高 台 寺 ・ 清 水 寺

大雲院(佐土原藩戦死者の碑・熊谷直孝墓・佐土原藩本陣)
 天正18年以来、寺町通四条下ルにあった大雲院(龍池山貞安寺)は、昭和47年に現在地に移った。

 境内には佐土原藩士の招魂塚が再建された。墓地内には信長・信忠を祀る碑や、石川五右衛門の墓もある。

アクセス 東山区祇園円山町
西行庵(吟風弄月軒)
 西行庵内にある「吟風弄月軒」は、久我家に仕えていた春日潜庵が洛西衣笠に建てた別荘を復元したもの。潜庵は海外事情にも通じ孝明天皇の信任も篤く、当時の衣笠の「吟風弄月軒」には尊攘派志士たちが続々と押しかけ、その中には西郷、大久保、桂、なども出入りしていた。
アクセス 円山音楽堂南すぐ
双林寺(河村公成墓)
 創建は平安朝の初めで、この地は唐土の沙羅双林寺に似るところからかく名付けられたもので、往時は寺運栄え境内も広く多くの塔頭支院を有したが中世に至り衰微する。室町初期国阿上人によって再興されたが、応仁の乱により再び衰退し、明治初年円山公園が設けられるに及んで寺地の多くを上地せしめられ、いまは本堂一宇のみを残す。

 河村公成 俳人。長州出身で公卿などの屋敷に出入りして情報を探ったといわれている。明治元年6月惨殺される。

アクセス 東山区鷲尾527
東大谷墓地(梅田千代墓・三国大学墓)
梅田千代墓

 大和高田の村島内蔵進の娘。安政3年、32歳の時に松田重助の紹介で梅田雲浜の後妻として嫁ぐ。明治22年3月14日、66歳で没。娘ぬいは明治13年8月12日に23歳で亡くなり、母子ともここに埋葬された。

三国大学墓

三田大学は、越前三国出身。天保7年に塾を開き、鷹司家の儒官となった。中根雪江、橋本左内らとともに論議を交わり、安政の大獄で捕えられ、江戸へ送られたが、京都へ戻った。明治2年、再び鷹司家に仕えた。明治になり教部省権大講義、北野神社梅風教会長を歴任。従六位。29年没、87歳。著書に「孝経傍訓」「笑草」「竹草」など。

アクセス 東山区円山町477番地
高台寺(福井藩主宿舎)
文久3年以来、松平春嶽(福井藩主)の宿所となった。7月20日、鳥取藩士石川一と尾崎建蔵は、当時政治総裁職として、将軍後見職の慶喜に協力し、朝幕間に周旋していた松平春嶽を、公武合体派の巨魁として狙い、その宿所高台寺へ焼討ちをかけた。
アクセス 東山区下河原通八坂鳥居前下る下河原町526
月真院(御陵衛士屯所跡)
          
 元治元年入隊した伊東甲子太郎は参謀として迎えられ、新選組の中でも一目置かれる立場にあった。元来勤王派であり、近藤勇の公武合体は相容れない伊東は、15名引き連れ、分離脱退という道を選ぶ。
 慶応3年3月10日、戒光寺長老の尽力で孝明天皇御陵衛士を拝命する。14日に三条別館に移り、20日には城安寺にて一泊、21日は善立寺に移った。現在城安寺は存在するが、善立寺は戦時建物強制疎開で現在地に移ったが、当時は五条橋二丁目南側にあった。現在の国道一号線のグリーンベルト付近である。この善立寺には6月初旬まで滞在し、6月8日に月真院を屯所と定め移り住んだ。
 その後、御陵衛士は高台寺塔頭月真院に屯所を置いたため、高台寺党と呼ばれた。
 御陵衛士には、伊東の他に、三木三郎、篠原泰之進、阿部十郎、藤堂平助、服部三郎兵衛、斎藤一らがいた。斎藤は近藤が放った間者であったという。
 伊東らは太宰府や長州に赴いて、西国諸藩の志士と交わり、長州藩の処分を寛大にすべきであると朝廷や幕府に建白するなど志士的な活動を行った。薩摩藩と接触し、薩摩藩の別働隊的活動も行った。
 坂本龍馬滞在の近江屋に行き、命が危ないと忠告した3日後、近藤ら新選組に呼び出され、たらふく酒を飲まされ、油小路で暗殺される。伊東亡き後、御陵衛士は薩摩藩邸に逃げ込み庇護を受ける。そして御陵衛士は消滅する。

