室  町

福井藩邸跡

 江戸時代後期、越前福井藩(32万石)の藩邸であった。石標は油小路側の門前に建つ。幕末頃の藩主松平慶永は田安家から入り、英明をうたわれ、本多修理、鈴木主税、中根雪江ら進歩派を抜擢し、橋本左内、三岡八郎、横井小楠らを側近に用いた。慶永は島津斉彬、山内容堂、伊達宗城らとともに、一橋慶喜の擁立を計り、日米通商条約勅許のために、橋本左内を京都に送り運動させた。

 しかし天皇・公卿たちは、梅田雲浜や梁川星巌らの影響で排外思想に回まっており、条約勅許は得られなかった。しかし大老に就任した井伊直弼は勅許を待たず、日米通商条約に調印してしまった。安政5年6月25日、将軍継嗣発表の前日、慶永は、井伊邸に赴き、直談判をして独断調印をなじり、継嗣問題も話そうとしたが直弼は袂をふり放って登城した。その後、井伊直弼は一橋派の左遷を行い、押しかけ登城を行い、直弼を攻撃しようとした慶永ら諸大名を処罰した。慶永は隠居・謹慎の処分を受け、腹心の橋本左内は逮捕され死罪に処された。

 後年、慶永は大老職となり、公武合体を進めるが、元治元年には守護職となり、また議定となり、朝幕の間を斡旋した。鳥羽伏見戦の後、慶永は慶喜の助命と徳川家の存続に奔走した。文久3年以降、藩主は茂昭となり、戊辰戦では越後口から長岡、出羽に出兵した。

アクセス 中京区油小路通二条下ル西側 京都国際ホテル
橋本左内宅跡

 橋本左内は越前福井藩士で、安政5年2月に入洛し、この地にあった福井藩邸に住み、4月まで活躍した。

 左内、号は景岳、福井城下に生れ、大坂および江戸において洋学および医学を学んだ。藩主松平慶永に登用され、藩学明道館の教授となる。安政4年の藩政改革に、由利公正らと手腕を振い、藩主とともに将軍継嗣問題に際しては、一橋慶喜擁立を計った。しかし、一橋擁立運動は成らず、紀州慶福が将軍に内定した。この間、主人の命を受けて左内は岩瀬忠震に使いし、伊達宗城に会い井伊を説得しようとするが、4月23日井伊直弼の大老就任で、彼の運動も失敗し、そのうえ召捕られ、翌6年10月7日、江戸伝馬町の牢獄において、死刑に処せられた。享年26歳。

アクセス 二条城の正面向かい、京都国際ホテル前、北寄りの植え込みの中に「橋本左内寓居跡」の碑と説明板が立っている
京都守護職屋敷正門
 油小路通沿いの京都国際ホテル南側に、元京都守護職屋敷南門(正門)が移築されている。
松江藩邸跡
 出雲松江藩(藩祖堀尾忠晴、18万6千石)の京邸のあったところ。幕末の藩主は、松平定安である。

 松江藩は文久2年に外国から購入した軍艦2隻を幕府側に徴用され、また第1次、第2次征長にも従軍した。戊辰戦初期には幕府側にあって京都付近の警衛をしたが、本拠松江城は山陰道鎮撫使の収めるところとなり、松江藩は官軍に従って秋田に出兵した。

 松江藩出身の勤王の志士としては、松本巌、中沼了三、金本摩斎などがいる。薩摩に内通していたとされて、竹田街道銭取橋(勧進橋)で斬殺された武田観柳斎(新選組五番隊長)も出雲出身である。

アクセス 中京区二条通リ西洞院上ル西側
三輪田綱一郎寓居跡
 伊予松山の出身で、日尾八幡宮の神主。

 文久3年2月23日の足利将軍三代の木像の首を引き抜き、三条河原に晒した浪士の一人。但馬豊岡に5年間幽閉された。

 維新後は新政府に登用され、外務権大丞をつとめた。引退後は郷里で神官となり、明治12年没。

アクセス 中京区衣棚通二条下ル西側
大高忠兵衛寓居跡
 兄の大高又次郎は甲州流兵法、西洋砲術に達し、武具の製造に巧みであり、四条木屋町の古高宅の一画に住いし、志士の武具調達にあたった。

