橋  本

西遊寺(橋本砲台弾薬庫移築)
 行基上人ゆかりの橋本寺を起源とする浄土宗の寺院。天正年間に現在地に移転し創建した。

 久修園院にあった幕末の橋本砲台弾薬庫が移築されている。

アクセス 八幡市橋本中ノ町45 京阪橋本駅前
久修園院(幕府軍橋本本陣跡)

 慶応4年1月の鳥羽伏見の戦いで、旧幕府軍は淀城への入城を拒否され、八幡から橋本へと退いた。6日早朝から西軍の追撃に備えたが、見方である藤堂藩が寝返って、対岸の高浜砲台から橋本の旧幕府軍へ砲撃を始めた。また土佐藩が東の山から攻撃を始め、挟み撃ちにあった。

 やむなく旧幕府軍はここ橋本からも撤退することになる。久修園院と西遊寺に間ぐらいに宮津藩の橋本陣屋があった。

 京阪電鉄橋本駅のすぐ西側に、線路に沿うように宿跡がカギ状のかたちを今に残し、いくつかの道標、石柱が残っている。また東方一・五キロの山中には岩清水八幡宮があり、宿の入り口から登山道が延びる。

アクセス 大阪府枚方市樟葉中之坊2-46
橋本宿
 淀城下での戦いに敗れ大坂に向かう旧幕府軍は、次の宿場である橋本に会津藩・新選組・見廻組などが陣を構えた。佐々木只三郎率いる見廻組が橋本宿の東の路上に胸壁を築き、小浜藩の大砲数門を装備した。

 慶応4年1月6日、早朝より銃撃戦が始まり、木津川を船で渡ってきた薩摩藩兵に備えるため、新選組の土方歳三と原田左之助が率いる隊は薩摩藩上陸地点に向かい、永倉新八と斎藤一が率いる隊は八幡山中腹で戦ったが。山崎の高浜砲台を守る藤堂藩の寝返りのため、旧幕府軍は総崩れとなる。見廻組の佐々木は川向こうに渡って伏兵しょうとするが、かなわず薩摩藩兵と激戦となる。
 旧幕府軍は、弾丸も尽きはじめ、枚方から守口と敗走をして行く。
 「会津戊辰戦史」には、この日に新政府軍の兵が偽って新選組の中に居たのが発覚し斬られたとの話も残る。

 当時の雰囲気を十分に堪能できる細い街道と建物。
谷崎潤一郎の「蘆刈」に「こういうけしきは眼をおどろかしたり魂を奪ったりしない代りに人なつっこいほほえみをうかべて旅人を迎え入れようとする。」とある。

アクセス 京阪橋本駅下車。南に向かって歩くと昔の町並みがある。
戊辰役橋本砲台場跡碑
橋本砲台場跡

 慶応4年1月、鳥羽伏見の戦いの折に、小浜藩酒井家が砲台を守備していた。対岸の高浜砲台を守備する津藩藤堂家の寝返りのため砲撃にあい、旧幕府軍は混乱に陥る。しかし樟葉砲台も応戦し、砲撃は夕暮れまで続いたが、ついに旧幕府軍は支えきれずに大坂方面に敗走してゆく。

 楠葉砲台は、橋本砲台とも呼ばれる。元治元年に幕府により設置された台場。淀川対岸には対となる高浜砲台(大阪府三島郡島本町)がおかれている。国内に河川台場はほかに例をみない。大坂湾から京都へ侵入する外国船を想定して築かれ、高浜砲台と同じくカノン砲四門が設置されたと考えられている。管理は京都守護職・松平容保であった。

 現在は楠葉中之芝1-22に「戊辰役橋本砲臺場跡」碑、脇には説明板が立つ。近年まで久修園院の山門前にあったが移転した。明治43年の京阪電車敷設工事により、台場の土塁はすべて運び去られたが、久修園院と碑を結ぶ小道の屈曲した付近に数メートルの高低差があり、それが遺構である可能性も指摘されている。

アクセス 大阪府枚方市楠葉中之芝2
戊辰役戦没者供養墓
枚方市舟橋にある戊辰戦争戦没者を供養する墓石。ここは、かつて京街道が舟橋川を渡っていた場所で、幕末の頃には橋が架かっていた。鳥羽伏見の戦いの時に、このあたりで命を落とした兵士達8人の名が刻まれている。
アクセス 大阪府枚方市上島町 船橋川にかかる樟葉橋(府道京都守口線)の土手の南側を東の方角に進むとある。