南  区

小原伝之丞宅跡
 禁門の変で敗れた長州軍の一隊真木和泉の一行は、最後は天王山で自刃することになるが、落ちのびる途中、立寄って傷の手当をして貰ったのが、吉祥院の小原家であった。
 長州軍の奮戦も空しく、会津・薩摩の両藩および桑名・筑前・津・仙台・越前・加賀の諸藩、見廻組・新選組等の連合軍の戦力の前に瞬時にして敗れ、来島又兵衛・久坂玄瑞・寺島忠三郎・入江九一らが戦塵、猛火の中に倒れ、また自刃して果てた。
 久坂玄瑞らの率いる山崎軍「清備義軍」の参謀として、忠勇隊を率いて、ともに堺町門内へ突入した真木和泉守も、数か所の傷を負った。特に大腿部の傷は重傷であったが、迫る敵中に血路を開き、弾雨の中を幸いに七条あたりまで落ちのびた。すでに真木に従う忠勇隊士は、わずかに数10名であった。このうえは一度天王山へ戻り、彼処に拠って再び態勢をたて直そう、と思ったが、炎天下、疲労と負傷のため歩くこともままならぬありさまであった。槍を杖に、一行はようやく吉祥院あたりまで落ちのびて、付近の農家でしばらく休息しようと、あちこちを訪れたが、血汐に染まった異様な風体の落武者の姿に、いずれも後難をおそれて戸を開ざし、誰一人彼らを迎え入れようとはしなかった。ようやくにして村の西の豪家小原家に辿りつくと、主人伝之丞は義気の篤い人で、妻や家人ともども親切に負傷者の手当をした。あるいは冷水を汲んで汗をぬぐわせ、血汐を洗い、晒木綿を裂いて傷に巻くなどの介抱を行い、また畑の西瓜数10個を取ってきて彼らの渇を癒した。真木和泉守も小原一家の親切に深く感謝した。落人の身では礼のしようもなく、台所にあった粗末な渋団扇を見つけて、「出陰に八重の逆茂木ひくとても 世のうきことはなどかかはらむ」の歌を記した。夜に入ると伝之丞は、妻が嫁入りの時に乗って来た駕籠を引出し、真木和泉をこれに乗せ近所の若者たちに担がせて、天王山へ送り届けさせた。真木和泉は、小原夫婦のたび重なる好意に感激し、記念として日の丸の軍扇を伝之丞に遺して、厚く礼を述べて去った。
アクセス 南区吉祥院西ノ庄東屋敷町
安阿弥寺(辰路墓)
島原桔梗屋の芸妓・辰路(井筒タツ)は久坂玄瑞の恋人であった。二人の間に一子もうけている話もある。井筒タツは明治3年4月、角屋十代中川徳右衛門と桔梗屋の女将の世話で下京の豪農・竹岡甚之助と結婚、明治43年に65歳で他界。墓は京都市西七条の安阿弥寺にある。
アクセス 下京区西七条北西野町53
都城六勇士墓(狐塚・顕彰碑)
 慶応3(1867)年12月、薩軍が入京し都城らの兵250名は伏見の警戒にあたった。21日夜、警戒中の都城兵6名は、御香宮付近で新選組らしき一隊と遭遇、内藤を残し5名が東軍本営へ報告のため帰りかけると相手方から銃撃された。翌日本営から6名の責任を非難した。彼らは切腹を願ったが許されず26日自決した。

 墓域には顕彰碑、阿刀氏の墓に並んで都城六勇士、内藤将左衛門、大峰壮之助、安藤惣兵衛、野辺納右衛門、坂元与八郎、横山藤助の墓がある。

アクセス 南区八条通新千本西入南側唐橋井園町 JR線路沿 蓮光寺東
東寺(新政府軍本陣)
 東寺は正式には教王護国寺といい、八幡山と号す。平安京の造営とともに創建された。