 弟忠兵衛は、14歳の時、大高六八郎義郷の養子となり、甲冑製法を伝授された。兄又次郎とは義兄弟の仲である。姫路藩士河合惣兵衛と親交し、梅田雲浜に招かれて京へ来て、衣棚通リ押小路下ル所に住み、甲冑業を営んだ。

 彼は諸藩邸に出入し、ひそかに志士の武具を製造し、彼らの消息に通じていた。安政の大獄には危うく難を免れたが、姿をかくすのに苦労した。

 忠兵衛は義兄又次郎とともに勤王志士のために奔走し、池田屋に集った同志のために甲冑、小具足の準備をしているところを捕えられた。そして六角牢へ入れられ、その留守宅は6月7日に幕吏が襲い、妻なかを捕え、同志らとの往復の書翰を没収した。忠兵衛は獄中でたびたび拷問を受け、ついに7月4日に病死した。忠兵衛の墓は、東山五条東入ル日限地蔵安祥院内、雲浜の墓の右後方に建つ。

アクセス 中京区衣棚通り押小路下ル
森寛斎邸跡
 森寛斎は萩藩士石田伝内道政の三男。森徹山の養子となる。萩藩の絵師太田田竜に学び、のち大坂の森徹山(円山応挙門下)に学び、四条派の絵をよく画いた。認められて森家をつぐ。25歳の時京へ出て円山派の復興を計った。

 勤王の志篤く、皇室のことに及ぶと襟を正した。幕末には尊王派のために萩藩士に戻り、京長間を往復した。

 維新後画業に戻り、明治初年、画学校教授となり、京都画壇の研究団体である如雲社の経営をつとめ、帝室技芸員になる。81歳で没。

アクセス 中京区室町通りニ条下ル蛸薬師町
中沼了三先生講書跡
 中沼了三は隠岐出身の儒者。天保6年京に出て、聖護院の鈴木恕平の門に入った。学問上達の後、この地に学舎を開いた。弘化3年の学習院発足に際しては、了三は儒官としてその教授に任ぜられた。彼は堂上、士民の区別なく交際した。

 彼は勤王家として大義名分と皇室尊重と尊厳は、当時尊王派の志士に大いなる影響を及ぼした。

 門下生には西郷従道、川村純義、桐野利秋、中岡慎太郎などがおり、また十津川の郷士の指導にもあたった。さらに天誅組騒動の直後に十津川郷折立の松雲寺に郷立文武館を開設した(県立十津川高校の前身)。

 身の危険を感じ十津川に避難したが、京へ戻り、新政府参与、戊辰戦役には参謀、彰仁親王の侍講、明治天皇の侍講となった。昌平學の一等教授となったが、三条実美らと激論の末、官を辞した。大津で湖南学舎を開き、学徒の教育に専念した。明治29年5月1日没。81歳。

アクセス 中京区鳥丸通リ竹屋町下ル東側
由利公正寓居跡
 越前藩士。越前藩の財政立て直しと殖産貿易で名をあげた。19歳の時、横井小楠に師事した。

 富国強兵を持論都市、京都から訪れた龍馬と王政復古のための財政策を授け、大いに議論した。

 維新後は徴士・参与として会計面の施策を提案し、五箇条のご誓文の原案を作った。東京府知事、岩倉使節団として外遊、貴族院議員を歴任する。

アクセス 中京区室町通丸太町下ル東側
京都守護職屋敷跡
 京都守護職は、幕末に新設された幕府の諸役の一つである。

天誅やテロが横行する中、幕府は京都の治安維持のため、家柄と実力を兼備した会津侯松平容保をもって、所司代の上の権限をもつ京都守護職に任じた。文久2年閏8月1日のことである。

