壬  生 ・ 島 原

光縁寺(新選組隊士合同墓・大石造酒蔵墓・五人連名合同墓碑・山南敬助墓・沖田氏縁者墓)
          
 四条大宮より南ひと筋目綾小路通りを西に入ると左右に寺が続き、その右手3軒目が光縁寺である。創建は天正年間でくしくも八木家が壬生に移り住んだのと時代を一にする。壬生村はそのころ開拓されたのだろうか。記録等によると光縁寺には27名が埋葬されている。何故隊士の埋葬を受けるようになったのかは不明で、光縁寺の寺紋と山南敬介の紋が同じだったことから当時の幹部だった山南が利用しようとしたのか、最初野口健司を埋葬したからそのままずっと埋葬を続けたのか、判然とはしていないが、当時の住職は門前の行き倒れもかまわず引き取り供養される方だったので、新選組の隊士など近所の縁もあり受け入れられたのではなかっただろうか。墓域はもともと北に広く、合同墓碑は京福電鉄の軌道上ぐらいにあったが、その後二転三転したあと現在の北西隅に新選組の三基が並ぶようになった。現在墓碑に名を連ねているのは18名で、他の9名は他寺に改葬されている。なお当寺を訪れる際には隊士の供養代を収めることになっている。

 山門は弘化3年に再建された山門はほぼ当時のままで、山門前には「新選組之墓」の碑が建っている。本堂には新選組隊士の位牌があるほか、訪れた方のメッセージノ―トや各種の書籍等があり、つい予定外に時間を使ってしまう。

 松原忠司ら12人の合同墓碑、大石造酒蔵の墓、山南敬介等5人の墓が並ぶ。一橋家臣の造酒蔵は大石鍬次郎の弟で隊士扱いで祀られている。沖田氏縁者の墓は、沖田総司の縁者か、別人か不明である。

恋におぼれた今弁慶
 
柔術の教授方で四番隊の組長をしていた松原忠司は坊主頭のため「今弁慶」などと呼ばれていたという。ある夜祇園で飲み、芸者に送られ四条大橋まで来た松原は、ひとりの浪人に、このような時期にいい身分だと言われる。怒った松原は口論となり相手を切り捨ててしまう。酔いも醒め後悔した松原は遺体を担ぎ届けるが、妻女には自分が斬ったことを言えず、ただ慰めるのみ。その後足繁く通うようになったため土方歳三に注意されると、彼は切腹しようと腹に刀を突き刺すがすんでの所で止められ助かってしまう。その後は隊の仕事に無気力になったため平隊士に降格させられてしまう。そうなると一層彼女の家に足繁く通うようになり、ついには彼女を絞め殺し自分は切腹してしまう。この話の信憑性は何とも言えないが、今弁慶の心中という面では非常に興味深い。

アクセス 下京区綾小路通大宮西入ル北側四条大宮町37。阪急四条大宮駅下車。四条大宮交差点より南一筋目綾小路通を西に入り北側にある。供養料100円支払って墓地へ。

新選組馬小屋跡
 光縁寺の西側筋向かい聖徳寺西の筋を南に行くと郁文中学校のグランドにぶつかる。その手前東側に新選組の馬小屋があったといわれている。前川邸からは100mほど東に当たる。本営より少し離れた場所であるように思えるが、洛中に向かうのに便利な場所を探したのだろうか。

 グランドの手前、左側にあたるが、今は民家も建ち、碑もなく当時をしのぶ面影は全くない。

アクセス 光縁寺前の道を南に下ると郁文中学校のグランドに突き当たる。このへんにあった。
中村小勝太邸跡

 中村小藤太邸は前川邸の東50mほどの綾小路に面した北側にあったという。浪士隊が壬生村に来た時には新見錦や石坂周三、井上源三郎らのいた三番隊の宿泊地になる。当時このあたりには綾小路の両側と壬生寺周辺にしか人家はなく、壬生村から南の島原の明かりが見えていた。