 慶応3年12月29日、伊地知正治を隊長に薩軍500名が本営をおいた。境内南東隅にそびえる高さ54.・8mの五重塔からは西郷隆盛が鳥羽・伏見の状況を展望、旧幕府兵との開戦を待ちわびていたという。東寺から鳥羽・伏見戦勃発地の小枝橋まで4kmほど。翌4日、軍事総裁・仁和寺宮が征討大将軍に任命ざれ東寺に入ったことにより、薩摩兵は”官軍“となり、東寺には戊辰戦争ではじめての錦旗が翻った。

 慶応3年7月2日夜、二条城と東寺に駐屯していた幕府歩兵のそれぞれ数名どうしの喧嘩が、島原遊郭で発生している。二条城側に死傷者が出たことから、翌3日に二条城側の歩兵数百名が相手側の屯する東寺に押し寄せ発砲するという事件に発展した。そこへ新選組が総出で仲裁に入り、二条城側の兵士を引き取らせ、その争いは近藤勇預かりとなったという。

アクセス 南区九条町1
四塚(四ッ塚関門)
 九条通と千本通の交わるところを四ツ塚関門と称して、交通の要所であった。近くには羅生門があったことを示す羅生門跡の石碑が建っている。あと杉塚、狐塚(都城六勇士墓があるところ)、経田塚、琵琶塚がある。

 慶応4年の鳥羽伏見開戦のとき、薩軍本営が東寺に置かれ、四ツ塚には前線基地が置かれた

アクセス 南区唐橋四ツ塚町
新選組隊士 田内知 妾宅 (場所は不明)

 新選組では幹部隊士になると、「休息所」と称して、屯所の外に私宅を持つことが許され、ここに妻やあるいは妾を住まわせていた。宿直の日以外はここから通うことができ、三度の食事も隊の賄い方が用意して、配られたというほどである。その妾宅で起こった事件について、西村兼文が記している。

 田内知は、慶応元年4月に江戸で行われた隊士募集に応じ、上京した武蔵国羽生出身の隊士である。その田内が、八条村の野外に小宅を借りて、女を囲っていたという。そして、この女は、田内のほかに実はもう一人、水戸藩士である男とも通じていたのである。ある日、田内が女のもとを訪ねた時、女は水戸藩士と密会中であった。

 さて、この後のことである。男は慌てて押し入れに隠れ、奥の部屋に入ってきた田内が押し入れを背に座ると、卓にはすでに酒肴が出ている。女を問い詰めようとしたところに、いきなり背後の戸が開いて、男が飛び出したかと思うと斬りかかってきた。男は田内の肩先に斬りつけると、返す刀で田内の両足を薙ぎ払い、女の手を取ると裏口の畑道を伝って逃走してしまう。田内のほうは、不意を討たれて刀を抜く間もなく、両足に重傷を負って追撃もできなかった。ばかりか、田内は大声を上げて近所の者を呼び、屯所に通報させる。知らせを受けて、隊士二、三人が急ぎやってくると、田内を駕籠に乗せて連れ帰ったという。

 しかし、田内の悲劇はこれからで、一通りの調べを受けると、「士道不覚悟」をもって、切腹を申し渡されたのであった。田内は、平隊士の身分で、いわば「休息所」を構えてしまった。これだけでも規則違反であるが、そのうえに背後から斬りつけられて傷を受け、身動きも取れずに大声を上げて人を呼ぶ醜態を演じてしまったのである。相手は水戸藩士といっても、この時にはわからなかったはずで、応戦の様子もなかったのは、まずいことでもあったろう。

 田内の妾宅があったという八条村の野外というのは、御土居より外になる場所だろうか。周囲は畑であったらしいが。また、水戸藩士も、女の宅近くという本円寺に下宿していたらしいが、この寺のあった場所も不明である。八条村および四方近在の村には、本円寺という名の寺はなかった。また表記や読みが似ていると思われる寺もない。西村の記憶違いだろうか。水戸藩が本陣にしたこともある本圀寺を、間違えるはずはないと思うが。

 田内の墓は、光縁寺に、連名の合同墓碑として現存する。また、同寺過去帳には、次のように記されている。田内知源重次 正月十日 新選組(「往詣記」)  田内は、享年29歳。慶応3年のことであった。