京都御所

村井修理邸跡
 村井修理少進は尾張の出身。天保6年生れ。安政5年、蔵人所衆となる。広く国漢の書を学び、兵法にも達しており、尊攘の精神に燃え、常に幕府の専横に憤りの念を抱いていた。嘉永安政の頃より尊王の志士達と交わり、尊攘の大義を称えた。安政の大獄の折には、危うくその難を免れた。文久2年3月、長藩長井雅楽の所説航海遠略策に断然反対し、また、和宮降嫁に反対して、これに尽力した岩倉具視らの排斥運動をした。武市瑞山らのために尽力し、薩長連合のことについても奔走した。山陵奉行戸田忠至(大和守、宇都宮藩家老)の下で諸陵調方をつとめた。文久3年9月、幕吏によって逮捕されて、六角獄に投獄された。以後5年間の獄舎生活をすることになる。獄中にあっても政礼は学問を怠らず、在獄の同志らと詩歌の交換をしたりした。元治年間に至ると獄中における悲惨な処刑を目のあたりにする。元年7月20日夕刻、禁門の変の火災に慌てた、六角獄内の処刑は、悲惨の限りであった。当時もまた同じ獄中にあって、この厄を免れた。

 政礼は獄中の様子を縲史に書き残した。慶応3年12月12日朝、与力三浦貞次郎の命令で、政礼は同志10数名とともに、断罪に処せられた。享年33歳。遺骸は他の人々とともに、二条御土居の刑場の穴に埋められたが、村井の義弟藤原某が刑場番人に何がしかの金を与え、村井の遺骸を掘り出して、その首を洗い清めて、東山霊山へ改葬し、御所を拝するごとく墓を建てた。

アクセス 中京区間ノ町通り竹屋町上ル西側
横井小楠寓居跡
 横井小楠 熊本藩士。8歳の時、藩校時習館に入学した。研学の末29歳で居寮長となるが、進んで実践を主とする大塚退野、李退谿に学び、朱子学について学んだ。天保10年30歳の時江戸に遊学し、藤田東湖らと交わり、水戸学の影響も受けた。同12年国に戻されていた彼は「時務策」を書き、藩政を批判した。長岡監物(家老)、下津休也、荻正国、元田永孚らと実学党を結成したが、後に長岡監物と対立し、小楠は下士層の立場に立った。小楠は水戸学を学んだが、米艦来航の頃よりその攘夷論に疑いを持ち、安政2年以降、彼は開国論者となった。安政5年から文久3年に至る6年の間に、4度越前藩に招かれて、己の理想実現に努力し、同藩の由利公正(三岡八郎り)とともに殖産、貿易事業を進めた。彼の旧制打破の施策と開国佐幕の説は、世俗に受け入れられず、また尊攘志士に憎まれた。明治元年3月、お召しにより徴士として新政府に仕え、当所に住んだ。閏蘭4月岩倉の頼みにより新政府の参与となり、多年研鑽した知識をもって新政府に仕えるべく張り切ったが、腸の病となり、自宅休養をしていた。同2年、参賀を終えて帰る途すがら、数人の刺客に襲われて斬り殺された。享年61歳。墓は南禅寺天授庵にある。
アクセス 中京区高倉通リ竹屋町上ル西側、元黒田藩邸跡
島田左近邸跡
 島田左近は九条家の諸大夫として、井伊家の臣長野主膳と組んで、主人九条尚忠を幕府の味方とし、安政の大獄で活躍し、和宮降嫁の周旋をし、今太閤と呼ばれるほどの栄華を極めた。しかし、勤王志士の怒りを買い、宇郷玄蕃とともに狙われた。文久2年7月20日夜、文久最初の天誅の犠牲者となった。
アクセス 中京区堺町通丸太町下ル半町西側
京都御所
 平安京造営当時(794)は、内裏は現在の京都御所と異なり、その西方にあたる千本丸太町あたりにあった。それが今の御所の位置へ移るようになったのは平安朝の末期の頃で、その原因は、天徳4年(960)から安元3年(1177)に至る200年余の間に起きるたび重なる火災のためであった。ことに安元3年の大火では、紫宸殿はじめ内裏の殿舎のほとんどが焼けてしまった。

