黒 谷 ・ 吉 田

会津藩城東練兵場跡
 荒神橋の東詰の東南アジア研究センター、南のアフリカ地域研究センター、東の京大医学部付属病院宿舎、薬学部のあたりが、文久4年2月に会津藩の調練場になり、会津藩兵の洋式調練が行われた。

 戊辰戦後は軍務官の調練場となり、慶応4年4月以降、官軍の東征に従うため、在京40藩の諸藩兵が洋式の調練を行った。明治5年、牧畜場となり、13年には民間に払い下げられた。

アクセス 左京区川端通荒神橋東詰吉田下阿達町
染川星巌邸跡
 鴨川の東岸、丸太町上ル三軒目は、もと美濃国出身の憂国の老詩人、梁川星巌の寓居、鴨折小隠のあった所で、西岸、頼山陽の山紫水明処と相対していた。星巌は江戸に学び、各地を遊歴したが、弘化3年から京に移り、嘉永2年以後はここに住み、詩人を表看板に梅田雲浜・頼三樹三郎・池内陶所・春日潜庵・久坂義助らと交際し、志士の指導者の役割をつとめた。やがて安政の大獄となるが、星巌はコレラで急死したので捕縛を免れた。

アクセス 左京区川端通丸太町上ル東側東丸太町
田中河内介宅跡・是枝柳右衛門寓居跡

 田中河内介は、但馬出身で、公卿中山忠能の家臣である。幼少時の明治天皇の養育係も務めた。尊攘の志士で、諸国の志士と交わって活動する。薩摩の西郷、大久保、久留米の真木和泉、筑前の平野国臣、小河−敏、肥後の宮部鼎蔵、長州の久坂玄瑞など、錚々たる面々が、臥龍窟と称した田中の家に出入りしていた。安政の大獄は逃げ切った。
 文久2年4月23日、寺田屋事件に参加。首謀者として捕らえられた田中父子は、薩摩に送られる途中の船中で斬殺され、海に投げ捨てられた。遺体は小豆島福田の海岸に漂着した。河内介48歳、左馬介18歳だった。
 田中河内介の最後は怪談話として有名である。

 是枝柳右衛門は薩摩出身。上洛して田中河内介宅に身を寄せながら志士らとの連絡活動に当たる。足の病気のため「寺田屋事件」には加われなかったが、身を隠しているところを捕らえられて屋久島に流され、元治元年(1864)そこで病没した。48歳。

アクセス 左京区川端通丸太町上る東側東丸太町
盛岡藩邸跡
 慶応4年2月、藩主に代って上洛し、大政奉還後の京都の状勢を観察した、盛岡藩家老楢山佐渡は、岩倉具視に不信の念を抱き、断固薩長政府に抗戦する決意をし、海路帰藩。奥羽列藩同盟の強化を図った。佐渡は藩兵2000を率い、7月に秋田領久保田藩に攻め入り、大館・野辺地と善戦したが、会津・米沢が降伏し、ついに盛岡藩も官軍に降った。捕えられて東京に送られた佐渡は、明治2年盛岡に戻され、6月23日に切腹した。
アクセス 左京区丸太町通川端東入ル
蒲生君平寓居跡
 蒲生君平は、江戸時代後期の儒学者。林子平・高山彦九郎と共に、「寛政の三奇人」の一人。祖先が会津藩主蒲生氏郷公であることを知り蒲生の姓を名乗った。
 下野国宇都宮の生まれ。曲亭馬琴、本居宣長ら多くの人物と交流があった。
 天皇陵(古墳)を研究し、『山陵志』を表す。その中で古墳の形状を「前方後円」と表記し、そこから前方後円墳の語ができた。
 在京中は、歌人小沢蘆庵のもとに寄宿していた。
 没後、明治2年12月には、その功績を賞され勅旌碑が建てられた。宇都宮市の蒲生神社(大正15年創建)に祭神として祭られている。
アクセス 左京区岡崎入江町
金戒光明寺(会津藩本陣・会津墓地・赤松小三郎墓・今井似幽墓・近江屋新助墓・北垣国道墓・高倉永祐墓・千種有文墓・山崎闇斎墓)
          

金戒光明寺 会津藩本陣

 文久2年閏8月1日、京都守護職に任命された会津藩主松平容保は、12月24日、入京し金戒光明寺に本陣を置いた。藩兵千人をずつの一年交替で京都の治安を守った。
 京都所司代や町奉行所が、治安維持を行っていたが、尊王攘夷の嵐が吹き荒れ天誅が横行すると、治安維持が難しくなり、幕府は京都守護職設置を決めた。その初代に東北の雄藩であり、幕府に忠誠し続ける会津藩が適任と任命された。当初容保は家老の田中土佐、西郷頼母らの辞退勧告を受け、断るはずであったが、幕府に忠誠を誓う会津藩の家訓を持ち出されてしまい引き受けてしまうことになった。
 初め容保は尊王攘夷派の意見を聞き、話し合いで何とか治安回復は出来ないかと公用人を使い努力していたが、池田屋事件が起こり、もはや話し合いだけでは解決できないかも知れぬと悟り、新選組や見廻組に所司代町奉行所をフル活用し、力で治安回復を目指していく。


