河 原 町 ・ 烏 丸

薩摩藩錦小路邸跡
 文久3年に相国寺門前の二本松薩摩藩邸が設けられるまで、ここ錦小路の藩邸が主なものであった。
 文久2年の4月に島津久光が兵千名を引き連れて上京したときは、この屋敷に入った。

 大丸百貨店西側に石碑がある 石碑の前は障害者用駐車場なので、車があると写真が撮りにくい。

アクセス 中京区東洞院通錦小路下東入北側
浅見絅斎(けいさい)邸跡
 浅見絅斎は佐藤直方、三宅尚斎とともに崎門の三傑と称された。
 浅見絅斎、名は安正、通称重次郎、承応元年(1652)近江高島郡太田村に生れた。京へ出て医を学び、医者となり、高島順庵と称え、後姓を浅見と改めた。彼は山崎闇斉に心服し、ついに業を棄て、福山の永田養庵の紹介で闇斎の敬義塾に入った。絅斎26.7歳、闇斎60歳の頃である。
 闇斎の死後、絅斎は錦小路高倉西入ルに住んで、錦陌講堂を開き門弟を教育した。絅斎は仕官することなく正徳元年12月1日没、60歳であった。生前数10巻の著書の中、特に4年かかって、漢国の忠義・節操の士の評伝を綴って、暗に報国の精神の鼓吹と大義名分を明らかにした「靖献遺書」は有名で、志士の広く読むところとなり、また幕末諸藩の学校の教科書になった。このように崎門学派は、闇斎より絅斎に、そしてその弟子若林強斎に伝わり、学塾望楠軒の開設となり、維新の志士の精神、学問に深い影響を与えたのである。
アクセス 中京区錦小路通リ高倉西入ル南側大丸脇
尊攘堂跡
 明治20年、海外漫遊より帰朝した品川弥二郎は、この地を購入して、邸内に吉田松陰の霊を祀り、その遺墨を始め、維新殉難の志士の事跡に関する史料を集めて、松陰の命日10月27日には祭典を行い、一般の人にも参拝と所蔵品の縦覧を許した。以来、維新の事跡に関する寄贈品が相次いで、所蔵品は1000余点に達した。

 品川の死後の明治34年、所蔵品は保存委員の手で京都大学に寄贈され、同学内に尊攘堂を新築して、松陰の遺志を実現することになった。

 今は所蔵品は図書館に移され維新資料として丁寧に保管されている。

アクセス 中京区高倉通り錦小路上ル西側(四条高倉スカイハイツ付近)
松山藩邸跡
 現在の高倉小学校付近にあった。江戸初期から京都藩邸があった場所である。松山藩は、二度の長州征伐に出兵したが、第二次では周防大島で長州軍の猛攻に敗れた。鳥羽伏見の戦いでは大阪に後詰として参加。15代藩主定昭は土佐藩に恭順し降伏した。

 足利木像事件の三輪田綱一郎や、新選組の原田左之助などの出身者がいる。

アクセス 中京区高倉通六角下ル西側
西郷南洲寓居跡
 柳馬場通り錦上ル東側にあった鍵直旅館は、薩摩藩の定宿であり、主人は直助といい、義侠心のある人であった。西郷隆盛は、安政5年7月13日伏見に入り、14日梁川星巌に会い16日より吉井友実とともに当旅館に滞在し、同志梁川星巌、春日潜庵らと、謀議した。また諸藩の有志で、良くここを訪れた人々は、頼三樹三郎、梅田雲浜、成就院忍向、鵜飼幸吉など数十名に達したといわれる。また薩藩士で当旅館に滞在した人々は、江戸から戻ってきた伊地知正治、有村俊斎、有馬新七らであり、ともに相集って藩主斉彬の入京をひたすら待った。

 7月24日、斉彬の死を知った西郷は、悲歎のあまり殉死しようとしたが思い止まり、斉彬の遺志を奉じて国家に尽くす決心をした。斉彬の死とともに、遺命で久光の子息である忠義が藩主となった。この時に斉興が後見役となり、斉彬の開明的な政策は一転保守的なものと変り、西郷らは苦境に立たされた。