 現在の京都御所は、北朝の光厳天皇即位(1331)の時以来御所と定められた。応永8年(1401)に炎上し、翌9年造営された。東は高倉、西は東洞院、北は正親町(今の中立売)、南は土御門(今の上長者町)の一町四方の地域であった。御所は応仁の乱には無事であったが、大風等の災害により、戦国時代にはすっかり荒廃していた。

 元亀2年(1571)入洛した信長が御所を造営し、続く秀吉が天正18年(1590)に内裏を造営し、徳川家康も慶長18年(1613)に造営に尽くした。里内裏のため、なかった南門(建礼門)を建て地域を拡めた。寛永18年(1641)には秀忠の娘が後水尾天皇の後官に入内したので内裏は新造された。その後、度重なる火災で炎上し、いずれも再興された。安政2年(1855)に現在の京都御所ができた。

 明治初年江戸城が宮城となったが、現在も御所は京都における皇居となっている。

 御所は一般に申込みによって許可を得て拝観できるが、清涼殿などは、奉秋の公開時のみ拝観が許されている。

アクセス 上京区鳥丸通り今出川〜丸太町東側
堺町御門

 堺町御門を入った左が旧九条家跡、右側が久坂玄瑞が亡くなった旧鷹司家跡で、幕末時はもう少し奥まっており、九条・鷹司両家の間に立っていた。

 堺町門は、越前兵が十分固めているのを見て、久坂は横手から鷹司家の裏門へ回り、邸内へ入ってしまった。折しも参内の仕度中の、鷹司公を見て、久坂はその裾にすがり、吾々は歎願の筋があって参った者です、どうぞ御参内のお供を願いたい、と泣いてすがったが、公は、ならぬ、と振り切って参内した。彼等は今はこれまでと邸をたてに奮戦したが、寺島忠三郎、入江九一とともに自刃した。久坂全瑞 24歳。

 元治元年7月18日夜半、長州藩の久坂玄瑞は、山崎を出発し、道の不案内ゆえに時間がかかり、桂川辺で朝飯をたぺ、堺町門へ向った。
アクセス 上京区丸太町通り堺町御門

鷹司邸跡・日野邸跡
 元治元年7月19日早朝、御所の方角で起こった砲声は、禁門の変と呼ばれる戦の始まりであった。池田屋事件後、京へ向けて進発した長州勢は、前夜より嵯峨・天龍寺、大山崎、伏見の三方面から進軍を開始し、御所周辺で幕府との戦端を開いた。

 永倉新八の『新撰組顛末記』では、堺町御門を守備する松平越中守(松平茂昭)の兵が苦戦をしていたのを、会津藩林権助隊と神保内蔵之助隊の二隊と新選組とで救援に入り、御門の内外から長州兵を攻めたので、彼らは寺町御門へと退却したと記して、その戦闘状況を補足して読める。さらに寺町御門では、細川越中守(細川韶邦)の兵が守っており、追っていった会津藩兵らとの挟み撃ちに遭い、全滅したという。また、長州兵が隠れていた鷹司邸に火をかけたのは、調役の大槻銀蔵だとしている。これによって鷹司邸内より飛び出してきた長州兵らは、蛤御門のほうへ逃れたが、ここでも会津藩兵と新選組とで挟撃し、討ち取った。

 堺町御門の丸太町通りより向かって右側に、鷹司邸があった。今は、跡地に「鷹司邸跡」の柱碑が建つのみである。また、日野邸は、御所の西南にある公家御門(公卿御門・宜秋門)の前にあったが、現在では、御苑内駐車場前の芝生付近となる。