アクセス 左京区黒谷町121。京阪丸太町駅から西へ徒歩約1キロ。バスでは岡崎神社前バス停で下車。

金戒光明寺山門

 王政復古の号令が出る慶応3年まで約5年間、ここに本陣を置き京都の町ににらみをきかせていた。

 新選組には会津藩の意向がくみ取られている。ある種会津藩の汚れの部分を新選組が担ったのではないかとの推測も出来る。

          
会津藩殉難者墓地

 250基余の墓石と115名の名が刻まれた「慶応の役伏見鳥羽淀会藩戦死者の碑」がある。明保野亭事件で自刃した柴司の墓と、京都で病没した藩の公用人野村左兵衛(墓碑銘は野村真臣)墓もある。ここ以外にも鳥羽淀方面に埋葬地が多数あり、「伏見淀鳥羽戦死者道しるべ」に埋葬地が刻んである。

アクセス 金戒光明寺につくと「會津墓地参道」の石碑が順路通りに並んでいるのでこの石碑を辿ると墓所に着く。本堂に向かって右手に墓地の入口がある。会津墓地まで石碑で案内してくれる。


柴司墓

 元治元年、池田屋事件の残党狩りに追われる新選組に派遣された会津藩士の1人で、同年6月10日、いわゆる明保野亭事件を起こし、会津藩と土佐藩の関係修復のため兄の介錯のもと切腹した。享年21。
 武家社会のしがらみの中で犠牲となった形であるが、彼の死によって会津藩と土佐藩の衝突が回避され、その潔い最期に対して会津藩主松平容保から兄に褒章がくだされている。

  法名・忠信院盡孝刃司居士。左側墓地の中央付近に「會津柴司源次正墓」と正面に刻まれた墓石がある。側面と背面に履歴が刻まれている。

 京都黒谷金戒光明寺の会津墓地にある柴司の墓碑銘には、上記の続柄や事件の経緯とともに「言い伝えによれば、死ぬことが難しいのではなく、立派な態度で死に臨むことが難しいという。柴司などは、本当に立派な態度で死を迎えた者だというべきだろう」、「もし柴司が6月12日に死ぬことなく、禁門の変に参戦していたなら、どれだけ活躍したであろうか。これはとても残念なことである」とその死を惜しまれている。

井汲恭平墓

 谷川辰蔵と名乗った。大坂のぜんざい屋事件で手柄を立てて新選組に入隊するが慶応3年脱走。赤報隊に入隊する。明治27年没。享年72歳。墓は御影堂の北側の墓地にある。

北垣国道墓

 鳥取藩士。生野の変に加わり、失敗し鳥取にひそむ。維新後官職につき、明治14年から11年間京都府知事を勤め、京都発展のため諸事業を行った。

 琵琶湖疎水を作った人で有名である。黒谷の境内北部および東部の山手を占める

赤松小三郎墓

  信州上田出身。佐久間象山、勝海舟に兵学等を学び、京都に塾を開き、幕薩一和、公議政体論を説いた。薩摩藩の子弟も多く教えたが、上田藩に帰藩する際に、幕府の有力者となるのをおそれた門人中村半次郎らにより殺された。慶応3年9月3日没。37歳。墓地の中には、名家の墳墓も数多く含まれて

千種有功墓 写真左

 堂上公家、有文の父、歌人。号千々廼舎。

千種有文墓 写真右

 安政5年八十八卿列参に加わり、九条尚忠に抗議したが、のち公武一和に尽し、皇女和宮の降嫁に尽力した。そのため尊攘の志士に嫌われ、王政復古まで謹慎した。

   
高倉永祐墓

 明治元年正月、北陸道鎮撫総督として京を発ち、同4月会津征討総督となり北越に臨んだが、7月29日高田において病残。戦功により参議・正三位を贈られた。

山崎闇斎墓

 儒者・朱子学者・神道家・思想家。名は嘉、字は敬義、通称嘉右衛門。闇斎は号。
 京都で浪人の子として生まれ、幼くして比叡山に入り、ついで妙心寺に移って僧となる。19歳のころ土佐の吸江寺に移り、湘南宗化の弟子となる。土佐南学派の谷時中から朱子学の手ほどきを受け、また野中兼山や小倉三省らとの交わりのなかで朱子学への傾倒を深め、1642年に還俗して儒者となった。
 1665年、会津藩主保科正之の賓師に迎えられ、藩政への助言者として活躍する。領内の寺院・神社の整理をおこない、神仏習合を排除した。また、吉川惟足の影響で神道研究にも本格的に取り組むようになった。
 彼の提唱した朱子学を闇斎学、従来の神道と儒学を統合して垂加神道を開いた。水戸学などとともに幕末の尊王攘夷思想に大きな影響を与えた。
 門人には、佐藤直方・浅見絅斎・三宅尚斎らがおり、闇齋学の系統を「崎門学派」という。