アクセス 中京区柳馬場通リ錦上ル東側
楢崎将作邸跡
 楢崎将作は、龍馬の妻になったお竜の父である。医師で青蓮院の侍医をしていたが、梁川星巌やその妻紅蘭とも親しく、頼三樹三郎、梅田雲浜、池内大学などとも交際があったので、安政の大獄には捕えられて投獄され、六角牢の中で死んだ(文久2年6月20日、50歳)。

 遺されたのは妻と長女お竜、次女君江、三女光江、長男太一郎、次男健吉の大家族であった。遺族らは、家財や着物を売って食いつないだが及ばず、竜女は女中奉公に出た。その隙に、悪党が君江を大坂の女郎屋へたたき売り、光江を島原ヘ連れて行った。

 お竜は龍馬の世話で、寺田屋の厄介になるようになった。

アクセス 中京区柳馬場三条下ル東側油屋町
西川耕蔵邸跡
 西川耕蔵は、儒者巽太郎に学び梅田雲浜の塾に入り、その感化を受けて町人ながら勤王家となった。同門の古高俊太郎、大高又二郎、大高忠兵衛、山田薫二郎と交わり、また、肥後の宮部鼎蔵、松田重助、安積五郎、林豹吉郎、島浪間、乾十郎ら勤王の志士達とも親しくなった。安政の大獄で、雲浜が捕らえられた後、妻子を助けた。

 文久3年8月、天誅組の挙兵に際しては、かねて親交のあった安積五郎、林豹吉郎、乾十郎、島浪間らに軍資を送り援助した。元治元年6月5日、池田屋騒動で、密議に加わっていた西川は危うく難を逃れ、聖護院の寓居にひそんでいたが、6月15日、その所在を知られ、新選組屯所に連行された。新選組隊士により激しく威され、町人の分際で幕政を非難するのはもっての外である、と厳しく反省を求められたが動ずることなく、ついに六角牢へ入れられ、慶応元年2月11日朝、斬罪に処せられた。43歳。

アクセス 中京区三条通リ富小路西入ル北側
竹原好兵衛宅跡
 延宝以来慶応まで、京絵図の出版元として有名な竹原好兵衛であり、天保・慶応に出された大絵図は詳細で評価が高い。

 安政の大獄で、月照上人の身辺が危なくなったので、安政5年9月10日、薩摩に向かう西郷隆盛と忍向(月照)は下僕重助をつれてこの竹原家に泊まり、翌朝、有村俊斎とともに出立した。

アクセス 中京区御幸町三条西北角 有本ビル付近
藤本鉄石寓居跡
 文化13年(1816)3月17日、備前国上道郡宇野村東河原に生れた。天保11年、脱藩して上京した。在京中は軍学を学び、天下の志士と交わった。安政元年、伏見奉行内藤豊後守正縄に招かれて、伏見京町の言志塾で国典と武道をその部下らに教えた。彼はすでに国典に通じ、和歌漢詩をよくし、軍学は甲州流および長沼流の免許を得ていた。なお書画も巧みであった。文久3年8月、吉村虎太郎、松本謙三郎らとともに中山忠光を奉じて14日に京都を脱出し、大和で天誅組の義兵を挙げ、鉄石は総裁となり、17日夜五条代官所を襲い、代官鈴木源内始め6名の首をあげた。こうして倒幕の趣意と尊王の大義を示したが、肝心の大和行幸は行われず、天誅組は孤立した。天誅組は十津川郷士を募集し兵力に加え、高取城を攻め、天川峠に立て籠った。幕府側の紀州、津、彦根藩の追討軍と戦い、山間を放浪し、十津川郷士に離反されて、血路を求めて紀伊尾鷲に向かおうとしたが、鷲家口で諸藩の兵に包囲されてしまった。9月25日、福浦元吉とともに、紀州藩本陣の高見村驚家口裏屋へ斬り込んで壮烈な戦死を遂げた。時に鉄石48歳。
アクセス 中京区御幸町通り三条上ル東側、本来は西側旅館の所
鳩居堂(熊谷直孝寓居跡)