アクセス 上京区丸太町通り堺町御門東側
九条尚忠邸跡・拾翠亭
          

 九条 尚忠は、江戸時代後期から明治の公家である。官位は従一位・関白。アメリカはじめ諸外国との通商に際して、1858年に幕府が日米修好通商条約の勅許調印を求めてきたとき、幕府との協調路線を推進して、条約許可を求めた。しかし同年、幕府との協調路線に反発する88人の公卿たちの猛烈な講義活動により条約勅許はならなかった。(廷臣八十八卿列参事件)
 その後、復職を許されたが、その後も幕府との協調路線を推進し、公武合体運動の一環である和宮降嫁を積極的に推し進めたため、一部の過激な尊皇攘夷派から糾弾されて、謹慎を命じられた。74歳で死去。

 九条邸は、元は中御霊寺町西入ルにあつたが、宝永5年の大火の後、御所の南側が拡張された時に、御所の南に、堺町御門の西側に、東向きに建設された。向い側には鷹司邸があった。禁門の変の火災で、鷹司邸は火を発して、以東寺町に至る御苑内は焼けたが、九条邸は残った。当時の九条邸の敷地は約10700坪で建物は約3800坪であった。明治2年に御所内外の公卿達も東京へ移住したので、公卿屋敷も次々と毀された。九条邸も本屋は毀されたが庭園内勾玉の池の西に残る「拾翠亭」だけが破壊されずに、昔の姿を止めている。「拾翠亭」は寛政年間に建てられたといい、入母屋造りの一部2階建ての書院風数寄屋建築で、1階は10畳の座敷が縁を廻らして池に臨んでおり、3畳の茶室その他があり、3階は11.5畳の座敷などがある。

 元は主として茶会や歌会などを楽しむ離れとして使われていた。現在、拾翠亭は環境庁の管理下にある。

アクセス 上京区丸太町通り堺町御門西
中川宮邸跡
 中川宮朝彦親王は、安政の大獄で相国寺に蟄居。文久3年中川宮と称し、8.18の政変の中心人物となり、過激派公家と長州を追放した。元治元年賀陽宮となり、明治元年8月には陰謀の疑いで広島に閑居。明治3年帰京。8年に元の身分に戻り、久邇宮家を立てた。
アクセス 京都御苑内下立売御門東側
来島又兵衛戦死地・清水谷家の椋
 禁門の変で最も激戦となったのがこの辺りである。大きな椋の木が建っている辺りに、清水谷家があった。来島又兵衛がこの木の付近で戦死したと伝えられている。
蛤御門

 幕末の御苑図を見ると、蛤御門は新在家御門と記され、現在地の東100mほどの所に南向にあり、元は開かずの門であった。天明8年(1788)の大火の際初めて開けられたので、「焼けて口あく蛤御門」といわれた。

 今も門のあちこちに、禁門の変の弾痕が残っている(現在、蛤御門は鳥丸通りに面して建てられている)。

 文久3年8月18日の政変で御門の警備をはずされ、七卿と共に長州へ引き上げた。元治元年7月19日、政局の主導権をにぎり、長州藩の汚名挽回のため兵を挙げる。嵯峨天竜寺、山崎天王山、伏見に布陣した。

 福原越後の率いる700余名は稲荷に至る間に大垣藩兵に行く手をはばまれ、福原は傷つき、山崎に退き、伏見方面の作戦は失敗した。19日の夜明け、天竜寺から繰り出した国司信濃の率いる800余の長兵は、2隊に分れ1隊は来島が率い蛤門へ向い、守る会津兵と激戦となった。いったんは打破り、御所内に侵入したが、乾門の方から来た薩車の反撃にあい、来島が狙撃されて胸を撃たれ死亡するや、総崩れとなる。来島の死骸は力士隊が山崎へかつぎ去った。来島、時に48歳。蛤門の戦は払暁から10時頃のことであった。国司と中村九郎の率いる1隊は、中立売門に筑前兵を破り、蛤門に向い来島の隊とともに協力した。蛤門は会津の主力1500名が守り、桑名も援兵となったため一番の激戦であったので、この戦を蛤門の変と称するようになった。

