」今はマンションになった六角獄の入り口付近にこの碑が「日本近代医学発祥の地」という碑と共に並んでいる

「殉難勤王志士忠霊塔」マンションの入口を入るとすぐ左に「山脇東洋観腑之地」と並んで立っておりそのそばの駒札に六角獄舎の名がみられる。

アクセス 中京区六角通大宮西入ル因幡町。阪急四条大宮駅から大宮通を北に進み、六角通を西に細い道を進む。マンションの一角に石碑がある。
正運寺(森孫六墓)
 東町奉行所与力森孫六は、同僚の大河原重蔵と西町与力の渡辺金三郎、上田助之丞と協力して、勤王の志士の捕縛をおこなうが、その恨みを買い薩長土の志士にねらわれた。幕府は4人に江戸引き上げを命じた。

 文久2年9月23日夜、石部で4人とも暗殺団に殺された。墓石左に「散忠義之居士」と刻まれている。

アクセス 中京区蛸薬師通大宮西入ル北側
高山寺(中川四明墓)
中川四明 俳人 名は勇蔵・登代蔵、字は重麗、号は紫明。京都生まれ。下田耕作の次男、中川重興の養子。二条城勤番より見廻組に参加。鳥羽伏見の戦の追悼碑建立に尽力する。学校教員を経て日本新聞・京都中外電報・大阪朝日新聞勤務。明治29年に京阪満月会を興し、同37年に俳誌『懸葵』を刊行。編著に『俳諧美学』『触背美学』等がある。大正6年(1917)没、68歳

 句碑が光縁寺南の光林寺にある。葬儀も光林寺で行われた。

アクセス 右京区西院高山寺町18 阪急京都線西院駅 北側すぐ