仁和寺・妙心寺

三宝寺(水口市松供養碑・今城重子墓)
三宝寺は周山街道、福王子の西北にあり、日蓮宗で金映山と号す。
水口市松

 若狭藩士藤田兵助の子、津藩藤堂家の武術指南役をやめて脱藩し京へ。医師水口某の婿養子となり、医業を継ぐが、元治元年、新選組に入る。慶応2年9月12日、三条制札事件で働き、報奨金15両を貰う。同3年6月の幕臣取り立てで、平士として見廻組並御雇となったが、翌年1月、千両松ぎわで銃丸にあたり戦死、45歳。水口市松の供養碑は山頂の中川家墓地にある。水口市松忠也。

 

今城重子 

今城定章の女。千種有文の妹にあたる。公武合体のため皇妹和宮降嫁に関して岩倉具視ら四卿と策応して、衛門内侍堀河紀子とともに「四奸両嬪」と称せられ、勤王派より忌まれた。朝譴を被り文久2年(1862)7月宮中を退出させられ、8月隠居謹慎の命が下り、宮廷の女房たちとの音信は禁じられた。年浪士らの激昂を宥める意味から出家剃髪を命じられた。

アクセス 右京区鳴滝松本町
法蔵寺(春日潜庵墓)
          
 春日潜庵は久我家の諸大夫として尊攘運動に尽したため、安政5年12月14日、西町奉行所に召喚され、翌6年10月7日、永押込に処せられ、文久2年8月に許されるまでは、紫野の別邸で過した。のち再び久我家に戻り、西郷・大久保・木戸らと会合し、討幕を計った。慶応4年2月、久我通久が大和鎮撫総督になると参謀として従った。
 5月奈良県知事。7月辞官。以後は門弟の教育に専念した。明治11年3月23日没。68歳。著書「陽明学真髄」「伝習録評点」「潜庵初集」「潜庵偶筆」など。
アクセス 右京区鳴滝泉谷町19 
妙光寺(天章和尚終焉地)
 文久2年5月22日、将軍上洛・公武合体などの要望を江戸に求める使者として、大原重徳・島津久光が江戸へ向かった。当初は岩倉具視が使者であったが、大原重徳になったのは、天章和尚の推薦があったから。

 天章和尚はその後、妙光寺の住職となり、品川弥次郎や田中光顕などもよく訪れた。

 明治4年7月9日夜、和尚は読書中、二人の刺客に襲われて惨殺された。

右京区宇多野上ノ谷
龍源寺(飯田忠彦墓)
 飯田忠彦は有栖川宮の家臣、勤王家で歴史学者。安政の大獄後、赦されて深草の浄蓮華院に住み『野史』を完成させた。万延元年5月、桜田門外の変について 伏見奉行所に呼ばれた。奉行所の待遇は丁寧であったが、事変に心打たれ、22日脇差で咽喉を突き翌日死んだ。63歳。
アクセス 右京区鳴滝音戸山町
仁和寺(小松宮彰仁親王)
 仁和寺は、仁和2年光孝天皇の発願、同4年宇多天皇の時竣工。宇多天皇が譲位の後、法務の御所として使われたので御室という名がついた。

 慶応3年12月9日、純仁法親王(東伏見宮・小松宮彰仁親王)は還俗され、翌年正月3日軍務総裁を命じられ、4日征討大将軍を拝命し、錦旗・節刀を賜わって 鳥羽伏見の戦に臨まれた。

アクセス 右京区御室大内町
小松原薩摩藩練兵場跡
 慶応2年4月、第二次長州征伐が計画され、世情が騒然とした時に、島津久光は入洛して、洛北衣笠山のふもとに、1万6千余坪の土地を求めて調練場にした。域内に弾薬庫、陣屋、休息所、勤番所を設け、常に動番士10数名を置いた。久光はしばしば、西郷隆盛を従えて小松原の陣屋へ来たという。鳥羽伏見の戦となり、薩長が苦戦を強いられようとしたとき、当練兵場の薮中にある弾薬庫の中の砲弾と火薬はすべて運び出されて、戦勢の回復と勝利に役立ったといわれる。
アクセス 北区小松原北町
等持院(足利三代将軍木像)
          