 7代目当主の熊谷直孝は、藤本鉄石、平野国臣、桂小五郎、武市半平太らと交友があり、資金援助するなど勤王家として活躍した。また太田垣蓮月らと飢餓救済事業を行ったり、種痘所の設立にも尽力した。

 慶応元年(1865)閏5月12日、松山出身の志士矢野茂太郎が武田観柳斎率いる新選組8人に捕縛され西本願寺屯所に連行されている。当時の主人の尽力で4日後には釈放された。

アクセス 中京区寺町通姉小路北西角、下本能寺前町
妙満寺(間部詮勝寓居跡)
 寺町押小路の市役所公用車駐車場になっている。昭和42年までは、顕本法華宗の本山妙満寺があった。妙満寺が天正年間この地に移る前はフランシスコ会の南蛮寺が建っていたという。

 安政5年(1858)6月、老中となった越前鯖江の城主、間部詮勝は、かつて天保11年頃、所司代を勤めた経験を買われたのか、この年9月に上洛した。17日入京した間部は妙満寺を宿泊所とした。彼の入洛は米国との条約調印の申し開きのためと、尊攘浪士逮捕の督励のためというが、彼の上京の前9月4日に、梁川星巌は病死し、梅田雲浜は同7日夜に召取られていた。同じく18日には、鵜飼吉左衛門・幸吉の父子も捕えられている。間部は妙満寺に引き籠り、町奉行の手で志士達を捕えさせた。引き続き、鷹司家の諸大夫小林良典、兼田伊織、宇喜多一恵、池内大学、三国大学、高橋兵部権大輔、近藤正慎、梅田雲浜、頼三樹三郎、春日潜庵ら数十名が逮捕され、奉行所へ引き立てられ、 六角獄に入れられて後江戸へ送られた。後に井伊大老と意見が合わず老中を罷免された。

アクセス 中京区寺町通り二条下ル東側榎本町
大洲藩邸跡
 幕末の大洲藩は、藩内の学者の影響で、勤王色の強い所であった。文久3年4月、時の藩主泰祉は、家臣一同に勤王の志を伝え、尊王攘夷へと藩論を統一した。慶応2年、同藩が長崎において五代友厚の周旋で購入した蒸気船は、長浜に回航されて「いろは丸」と命名された。同船購入にあたった国島紹徳は、龍馬の勧めによって、45,000両を5回払いということで取引したが、独断を咎められて、責任上割腹して死んだ。「いろは丸」は後に土佐藩に1航海500両で貸出されたが、翌3年4月23日夜、備後鞆ノ津沖で、紀州明光丸と衝突して沈没した。龍馬は紀州藩を相手に談判し83,000両の賠償金で解決をはかった。実際は7万両の支払いて妥協解決した。

 鳥羽伏見の戦いの前、大洲藩は、西宮の警備をしていたが、三田尻を進発した長州兵の上陸に協力したので、官軍の勝因の大きい要素を占めたといわれる。大洲藩兵二小隊は、官軍に従い、江戸から奥羽方面に転戦し仙台に至った。

 箱館五稜郭の設計者武田斐三郎は、大洲藩士である。五稜郭は、安政2年に築造されたヨーロッパ式の城で、星形をした土畳と堀で囲まれた陣型は守るに堅き設計であったが、大砲による攻撃にはひとたまりもなかったようである。

アクセス 中京区寺町通リ夷川下ル要法寺前町
播州明石藩邸跡
 文久2年に、明石海岸で12砲台を完成させ、将軍の摂海巡視には試射をして見せた。
 慶応4年に、明石城は山陽道鎮撫使四条隆謌に恭順し、京都丹波口警護、越後方面従軍をした。
アクセス 中京区御幸町通丸太町下ル西側 
豊前小倉藩邸跡
 小笠原右近将監忠嘉の屋敷跡は、いま御所南小学校となっている。