アクセス 東山区下河原町463。祇園八坂神社から高台寺に向かう道。ねねの道から左手に月真院がある。
石塀小路
 風情ある石畳と石塀が続く小路が高台寺通と下河原通の間に通い、京情緒漂う散策を楽しめる。京都らしい風情の旅館や料亭、庭園が美しい喫茶店などがあり、そぞろ歩きを楽しむのによい。
アクセス 東山区下河原町
青龍寺(近藤正慎墓)
          
 
清水寺成就院忍向上人が薩摩へ去った後、寺を任された寺侍・近藤正慎は、西町奉行所に連行され、師忍向の所在を問い質されたが、よく拷問に耐え、ついに安政5年10月24日、六角獄中に舌を噛んで死んだ。

 近藤正慎の墓と記念碑のある見性山青龍寺は、浄土宗鎮西派の寺で、本尊は伝教大師作という伽羅観音である。本堂前の念仏石は、鐘代り石とも呼ばれ、隔石であるともいわれる。

アクセス 東山区下河原町通八坂鳥居前下ル南町
春光院(月照寓居跡・忍向上人隠栖の跡)
 僧忍向(月照)は安政の初め、尊攘運動に挺身するために、27年間修行して得た成就院住職の地位を棄て寺を出た。そして東北地方を遊歴するなどして世情を探るが、安政2年2月24日以降、この春光院に住み、隠栖の姿の中にも諸藩勤王の志士と会い、また、近衛家老女津崎村岡、原田才輔、西郷吉之助、
有村俊斎らと密議をこらした。同3年2月、当院改築に当り、忍向は長楽寺へ移った。春光院は高台寺塔頭の一つで 慶安元年(1648)木下勝俊の建立である。
アクセス 東山区下河原高台寺前町、維新の道北西角
翠紅館跡
 文久3年1月27日、長州・土佐・肥後・水戸藩などの有志が集まり、攘夷の期限について語り合った。6月17日には弱腰外交の幕府を批判し、攘夷倒幕を決行し王政復古を実現する会議が開かれた(翠紅館会議)。8月13日には大和行幸の発令があったが、5日後には8.18の政変が起こった。

 現在は料亭大和として営業している。霊山歴史館に向かう維新の道の右手にあり、邸内の送陽亭が会議の場所であったという。

アクセス 東山区桝屋町 維新の道右手にある
明保野亭騒動の跡・明保野亭跡
          
 元治元年6月10日、池田屋事件残党狩りのため市中探索をしていた新選組に長州人20名が明保野亭に集まっているとの情報が入り、武田観柳斎ら15名と、会津藩から応援の柴司ら五名が踏み込んだ。探索を開始すると二階から逃げ出してくる二名を発見し、一人を垣根に追い詰めると抜刀してきたので、柴は槍で突いた。実はこの武士は長州人ではなく、土佐藩士麻田時太郎と名乗った。他の記録には明保野亭の離れ座敷で、酒を飲んでいたところ障子越しにいきなり槍で突かれたともある。
 麻田は奉行所に引き渡され、会津藩本陣にも報告された。土佐藩と友好関係であった会津藩は、公用人手代木直右衛門を土佐藩邸に遣わし陳謝した。
 この事件に激昂した土佐藩士は明保野亭に集まり、会津藩本陣と新選組屯所への襲撃を計画したが、土佐藩重役によって治められた。
 事件の結末は、11日麻田が藩邸内で自刃し、12日柴も切腹した。会津藩と土佐藩の友好関係は継続された。