アクセス 上京区烏丸通下長者町上ル東側
建礼門
 禁裏御所の南側ほぼ中央にあり、正門にあたるのが南御門、通称建礼門である。天皇や海外の国家元首などの訪問時など、重要儀式の際以外は通常閉められている。8月18日の政変時、新選組は蛤御門から御所内に入り、南御門の警備につく。「島田魁日記」によると、その節伝奏より新選組の隊名を下されたという。
 中世にはなく慶長年間に設けられた。嘉永年間に炎上し安政2年に造営され以後建礼門と称されるようになり現在に至っている。
アクセス 上京区京都御苑内
小御所
 王政復古の大号令で、摂政・関白・幕府の諸機関は廃止され、将軍職辞任、大政返上となった。そして12月9日夜、徳川家の処遇を決める「小御所会議」が開かれた。

 有栖川宮を総裁に、議定10人、参与20人出席の下、慶喜を朝議に参列させようとする山内容堂や松平春獄らお主張は岩倉具視・大久保利通ら強硬派に押さえられ、欠席裁判の形で慶喜に辞官納地が決定した。

アクセス 京都御苑内 一般見学は春秋の特別公開か、事前に申し込むと見学できる。概観のみ
御学問所
慶応3年12月8日午後から9日の朝にかけて、御学問所において、賀陽宮・二条斉敬・九条通孝・近衛忠X・正親町三条実愛・中山忠能・岩倉具視・大原重徳ら公卿と、徳川慶勝・浅野茂薫・島津茂久・山内容堂・大久保利通ら武家が出席し会議が開かれた。

 議題は8.18政変で長州藩主と七卿の受けた追放の赦免と、王政復古発令の奏上であった。明治天皇は王政復古の大号令を発する詔勅を下された。

アクセス 京都御苑内 一般見学は春秋の特別公開か、事前に申し込むと見学できる。概観のみ
学習院跡
 学習院は、115代桜町天皇のお妃桃園天皇の御母(藤原定子)の御殿であった開明門院の地に、仁孝天皇の御遺志によって堂上の風儀の乱れを正し、公家の教育を施すために、天保13年10月に設立された。同11月より開場、当初は学習所と称し、40歳以下15歳以上の堂上を聴講者とし、他に40歳以上の陪席聴講者と、非蔵人も願により聴講を許され、儒者、国学者が嘱託されて講師となり、月3回講釈があり、読書は連日行われた。

 教育方針は知育より徳育を旨とし、四書五経を講じたが、後に国書も加えられた。弘化3年、学習院と名を改め、嘉永2年4月には、孝明天皇から「学習院」の勅額を下賜された。

 文久2〜3年、幕府に対して朝廷の勢力が伸張した頃には、尊王攘夷派の志士が学習院御用掛となり、また同出仕に選ばれ、あるいは土佐藩家老に薩長とともに公武周旋の旨を命ずるなど、学習院が維新のための政堂化していった。この学習院は明治3年7月に廃止された。後年華族の子弟教育のために創立された学校学習院は、明治10年10月東京に開校した。

アクセス 上京区京都御苑内元開明院内、現御所東南側建春門東北100mあたり
猿ケ辻(姉小路公知卿遭難跡)
          
 姉小路公知。公卿。実弟には澤宣嘉がいる。安政5年(1858年)に幕府とアメリカの間で調印された条約勅許(日米修好通商条約)に反対した廷臣八十八卿の指導者。文久2年(1862年)10月、右近衛権少将となり、幕府への攘夷督促の副使として、正使三条実美とともに江戸に向かい、勝海舟と共に江戸湾岸の視察などを行う。のちに国事参与となり、三条とともに攘夷派の先鋒となったが、1863年(文久3年)に深夜朝議からのの帰途、京都朔平門外の猿ヶ辻で刺客に襲われ自宅で死去、享年27。
 公知の暗殺犯は現場に残されていた刀などの物証から幕末四大人斬りの一人、薩摩藩の田中新兵衛と目され田中が捕らえられたが、取り調べ中に田中が自殺したため、真相は不明。 理由としては、攘夷派であった公知が勝に説得されて開国に傾いたから、などといわれている。

