西 陣 ・ 北 野

宝鏡寺(和宮寓居跡)
 宝鏡寺は中世京洛に栄えていた尼五山第一位の景愛寺の法灯を今に受け継いでいる。
 景愛寺第六世光厳天皇皇女華林宮惠厳(かりんのみやえごん)禅尼は、宝鏡寺を開山し後光厳天皇より宝鏡寺の号を賜り、その後多くの皇女が歴代となり、百々御所(どどごしょ)と呼ばれた。また人形の寺とも呼ばれている。
 孝明天皇の妹・和宮は、幼時にこの寺に預けられ教育を受け、遺品も保管されている。万延元年に幕府は和宮を家茂の正室として迎え入れるため、朝廷側に工作し、岩倉具視は引換条件として、条約破棄を求めた。10月18日に降嫁の勅許が出て、文久元年10月20日に江戸に向かい、2年2月11日に江戸城で婚儀が行われた。しかし、家茂は4年後大阪で病死する。
アクセス 上京区寺之内通堀川東入百々町547-1
菱屋跡
 菱屋と新選組屯所のあった前川邸の前川荘司は遠い縁戚関係であり、そのつながりで新選組隊服等誂えたといわれている。ところがその代金を支払わない。再三の催促をしても払わない。そこで菱屋は妾の梅に代金請求に行かせたが、芹沢に乱暴され、いつの間にか芹沢のもとに出入りするようになった。
 借金の請求に来た女を自分の手中に入れるとは・・・。芹沢はすごいかも。
 文久3年9月18日(16日説が有力)夜半、芹沢鴨は八木邸で暗殺された。この時一緒に殺されたのは梅である。梅の遺体を菱屋は受け取りを拒み、前川家が葬ったとか、西陣の身内が引き取ったとかいわれているが現在ではわからない。
 菱屋は大正時代まで山名町にあったが、昭和初年に移転したが不明である
徳円寺(鵜飼吉左衛門・幸吉寓居跡)
鵜飼吉左衛門 寛政10(1798)−安政6(1859)8月27日

 文政7年7月隣姫付となり、歩行士列に班して取次役見習となる。天保元年末小十人列、4年7月京都留守居役手添となり、14年3月馬廻役に進み、京都留守居役となる。弘化元年藩主徳川斉昭が幕券を蒙るや、公家の間に無実を訴えて職を奪われ、水戸に帰った。
 嘉永6年3月復職して上京し、安政3年8月勝手掛を兼ねた。在京中斉昭の内意を受け、公家の間に出入りして攘夷の議を唱え、また藩命により楠木氏の遺蹟をもとめて河内・和泉の諸寺を歴訪した。同5年正月老中堀田正睦入京して外国互市を開くべく朝裁を迫るや子幸吉と共に阻止に努め、将軍継嗣問題には一橋慶喜擁立に奔走した。同年8月8日武家伝奏より勅書を拝受したが病のため幸吉を代理として江戸邸に行かせた。同年9月18日になり、ついに吉左衛門父子は町奉行出頭を命ぜられ、また吉左衛門より日下部伊佐治・安島帯刀に送る密事が同月2日幕吏に押収されて禁固され、ついで江戸に檻送され、翌6年3月五手掛の糾問を受け、8月27日死罪に処せられた。62歳。

鵜飼幸吉 天保11(1828)〜安政6(1859)8月27日

 年少にして砲術師範福地政次郎について神発流砲術を学び、安政2・3年の両度武芸出精により賞せられた。同3年2月小十人組に列して京都留守居役手添となった。
 同4年京都留守居助役となり、父と共に在京した。有志と交わって攘夷の議に加わり、しばしば意見を公家の間に陳述した。同5年8月同藩への勅書が降下するや、姓名を小瀬伝左衛門と変え、父に代わってこれを江戸小石川邸に届けた。老中間部詮勝の京都に入るに及び、父と共に捕らえられ、江戸に檻送されて高田藩邸に禁固となり、翌6年8月27日死罪梟首に処せられた。32歳。