 この辺りが中村小藤太邸跡だったが当時の面影を残すものは何も残っていない。

アクセス 前川邸と光縁寺の間ぐらいにあった。どこにあったかは不明。
旧前川邸(新選組屯所跡)
 浪士隊が上京したおり、前川荘司邸には鵜殿鳩翁、山岡鉄太郎等幕府の役人の宿舎になる。やがて彼らが東帰し一安心するのも束の間、芹沢鴨達が来て八木邸だけでは手狭だから拝借すると言って入り込んで来た。前川家の人たちはたまらず、六角通りの両替店に移ってしまう。八木邸よりも広く部屋数も多いため、近藤勇達がここを好んで使用し、やがて実質上の本営となる。一般に言われる局中法度書なるものがいつ頃できたかは定かではないが、こうした隊規によって山南敬介はじめ多くの隊士がこの前川邸で切腹を余儀なくされている。屯所を西本願寺に移した時には前川家に礼金を10両渡したと言われている。
 現在持ち主は田野製袋所で、田野氏がよく旧観の保存をされていて、古写真とさほど変わらない前川邸が見ることができるのは非常に嬉しい。しかし現在生活されている建物なので常時の見学はできない。よく映画などで池田屋に出陣するシーンなどで模して使われるのがこの前川邸の門である。しかし実際はあまり目立たないように市内巡邏のような顔をして数人ずつ出て祇園会所に集合したという。普段一般隊士の出入りは坊城通りにあった西門を利用していた。広い建物の奥に裏庭があり、現在も土蔵が二つある。そのうち東に向いて立っている土蔵が古高俊太郎の拷問された土蔵である。その二階の一部の床が外されて、古高は二階から逆さ吊りにされひどい拷問を受けたという。

山南・明里 叶わぬ恋
 新選組の中で近藤勇と土方歳三の親密さや、彼らとの考え方の違いを感じた山南敬助は、近藤らとの距離を感じ始めた。そしてとうとう山南は隊を脱走するが、大津で沖田総司に捕まってしまう。少し考え方に甘さがあったのではなかろうか。壬生に連れ戻された山南は隊の規約により沖田の介錯で切腹する。山南には島原に明里という契りを交わした女がいた。山南が切腹することを聞いた明里は半狂乱で駆けつけ、前川邸の出窓の格子越しに山南を呼び続けると、窓が開き山南が顔を出した。ただただ泣きつくすばかりの明里に山南は何か言葉をかけている。そばで見ている方も泣かずにはいられなかったという。この時の出窓は前川邸の西側坊城通りに面していたが、今はその出窓はない。また明里とのエピソードも子母澤寛のフィクションだった可能性もある。

アクセス 中京区壬生賀陽御所町49。現在は田野製袋所の住居兼工場となっているので内部は非公開。外観だけでも堪能できる。壬生寺の北西、八木邸の東にある。
八木邸(新選組屯所跡)
          
 天正の時代から壬生村に居を構えた八木家は「壬生住人士」と称する郷士の筆頭で代々壬生狂言の世話役も務め、幕末の頃には京都守護職や所司代とも関わりがあり、そのために浪士隊を預かることになったと思われる。浪士隊が壬生に分宿したおり、八木邸に割り当てられたのが芹沢鴨の一派と近藤勇一派で、彼ら十三人が京都に残留し京都守護職預かりとなる。これを聞いて壬生村の住人も大喜び、これで彼らは会津屋敷に引き取られるだろうと思ったのだが、浪士隊の東帰後も彼らはそのまま八木邸に居座り、そして新選組の標札を上げる。当初は離れ座敷のみを使用していたが、やがて手狭になり母屋まで勝手に使用するようになる。当初芹沢と近藤の2人の局長制で進むが、芹沢のあまりの無謀さに会津藩も我慢の限度を超えてしまい近藤等に処置を依頼、そして八木家の母屋で近藤一派による芹沢一派の粛正が行われた。そのときのものだと言われる刀痕が数カ所現在も残っている。文久3年夏には隊士の増加に伴い、離れと母屋の間に道場を建て隊士の強化にあたる。慶応元年4月に屯所を西本願寺に移すまでの2年余りこの八木邸を使用した新選組だったが、出る際には八木家当主八木源之丞に長く部屋を拝借した礼だと言って寸志を5両わたした。しかし源之丞は今までの家賃にしては安いと笑いその金で酒樽を買い転居祝いに送った。
 屯所が西本願寺に移って以降も毎日のように誰かが八木邸を訪れており、そういった状態は新選組が京都を出るまで続いたという。

