東 ・ 西 本 願 寺

東本願寺(宇和島藩本陣・福井藩本陣)
 文久3年1月5日、将軍の後見職一橋慶喜が入洛し、10日に参内した。これより先、京都守護職の大任を引受けた会津侯松平容保は前年12月24日に着京し、1月2日に初めて参内している。一橋慶喜は、東本願寺内庭を旅館とし、この年秋に上京した時も同所に宿泊した。なお、当寺の東方にある高倉学寮は、2月4日に入京した将軍後見職の越前侯松平慶永の旅館となった。この頃は朝廷が幕府を通じて強藩を京都に召し出されていたので、熊本、宇和島、徳島、岡山、鳥取、津和野、名古屋、米沢、松江、久保田などの藩主が京都ヘ集まり、寺々は大方これら藩主の宿舎として借りられた。また市内の借家も馳せ参じた志士や浪人、神官、国学者らが借りきって市中は大いに振わった。しかし一方では暗殺などが横行する物騒な世の中であった。

 2月7日、鷹司関白の使を受けて、攘夷の期限を定めて奏聞せよと命じられた慶喜は、松平容保、山内容堂とともに松平慶永の泊っている高倉学寮へ集まり、緊急会議を開き、その結果、近く上洛する将軍の帰東後にこれを決行する、と答えたが、次の日8日には、さらに関白から将軍の帰東の日が遅れればその日は定め難いから、何月何日に決行すると定めよ、と告げてきた。

 2月11日夕方には、三条実美ら8公卿が駕籠を連ねて、一橋慶喜の旅館へやってきた。これら廷臣は勅使として、一橋殿、春獄公、松平肥後守、山内容堂の待ち受けるところへ、即時攘夷期限を定めて上答あるべし、との叡慮を伝えたのである。かくして密議10数時間の後、ようやく将軍上洛後20日目をもって攘夷を断行すべしと奉答することにより、事がおさまった。以来、将軍上洛、賀茂、石清水への行幸攘夷の発令と政局の展開が見られるのである。この一転機となった会議の場所が東本願寺内であった。

 真宗大谷派本山で、本願寺と号し、六条堀川の本願寺(西)に対し、俗に東本願寺と呼ばれる。慶長7年(1602)2月に教如上人(西本願寺)が、徳川家康より東六条に四町四方の寺地の寄進を受けて創設した。

アクセス わかるでしょうから省略
枳穀邸(一橋慶喜宿舎)
 正式には「渉成園」といい、寛永18年に徳川家光が東本願寺13世宣如上人の隠居所として建設した。庭園は石川丈山の作で、高瀬川やお土居も取り込まれた。

 15代将軍徳川慶喜の宿舎になった。文久3年2月11日、8人の公卿が「攘夷期限を定めよ」と強談判に訪れている。

 現在はほとんど失われた。屋敷の周囲に植えられた枳殻(からたち)の木が屋敷の呼び名になっている。

アクセス 東本願寺の東側 下京区東玉水町
赤松小三郎遭難地跡
 慶応3年(1867)9月3日、信州上田藩の兵学家赤松小三郎は、東洞院五条下ルの路上で、自分の塾の塾頭である薩摩藩士中村半次郎と田代五郎左衛門に斬殺された。37歳であった。

 赤松小三郎は天保2年生れで、上田藩士で、赤松弘の養子となった。嘉永2年、江戸に出て蘭学を学び、佐久間象山、勝海舟に師事し、長崎に遊学して、蘭人から兵学、数学を学んだ。慶応2年2月には上京し、二条衣棚に兵学指南、天雲塾を開いて、兵学、自然科学を教授した。また薩藩邸に招かれて兵学を教えた。薩藩の門下生には中村半次郎、村田新八、篠原国幹、野津鎮雄、伊地知正治、樺山資紀、野津道貫、東郷平八郎らがいた。赤松の説くところは、門地に拘りなく英才を登用し、海陸軍の近代化を計り、富国を目指すことにあり、また幕薩は和すべしとし、公議政体論を称えた。11月に入ると、幕府は赤松を開成所教官兼海陸軍兵書取調役に起用しようとして、上田藩に申し入れたが、上田藩主は、赤松を藩の改革に必要な人物であるということで、これを断った。慶応3年に入ると、上田藩から赤松に帰国を促す命令が来た。5月に小三郎は、政事改革に関する意見書「御改正口上書」を越前藩主松平慶永の所へ呈出し、上下二院制の議政局設置を提唱した。また、永井尚志、西郷吉之助らと公武合体策について奔走した。国許からの帰藩命令で、ようやくその決心をした小三郎は、討幕派の人々から、佐幕派の彼が国許に帰り幕府側の重要な役につくとすると、これは恐るべき人物であり、また薩摩藩の兵学師範であった関係から、その軍事機密が幕府側に洩れてはならぬということで、ついにその暗殺が行われたという。赤松の墓は、黒谷金戒光明寺にある。