 藩主松平容保は、美濃高須藩主松平義建の第6子で、会津藩主の養子になった。尾張藩主徳川慶勝は次兄、桑名藩主松平定敬は次弟であった。

 松平容保が守護職に任命されようという話を伝え聞いた国許からは、国家老西郷頼母、田中土佐が急返江戸に上り、幕府の形勢の危うい今日、京へ上って難局にあたるというのは、あたかも薪を背負って火の中へ入り、これを鎮めようというようなもので、労多く功は少ないであろうと、言葉をつくし、心から諫めたが、藩公は、再三固辞した結果、台命を断り切れず、なお我が藩祖の遺訓に、宗家と在亡をともにすべしとして君臣らと京都を死に場所として任に赴くことになった。


 文久3年の暮から、会津藩守護職屋敷が一つは千本下立売角の所司代千本屋敷の北辺に「会津御用屋敷」ができ、また、「守護職御用屋敷」が建設された(今の京都府庁の場所)。元治元年には右の屋敷の下手に「御用御添屋敷」が作られた。この添屋敦ができたとき、先の千本御用屋敷は引き払われた。

 なお文久4年2月24日には、鴨東に練兵場も設けられた。この年1月15日、将軍家茂は二度目の上洛をした。そして2月11日に容保は、陸軍総裁に任命され、同時に京都守護職は免じられた。この時広大な城東練兵場が会津藩に下されたのである。

 2月15日には、松平慶永が守護職に任ぜられたが、慶永は辞してその着任はなく、この年4月7日に再び、松平容保が守護職に復帰した。以降、慶応3年12月9日、王政復古により廃止されるまで、松平容保は在任した。

 京都守護職は、京都所司代、京都町奉行、禁裏付、二条城の諸役、伏見奉行など、すべてを支配下に置く絶大な権限をもち、幕末に編成された見廻組、新選組もその管轄下にあった。守護職の機構については不詳であるが、職員はすべて藩士を用い、公用局というものがあり、京都の事情に明るい藩士が任じられていたようである。

 維新後屋敷跡は陸軍局、軍務官屋敷、京都府庁、中学校と歴史が変わったが、明治18年再度京都府庁となり、明治37年にはルネサンス式建物となり現在に至っている。

 京都守護職屋敷跡の碑は京都府庁正門を入って右側の植え込みの中に立っている。

アクセス 上京区下立売通新町西入薮ノ内町。京都府庁の南門なのでわかりやすい。

仙台藩邸跡
 鳥羽伏見の戦いの折には、仙台藩は中立的な立場をとった。慶応4年3月、仙台に本営をおいた奥羽鎮撫総督は、仙台藩に会津追討の先鋒を命じた。仙台藩は会津攻撃をせずに難局を乗り切るため腐心したが、参謀の世良修蔵、大山格之助は容赦なく討伐を命じた。

 閏4月11日、白石に集結した奥羽諸藩から九条総督に「会津藩寛典処分嘆願書」を提出したが、世良に却下された。世良の目に余るひどい振る舞いに怒り、20日世良を暗殺し、奥羽列藩同盟が結ばれた。

アクセス 上京区中長者町西洞院西入ル南側
鳥取藩邸跡
 元治元年に竣工した鳥取藩邸は4650坪の広大な屋敷であった。

 幕末の藩主は12代池田慶徳で、徳川斉昭の第5子。京・江戸に行き、公武の周旋に努めた。しかし藩内の尊攘派と守旧派の対立に悩んだ。

 文久3年8月17日夜、京都留守居役河田左久馬以下22名の勤王派は、本圀寺に宿泊していた京都警備のために上洛中の同藩士を襲撃し、側用人ら重臣を暗殺した。22名のうち残った20名は油小路の藩邸に謹慎となった。