 京都滞在中はこの寺に住まいしていた。

アクセス 上京区上立売通大宮東入幸在町698
長円寺(島田魁菩提寺)
 元新選組隊士、島田魁の菩提寺。過去帳に「釈教證 三月二十日 西六条本山現境内ニテ 島田魁七十二歳」とある。
アクセス 上京区笹屋町通智恵光院西入笹屋町1丁目537
浄福寺(薩摩藩屯所)
 浄福寺は慶応3年3月初旬、西郷を従えて上洛してきた島津久光の薩軍700余名の中、錦小路・二本松の藩邸に収容できなかった薩藩兵の屯所となっていた。薩藩の若者らは、当時の住職役僧を追い出して、乱暴の限りを尽くしていた。
 新選組や、薩長両藩士にも乱暴者が少なくなかった。ことに薩摩藩士の中には乱暴者が多く、会津の本陣の金戒光明寺に出かけて、喧嘩を売る者や、新選組の市中見廻の邪魔をして痛快がる輩もあったのである。
 ある日薩藩の先輩伊地知正治が、若い藩士のあまりの乱暴さ加減を見るに見兼ねて、意見をしようと、浄福寺にやってきた。ところが若武者どもは温和しく先輩の小言を聞くどころでなく、反対に伊地知にくってかかり、天下の危機に際して、我が藩の今日はどうだ、長州の青年の意気を見よ、我々の乱暴くらいは尊王攘夷の意気のあらわれである、大目に見て、先輩方ももう少し奮発して頂きたい、と刀を抜き放ち、気合もろとも寺の柱をここかしこと試し切りして回った。若者の見幕に驚いた伊地知は、逃げ出したという。今も浄福寺の各所の柱に、刀痕が残っている。
上京区浄福寺通り一条上ル西側
上七軒遊郭跡
 北野天満宮の門前になる「上七軒」は、鳥居前町・真盛町・社家門前町の三町をいい、京都でもっとも古い花街である。
 「西陣織」で有名な西陣のそばでもあったことから、織屋や糸問屋などの旦那衆をおもな客として栄え、古風の趣を味わいとして、現在に至っている。春に催される「北野をどり」は、華やかで美しい。格子戸のお茶屋や置屋が並ぶ通りを歩くと、北野天満宮の東門となる。
 上七軒には、新選組も通ったことが少なくなかったとみえて、土方歳三などは、ここに馴染みの舞妓君菊・子楽がいたほか、愛妾だったという歌妓・君鶴がおり、この君鶴は土方との子までなしたという。
 しかし、艶っぽい話ばかりではない。新選組は元治元年2月27日、不逞浪士の捕縛でも、この上七軒に来ている。
アクセス 上京区真盛町 北野天満宮の東門となる。この東門にほど近い老舗和菓子店の前に、上七軒の説明板(駒札)が立っている。
北野天満宮

新門辰五郎献納の常夜灯

 北野天満宮正面の石の鳥居に左脇にある。新門辰五郎は江戸下谷生まれで、火消しの頭取。徳川慶喜のお気に入りで、子分を連れて上洛した。

山国隊寄進石灯籠

 京都三大祭りの時代祭で、先陣を切るのが「山国隊」である。黒い服を着て一番最初に行進している。天満宮社殿西北隅に、戊辰戦争から凱旋した時に献納した石灯籠がある。明治2年2月と記してあり、台座に隊員名を刻んでいる。

和魂漢才碑

天満宮社殿西側に和魂漢才碑が建っている。「菅家遺誠」の中の和魂漢才に関する二章を記したもので、管公の精神を周知せしめるために、嘉永元年に座田維貞が東坊城聰長に揮毫を請うて建てた。

大幸寺(藤井右門髭塚)
 右門は播磨赤穂藩の遺臣の子で、享保5年(1720)富山県小杉町の生まれ。京都に出て竹内式部らと交わり、皇学所教授となって公家に尊王論を説いた。
 宝暦8年(1758)幕府が右門ら尊王論者を弾圧した宝暦事件がおこり、右門は江戸に逃れて山縣大弐の元に身を寄せ、その塾で尊王論や兵学を講義した。
 しかし、幕府は明和3年(1766)ある事件にかこつけて右門と大弐を捕らえ処刑した(明和事件)享年48才。

 右門の遺髪を徳島藩士岡本熊蔵がもらい受け、邸内に埋めたが烏丸通拡張によりこの寺に移された。

アクセス 上京区千本通出水西入ル
成願寺(鈴木豊次郎らの墓)
 一橋家御用人として、慶喜の信任が厚かった原市之進は兵庫開港と長州藩処罰のことから攘夷派の浪士に暗殺された。慶応3年8月14日早朝のことである。