 写真左が 明保野亭入口付近跡 現在料亭坂口の裏手にある門で、この付近に明保野亭があったと思われる。庭園内部は整備されて一部が公開されている。
 三年坂頂上付近にあるあけぼの亭入口にあり駒札もある。当時の明保野亭は三年坂下にあり、料亭坂口あたりにあった。この場所ではない。三年坂下から見上げる景色は京都らしい。

アクセス 東山区清水8丁目。清水道バス停から清水寺方面へ。産寧坂を北へ行くと右手に「あけぼの亭」がある。さらに進むと料亭坂口があり、南側道路に門がある。
清水寺(島田左近献納の灯籠) 成就院(月照・信海・西郷詩碑・忍向上人の遺址・忠僕重助碑・近藤正慎碑)
清水寺

 十一面千手観音を本尊とする、音羽山清水寺は、北法相宗総本山で、本堂の懸崖舞台は名高い。

 延暦17年(798)創建で 本堂は国宝、諸堂十五棟ほか重要文化財が多い。清水寺は、西国33所観音霊場の第16番札所である。

 山門前に並び立った石灯籠は、島田左近の献納したものといわれる。

成就院

 清水寺一山九院の本坊。先師蔵海の後を嗣いで、成就院の住職となった忍向(月照)は、勤王の志厚く、近衛家に出入りし、尊攘の志士と交わった結果、幕府ににらまれ薩摩に下った。忍向の弟もまた、蔵海の弟子となり、僧信海となり、兄の去った後の寺務を預かった近藤正慎亡き後、成就院の住職を嗣いだ。

月照・信海・西郷詩碑

 成就院から清水寺本堂へ向かう途中に月照信海上人の歌碑と西郷隆盛の詩碑が並ぶ。

          
近藤正慎碑 写真右        月照らの詩碑の傍らに立つ。        忠僕重助碑 写真右 
アクセス 東山区清水1丁目清水寺境内
清水寺(忠僕茶屋・舌切り茶屋・忍向墓・信海墓・大槻重助墓)
舌切茶屋

 月照をかばって、獄舎で舌をかみ切って死んだ近藤正慎の残された妻子のために、清水寺は境内の忠僕茶屋の隣に茶店を出させて救済した。近藤の妻きいは、ここで2児を育て上げた。のちに、この茶屋は舌切茶屋と名付けられる。現在も近藤の子孫が営業している。

忠僕茶屋

 月照の下僕であった大槻重助は、薩摩に逃れる月照に従って鹿児島に入った。ところが、月照は入水自殺してしまう。重助は捕らえられ、京都に送り返されて取り調べを受けるが、許されて妻とともに月照の墓守をしながら、清水寺の境内で茶店を開くことを許された。

忍向・信海両上人の蟇

 文政10年、15歳で寺に弟子入りした大坂の町医者の子、玉井宗久は、月照と称し、忍向と改め、天保6年23歳の時、成就院の住職となった。彼はその尊攘運動の結果、身の危険を感じ、西郷とともに薩摩に下るが、ついに錦江湾の波間に身を投じた。行年46歳。

 弟信海もまた、青蓮院宮のために修法した攘夷祈願の護摩の件で、幕府側に捕えられ、江戸伝馬町の獄中で死んだ。安政6年3月18日、39歳。両上人の墓は山内、子安塔の西方墓地にある。

アクセス 東山区清水1丁目清水寺境内
清閑寺郭公亭(西郷と月照密議の跡)
          
 清閑寺は、国道1号五条バイパスの峠下、京都側トンネルの傍から東山道路が分れているが、その北側清水音羽山の中腹にあり、延暦21年(802)の開基である。寺の背後に、六条天皇・高倉天皇の御陵がある。

 清閑寺本堂の西北断崖上に建つ茶室は、郭公亭といい、6畳の座敷、4畳半の茶室、4畳の押入兼台所があり、東南に廻縁がある。

 安政5年、清水寺成就院忍向が、水戸藩への密勅降下や、攘夷倒幕のために奔走したため、幕府側に狙われた。忍向は、西郷隆盛とこの場所でたびたび国事を語り、またついにはともに身の振り方を相談した場所であるといわれている。 