今井似幽

 井関太郎左衛門・大黒屋とも称した。長門萩出身、吉田松陰に私淑す。京都の今井家に入り、長州藩の御倉番をつとめ、諸国の志士と交わり、桂小五郎を支援した。維新後、古聖堂をつくり志士を偲んだ。

近江屋 井口新助

 土佐藩御用達の醤油商。彼の家二階で、慶応3年11月15日、坂本龍馬らが暗殺された。その後も新助は勤王につとめた。明治43年没、74歳。従五位を贈られた。

西雲寺(会津小鉄墓)
生地は後の大阪市南区本町2丁目、本籍は京都府愛宕郡吉田村。行友李風の『近世遊侠録』によると背中の文身は小町桜(小野小町が桜の下にいるとされる)。全身に数十にわたる刃傷があり1853年に右の小指を、1865年に左の指を3本(親指と人差し指を残して)斬られているが、己自身も少なくとも5人は手に掛けている。
 嘉永2年(1849)頃より恋人と生活していたが、縄張り争いで亡くしている。慶応元年(1865)より暮らしていた芸者との間に2子を儲ける。1人は子分の養子に、1人は九州の親分の養子にする。明治5年(1872)に妻を迎え1子を儲ける。この子は21歳で家出をして行方不明。
アクセス 金戒光明寺内にある
真如堂(石田英吉墓・堀河紀子墓)
石田英吉墓

 土佐藩の医師の家に生まれる。家業を継ぐため大坂の適塾で緒方洪庵に師事し医術を学んだ。
 しかし、吉村寅太郎に心酔し天誅組に加わって大和挙兵に参陣。この戦いで敗れた英吉はやむなく長州に落ち延び再起を図る決意を固める。だが蛤御門の変で負傷。 三条実美ら有力公卿が都を落ち延びたいわゆる「七卿落ち」で三条とともに都を離れた。その後、再び長州に逃れた英吉は、そこで高杉晋作と合流し奇兵隊創設に貢献する。龍馬と接触をはじめるのはこの頃からである。
 以後、優秀な人材として龍馬の側近くで活動。亀山社中成立の頃より参加し、のち海援隊創設時は、長岡謙吉にとともに重きをなした。下関海戦では龍馬の命でユニオン号の指揮を任せられ、めざましい戦果を挙げた。
 龍馬の死後、主をなくした海援隊は後継指導者も定まらなかったが英吉は長岡謙吉に従い、しばし後進の指導にあたるなど組織をまとめた。海援隊解散後、、秋田県令・千葉県知事をはじめ多くの県知事職を歴任。農政面での政策では多大な功績を残した。かつて英吉の愛弟子である陸奥宗光は農商務大臣に就任した際、英吉を次官に迎え国政を相談したと言われている。 貴族院議員をつとめたのち1901年、63歳で没した。

堀河紀子墓

 父は権中納言堀河康親、すなわち岩倉具視の実妹・孝明天皇の二皇女を生み、また和宮降嫁問題に深く関わり勤王派から四奸二嬪の一人と目された。

アクセス 左京区浄土寺真如町82
光雲寺(錦小路頼徳墓)
 堂上公家。廷臣八八卿の列参に参加。文久2年(1862)5月には国事御用書記の同僚と連署して攘夷貫徹に関する叡旨を候し、ついで8月久我建通の弾劾に加わった。有志公家と共に朝政刷新・攘夷国是確立の急務なることを建言し、さらに攘夷親政を天下に布告して人心の一致を図るべきことを建言すると共に、三条実美らの同志公家と共に長州藩士等と通じて攘夷親政・大和行幸を企図し、ついに朝議の決定を見たが、八月十八日の政変によってこの朝議が一変したため、参内・面会・他行等を禁じられ、翌19日実美以下六卿と共に長州へ追放された。元治元年(1864)3月赤間関の砲台を巡視の途次発病し、4月27日没。享年30歳。慶応3年(1867)12月赦免して官位を復された。
アクセス 左京区南禅寺北ノ坊町59
安楽寺(中沼了三墓)
 浄土宗安楽寺は、法然上人の弟子、住蓮坊・安楽坊の念仏道場から始まった。

