京阪七条

智積院(土佐藩本陣)
 智積院は真言宗智山派の総本山。天正13年(1585)豊臣秀吉によって焼払われた根来山の塔頭を前身とし、徳川時代になって秀吉が長男鶴松を弔うために建立した祥雲禅寺の寄進を受け、これを五百仏頂山根来寺智積院と改名した。

 幕末には学寮などに土佐藩兵が駐屯した。山内容堂も文久以来入京し、公武合体に尽力した

アクセス 東山区東大路七条下る東瓦町964
方広寺(天誅組集合地)
 方広寺は豊臣秀吉により建立された。天正14年(1586)秀吉により奈良東大寺に倣った大仏殿の造営が開始され、文禄4年(1595年)に完成した。東大寺の大仏より大きい18mの大きさであったという。しかし慶長元年(159年)に地震により消失した。その後豊臣秀頼により再建されたがそれも消失した。この再建のために高瀬川が開削された。
 当時のものとしては梵鐘が残っているが、この鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の銘文が家と康を分断し豊臣を君主とするものだとして徳川家康の怒りにふれ、豊臣家滅亡のきっかけになったとされる。この鐘は重要文化財に指定されており東大寺、知恩院のものと合わせ日本三大名鐘のひとつとされる。
 大仏殿は2000年の発掘調査により東西約55m、南北約90mの規模であったことが判明している。現在その場所は公園となっている。

 天誅組出発の地

 文久3年8月14日、中山忠光を盟主として松本謙三郎、藤本鉄石、吉村寅太郎ら38名の同志は、大仏殿に集まり大和行幸の先陣を切って大和に向かったが、8.18の政変で大和行幸は中止となり、天誅組は追討される。

アクセス 東山区正面通大和大路東入茶屋町527-2
妙法院(七卿西竄記念碑)
 天台宗の仏教寺院。開基は最澄。皇族・貴族の子弟が歴代住持となる別格の寺院を指して「門跡」と称するが、妙法院は青蓮院、三千院(梶井門跡)とともに「天台三門跡」と並び称されてきた名門寺院である。また、後白河法皇や豊臣秀吉ゆかりの寺院としても知られる。近世には方広寺(大仏)や蓮華王院(三十三間堂)を管理下に置き、三十三間堂は近代以降も引き続き妙法院所管の仏堂となっている。
七卿西竄記念碑

 文久8年8月18日の政変で、薩摩・会津などの公武合体派による巻き返しクーデターにより、朝廷内の急進派公卿と長州藩士は、京都を追われる事態となった。

 三条実美、三条西季知、東久世通禮、壬生基修、四条隆謌、錦小路頼徳、沢宣嘉ら七卿は長州藩兵や御親兵とともに妙法院に入り、深夜まで会議を行い、長州で再起を図ることに決した。翌日雨の中を、蓑笠をかぶった公卿は四百余名の兵士に守られて伏見に向かった。

アクセス 東山区三十三間堂廻り町657