 刺客団の2人は、幕臣で鈴木豊次郎と依田雄太郎である。2人は二条城近くの板倉屋敷前で追っ手に惨殺された。目的達成を知り豊次郎の兄恒太郎は自首し、2日後切腹した。この3人がこの寺に埋葬されているが、無縁仏の中にあるので探しにくい。

アクセス 上京区御前通一条西入ル
竹林寺(平野国臣ら志士墓地)
          

 元治元年7月19日に起きた禁門の変で、京都の町は火に覆われた。当時六角獄舎には平野国臣や池田屋事変関係者多数が投獄されていた。20日には火が近くまで迫り、破獄の恐れから当初の命令に従わず斬首した。当初は火が近づいたら江戸へ行く重罪人は斬り残りは解き放つ予定だった。

【池田屋事変】古高俊太郎正順、南雲平馬、吉田五郎、横田正(清)兵衛、内山太郎右衛門直一 、山田虎之助彪、今井三郎右衛門有忠、佐藤市郎

【生野義挙】平野次郎国臣、横田友次郎靖之、本田小太郎素行、大村辰之助包房、木村愛之助(片山九市春量)

【大和義挙】古東領左衛門秀親、乾十郎嗣竜、水郡善之祐長雄、辻郁之助同茂、長野一郎寛道、石川一貞幹(足利木像・大和義挙)、厳徭坊亮親(豊前英彦山の人)、教観坊成連、吉田重蔵良秀、保母健晃光、原田喜太郎一作、田中楠之助祐信、森本伝兵衛勝定、中倉才次郎、鶴松、常助、村上俊平(桜山五郎)、船田彦次郎貞光、木村楠目、

丹羽出雲守正雄(三条家の諸大夫)、河村能登守季興(三条西家の諸大夫)、川勝寛治(三条家平侍)、吉川菊治(三条西家の平侍)、長尾郁三郎武雄(足利将軍木像梟首)、

 史料によって33名が一番多く、列記されている人物名も若干違うが、37士を紹介した。(竹林寺の名簿では37士となっている)

 この慌てた処刑は、守護職会津侯もその処分の不法さに大いに心ないことと憤り、町奉行等に厳しく戒めの言葉を申し渡したという。

アクセス 上京区御前通下ノ下立売西入ル。JR嵯峨野線円町駅下車、西大路通を北上、下立売通を西へ行くと北側に朱色の門が見えてくる。
西ノ刑場跡付近
 粟田口とともに江戸時代京都の処刑場であった西刑場は明治8年以降はゴミ処理と廃品回収の施設になった。

 獄中で処刑された遺骸は、お土居西の仕置場(西大路二条上ルの竹林寺墓地辺)に移された。そして獄吏によって、密かに、氏名の明らかな身分ある13体には、瓦片に氏名を朱書して付け、長い穴を掘って順次並べて埋葬し、身分氏名の分らぬものは、大穴の中へ一つに合せて埋めた。明治8年5月、京都府は含密局の附属施設として化芥所(ゴミ処理場)を設置した。

 この西の刑場跡の化芥所の片隅の椋の木の下に、やや隆起した地面があった。そこは、元治元年に六角牢で処刑された志士の遺骸を埋めた場所だという噂があった。当時の主任吉井義之氏が掘り返してみると、果して平野国臣の名を記した瓦片とともに、多くの骨が出てきた。明治10年2月のことであった。早速霊山招魂社に報告したが、彼地では、遺骨を受入れることはできないというので、吉井氏は、義援金を集めて埋まっていた骨を掘り出して、当時無住であった竹林寺を埋骨し、地上に刑場跡にあった石の地蔵尊像を安置し、傍に殉難志士の木標を建てて、数人の手で改葬の法要を行った。

アクセス 中京区西大路通太子道東入ル紙屋川付近
浄円寺(池田屋惣兵衛墓)
          
 長州藩定宿池田屋主人。元治元年6月5日夜、近藤勇に殴られ昏倒したといわれている。妻子を連れて脱出するが、翌日には町奉行所に連行され、六角獄舎に送られた。13日に熱病で死亡。享年42歳。遺体は妻子のよってここ浄円寺に密葬された。妻子は半年ほど町役人預けとなった。