猿が辻
 禁裏御所の鬼門に当たる東北角を内側に欠いてあり御幣をかついだ猿が鬼門を守っている。夜になると御幣をかついだ猿が付近をうろついたため金網で封じているといわれるが、昔はもう少し西に引っ込んでいたという。

アクセス 京都御苑内 御所北東角
近衛邸跡
 関白藤原基通の住居のあった場所は室町通り出水上ル近衛町で、藤原氏の子孫が代々これを伝えて住いし、近衛氏を称した。この邸は御所の陽明門に向かっていたので、陽明殿ともいわれた。現在、護王神社の付近である。

  天正10年(1582)6月、本能寺に信長を襲って斃した明智光秀が、信忠をその宿所二条城(旧)に攻撃した折、近衛殿の館の屋根から二条城を射撃した。江戸期には、近衛邸は御所西北部にあった。

 幕末維新頃の近衛家の当主は、近衛忠熙で、安政4年左大臣になり、折から条約勅許問題で朝幕間が紛糾し、関白九条尚忠が佐幕派であったのに対し、忠熙は尊攘派側に立ち、安政5年には、尚忠に代って朝議の中心にあった。ために井伊直弼に嫌われ、一時左大臣を辞し、落飾した。文久2年再び関白に戻り、公武合体を称え、薩摩藩と深い関係をもった結果、長州藩を中心とする尊攘急進派の排斥を受け、同3年関白・内覧を辞した。

アクセス 上京区室町通り出水上ル近衛町
桂宮邸跡
 文久元年10月20日、14代将軍徳川家茂に嫁ぐことになった和宮は、仮御殿の桂宮邸を出発し、中山道から江戸へ向かった。桂宮邸は今出川御門にあり、和宮は2年近く住んでいた。明治26年ごろ、二条城の本丸御殿として移築された。
アクセス 京都御苑内
和宮生誕の地
 京都御所の東側には「橋本家跡」の木標が建てられている。和宮は橋本家で生まれた。(生母は橋本経子(つねこ))

アクセス 京都御所の東側
中山邸跡と祐ノ井
          
 中山忠能卿の旧邸跡は御苑内東北隅に位置していた。元の広さ550坪余、鉄柵に囲まれた中に、嘉永5年9月22日に降誕された明治天皇の御産屋が残されてある。6畳2室に、東と南に廊下を回らす簡素な平屋で、元は正殿に続いていた。天皇はここで安政3年9月まで4年間生育された。明治に入り、天皇産屋の他は取り壊され、庭園となった。

 「祐ノ井」は、同屋敷内東部にあり、嘉永6年夏の大早魃に、邸内の井戸がみな涸れたため新たに朝廷より掘らしめた井戸で、深さ3丈8尺(11.5m)、清冷水が淡々と湧き出たので、孝明天皇が明治天皇の宮号に因んで祐ノ井と命名されたものである。今も白川石の井筒に祐井と文字が刻まれているのが見える。この井戸を明治天皇産湯の井戸というのは誤りである。

アクセス 京都御苑内
施薬院跡
 施薬院は、中立売御門の北側に位置していた。現在、京都御苑の緑のなか、施薬院の跡には、中立売北休憩所と展示ホールがある。

 幕末の慶応元年閏5月22日、上洛した将軍徳川家茂は、御所参内の前に、この施薬院に入っている。これは、家康や二代将軍秀忠は、参内のさいには施薬院の私邸において、衣冠を改めるのを常としたので、以後、これを慣例としたことによる。