 禁門の変では鳥取藩は長州藩に加担しなかったというが、桂小五郎などは砲を準備して、堀川の鳥取藩邸において待機した上で出動しているし因州藩の進歩派は、長藩に呼応する密約はあったが、実行はされなかったようである。

 石川一は足利木像事件に関わり、また、尾崎建蔵(磯崎寛)とともに天誅組に参加し、ともに捕えられて六角獄中で斬られている。

 鳥羽伏見の戦に際しては、在京の家老、荒尾駿河守成章の決意で薩長軍に協力した。以後、東征軍に加わり、桑名城を接収し、河田左久馬は、藩兵を率い、土佐兵とともに、東山道別働隊として、甲州勝沼では近藤勇の率いる甲陽鎮撫隊と戦った。以後、上野で彰義隊と戦い、関東から常陛・奥羽へと転戦している。

 明治元年12月7日、会津侯松平容保は、死一等を減じられて、鳥取藩に永の預けという処分になった。

アクセス 上京区油小路通リ下立売下ル
大和屋跡
 文久3年8月12日、近藤勇らの興行する相撲が壬生において行われていたその日に、芹沢鴨の率いる数人が生糸問屋大和屋を襲う。大和屋は和物、絹糸、縮緬などを買い占め、外国貿易によって財をなしたといわれ、朝廷や天誅組へ多額の献金をしたことを聞きつけた芹沢一派が、大和屋へ金策に出向くが断られる。それを恨んで大和屋の土蔵のなかのものや商品すべてに火をかけたという。

 2日間にわたり残らず壊されたと、諸々の資料は伝えている。この騒ぎに火消しや役人も駆けつけるが、「与力、同心等相視テ制止スル能ハス」(「鞅掌録」)という状況であり、大和屋はよほど評判が悪かったものか洛中の町人や往来の者まで焼き払いに加担したという。

アクセス  上京区葭屋町通中立売上ル
近衛邸跡
 近衛家は、平安時代から続く歴史の古い公家で、多くの摂政や関白を輩出している。

 近衛忠Xは、将軍継嗣問題では、一橋派として活動し、条約問題で幕府を批判したため、安政の大獄で落飾・謹慎処分をうけた。文久2年再び関白として復帰して、公武合体を推進したが、長州の急進派の排斥をうけ、翌年関白を退いた。

アクセス 上京区室町通出水上ル 近衛町付近
水戸藩邸跡
          
 護王神社の北側に水戸藩邸があった。

 水戸藩は徳川御三家の一つ。徳川13代家定将軍の継嗣問題は、紀伊慶福と、水戸の一橋慶喜が有力候補であった。安政5年4月23日、井伊直弼が大老となり、6月に、勅許を待つことなく日米通商修好条約が結ばれた。一橋派は京都の朝廷に接近した。藩主斉昭の意向を受けた日下部伊三治や鵜飼吉左衛門を京へ上らせ、三条実万ら公卿に入説して攘夷を称え、外国通商に対する勅許運動を阻止した。

 しかし安政の大獄で鵜飼父子は逮捕され、死罪。斉昭の隠居謹慎、慶篤の登城停止の処分が下される。

 水戸藩に対する勅詫が下された。この勅諚をめぐり藩内は混乱。斉昭の意を受けた藤田東湖派の改革派と、藩主慶篤とこれに近い保守派があって、改革派もまた激派、鎮派に分れ、結束に乱れがあり、脱藩浪士の井伊直弼暗殺事件(桜田門外の変)、内部抗争の天狗党挙兵などで、水戸藩の政治的力は弱化した。当時水戸藩は勅諚を賜ってもその実は有難迷惑であったという。

  元治元年以降、水戸藩士の京都ヘの増強部隊は、本圀寺を宿舎とした。彼らは慶応4年1月、自藩の保守派掃討に東上した。水戸藩は明治維新を迎えるまで、内部抗争が絶えなかった。