 八木邸入口に新選組遺跡の石碑があり。この奥に八木家長屋門と母屋がある。
 文化元年に建てられた。新選組の表札が初めて掲げられたのもこの門で、この壬生にいたころが一番新選組らしかったと言える。文化6年の造営。見学は有料だが、中ではガイドの方が懇切丁寧に説明してくだって初心者にとってはありがたい。
 屯所餅は絶品 通りからすぐ見える位置にあり、そばには八木家が経営する和菓子店「京都鶴屋 鶴壽庵」の店舗がある。屯所餅、誠最中など八木家ならではの和菓子が販売されている。
 絵葉書セットが800円で販売されている。鶴屋の屯所餅は是非食すべし。

アクセス 中京区坊城通四条南入ル西側。大人1000円(抹茶付)9:30-17:00。年中無休。
南部亀次郎邸跡
 八木邸の南に隣接していた南部家は六百坪位の敷地があったという。八木家玄関脇の北側、新選組の借りた離れのあった土地つまり現在京都鶴屋のある土地も古くは南部家の敷地だったという記録が八木家の記録に残っている。浪士隊六番隊の宿所になったあと、新選組も隊士の増加により南部邸を借りている。
アクセス 南部邸跡にある建物の一画には、最近新選組にゆかりの「京屋忠兵衛」という名の新選組グッズのお店が出来ている。
新徳禅寺(清河八郎寓居跡)
 将軍警護の名目で組織された清川八郎の浪士隊であったが、上京した当日、本営となった新徳禅寺の本堂に清川は隊員を集合させ、「将軍警護は本旨にあらず、攘夷の魁となり朝廷の新兵とならん」と宣言。一応の成果を得た浪士隊は東帰するが、これに反対し、居残った者で新選組が組織される。清川が攘夷の本旨を述べ、芹沢や近藤勇達も血判に署名、建白書は学習院に提出、受理される。驚いた幕府側の工作で東帰の勅命が下る。
アクセス 中京区壬生賀陽御所町48。壬生寺の東隣にある。内部見学は不可。
壬生寺(河合耆三郎墓・野口健司ら七人墓・近藤勇胸像・新選組記念碑・芹沢鴨・平山五郎墓)
          

 壬生寺は律宗の本山として千年を越える歴史を持ち、円覚上人が始めた壬生狂言は700年絶えることなく、今も春と秋に大念佛堂で行われている。

 新選組はこの寺に屯営したという記録はないが、壬生にいたころ、武田観柳斎が水沼流の調練を境内でよく行っていた。屯所が壬生から西本願寺に移ってからはその境内で大砲の調練をしたが、門主より強い抗議があったため、再び壬生寺で調練を始めた。奉行所などの斡旋もあり断れなかったようだが、門を閉め切っての大砲の調練はその振動で建物は傷み、参拝者は減り困ったという。

 境内の壬生塚には俳優上田吉二郎の建立した近藤勇の胸像や、近藤勇の遺髪塔、河合耆三郎墓や、壬生墓地にあった墓石も移され、芹沢鴨と平山五郎の墓など11名の隊士が祀られている。

 壬生寺表門(高麗門)は坊城通りに面しており、寛政11年に再建されたもの。沖田総司はよく境内で子供達と遊んでいたという。

 芹沢鴨と平山五郎の墓 その横暴さのために粛正されてしまった二人の墓は、当初壬生墓地にあったが、境内に移され壬生塚とされた。
 
新見錦、野口健司ら7名の合葬墓  河合耆三郎の墓 新選組の勘定方として活躍したが、会計帳簿の不正が発覚し、慶応2年2月切腹(斬首)した。

 左 近藤勇の胸像 近藤勇は新選組創設後、土方歳三とともにその鉄の意志でもって隊内の別勢力を粛正排除し、隊を統率し、京の攘夷派を恐れさせる存在となり、幕臣にまで出世する。