 梅田雲浜が安政の大獄で捕らえられ江戸の小倉藩邸に預けられた。

 第二次長州征伐では、老中の小笠原長行の指揮下で戦い、苦戦しながらも戦い、征長軍が解散した後も、戦い続けた。しかし戊辰戦争では官軍として従軍した。

アクセス 中京区柳馬場通竹屋町上ル 御所南小学校
大垣藩邸跡
美濃大垣藩戸田氏邸跡

 ペリー来航時、小原鉄心は藩兵を率いて浦賀奉行を助けて警備にあたった。禁門の変では伏見宝塔寺で長州兵と戦った。

 大政奉還後も佐幕の立場をとり、小原鉄心は朝廷との間を奔走した。鳥羽伏見の戦いで薩長軍に敗れ、藩論は勤王となり官軍の先鋒をつとめた。

 新選組の島田魁は大垣藩出身である。

アクセス 中京区富小路二条下ル東側 俵屋町付近
川越藩邸跡
 戊辰戦争の最中、慶応4年2月、藩主松平康英は老中を退き、恭順を表明し上洛をした。

 川越藩も東山道鎮撫総督軍に帰順し、金品を提供し、官軍の指揮下に入り従軍した。

アクセス 中京区柳馬場通二条下ル東側 中京税務署付近
大国隆正宅跡
 津和野藩士。天保12年、50歳で上京し、報本学舎をこの地で開いた。隆正は文化3年15歳で、平田篤胤の門に入って古道学を修め、ついで昌平黌において儒学を学び、詩を菊池五山に学んだ。文化7年、本居宣長の門人村田春門について音韻学の研究をした。文政元年長崎に遊学し西洋の理学を学んだ。明治4年没。80歳。

 父母の子を思う心と同じく、君は民を思うものが深いということが説かれ、まことを本とした国体観念を思想上につくり上げた。そして道義日本を盟主とする道義世界の建設を主眼とする思想を打ち建てた。八紘一宇の思想の根本となるようなものであった。征夷大将軍も万国の主も等しく天皇を尊み仰ぐべきであると説いたのである。

 これは隆正の門人玉松操(岩倉具視の腹心)、福羽美静らを通じて、明治維新の精神的指導に強い影響を与えた。

アクセス 中京区柳馬場二条上ル東側 富小路殿公園南側付近
高山彦九郎潜居の地
 寛政の三奇人の一人。上野国(群馬県)出身で、先祖が新田義貞の系統と知り、若い頃から熱烈な尊王論者となった。

 18歳で全国行脚をはじめ、京都へ登り、以降5回上京する。

 寛政2年11月晦日未明に堺町夷川下ルの白木屋孫兵衛こと、大村彦太郎方に着いた。しばらく同家に潜み、天皇に拝謁して感激したと「京都日記」に記されている。しかし、天皇への拝謁ではなく近衛公を天皇と思い違えていたようである。

 寛政5年6月、滞在先の久留米で自刃。47歳。

アクセス 中京区堺町通夷川下ル東側 
望楠軒(若林強斎塾跡)
 楠木正成公を崇拝し、その精神を高めて勤王論の首唱者となったのは、浅見絅斎であった。絅斎は山崎闇斎の門人で、楠公崇拝は、全く理想像としての信仰的なものであった。この絅斎の学説を継承して京都堺町二条に望楠軒を開き、子弟を養成したのが、弟子の若林強斎である。

 強斎は、近江出身。浅見絅斎の門に入り、師の没後、堺町二条に家塾を開く。楠公を仰ぎ望むという意味で「望楠軒」と名づけた。学風は大義名分を鼓吹し、尊王思想を普及させた。門人の小浜藩士山口春水、小野鶴山、西依成斎らが学統をついだ。

 享保17年5月27日、強斎没後、望楠書院として、山口春水が継ぎ、小野鶴山を経て、鶴山が小浜に招かれて後は、西依成斎が長く院主となった。成斎の同門に竹内式部がいる。

 彼の学説は弟子によって、小浜や薩摩、水戸に広がり、王政復古の原動力となった。望楠軒は禁門の変の兵火で焼失した。後に向い側へ再興された。

中京区堺町通り二条下ル杉屋町東側、ドンドン焼の後西側ヘ
目明し文吉宅跡
 目明し文吉は、洛北菩薩池(深泥ヶ池)村の百姓の倅で、生来のならず者であった。小才の利く点を買われて、目明しに取り立てられた。島田左近の手足となり、安政の大獄で暗躍した。志士を食い物にして、多くの金を貯めた文吉は、二条新地に妓楼を設け、人を使って金儲けをした。