 門内すぐ左手に、隠岐出身の勤王学者、中沼了三(葵園)夫妻の墓がある。

中沼了三は、皇室の尊厳と大義名分を弟子に教えたため たびたび投獄されたが屈せず、人材を育成し、維新後も教育者として尽した。明治29年5月1日没。81歳。

アクセス 左京区鹿ケ谷御所ノ段町21
吉田山神葬墓地(千葉正中墓)
 千葉正中は文政9年(1826)8月6日、十津川村上湯川に生まれる。16歳の時、10歳の弟田中主馬蔵と共に、紀州田辺藩の藩儒平松良蔵に漢学を、同藩の柏木兵衛に剣術を学んだ。弘化4年(1847)江戸に出て、剣術修行するが、病になり帰郷、庄屋となる。文久2年(1862)2月、上平主税等と京に上り、諸藩の志士と交わり天下の形勢をうかがう。3年2月深瀬繁理・田中主馬蔵等と郷士総代となり、郷の由緒を申し述ベ、国家非常の時に際し、応分の力を尽くしたいと赤心を上申、丸田藤左衛門・深瀬繁理・田中主馬蔵・上平主税・前田正之等と、中川宮に上書した結果、禁裏御守衛の任に従うこととなった。8月、正中等御守衛人数を率いて上京、以後“京詰”と称し十津川は交替で王城警固に当たった。十津川をして「明治維新魁の村」と評される所以となった。以後正中は京都にあって天誅組の変・8月18日の政変等に際し、郷の立場を守る為その対応に奔走事なきを得た。明治元年(1866)2月十津川御親兵人選方を命じられ、同月軍事監司などを歴任後、病で帰村。林業に専念した。29年(1896)京都に移住し、翌年(1897)9月25日病没、享年71歳。
アクセス 白河総合養護学校北 左京区吉田下大路町 
尾張藩邸跡
 尾張藩の京都屋敷が、文久3年末頃にここに置かれた。現在の京都大学である。安政の大獄で藩主徳川慶勝は隠居を命じられた。徳川御三家の一つがである。その後藩内は佐幕一色となったが、大政奉還後は新政府に協力した。徳川慶喜将軍に辞官納地を勧めている。文久3年の末頃、尾張徳川藩の京屋敷が、東一条の北、吉田の、現在の京都大学工学部あたりの地にできた。
アクセス 京都大学工学部あたり。 東大路通今出川通 百万遍交差点南東 左京区吉田本町
尊攘堂
 もともとは長州藩出身の政治家・品川弥二郎が、吉田松陰の意思を継いで京都市内に建てた。維新の志士の霊を祀り、遺品を展示するための施設であったが、品川の死後、京大に寄贈された。
アクセス 京都大学総合博物館横にある。 百万遍交差点南東 左京区吉田本町
陸援隊屯所跡(土佐藩白川邸跡)
 土佐藩士中岡慎太郎は慶応3年7月29日、陸援隊を結成しここを屯所として洋式銃による訓練を開始した。

 陸援隊屯所に新選組の村山謙吉が間者として入り込み、倒幕挙兵計画を近藤勇に報告している。しかし正体がばれ、土佐藩邸内の牢屋に放り込まれたが釈放された。

 現在の京都大学北部構内の理学部付近にあった。土佐藩は上京した折りの兵士の宿舎としての白川邸だった。

アクセス 百万遍交差点北東方向 京大北部キャンパス理学部付近 左京区北白川追分町
知恩寺了連寺(鹿野安兵衛墓)
 百万遍知恩院の境内にある了連寺に、菊屋峯吉の墓がある。峯吉は龍馬や中岡慎太郎と交友があり、龍馬暗殺当日、龍馬に軍鶏を買ってきてくれと頼まれ、帰ったときには龍馬が暗殺された後だった。その後、西南戦争に会計方軍夫として従軍、大正7年に68歳で没。
アクセス 百万遍交差点北東角 左京区田中門前町103
長徳寺(小林良典墓)
 小林良典の遺髪を埋めた墓がある。鷹司家の諸大夫として安政年間に、開国通商で幕府支持者の鷹司政通を攘夷鎖国に翻意させた。将軍継嗣問題では一橋派を押し、水戸藩へ詔勅を降下する運動に邁進した。安政の大獄に連座し、流罪される前に獄中で亡くなった。安政6年11月。享年52歳。叡電出町柳駅の南側、道の真向いの広場の南にある長徳寺の中に、鷹司家諸大夫小林良典の遺髪を埋めた墓がある。
アクセス 京阪電車出町柳駅 東側すぐ 左京区田中下柳町34-1