 右 誠 新選組顕彰碑

アクセス 中京区壬生梛ノ宮31。阪急四条大宮駅下車。四条大宮交差点を南へ大宮通一筋目綾小路通を西へ。光縁寺の前を通り過ぎ旧前川邸を南へ。壬生塚は100円。
壬生寺共同墓地

 最近門の扉が新しく変えられ、今風の扉になった。鍵はかかっていないので墓参は自由である。
壬生塚にある芹澤沢や平山五郎、河合耆三郎の墓や野口健司ら七名の墓も、元はここにあり、市井の人たちの墓と混じり込んでわかりにくかったという。八木源之丞の息子為三郎の墓も門を入って左側奥の方にある。

八木為三郎の墓
 昭和の世まで生き、昭和3年子母澤寛に多くの話を語り新選組の貴重な話が今に残された。子供心に新選組のいろいろな場面を見、また暇なときは沖田総司等によく遊んでもらったという。

アクセス 壬生寺南側の仏光寺通南側にある。壬生寺の南側門からでてすぐのところに共同墓地の入口がある。
壬生新地跡
 幕末の頃壬生寺の西側と南側に遊郭があり、壬生新地と言われていた。もともと壬生寺の参拝者を当て込んでの新地だったのであろうが、新選組隊士には島原などの遊郭は決して安くはなく、妻もなく休息所と称して妾を置くこともできない平隊士が利用していたものと思われる。
アクセス 壬生寺南門を出た向かいあたりと、さらに西に行ったひとつ目の角の北側何軒かが壬生新地跡と思われる。
肥後藩邸跡
 慶応元年9月巡邏中の新選組が熊本藩士ともめ四人を西本願寺の屯所に連行したことから騒動が起きた。多くの藩士が屯所に押し寄せ、所司代や薩摩藩水戸藩も巻き込みあわや戦になりかねない状況になったが、熊本藩士を長州藩士と誤認逮捕したということで新選組が収拾に努めたため無事事なきを得た。
アクセス 仏光寺壬生川の東側の角に碑が建てられている。この地に広大な藩邸があった。
末慶寺(畠山勇子墓)

 明治24年5月11日、午後1時50分、露国皇太子ニコラス殿下は、大津で巡査津田三蔵に襲われた事件(大津事件)。大審院の児島惟謙は、政府のいう高等法院をもって処することを聞かず、地方裁判所大審院法廷において、5月27日に津田に対して謀殺未遂の罪で無期徒刑の判決が下した。津田三蔵は、釧路集治監に服役中、同年9月30日に肺炎で死亡した。

 千葉県鴨川町出身の畠山勇子が、東京の魚河岸で女中をしていたが、政治を論じ、風儀の頽廃を歎くという変り者であった。この国難に殉ずる覚悟をして、5月18日に主家を出て、下谷の床屋で研がせた剃刀を懐に、19日に新橋より汽車に乗り20日に入京した。京都に着いた勇子は、露国皇太子の動静を尋ねたところ、すでに神戸から帰国の途につかれたと聞き落胆した。皇太子ニコライ殿下は、我が国上下の誠心誠意に満足されたが、東京への来遊の御予定を取り止め、5月19日、神戸から軍艦に乗り帰国された。天皇陛下もこの日、ニコライ殿下の乗艦に行幸され御見送りをされている。畠山勇子は、賤しき身ながら、一命を棄てて赤誠を表わせば、あるいは殿下も途中より引き返し賜うかと、同日夕刻、京都府庁門前に至り、西側の地上に白布を敷き、細帯にて膝を縛り、前に10通の遺書を並べ、剃刀で腹と咽喉とを掻き切り、苦しみ始めた。府庁の門衛と巡査がこの様子を見て駆けつけて「発狂したか」と聞いたが頭を振って否定し、しきりに天を指さしつつ絶命した。