 文久2年閏8月29日夜、武市半平太の寓居で文吉を斬りに行く相談をし、岡田以蔵、清岡治之助、阿部多司馬の3人で文吉宅へ乗り込んで捕え、武市の寓居まで連れてきて、斬首は刀の穢れになると縄で絞め殺された。翌日、三条大橋東詰北側の檀王法林寺前の加茂川原に、1人の男が丸裸の無様な姿で晒されていた。細引きで首を絞められ、両腕をその脇に上げてくぐられ、腹部は両脇の柱にくくりつけられていた。目明かしの文吉の末路である。

アクセス 中京区高倉通リ押小路上ル西側
三田大学邸跡
 三田大学は、越前三国出身。天保7年に塾を開き、鷹司家の儒官となった。中根雪江、橋本左内らと交わり、安政の大獄で捕えられ、江戸へ送られたが、京都へ戻った。明治2年、再び鷹司家に仕えた。明治になり教部省権大講義、北野神社梅風教会長を歴任。従六位。29年没、87歳。著書に「孝経傍訓」「笑草」「竹草」など。
アクセス 中京区御池通り堺町西入ル北側
頼山陽寓居跡
 広島出身。18歳の時江戸で学ぶ。21歳の時、脱藩の罪で自邸に幽閉される。この頃から徳川幕府のために皇室が衰退したと、尊王論に基づく史論「日本外史」22巻の著作をはじめた。

 その後上京し、新町丸太町借家に塾を開いて、自宅(この場所)でも塾を開き子弟の教育に力を注いだ。その後、東三本木の「山紫水明処」に移った。

アクセス 中京区車屋町通御池上ル西側
梅田雲浜邸跡
 梅田雲浜は若狭国小浜出身。天保14年より京に出て小浜藩の望楠軒で講義。三条東洞院上る中京郵便局の西側に住んでいた。西郷吉之助らと国事を論じ、志士の出入りが多かったが藩籍を削られ収入をなくし、高雄山や一乗寺村など転々とする。安政5年に逮捕され翌年獄中で病没する。当碑の邸にいた時期は不明。

 雲浜の捕縛は在京の志士に大なる衝撃を与えた。

 安政6年1月9日、江戸町奉行石谷因幡守役所に着き、小倉藩主小笠原右近将監忠素の邸に預けられた。

 8月13日頃から風邪をひき、脚気も出てきた。9月14日、朝卯下刻(7時頃)死んだ。遺骸は検視のうえ、15日夕方に浅草海禅寺中の泊船軒へ仮埋葬された。

アクセス 中京区烏丸通御池上ル東側 東側歩道に、西向きに「梅田雲浜邸跡址」と刻まれた石碑が立っている。
家里慎太郎宅跡と遭難の地
 伊勢松阪出身。儒者家里悠然の養子となり、斎藤拙堂らに儒学を学び、嘉永元年江戸へ出て尊王攘夷論を唱え、諸国の志士と交遊した。

 安政2年頃より京へ戻って、梁川星巌や頼三樹三郎らとともに奔走し、危うく安政の大獄に連座しそうになったが逃れた。

 その後も尊王攘夷運動を続けるが、和歌山藩に赴き志士の詮索を和らげるように献策したことが、同志に誤解されて、文久3年5月20日、自宅において刺客に襲われ殺害された。首は三条河原に晒された。

アクセス 中京区高倉通姉小路上ル
集書院跡

 集書院は、維新以後我が国で設けられた図書館の始まりであって、現在の府立図書館、総合資料館等はその後をつぐものである。

 集書院に集められた書物は、学習院および旧幕府に属していた本を元にして、その上に京都府が蒐集した古書類を加えこれらを保存利用するために、明治5年9月に設立された。

 集書院は利用者が少なく、毎月十数名の縦覧者という状態で、経営維持ができなくなり、明治15年3月をもって閉鎖された。後に岡崎に府立図書館が建設された。

アクセス 中京区三条通東洞院東入ル北側 中京郵便局