西   京 

冷声院(山口薫次郎墓)
山口薫次郎(1815−73) 墓石には勤王志士 山口直とある

 川島村の豪農で庄屋を務めた。春日潜庵に学んだ。私塾立命館を開き森田節斎を招いた。節斎の縁で梅田雲浜を知り、彼のために三条東洞院に塾を開いた。
 勤王の志士と深く交わり、長州藩のために親族の小泉仁左衛門とともに物産の交易を行った。禁門の変後、福田理兵衛の息子・信太郎とともに長州に渡った。慶応4年には京都に戻ったが、明治6年東京で亡くなった。

アクセス 西京区川島玉頭町 近くの川島町バス停付近に屋敷があったと思われる。
小泉仁左衛門邸宅
 小泉仁左衛門は、勤王志士山口薫次郎の親族で、勤王の志が篤く、山口とともに村内子弟の教育を計り、私財を投じて立命館を設立して、村民の士気を鼓舞した。また、館の師として森田節斎を大和から招いた。そして節斎の縁で梅田雲浜も呼び、尊王攘夷の思想を広めた。仁左衛門宅には水戸の鵜飼吉左衛門、頼三樹三郎も来て会した。仁左衛門はまた、山口薫次郎と計り、共同で三条東洞院梅忠町に私塾を開き、梅田雲浜を教師とした。この塾生の中には、肥後の松田重助、長州の吉田稔麿、播州の大高又次郎、西川耕蔵らがいた。
 長州藩士と親しくなるにつれ、仁左衛門は勤王の志を果し、攘夷を行うための資金を得ようと、長州藩との物産交易を計画した。梅田雲浜、宍戸九郎兵衛、五条の乾十郎、肥後の松田重助らの間を、仁左衛門が尽力斡旋し、ついに長州物産販売、山城丹波物産購入の仕事を小泉邸で行うことになった。長州より入るものは、米、塩、蝋、干魚、半紙など、山城よりは、呉服、小間物、菜種、材木の類を以って、互いに交易を始めた。この事業に最も苦心尽力したのは梅田雲浜であった。長州藩から雲浜に、浦靭負を使者として贈り物がきたという。かくして長州を後楯として勤王の実を挙げようと、梅田以下の同志の士気は大いに上がった。
アクセス 西京区樫原宇治井西町
勤王家殉難之地碑

 昔は山陰へ行く街道は、桂から川島を経て、くねくねと老の坂へ上がって行った。途中、樫原の中央で物集女街道と交差している。ここは札の辻といい、交通の要所であった。

 元治元年7月19日、禁門の変で敗れた長州軍は、京を引き揚げていった。天王山へ引き揚げる真木和泉の一行に遅れて、京を後にした相良頼元(兄)、相良新八郎(弟)と楳本僊之助の3名は、荷宰領1名を供に、19日の昼頃、樫原札の辻までやってきたところ、すでに小浜藩士100余名が屯所を設け、大砲4門を据えて落武者を捕えようと待ち構えていた。
 たちまち追手に取囲まれた3名は、刀を抜いて応戦、6.7名を斬伏せ、多くの者に傷を負わせたが、何せ多勢に無勢、3人はついにここで無残にも斬り殺された。

アクセス 西京区樫原宇治井西町 樫町交差点西北
薩長三志士墓
 小浜藩士の引き揚げた後に、残された3人の遺骸は、岡村の村民が村外れの丘に手厚く葬った。3人がこの地に辿り着く前に、樫原三宮神社御旅所前の家に脱ぎすてた甲冑は、家人おゆき婆さんの手で村役人に渡され、長州藩邸に届けられたという。
 ところが相良兄弟は、薩州藩の方では藩士ではないといい、その身分が判然としないままに、3人の埋葬された地には、薩州相良頼元之墓、同じく相良新八郎之墓と、長州楳本僊之助之墓が建てられ、明治38年からは官修墳墓として改修された。

 写真上が三志士の墓で、下の写真が入口です。

アクセス 西京区樫原秤谷町
是住院(富岡鉄斎墓)

 富岡鉄斎 天保7(1837)年12月19日−大正13(1924)年12月31日 

 元は四条河原町の高島屋南委の大雲院墓地入り口にあったが、昭和59年こちらに移転した。

 京都(三条通新町東)生まれの日本画家。太田垣蓮月に師事し勤王の志を持ち、終生儒者と称して画業を精進した。

教育者としても活躍し、明治2年に私塾立命館で、26年には京都市美術学校で教員に就任している。大正6年に帝室技芸員、大正8年には帝国美術院会員に選出されている。

アクセス 西京区大原野上里北町
西念寺(西川耕蔵墓)
 三条通り富小路西入ル北側に書を営む。宅跡には石碑が建つ。梅田雲浜に師事し、雲浜獄死のあとは遺族の依頼により清水坂の安祥院に墓碑を建立するなど奔走する。元治元年6月5日、池田屋の会合に参加していたが襲撃を逃れて脱出。留守居役をしていた熊野神社の北側にあった儒者鈴木恕平宅にたどり着いたが、ほどなく探知されて壬生の新選組屯所に連行のうえ、六角獄に送られた。6月6日とも15日ともいう。子母沢寛の「新選組始末記」によれば懐から「姦魁某王を斬るの文」が出て、土佐の北添佶摩に頼まれて書いたと申し立てたという。元治2年2月11日に斬られたとも、病死したとも伝えられる。43歳。

 写真上が、西念寺入口

 写真中が西川耕蔵の墓

 写真下が昔の墓石(この墓石の写真がほとんどの書籍に掲載されていますが、現在では写真中の墓石になっています。下の墓石は地蔵堂の中にあります。

西京区御陵大枝山町6丁目1