 墓石正面に「照譽光善信士 善譽知光信女」と夫婦の戒名が並んで刻まれている。霊山墓地にも墓碑がある。

アクセス 上京区下立売通七本松西入長門町390。JR・地下鉄二条駅から千本通を北上。下立売通を西へ。約1キロほどある。
教善寺(渡辺篤墓)
 浄円寺隣の教善寺には見廻組渡辺篤の墓があったが、現在は無縁仏となっている。
 見廻組は禁門の変に活躍し、後に守護職の配下に入って京都の治安維持に任ぜられた。定説では坂本龍馬と中岡慎太郎を討ちに出動したのも見廻組であった。(諸説あり断定できないが。)佐々木只三郎に率いられて近江屋ヘ赴き、今井信郎、桂隼之助、世良敏郎外1名とともに渡辺一郎は坂本と中岡を襲撃した。
 明治になって、箱館で投降した今井信郎は、7名で近江屋を襲ったと供述している。そして同行者の名はすべてその頃は死亡している者ばかりを挙げている。ところが明治になって京都の柳馬場綾小路下ル永原町に剣道場を開き、一中の教師もつとめ、子弟に剣術を教えていた渡辺篤という剣客がいた。この人が龍馬晴殺の立役者の唯一人の生き残りであった。篤は天保14年に京都に生まれた城番武士の子であった。大正4年1月6日に72歳で死去した。
アクセス 上京区下立売通り七本松西入ル教善寺
華光寺(宇喜多父子墓)
          

天正11年創建。

写真左は、宇喜多一宸ニ息子松庵の墓。土佐派の画家で、勤王活動のため安政の大獄に連座し江戸へ送られ、やがて京に帰されるが獄中で得た病が進み、安政6年11月14日没した。65歳。

写真右は、平塚瓢斎の墓。(瓢瓢斎独立居士)東町奉行与力として難民救済をし、山陵を調べ「花洛名所図会」等の書を著した。

アクセス 上京区出水通六軒町西入ル
福勝寺(古高俊太郎遺髪墓)

          

福勝寺 真言宗善通寺派。本尊は薬師如来。空海が大阪府羽曳野市で創建したとあるが、800年前にこの地の移った。

古高俊太郎は大津生まれ。梅田雲浜に学び諸藩の志士と交流し幕府に目をつけられたが、桝喜薪炭店の主人となって盛んに勤王運動に邁進する。が、新選組に踏み込まれ壬生の屯所へ連れて行かれ、前川邸の土蔵で激しい拷問の末、六角獄舎に入れられた。六角獄舎で没。享年36歳。池田屋事件の引き金になった。

古高俊太郎墓 元治元年6月5日新選組に捕らえられ、8月20日、六角獄舎で斬られた。

アクセス 上京区出水通千本西入七番町323‐1。JR・地下鉄二条駅から千本通を北上。出水通を西へ。約1キロほどある。

長遠禅寺(人見勝太郎墓)
          
 人見勝太郎 幕臣。遊撃隊隊士。蝦夷共和国松前奉行。維新後は人見寧(ひとみ やすし)と名乗った。

 慶応3年(1867年)に遊撃隊に入隊し、慶応4年1月より起こった戊辰戦争に奮戦するが敗退。江戸へ撤退した後も徹底抗戦を主張する。遊撃隊を二つに分け、伊庭八郎と共に主戦派を率いて房総に上陸。房総の譜代大名諸藩の結集を図るが芳しい成果は得られなかった。林忠崇率いる請西藩軍と合流し(林は譜代大名当主で格上であるため、名目上の大将は林になる)、小田原藩や韮山奉行所を威圧し、箱根へ出兵。しかし一部の隊の突出により敗退。海軍副総裁榎本武揚らと図って江戸品川沖を脱出し、隊を率いて奥羽越列藩同盟との合流を目指す。

 その後隊を率いて北関東から東北地方を転戦し、仙台より榎本の幕府方艦隊と合流、蝦夷地へ渡り、蝦夷共和国下で松前奉行を勤める。明治2年(1869年)5月18日、五稜郭政権軍(旧幕府軍)は明治政府軍に降伏。

 戦後は茨城県令などに任命され、明治政府に出仕。実業界に身を投じる。 明治30年代よりたびたび史談会に出席し、談話を残している。大正11年、死去。享年80。

アクセス 上京区出水通千本西入尼ケ崎横町371
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