 また、会津藩主で京都守護職松平容保も、文久3年8.18の政変の折、御所に詰めていたのを、19日夜になって、孝明天皇よりの仰せで、施薬院を仮館としている。

アクセス 京都御苑内
山本鴻堂邸跡
 祖父に山本亡羊、父に山本榕堂をもつ鴻堂は、勤王家・本草家であった。28歳のとき岩倉具視に会い心服し、ともに維新達成に協力した。
 戊辰の役の際は官軍のための資金調達に奔走した。明治4年岩倉の外遊に随行し、岩倉の死後は政界より身を引き、孝明天皇事蹟取調係付属をつとめた。明治45年7月4日没。73歳。
アクセス 上京区石薬師通寺町西入ル
大久保利通邸跡

 大久保一蔵(利通)が御所の東石薬師に旧邸を構えたのは、慶応2年1月、土佐の坂本龍馬、中岡慎太郎の奔走により、薩長同盟が成立した年の春頃である。それまでは、薩摩藩邸に寓していたが、両藩と朝廷の連絡繁多のため、この民家を隠れみのとした。民家の敷地は60坪。建坪は30坪たらず。当時の表構えは間口が広く、格子造りの民家であったが、現在ではそのおもかげは残っていない。

 岩倉公と手を結び、幕府を倒すべく密議をこらした所である。桂小五郎などとともに密議されており、石薬師に移ってからも、いっそう人の出入りが頻繁になり、長州の広沢兵助(真臣)、品川弥二郎、福田侠平、薩摩の黒田清隆、村田新八らも訪れている。志士達の出入りが目立ち、幕府からもしだいに目をつけられたという。

 大久保と岩倉との密議で倒幕を決め、錦旗が必要となり、長州品川弥二郎が西陣から帯地に使う大和錦と紅白の緞子を取り寄せ長州萩の有職師の岡士春に調製を依頼する。日月の錦旗各二流、菊花章の紅白各十流を製作する。着々と準備がすすむ。岩倉公は、錦旗のできたのをたいへん喜んだという。

 維新以後、総裁局顧間、鎮将府参与となり、明治2年、木戸孝允、広沢真臣と版籍奉還を実施。明治4年、参議を辞し、大蔵卿に就任、遣欧米全権副使として渡欧。明治6年帰国、参議にもどる。征韓論が沸騰し、敗れた西郷は職を辞し国許に帰る。同11月、利通は内務卿を兼ね、大久保が実権を取る。各地で士族の反乱が起る。明治10年、西南戦争が起る。翌11年5月14日、東京紀尾井坂で士族島田一郎らに殺害される。年47歳。

アクセス 上京区石薬師通寺町東入ル南側 御所石薬師門を出て突き当たりを右に、すぐの辻を左に行くと右手に碑がある。通りより引っ込んでいるので前まで行かないとわかりにくい。
梨木神社(三条家旧邸跡)
 梨木神社三条実万公を祀る別格官幣社として、明治18年4月、久邇宮朝彦親王により創祀された。後に三条実美・姉小路公知卿も配祀されている。

 文久3年、大和行幸を機に攘夷親征の兵を挙げ、討幕の第一歩を踏み出す計画を図ったが、大和行幸の朝議は決定を見たにもかかわらず、8月18日、会津・薩摩両藩を中心とした公武合体派の巻き返しにより、政変が起り、この計画は失敗し、実美は同志の公卿とともに長州兵に守られて、長州へ下向した。以後、慶応3年12月8日、王政復古によって文久3年8月以来、止められていた官位が復され、4年ぶりで入洛を許され、12月28日、帰京し、議定に任ぜられた。

 以後新政府の首脳として、副総裁・関東監察使・鎮将・史局総裁を歴任し、大政大臣から、内閣制度設立後は、内大臣となり、明治22年、黒田内閣の後を承けて、内閣総理大臣を歴任した。明治24年2月、病気危篤となり、同18日、永眠した。正一位を賜わり、国葬にされた。