アクセス 地下鉄五条駅下車東側二筋目 下京区東洞院通五条下ル
松井中務遭難の地と寓居跡
松井中務(1809-63)

 西本願寺用人で、外国船の来航に備え、僧侶の武備を建議し、勤王を説き、蝦夷地における屯田兵設置を建言するなどしたが、文久3年に松平春嶽が本願寺境内を宿舎に使用することに賛成したため、開国論者と見なされ、8月12日に自宅で浪士4.5人に襲われた。首は三条大橋に晒された。

アクセス 下京区若宮通花屋町下ル だいたいこのあたりにあったであろうという推定しかできない。
中井正五郎殉難地−天満屋事件跡
 慶応3年12月7日、旅籠天満屋に滞在していた紀州藩の三浦休太郎を陸奥陽之助や岩村精一郎ら海援隊と陸援隊のメンバーが襲撃したのが天満屋事件である。
 海援隊の操縦していたいろは丸と紀州の明光丸が鞆の浦沖で衝突し、紀州藩が海援隊に八万両の賠償金を支払う事件があったが、海援隊はそのときの恨みから、三浦が画策し新選組が坂本龍馬と中岡慎太郎を暗殺したと考えた。そして新選組7名と酒宴中の三浦を16名で襲撃したのだが、場数を踏んでいる新選組はやはり強く多勢に無勢とはいかなかった。そのうち「三浦を討ち取った」という声が聞こえ撤退していった。新選組では宮川信吉が即死するなど満身創痍だった。志士側では十津川の中井庄五郎が即死した。また紀州藩の応援部隊と新選組も駆けつけるが堀川北小路の辻でお互い敵と間違え斬り合いをする事件もあった。現在天満屋跡地の前に延命地蔵尊の小祠がありその横に中井庄五郎殉難之碑が立つのみである。
 正面に「勤王之士贈従五位 中井正五郎殉難之地」側面に「維新史蹟 慶応三年十二月七日 天満屋騒動之跡」とある。
アクセス 下京区油小路通旧花屋町通下ル仏具屋町西側
西本願寺

 西本願寺は、七条堀川の北、西側に位置し、堀川通りに東面する地、後ろは大宮通り、北は花屋町通り、南は北小路通りの、東西330m、南北290mの地に建ち、正面を流れる堀川は暗渠化されたが、堀は東側に残されている。
 西本願寺の起りは、弘長2年(1262)に没した親鸞の遺骨を、娘覚信尼が、文永9年(1272)に東山大谷の地に改葬し、親鸞像を安置した御影堂(大谷廟堂)を建てたのがはじまりである。
 元治元年7月19日、長州兵は蛤御門の変で敗れて逃走したが、一隊のうち長州藩士山田顕義、品川弥二郎等数十名は西本願寺境内へ逃げ込んだ。彼らは最早これまでと、鴻の間の縁で割腹しようとしたが、門主広如上人に諭されて思い止まった。上人は彼らを僧の姿にさせて、間道から落ち延びさせた。
 新選組が元治2年3月より屯所を西本願寺内に移したさいに、主として使用されたのはこの北集会所と思われる。太鼓番屋の西側、現在の参拝会館のあたりにあり、西村兼文の『新撰組始末記』には広さ600畳余と書かれている。
 永倉新八の『新撰組顛末記』では、そこで翌日からさっそく準備にとりかかり、五百畳も敷ける学林を大工の手で区画した。本堂との境いに竹矢来をむすんで勝手との往来を仕切り、湯殿から牢屋のはてまでできあがってまったく整頓されるや近藤隊長以下伊東参謀などことごとくひきうつる。練兵場は門内の大広間で、永沼流の兵法をよくする武田観柳斎が指南役となり毎日調練がはじまる。会津藩からは大砲二門が交付されて漸次オランダ式の調練もはじまる。
 境内で銃砲の調練や、境内での隊士の処刑など行う新選組に寺側はほとほと困ったという。

 西本願寺第20世・広如上人の息女が姫路市亀山の本徳寺に嫁いだ縁により、明治になって北集会所は解体移転され、本徳寺の本堂となった。また本徳寺の大広間として使用されている120畳の建物は不動堂村の屯所を移したものだともいわれている。