 等持院は足利尊氏開山で、歴代足利将軍の廟所である。一時衰えたが、豊臣秀頼により復興された。霊光殿には尊氏の念持仏利運地蔵・足利累代の木像・徳川家康像などを安置する。

 文久3年2月22日夜、等持院へ押し入った17、8名の浪士は、足利三代の木像の首を抜き取り、翌朝、三条河原に梟した。

 高山彦九郎が鞭うってののしったという、足利尊氏塔は霊光殿の北にある。

アクセス 北区等持院北町
等持院(河田小龍墓)
          
 等持院西北の山麓、立命館大学の北にある旧墓地内に、河田小龍の墓がある。河田小龍は土佐高知に生れ、弘化3年吉田東洋に従って上洛、狩野永岳に学んだ。嘉永3年土佐に帰り、同5年、帰国したジョン万次郎の漂流談『漂巽紀略』を綴り、山内侯に献じた。坂本龍馬は小龍の感化を受け、時勢を知り、武備の必要性と対外政策を学んだ。支援した龍馬亡き後、小龍は京都へ移り、画家として業績を残した。明治31年没。

アクセス 北区等持院北町・等持院墓地 立命館大学の入口に写真左のような石碑があるので、大学を横切る形で墓地へ行く。
妙心寺天球院(北小路万之助墓)
文久3年春、将軍上洛の際、岡山藩の宿舎となった。

山国隊士の北小路万之助の墓がある。非公開。

妙心寺大通院(土佐藩本陣)
文久3年春、将軍上洛の際、土佐藩の宿舎となった。
妙心寺慈雲院(土佐勤王党本部)
文久3年春、将軍上洛の際、土佐勤王党の宿舎となった。
妙心寺大法院(佐久間象山墓)
          
 佐久間象山 信濃国松代藩士。妻は勝海舟の妹。若年期に経学と数学を学ぶ。江戸に出て、佐藤一斎に朱子学を学んだ。 佐藤一斎の下でその才は認められ、山田方谷とともに二傑と呼ばれた。 天保10年には私塾象山書院を開く。アヘン戦争で西洋の科学力を見せられた象山は、韮山代官で洋学に見識が深く、既に海防に実績を挙げていた江川太郎左衛門の門下に入り、兵学を学んだ。高島秋帆や江川の技術を取り入れつつ大砲の鋳造に成功、名を大きく高めた。さらに多くの事業を手がけ、ガラスの製造を行い、牛痘種の導入を企図するなどし、洋学の第一人者として高く評価されるようになった。 日本で初となる地震予知器を完成させたのも彼である。

 嘉永6年(1853)、ペリーが来航し開国を迫った。象山は視察に浦賀まで訪れている。ところが翌年、再び来航したペリーの艦隊に弟子の吉田松陰が密航を企て、失敗。象山も事件に連座して、伝馬町へ入獄され、その後松代での蟄居を命じられる羽目となった。蟄居が赦されたのは8年後の文久2年(1862)である。

 元治元年(1864)、幕府後見職一橋慶喜に招かれて入洛、公武合体論、開国論を説いた。 しかし、尊皇攘夷思想うずまく当時の京都に赴くことは、開国派・西洋かぶれという印象を広くもたれている象山にはあまりに危険な行動であった。さらにその京都を移動する際、ろくに供も連れなかった。

 7月11日、三条木屋町で前田伊右衛門、河上彦斎らにより暗殺された。明らかに自信過剰が引き起こした事故であり、禁門の変の7日前のできごとであった。現在、現場には遭難碑が建てられている。 その後河上彦斎は象山の事歴を知ると、あまりの大物を殺害してしまったことに愕然とし、人斬りと名高かった彼が暗殺をやめてしまったという。

 門弟に吉田松陰、小林虎三郎、勝海舟、河井継之助、坂本龍馬、橋本左内、加藤弘之らがいる。 なかでも吉田松陰(寅次郎)と小林虎三郎は「象門の二虎」と称され「天下、国の政治を行う者は、吉田であるが、わが子を託して教育してもらう者は小林のみである。」と語った。

妙心寺大光院(滝善三郎収骨の碑)
非公開寺院
アクセス 妙心寺 右京区花園妙心寺町1