 遺書には、露国皇太子、少しにても不憫に思召され候はば、是より御入京遊ばされ、ゆるゆる御養生遊ばされ候はば、小女国人の身に取りて、忝く存じ奉り候  敬白 明治24年5月18日 畠山文次郎姉勇子 露国御官吏様

 とあり、そのほか政府、その他に宛てた10通の遺書には、天皇の御珍念を恐察し、と国を思う赤誠が綴られていた。当時国難に殉じた赤誠あふれる一女子の美談とされた事件であった。しかし、その遺骸は放置されたままであるのを不憫に思い、松原通り大宮西入ル南の末慶寺の準然上人がこれを引き取り、境内に葬った。烈女畠山勇子(享年27歳)の墓が建っている。

アクセス 松原中学校南側 大宮通の大宮松原を西に入る 下京区松原通り大宮西入下ル、中堂寺西寺町
妙恵会総墓所(加藤十次郎墓・早川卓之丞墓)

加藤十次郎
 鳥取藩士で本圀寺事件の被害者。鳥取藩の急進派の河田左久馬らによって斬殺された。

早川卓之丞
 加藤十次郎と同じく急進派の河田らに襲撃されて殺害された。殺害されたのは8.18政変の前日の出来事。

アクセス 大宮通の大宮松原を東へ 一筋目の四つ角を南へ進むと墓地入口がある。下京区柿本町
新選組資料館
近々訪問予定。昔に一度行ったけど忘れてしまったので・・・。
歌舞練場跡記念碑
 島原歌舞練場は、明治6年(1873)上之町に島原女紅場として開設され、青柳踊や温習会が上演されていたが、同14年頃には衰微を極め、青柳踊等も頓挫した。その後景気の回復により、太夫道中が再興され、歌舞練場が常にその巡行の拠点としての役割を果たしていた。しかし、当初の歌舞練場は、狭隘にして、かつ貸座敷組合事務所との共用であったため、昭和2年(1927)に中之町の現在地に移転し、本格的な劇場施設として新築された。それ以来、この新歌舞練場は、歌舞会にあたる養柳会が運営にあたり、歌舞音曲の練習発表の場として、毎年温習会が開催された。戦後の同22年以降は島原貸席お茶屋業組合の事務所としても使用されてきたが、平成8年(1996)同組合の解散に伴い、歌舞練場を解体し、歌舞練場120余年の歴史を閉じることとなった。
アクセス 新選組資料館前の道を南下すると坊城通中堂寺通の四つ角を越えて法華寺の斜め北側の駐車場前に石碑がある。
島原大門
          

 島原は寛永18年、京都所司代の命令で六条三筋町から移転された公許の花街で、西新屋敷の公称よりも通称の島原の方が有名になり現在に至る。東西99間、南北123間で、町のまわりは土塀と堀で囲まれていた。当初は大門のみだったが享保17年に千本通り側に裏門が出来、その西門も天保13年に現在の島原住吉神社の地に移された。かつては置屋が約50軒、揚屋が約20軒あったが、現在では揚屋の角屋と置屋の輪違屋しか残っていない。しかし大門は当時を偲ばせるに充分な場所で、門の脇には用水手桶があり、昔火事があっても門が閉じられたままで遊女が焼け死んだことから手桶が設置されるようになったという。また大門横の柳の木は「見返り柳」と呼ばれ、その下には「サラバ垣」という風情のある名の垣根がある。新選組もよく利用しなじみの遊女がいた。近藤勇と深雪大夫、山南敬介と天神の明里、土方歳三と東雲大夫などが有名である。また置屋の木津屋という名もよく出てくるが正確な場所は限定されていない。

島原大門
 慶応3年に立て替えられた門が現在の大門で、元は北寄りにあったが昭和3年に現在地に立て替えられた。京都市の文化財に指定されている。

アクセス 島原西門はJR丹波口駅下車、千本通を高架線沿いに南へ。島原大門西門から道なりに東へ。
輪違屋

 輪違屋は、創業は元禄年間といわれている。建物は嘉永7年の大火のあと安政4年に再建され、その後の増改築で明治4年よりはその姿を変えていない。近藤勇の筆による屏風が一双所蔵されている。無骨な近藤も頼山陽の書を毎日練習していたという。 

