岩  倉

三縁寺(池田屋事変殉難烈士墳墓)
 浄土宗法輪山三縁寺といい本尊は阿弥陀如来。元治元年6月5日三条小橋西入るの旅館池田屋で志士たちが会合を開いていたところへ新選組が踏み込み乱闘が始まった。近藤勇の書によると打ち留め七名、手疵負いたる者四名、召し取り二十三名とある。翌朝、付近で死んでいた2名と合わせ9名の遺体を四斗樽に詰め三条縄手の三縁寺に担ぎ込んだ。寺では池田屋の女中に遺体を確認させ懇ろに葬ったという。三条縄手通り沿いには、西願寺・三縁寺・養福寺・高樹院という寺が並んでいたが、昭和54年京阪電鉄の三条ターミナル開発に伴って三縁寺は現在地に移転された。池田屋事件関係の各墓碑はほぼ元のまま配列されていて荘厳な感じである。正面に宮部鼎蔵と松田重助の碑、左側に大高又次郎の碑と、吉田稔麿・杉山松介・北副佶摩・望月亀彌太・石川潤次郎・廣岡浪秀の碑、右側には改葬の際に発見された宮部と松田の墓碑が据えられている。また正面、宮部と松田の碑の前にある線香立て用石皿には小川テイの名が刻まれている。

 山門がある。お詣りには左の小口からは入り、階段を上がりひとこと声をかけた方がよい。右手の階段を上がり奥へ抜けてゆくと墓地があり、石の鳥居が目印ですぐにわかる。見晴らしの良い場所である。
宮部鼎蔵

 文政3(1820)年4月、益城郡田代村(現上益城郡御船町上野)に宮部春吾の長男として生まれる。
 1851年、家老に従って上京し、吉田松陰らと交流する。山鹿流の軍学を修め、30才で肥後藩の軍学師範となる。その後、林桜園に師事し、国学古典を研究を深め、尊皇攘夷の信念を持つようになる。黒船来航時に再び出国し、吉田松陰の密航について幕府から尋問を受ける。1855年、実弟と弟子達が乱闘事件を起こし、責任を取って辞職し、七滝村に隠居する。
 文久3(1861)年、全国諸藩から選抜された3000人による勤王党親兵が組織されるや、総督「三条公」の下で「総監」に任じられます。その後肥後の尊王運動の興起に努める。8月18日の政変では、七卿とともに長州に逃れる。
 元治元年(1864)6月5日、同士20数人と京都三条の池田屋で会談中、会津藩や新撰組に襲われて奮戦するも力及ばず自刃して果てる。享年45歳

大高又次郎

文政4年(1821)12月生。播州林田藩大高六八郎義郷の二男。幼少より武芸を志、甲州流兵法および西洋砲術を習い、革具足製作に精通していた。彼は勤王の志篤く、安政の初め、姫路の人河合惣兵衛と交わり、姫路呉服町に住み、甲冑製造にあたったが、安政5年、脱藩して京都ヘ上がり、梅田源次郎、頼三樹三郎らと交わって、尊王攘夷を論じた。又次郎は小泉仁左衛門と出口薫次郎が開き、梅田雲浜が塾頭をしていた三条東洞院梅忠町の塾に寓居した。

 安政5年9月7日夜、雲浜は幕吏に捕えられた。江戸に護送された梅田雲浜の脱還を計ろうとしたが、雲浜が獄中で病死したのを知って再び京都へ戻った。河原町御池の長州藩邸内西側の長屋に居住した。吉田稔麿、吉岡庄助、宮部鼎蔵、松田重助、平野国臣らと交わって、もっぱら同志の武具を製作していた。後、同志古高俊太郎が、西木屋町四条上ル所に住み、薪炭商を装い密かに勤王のために策謀しつつあるのを知り、宮部の勧めによって古高の宅内別棟に移り住んだ。そしてそこに国許から家族を呼び一家をなし、同志らの武具、兵器の製作をしていた。池田屋事変で闘死。享年42歳。