 境内にある「染井の水」は京都三名水のひとつで水を汲みに来る人があとを絶えない。

アクセス 上京区寺町通広小路上ル
本禅寺
 文久2年春、京都守護職に任命され、上洛の旅に出発した会津藩主松平容保は 江戸を出て15日目の12月24日朝、京へ着いた。三条大橋で町奉行永井尚志らの出迎えを受けたあと、寺町通りを北上し、この本禅寺で休息した。そしてこの寺で容保は麻上下の礼装に改めて 御所に参殿し、関白近衛忠煕に会い着京の挨拶をした。

 当寺は清浄華院の北に位置し、法華宗本成寺派の本山である。天正19年現在地に移ったが、宝永・天明の大火に焼け、現在の建物は幕末以降のものである。

アクセス 上京区寺町通広小路上ル
清浄華院(姉小路公知墓・玉松操墓)

清淨華院

浄土宗七大本山の一つ、その歴史は古く平安時代で、清和天皇の勅願により京都禁裏内道場として建立されたのが始まりである。天台・真言・仏心・戒律の四宗兼学の道場であったが、法然上人が後白河天皇より当院を賜ったため当院は浄土宗と改まった。現在地に移転したのは天正年間で、宮家や公卿の墓が多い。


姉小路公知墓

尊攘運動の急進派公卿であったが、大坂湾を巡航した為か、猿ヶ辻で襲われる。墓は墓地北塀に近く南向いている。「贈参議左中将藤原公知朝臣之墓」

玉松操墓

国学者で岩倉具視の腹心となり維新に関与、錦の御旗は彼の案とされる。墓地に入り北側にあり自然石で「贈従三位藤原朝臣真弘卿之墓」とあり前に「玉松操之墓」とある。

アクセス 上京区寺町通広小路上る北之辺町395。京都御所東側、梨木神社のすぐ東にある。

廬山寺(清水谷公考墓)

荒神橋
 御所の東側、荒神ロ通りを東行すると鴨川に架る橋、荒神橋を渡り、左京区に入る。

 荒神橋は慶応3年10月15日に、3年余りの歳月と五万両の費用で 西本願寺の手で架けられた。それまでは川東に至る本格的な橋がなかった。元治の変に鳳驚を御所から川東に移す道がなかったので 賀陽宮朝彦親王の勧めでできた。西本願寺のこの業績を讃えて 勤王橋と呼んだ。現在の橋は大正3年のもので、長さは110mである。

アクセス 鴨川荒神橋
座田維貞邸跡
座田維貞(さいだこれさだ) 1800-1859

美濃高須藩医速水玄仲の子で座田維正の養子になった。和漢の学問に精通し、国史を学び、天保6年に「国基」を著した。尊王の志厚く、鷹司や三条公の知遇を受け、梁川星巌や小林良典なと国事を論じた。

 堂上家の教育の必要性を説き、学習院が開設されるとその雑掌となり長年教育に従事した。また贈位贈官についても研究した。

アクセス 上京区新烏丸通切通シ北入ル
新島襄旧宅跡
同志社大学創立者

 新島襄は安中藩士、10年のアメリカ留学を終えた新島襄は、明治7年帰国後キリスト教思想の学校設立を願い、明治8年この地自宅で同志社英学校を設立、翌年元会津藩士で京都府顧問の山本覚馬より土地を譲り受け、相国寺門前に新校舎を建てた。新島襄旧宅は明治12年に建てられたもので京都府有形文化財に指定されている。

 御所南東角を少し上がった東側にあり、新島会館の北隣。和風門の中に、和洋折衷のコロニアル風建物が建っている。

アクセス 上京区寺町通丸太町上ル東側
小笠原右近将監邸跡
 柳馬場通り竹屋町下ル東側の地、現在富有小学校の場所は、江戸時代中頃から、豊前小倉藩15万石(譜代)小笠原右近将監の屋敷があった。維新前後京都での同藩の動きは特になかった。