 輪を二つ絡ませた輪違屋のシンボルマークが見られる。現在も4名の大夫を抱えて、営業を続けられているため、「観覧謝絶」となっている。

 輪違屋は、置屋(芸妓を抱えて置き、角屋などの揚屋や茶屋の迎えに応じて芸妓を派遣する商売)で、江戸時代の置屋の風情を残している。

 輪違屋は、その建物内部の構造に独特のものがある。2階の一室、定紋入りの傘を襖に貼り込んだ傘の間は豪華な思い切ったデザインを示し、地味な紅葉を壁に散らした紅葉の間の落ち着いた風情とともに有名である。

アクセス 島原大門を入ってすぐ右側の通りが中之町。左側にある古い建物が置屋の輪違屋 下京区西新屋敷仲之町 見学不可
角屋(久坂玄瑞密議場所)
          

 島原にある揚屋で寛永18年(1641)の創業という歴史があり、揚屋建築として重要文化財に指定されている。また数々の美術品などが保存され平成10年からは「角屋もてなしの文化美術館」として一般公開されている。

 幕末期には勤王派の志士や佐幕派の諸藩の武士も出入りし、西郷吉之助や久坂玄瑞なども連日のごとくやってきていたという。文久3年6月水口藩の公用方が会津の公用方に新選組の乱暴に藩でも困っていると口をすべらせた。それを聞いた芹沢鴨は怒って水口藩に乗り込み詫び状を書かせた。しかしこのことが藩主に漏れると困るため、詫び状の回収に行くが、芹沢は隊の全員と相談しないといけないから一席もうけろということで角屋での大盤振る舞いとなる。挙げ句の果て仲居が全く出てこないので大暴れしたあと、角屋を7日間の謹慎を申し付け帰ってしまったという。無茶をする芹沢だが、根は酒好きで同年9月18日には隊の会合でしこたま飲み、酔って八木邸に戻ったあと就寝中に近藤一派に粛正されてしまう。

久坂玄瑞密議の角屋
 長州藩藩医良廸を父として、天保11年に生れた玄瑞は吉田松陰門下で秀才の誉れ高く、文久2年脱藩して上京した。勤王を志した彼は、各藩の志士と交わり、尊攘論を鼓吹し、攘夷の降勅に奔走した。この年11月には、江戸の英国公使館焼打ちに加わり、文久3年2月にまた京に入り、5月には国許で外国船砲撃に参加し、姉小路卿の遭難を知るとすぐさま上京し、大和行幸を画策した。8.18政変後もしばらくは京に留って暗躍した。このように東奔西走、席の温まる暇もなく動き回った玄瑞であるが、在京中はしばしば、島原の角屋にて同志と密議をこらした。島原には、彼の愛人桔梗屋お辰こと辰路という芸者がおり彼女との間にはひそかに子供を儲けていた事実もある。
 辰路の曾孫という川崎泰市氏によれば玄端は、安政5年2月20日萩を発し、3月中旬に入京しているという。

 幕末の頃、島原には勤王、佐幕を問わず、武士たちが立寄り、無聊を慰め、また遊びにかこつけて奥まった部屋で種種の秘策が練られたことであろう。

「久坂玄瑞の密議の角屋」という碑が角屋の角に立てられている。多くの勤王の志士も利用し、久坂だけが密議をしたわけでもないと思われるが。

アクセス 下京区西新屋敷揚屋町32。075-351-0024。JR丹波口駅下車、千本通を高架線沿いに南へ、西門から入るとすぐ。休館日に注意。
島原西門跡碑・島原住吉神社

島原西門
 近年まで偉観を伝えてきた正門だったが昭和52年輪禍によって倒壊してしまった。今は碑によってしか偲ばれない。

アクセス JR丹波口駅南 線路沿いを南下すると左手に神社が見える。そこを東入ルとこの石碑がある。
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