上賀茂・西賀茂

上賀茂神社
 文久3年の初め、京都の情勢は攘夷論の制するところであった。そしてその主導権をとっていたのは、長州藩主毛利慶親(敬親)であった。
 2月20日、在京していた毛利定広は、鷹司関白に建白書を奉った。いよいよ天皇御親征の時勢の到来である。従来たびたび攘夷祈願をされた伊勢、石清水等へは奉幣使を差出され、賀茂神社が近くにあるから、是非行幸のうえ社参されるように、あわせて泉涌寺へも参詣され攘夷祈願と報告をされるように、との意見書を呈出した。
 さらに2月28日に定広は、重臣浦靭負を学習院へ遣わし、石清水へ鳳輦を進められ摂海防禦の士気を鼓舞されたい旨の建議をさせた。
 3月7日、上洛していた将軍は参内して勅語を賜った。3月11日朝、鳳輦に乗られた孝明天皇は、巳刻(午前10時頃)清和院門を出御された。従う廷臣は関白鷹司、右大臣二条、内大臣徳大寺、左大臣近衛、その他公卿衆多数、将軍も馬で水戸、一橋その他大名とともに行列の前後に供奉した。時々雨が降るような天侯であったが、行列を見ようと近郷から集った人々の数は大変なものであったという。行列は無事、下賀茂・上賀茂両社への参詣祈願を終え、夜に至って御所へ帰った(午後10時頃)。守護職松平容保は、公武一体の基礎は定まった、という家老の報告を聞き感泣した。一方鳳輦の通過を拝する将軍の前を、関白以下の堂上方が挨拶もなく大手を振って通る体は大いに将軍の権威を失墜させたと見る向きもあった。勤王の志士らは、将軍が馬で供奉した姿を見て、君臣の分が立ったと喜び、鴨川原で行列を拝観していた高杉晋作は、目の前を通る将軍に、「征夷大将軍」とかけ声をかけた話は有名である。
アクセス 北区上賀茂本山町
小谷墓地(太田垣蓮月墓)
          
 大田垣蓮月は寛政3年(1791)1月8月の生まれで、名を誠(のぶ)といい、幼い時に父母に死なれ、知恩院の寺侍大田垣伴左衛門の養女として成長した。歌道を千種有功に学び、また武技(薙刀)も能くした。結婚したが、夫と子供に死別し、また養父にも死なれたため、世を儚んで出家した。33歳の時であった。法名を蓮月といい、粟田天王神社の近くに住み、風流に日を暮らし、陶器をひねり、歌を刻み、粟田の宝山窯などで焼かせた。居所は転々としたが、晩年は西賀茂の神光院の境内に住んだ。
 明治8年12月10日、運月尼は85歳で亡くなった。辞世の歌は、「塵ばかり心にかかる雲もなし 今日を限りの夕暮の空」

 蓮月尼の墓は、神光院のさらに西の西賀茂、西方寺の山手小谷墓地にある。碑名「大田垣蓮月墓」は富岡鉄斎が題した。

アクセス 北区西賀茂鎮守奄町、西方寺西の小谷墓地内
神光院(太田垣蓮月隠棲の茶室)
          
蓮月尼隠栖の茶所は、同院門内左手にあり、ここで歌を作り、陶器を焼いて余生を楽しんだ。蓮月尼の著作には「海人の刈藻」「道月全集」などがある。勤王歌人としても名高く、多くの志士とも交際があった。一面才色兼備でありながら、人嫌いな面もあり、「居留守の蓮月」などとも呼ばれた。
茶所横には、「月尼碑」富岡鉄斎撰文の碑が建っている。
アクセス 北区西賀茂神光院町120
霊源寺(岩倉具視歯牙塚)
          
清凉山と号し、臨済宗に属する。
 寛永13年(1636)後水尾上皇が、仏頂国師を開山に請じ創建した寺で、当初、霊源庵と呼ばれていた。寛文11年(1671)には、御所の清涼殿の用材を賜り、仏殿が建立されたといわれている。その後も霊元上皇の勅願所となるなど、朝廷の厚い帰依を受けた。
 仏殿には、本尊釈迦如来像及び後水尾上皇、開山像などを安置している。

 仏頂国師が岩倉家の出身であったことから、文久2年(1862)岩倉具視が、当寺で出家隠棲した。境内には、具視の歯牙塚(しがつか)が残っている。また墓域には岩倉家の墓もある。

アクセス 北区西賀茂北今原町41