アクセス これもわかるでしょう。
油小路事件の地
 慶応3年11月18日。伊東甲子太郎から活動資金として三百両の借用を依頼されていた近藤勇は、金をわたすという名目で伊東を近藤の休息所に招待する。高台寺党の篠原泰之進や服部武雄たちは危ないからと言って止めるが、一笑に付して伊東は出かけ、決して嫌いではない酒をごちそうになり、いささか酩酊して席を立った。木津屋橋通りを東に向かうと南側の火事の焼け跡にまばらにたった塀で、待ち受けていた大石鍬次郎、宮川信吉、横倉甚五郎等の襲撃を受けた。油小路を上がった右手の法華寺(本光寺)の門前にあった題目石にたどり着いた伊東は腰を下ろすと、大喝し絶命する。新選組はそれでは終わらず、伊東の遺体を七条の辻まで引きずっていき、月真院に使いを出し、伊東が襲われ七条の辻にいると告げさせる。高台寺党の7名が迎えにきたところをまたもや襲撃する。藤堂平助、毛内監物、服部武雄の3名が新たに犠牲となる。近藤勇は藤堂だけは助けたいと言っていたようだが、その藤堂が最初に斬りつけられたとの記録もあり、惨劇を物語っている。

七条油小路の現況
 七条通りは当時より北側に広くなって交通量が多く、新選組の待ち伏せで3人が死んだ場所と言っても雰囲気がつかみにくい。
本光寺(伊東甲子太郎外数名殉難之跡碑)
 伊東甲子太郎外数名殉難之跡碑  門前に上記の石碑が建つ。

 本光寺の題目石  門前にあった題目石の場所は当時から変わっていないが、当時奥にあった山門が道路際に移されたため、今は山門の内側にある。

本光寺付近(伊東甲子太郎襲撃の地・伊東甲子太郎絶命の地)

伊東甲子太郎襲撃の地

 大石鍬次郎たち4名が潜んで伊東甲子太郎を襲撃したと言われる場所だが今はみじんも感じることができない。

アクセス 下京区七条油小路。この交差点で事件が起きた。京都駅より塩小路通を西へ堀川通の一つ手前の油小路通を北上すると本光寺があり、その先に七条油小路がある。
近藤勇妾宅
 「新選組始末記」によれば近藤勇は七条通り醒ヶ井木津屋橋下ル所の興正寺下屋敷に妾を囲っていたとあるが、不動堂村屯所に隣接したあたりにあたるのではないだろうか。伊東甲子太郎暗殺の前に招き深酒させたのもここである。また慶応3年12月18日には伊東の敵を討とうとして阿部十郎達がここに踏み込んだが、あいにく不在だった。近藤はここに深雪大夫を囲っていた。彼女は島原の木津屋の大夫だったが、近藤に頼まれ大坂新町の妓楼織屋に住み替えし、やがて身受けされたとも言われているが、病死したため近藤は彼女の妹お孝を身請けしたという。しかしその後深雪大夫であったというひとが出てきており、それによると自分の病気中に妹といい仲になったため、近藤と別れたという。
 お孝にはお勇という娘ができ、明治期には馬関で芸者をして井上馨や伊藤博文等にひいきにされていたという。
アクセス 下京区油小路通塩小路上ル御方紺屋町 塩小路団地北側の木津屋橋通付近
新選組不動堂屯所跡碑
          
 慶応元年2月、新選組は壬生村から西本願寺に屯所を移した。しかし銃砲声を轟かせたり、調練を境内でしたりなど、あまりの迷惑さに西本願寺は一万両の立ち退き料を払い不動堂村に立派な屯所を建てた。新選組側としても屯所とした西本願寺の北集会所は狭くて渡りに船だったのだろう。慶応3年6月に移った新本営は諸士の部屋も多くあり、隊務を執る広間や、殊に近藤の居間や土方の居間など贅沢を尽くしていたという。しかし新選組がこの屯所を使用した期間は短く、半年後の12月12日には伏見奉行所跡に移った。
 場所は興正寺の所有地だったとも、また同寺の下屋敷だったとも言われているが醒ヶ井通りの東、木津屋橋通りの南で、戦前までは安寧尋常小学校がそのあたりで広い区画を取っていたということから、おそらく屯所跡が小学校になったのと考えてよいだろう。塩小路通りと堀川通りの拡張で小学校はさらに堀川通りの西に移転した。屯所の大広間は亀山本徳寺に移築されたという説もあったが最近の調査でそれは間違いだと実証されている。
 最近リーガロイヤルホテル北東角に「不動堂村屯所跡」の碑が建てられた。

アクセス 下京区油小路通塩小路下ル南不動堂町。屯所跡は現在堀川通上にあったと思われる。