吉田稔麿

 1841年(天保12年)閏1月24日、長州藩下級武士(足軽)の吉田清内の嫡子として萩に生まれる。吉田姓は自称(正式な姓となったのは文久年間)。幼名は栄太郎。吉田松陰に入門し10ヶ月間、松陰に就学した。真摯な態度で学問を求める姿勢は松蔭を喜ばせ、深く愛されたという。
 稔麿は松陰が東送された後、脱藩して江戸へ行き、旗本妻木田宮氏の家士となり、獄中の松陰の様子と幕府の動静をうかがっていた。このことにより彼は以降、長州志士の間で幕府通と重宝がられる存在となる。しかし、この時は思ったような成果は無く、その後江戸を離れた。
 久坂玄瑞(実甫)、高杉晋作(暢夫)、吉田稔麿(無逸)の三人を『松蔭門下の三秀』、入江九一を加えて『松門四天王』と呼ぶ。安政4年8月、江戸御番手御供少使として、稔麿は江戸行きを命じられる。この際に松陰は江戸にいる桂小五郎に対し、稔麿を紹介する手紙を書き、よろしく指導してやってくれと頼んでいる。松陰は稔麿に江戸からの情報を送ってくることを期待していた。稔麿は将軍継嗣問題などの情報を松陰に送る一方、斎藤弥九郎について剣を学び、安政5年11月帰国した。
 松陰処刑後、稔麿は同門の久坂玄瑞らとともに攘夷活動に奔走する。文久3年、幕府は朝廷の圧力に屈する形で、攘夷期限を5月10日と定めた。これにより帰国した久坂玄瑞は下関で光明寺党を結成し、これに稔麿も加わった。
 文久3年5月11日未明、関門海峡を通航する外国艦を砲撃した長州藩では、6月高杉によって奇兵隊が結成される。稔麿も京都から帰り、これに参加。さらに7月5日にはそれまで足軽だった稔麿を士籍に加えるという沙汰が藩から出る。
 元冶元年6月5日、京の三条小橋の旅篭、池田屋で志士達が集まり会合を行うこととなっていた。彼は、本来集まるべく予定されていたわけではなかったが、たまたま江戸から使いに出てきて、この会合を知り出かけたのだった。池田屋で志士達との会合中、突然に新撰組に襲撃され、稔麿は応戦し、肩先に一太刀浴びた。彼は、事態を同志に知らせるべく、その場を脱出し、河原町の長州藩邸に飛びこんだ。この時、稔麿は、危機を脱出して安全な藩邸に戻って来たのだから、そのまま潜伏していればよいものを、手に槍を取り、周囲が止めるのも聞かず、修羅場と化した池田屋に舞い戻って行ったのである。そして、加賀藩邸の前で多くの敵に出くわし、24年の短い生涯を閉じた。

アクセス 左京区岩倉花園町606。花園町バス停から西へまっすぐ行くと突き当たりにある。
岩倉具視公旧蹟九兵衛宅址
 九兵衛は岩倉具視(1825〜83)の乳父。文久2(1862)年,具視が勅勘を蒙り岩倉村に蟄居していた折に,よく九兵衛宅を訪ねたという。この石標は九兵衛の邸宅跡を示すものである。