アクセス 上京区鳥丸通り下長者町西入ル北側
池内大学寓居跡
 近江出身で儒者。尊王攘夷論者として、青蓮院宮や三条実万の知遇を得て、水戸藩への密勅降下工作などを行った。安政の大獄で伊勢に逃れ、京都に戻り自首。江戸へ送られたが、命は助かった。大阪に潜んだが尊攘浪士からは裏切り者といわれた。

 文久3年1月22日夜、大阪土佐藩邸に山内容堂から招かれての帰り道、難波橋で刺客に襲われ、駕籠の中で刺し殺された。犯人は岡田以蔵といわれている。

アクセス 上京区烏丸通下長者町上ル 水戸藩邸跡の北側
玉松操邸跡
 玉松操は、文化7年3月17日、従二位参議待従山本公弘の次男として生まれた。生れつき賢く、8歳で醍醐無量寿院に入り、出家して猶海と名のり、苦学修行の結果、大僧都法印に任ぜられた。彼は一山の僧の風紀の粛正を称えたが、憎まれて意見の不一致から還俗し、山本毅軒と号した。時に30歳。また、玉松操と称して、嘉永から万延・安政年間は、泉州貝塚、願泉寺へ招かれて、古今集を講し、また文久以来は江州坂本の日吉神宮の生源寺業親に請われて私塾を開き、国学を講じ、尊王の大義を説いた。慶応3年岩倉と会い、意気投合し、その腹心となって謀議に参画した。維新の大業にあたり、封建制度を一掃し、郡県統一の政策を根本とするように具申したのも彼であり、徳川との戦に官軍の士気を鼓舞した錦の御旗の日月二流の図案も彼の作であったという。

 明治2年、徴士内国事務局権判事となり、3年3月、大学中博士に任じ、侍講となった。しかし、新政府の方針と相容れず、明治4年1月、退官し、不遇のうちに同5年2月15日、没した。その性格は富貴に恬淡とし、口を奢らず、妻妾を置くこともなかった。享年63歳。

アクセス 上京区中立売新町角
富岡鉄斎宅跡
 近代日本画壇の巨匠といわれる富岡鉄斎がその後半生を送った住居の跡は、そのままに残り、今、上京中学校の向い側で、京都府議会公舎となっている所である。

 富岡鉄斎は法衣商に生まれ、若くから学問を学んだ。絵は15歳頃から習い、北白川心性寺の大田垣蓮月尼の所に住み、その教化を受け、陽明学や仏教を学び詩も学んだ。江戸末期、勤王の志士との交際があり、彼らは安政の大獄に多く捕えられたが、鉄斎は耳が遠いため難を逃れた。後、長崎に遊学し南画を学び、大和の石上神社、和泉の大鳥神社の宮司となりその復興に尽力した。 

 明治14年、京に戻り、一条に住んだ。彼は儒学の神として尊敬する清原頼業を祀る車折神社の荒廃を聞き、祠官となり協力した。神社の経営が軌道にのると、自宅で画業に専念する生活に入った。鉄斎は終生自分のことを画家といわず、儒者と称えた。89歳で死ぬまで、学間に精進し、その学問を独学で得た独自の筆致によって表しつづけた。鉄斎の遺作約1000点のコレクションは鉄斎美術館にある。

アクセス 上京区室町通り一条下ル東側薬屋町
春日潜庵生誕地
 陽明学者。文化8年、久我家諸大夫春日越前守仲恭の子として、烏丸一乗上ルのこの地に誕生した。

 彼も久我家に勤め、家政の整理に功績があった。

 当初は衣笠に住んでいたが、勤王活動のため安政の大獄にあい、捕らえられて江戸の岸和田藩邸に永押込となり、ついで紫野雲林院村に閉居した。

 文久2年、和宮降嫁の特赦で旧官職に戻り、再び討幕活動に邁進した。

アクセス 上京区烏丸通一乗上ル西入ル