アクセス 東山区清閑寺歌ノ中山町
安祥院(梅田雲浜墓・大高忠兵衛墓)
大高忠兵衛墓

 兵庫県姫路の生まれ。甲冑業を営み密かに武具も製造していた。義父の大高又次郎と勤王活動に奔走し、元治元年6月5日、池田屋に集う同志のために甲冑の準備をしているところを新選組に捕らえられた。又次郎は池田屋で闘死。忠兵衛は六角獄舎で拷問を受け、7月4日病死した。

 嘉永6年、梅田雲浜に招かれて上京した。同墓地に雲浜の墓があるのは奇遇だろうか。

梅田雲浜墓

 福井県敦賀市の生まれ。京都で医学を学び塾を開く。尊王攘夷運動の先陣を切った。安政5年に安政の大獄がはじまり、最初に逮捕された。江戸で病死。享年45歳。

アクセス 東山区五条通東大路東入遊行前町560。五条坂・東山五条バス停から五条坂を清水寺方面へ。洛東病院東にある。

西大谷墓地(浅見絅斎墓・島田左近墓・司馬遼太郎墓・西村兼文墓・松井中務墓)
 司馬遼太郎(1923年8月7日-1996年2月12日) 。本名、福田定一。大阪市生まれ。ペンネームは、歴史家の司馬遷に遼(はるか)に及ばずと言う謙遜の意味。
 産経新聞社在職中、『梟の城』で直木賞を受賞。以後「司馬史観」と呼ばれる独自の歴史観に基づいて、それまでの歴史小説に新風を送る作品を数多く執筆。日本の大衆文学の巨匠、中心とされる作家。
 作品は戦国・幕末・明治を扱ったものが多く、『国盗り物語』『竜馬がゆく』『坂の上の雲』など。また、『街道をゆく』などのエッセイなどで、活発な文明批評を行った。彼の偉大な 業績は、第二次世界大戦の反動から日本の近代史全体に否定的な見解が多い中、第二次世界大戦自体は 痛烈に批判したが、その他の近代史に光りをあてたことにある。
島田左近墓

 島田左近は九条家の諸大夫として、井伊直弼の謀臣長野主膳と親しくし、主人九条関白尚忠を親幕派に変え、安政の大獄には尊攘派志士の検挙に、積極的に協力した結果、文久2年7月20日夜暗殺された。

松井中務墓

 松井中務は西本願寺用人で、外国船の来航に備え、僧侶の武備を建議し、門末に勤王を説き、蝦夷地における末院の屯田兵設置を献言するなどしたが、文久3年守護職に任じられた越前の松平春嶽が、翌春上京の際、本願寺境内を旅宿に使用することに賛成したため、中務は開港論者とみなされ、文久3年8月12日、自宅で暗殺された。


浅見絅斎墓

 浅見絅斎は山崎闇斎の門人三傑の一人で、大義名分を説きその学説は望楠軒に引きつがれ、その箸『靖献遺言』は、幕末の志士に深い影響を与えた。

西村兼文墓

 西村兼文。幕末の京都西本願寺侍臣。尊皇攘夷派。西本願寺侍臣西村房義の次男として生まれ、父と同じく西本願寺に仕える。西国にて勤皇の志士達と交流していたが、慶応元年(1865)閏5月に京都へ帰ってきてみると、西本願寺は勤皇志士達の敵とも言える新選組の屯所とされてしまっていた。新選組隊士達、特に尊皇攘夷思想の強い伊東甲子太郎らと交流を重ね、戊辰戦争後の明治22年(1889)、『新撰組始末記』(壬生浪士始末記とも)を著し、数年後に公表した。維新史に関する書をたびたび発表し、奈良県庁官吏として明治政府に出仕。奈良にて死去。享年65。

アクセス 東山区五条橋東6丁目514