 岩倉村に浪士たちが現れるようになったため隣村のこの乳母の夫宅に身を隠すこともあった。

アクセス 花園町バス停を降りて北の方に入る道を四・五分上がった左側の家の前に碑がある。
岩倉具視幽棲旧宅・岩倉具視遺髪墓

 岩倉具視が5年間過ごした幽棲地。門の前には「史蹟岩倉具視幽棲旧宅」の碑が立っている
 岩倉具視は180石の下級公家堀川家の第二子として生まれ、14歳で150石の岩倉家の養子になる。和宮の降嫁を推進した岩倉は佐幕派の姦物と見られ辞官落飾し岩倉村に住む。将軍家茂の死を聞くと朝政改革の絶好の機会と判断、岩倉は雄藩を協力者とし朝政改革・王政復古を目指すようになる。孝明天皇が崩御し情勢は急変すると翌年には岩倉らも追放解除された。彼は雄藩連合体制であたろうと策し、大久保利通らとはかり、四侯会議を開催した。しかし会議は決裂、これを機会に薩摩藩は武力倒幕を決意。薩摩と岩倉ら王政復古派は、玉松操立案の図による錦旗を製作する。そして倒幕の密勅を策謀、慶喜が大政奉還をした同日、薩長両藩に対し密勅が下った。そしていよいよ王政復古のクーデターを決行し、ここにおいてこれまで暗躍した岩倉が表舞台にやっと登場、岩倉は天皇の御前に出て王政復古の断行を奏上、かくて岩倉が多年画策し、念願した「王政復古」が成就した。
 岩倉具視幽棲旧宅の北側半分は、京大工藤吉の持ち家を買い取ったものでそして南側の平屋を増築した。

 文庫等は旧宅保存会の手で建てられ、文庫は具視の号にちなんで対岳文庫と名づけられている。文庫には岩倉公に関する古文書類2000点を含む2500点くらいの資料が保存されており、その一部が常設展示されている。

岩倉具視遺髪墓

岩倉具視幽棲旧宅内にある。遺髪を埋葬した。隣には明治36年に亡くなった槙子の遺髪塚もある。

アクセス 左京区岩倉上蔵町100。資料館もある。実相院バス停よりすぐ。岩倉病院となりにある。
岩倉共同墓地(小野賀柔墓)
膳所藩士野口賀代の子で岩倉家に仕える。妹の槙子は岩倉具視の後妻となる。慶応4年1月に49歳で死去。
アクセス 左京区岩倉西河原町 地図に岩倉共同墓地は載っているので参照
岩倉具視公避匿所
 文久2(1862)年10月、岩倉具視は岩倉村に隠棲した。この間、公武合体派として和宮降嫁に周旋してきた岩倉は尊王攘夷派から命をねらわれ、花園村の九兵衛宅に身を寄せるなどして難を逃れていた。岩倉は、実相院の裏山であるこの地に難を逃れたことがあったといい、この石標はその地を示している。この後、文久3年8月18日の政変で尊王攘夷派が京都から追放され、岩倉の命をねらう動きはなくなっていく。
アクセス 左京区岩倉上蔵町 山中なのでこれから取材に行きます。実相院宮墓を越えたところ。
定信院(松浦亀太郎墓)
松浦亀太郎 天保8(1837)−文久2(1862)

長州出身。画家。雅号・松洞・聴鶴・韓峰。父は商人松浦正之助、次男。幼少のころ羽様西崖に画法を学び、のち小田海僊に師事した。
 安政3(1856)年吉田松陰の松下村塾に入った。上京した後江戸に行き、芳野金陵の塾で学んだ。
 文久2(1862)年久坂玄瑞ら同志とともに上京、藩老長井雅楽の開港論に反対して暗殺しようとしたが、果さなかった。しかし「一事寸功の見るべきものなく、いたずらに時の推移するを思い、何の面目か故郷の人に逢わん」と、粟田宮(青蓮院宮尊融法親王)の正義を慕って粟田山中で切腹した。年26。
アクセス 北区上賀茂本山2-22 最寄り駅は叡山電鉄・京都精華大学前
西林寺(楢崎将作墓)

西林寺は戦後、河原町からこの地に移った。本堂裏手の墓地内北側にある無縁墓石群の中に、楢崎将作の墓がある。

楢崎将作は青蓮院宮の侍医であったが、楢崎家は元長州藩士であったという。安政の大獄に連座し、投獄されたが後、釈放された。文久2(1862)年6月20日柳馬場三条下ルの自邸で病没。享年50歳。 龍馬の妻おりょうの父。

アクセス 国道367号線沿い 八瀬出張所を越えて登山口のバス停も越えて黒谷川の北側右手にある。左京区八瀬秋元町3