 小倉藩は、佐幕一辺倒であり、わずかに座主に公卿出身の大僧正教育を戴く英彦山の山伏だけが勤王党であった。しかし文久3年11月には藩の手で全員逮捕された。

 第1次征長には、出兵しないですんだが、第2次征長に際しては、藩兵は慶応2年5月老中小笠原長行の指揮下に、諸藩兵とともに小倉に集結し、6月半ばに門司田ノ浦方面で高杉晋作らの長州奇兵隊と戦い、新式銃の装備された長州軍に撃破された。福岡・久留米・柳河の諸隊は戦いに消極的であり、7月末になると小笠原長行は大坂に脱出し、征長軍は解散となり、小倉藩は独り戦う形となり、小倉城を焼いて退き、なおも追尾する長州軍と対時した。慶応3年1月になってようやく和陸の運びとなった。戊辰の戦役には、庄内・会津・仙台ヘと転戦している。

アクセス 中京区柳馬場通り竹屋町下ル柳5丁目和久屋町東側
竹内式部寓居跡

 竹内式部は垂加流神道に基づく大義名分論を説き、その将軍あって天子の在すのを知らぬと歎く学問に感化された、若手公卿達の動きを心配した保守派の摂家一統は、所司代に申入れた。式部は幾度か奉行所で尋問された後、武蔵・山城・東海道・越後など主な諸国からの重追放に、息子の主計も京都御構に処された。宝暦9年5月6日であった。弟子の公卿達も処断された。式部はその後明和事件に関わって、八丈に流される途中、三宅島で死んだ。明和4年、56歳。
アクセス 中京区麩屋町通丸太町下ル西南角
横井小楠殉節地

 横井小楠 熊本藩士。8歳の時、藩校時習館に入学した。研学の末29歳で居寮長となるが、進んで実践を主とする大塚退野、李退谿に学び、朱子学について学んだ。天保10年30歳の時江戸に遊学し、藤田東湖らと交わり、水戸学の影響も受けた。同12年国に戻されていた彼は「時務策」を書き、藩政を批判した。長岡監物(家老)、下津休也、荻正国、元田永孚らと実学党を結成したが、後に長岡監物と対立し、小楠は下士層の立場に立った。小楠は水戸学を学んだが、米艦来航の頃よりその攘夷論に疑いを持ち、安政2年以降、彼は開国論者となった。安政5年から文久3年に至る6年の間に、4度越前藩に招かれて、己の理想実現に努力し、同藩の由利公正(三岡八郎り)とともに殖産、貿易事業を進めた。彼の旧制打破の施策と開国佐幕の説は、世俗に受け入れられず、また尊攘志士に憎まれた。明治元年3月、お召しにより徴士として新政府に仕え、当所に住んだ。閏蘭4月岩倉の頼みにより新政府の参与となり、多年研鑽した知識をもって新政府に仕えるべく張り切ったが、腸の病となり、自宅休養をしていた。同2年、参賀を終えて帰る途すがら、数人の刺客に襲われて斬り殺された。享年61歳。墓は南禅寺天授庵にある。
アクセス 中京区寺町通リ丸太町下ル東側 京都御所東南角を少し下った西側歩道の車道際に碑が立っている。車道側が正面のため写真を撮るには極めてやっかいである。
下御霊神社(山崎闇斎顕彰碑)
山崎闇斎

 下御霊社は川原寺で憤死した伊予親王とその母の霊をなだめるために出雲路に創始、新町出水から現在地に移り、祭神も八座となり、相殿に霊元天皇を祀り、古来皇居の産土神であった。境内の末仕、垂加社に山崎闇斎を祀り、傍らに顕彰碑が建つ。闇斎は京都出身の朱子学の大家で 垂加神道を創め、保科正之の侍講を勤めた。門人に浅見絅斎ら優秀な人材が輩出し、その思想は維新の志士に深い影響を与えた。

アクセス 中京区寺町通丸太町下ル下御霊神社内