祇 園 ・ 円 山 公 園

高山彦九郎像
 彦九郎は群馬県太田市生まれ。蒲生君平・林子平とともに寛政の三奇人と称されている。尊王思想を全国に広め、幕末の志士に多くの影響を与えた明治維新の先駆者である。膨大な旅日記を残し、交友範囲の広さや、情報の伝達・普及の一翼を担った旅の思想家でもあった。福岡県久留米で自刃。享年47歳。

 土下座している珍しい銅像である。彦九郎が初めて京都に来て御所を遙拝したときの姿である(19歳)。三条大橋東詰南側にある。

アクセス 京阪電鉄三条駅5番出口すぐ 川端三条の交差点南東角 すぐにわかります。
檀王法林寺(光惇・正惇墓)
 光惇(28歳)と正惇(34歳)は水戸東清寺の僧侶で、文久3年3月18日早朝、豊後屋旅館に宿泊中、突然やってきた古東領左衛門、能勢達太郎、北添佶摩、勝部静男、岡田以蔵らは、3人の僧侶を捕らえようとしたが、1人は逃げてが、光惇と正惇は捕らえた。三条大橋の河原で斬首した。斬首の理由は、主上調伏と義士の廃去を祈る祈祷をしたからと言われている。2人の遺体はこの墓地に埋葬された。
アクセス 京都市左京区川端三条上 川端三条の交差点北東角 京阪三条北ビル裏側
超勝寺(中西君尾墓)
 祇園・島村屋の芸妓で本名はきみ。父の死後、母とともに上京。文久元年、置屋・島村屋から君尾という名で芸妓に出た。高杉晋作、久坂玄瑞、桂小五郎、井上聞多、品川弥二郎、西郷隆盛などの贔屓をうけて、勤王芸者といわれた。とくに井上とは親交があつく、井上が俗論党の襲撃をうけた際に、君尾が贈った鏡を懐に入れていたために、とどめの刃を避けられたという。

 薩摩の桐野利秋が幕府方の浪士に追われ、某公卿邸に逃げ込んだとき、居合わせた君尾の機転で浪士を退散させたという逸話もある。戊辰戦争で歌われた「宮さん宮さんお馬の前のひらひらするのはなんじゃいな」という「とことんやれ節」は品川が作詞をして、君尾が作曲したともいわれている。品川との間には一子をもうけている。

 祇園一の美貌ときっぷのよさが評判となり、新選組の近藤勇も彼女を口説いたが、「天子様のために尽してくださるお方でなければいや」といってつっぱねた。75歳で死去。

アクセス 左京区新麩屋町通孫橋下る超勝寺門前町82 檀王法林寺東側
豊後屋跡

 文久3年8月24日早朝、平野国臣捕縛のため、土方歳三ら新選組隊士11名が豊後屋を急襲した。この時、隊士の中には抜き身で突入したこともあり、味方の刀で軽傷を負う者もいた。

 あいにく平野は逃走した後だったが、天誅組義士の古東領左衛門を捕らえることができた。懐中に連判帳を所持していたからだろうか。古東はその後六角獄舎に投獄され、禁門の変のどさくさに紛れて殺害された。

 この急襲に居合わせた長州藩士の品川弥二郎・時山直八らは御用改めを受けた。指揮官に問われた彼らは病気の時山の看病をしていると伝え、長州藩士を名乗った。 

アクセス 当時を忍ぶものはないが、豊後屋跡は現在の京阪電鉄三条駅付近の川端三条の交差点付近にあった。
小川亭跡

 小川亭は肥後藩出入商家で肴用達の店であったが、諸事情で旅館となった。女主人のリセと嫁のテイが切り盛りしていた。小川亭は八畳の離れ座敷があり、志士たちの密会の場所であった。宮部鼎蔵、平野国臣、轟武兵衛など諸藩の志士が出入りしていた。

 宮部の下僕が新選組に捕縛され、拷問の末、口を割らないので南禅寺山門に生き晒しされた。それをテイが助けたとか、池田屋事件の志士の遺体が近くの三縁寺に運ばれ、四斗樽に入れて置かれていた。6月の暑さで悪臭が出てひどい状態になったのを見かねて、リセとテイが三縁寺住職に頼み遺体を確認して埋葬した。

 さてこのエピソードであるが、真相はテイの口から後日語られた。「宮部の下僕は救出されることなく、(中略)多分獄死したのであろう」。「この方々の首は河原へ晒され、(中略)それより二十年の間は心ばかりの手向けの香華がせめてもの御回向であった。」とある。
このエピソードは作り話だった?

 大正9年に旅館業を廃業し、建物は第二次世界大戦の時、強制的に取り壊された。当時を偲ぶものはこの石碑ぐらい。

アクセス 東山区縄手通三条下ル西側新五軒町。京阪三条駅南側の京阪三条南ビルにある。

城安寺(伊東甲子太郎宿泊地)
 慶応3年3月20日、新選組を分離した伊東甲子太郎一派は城安寺に一泊し、翌日善立寺に移った。
 14日 三条別館周旋
 17日 三条日夜別舎を周旋すれどもならず。百計既になりて此一事を欠く
 18日 同断
 19日 周旋
 20日 三条城安寺に移る

 と伊東の手記にはあり、彼が分離後の宿舎の確保に予想外の苦労をした様子がうかがえる。伊東としては三条辺に屯所を置きたかったのであろうか。

アクセス 東山区東大路通三条西入一筋目下る、南西海子町424
満足稲荷神社(野呂久左衛門寓居跡)
 文久3年2月22日、法皇寺に集まった野呂久左衛門、三輪田綱一郎、長尾郁三郎ら十数名は、等持院の足利将軍の木像の首を斬って、幕府と将軍の不忠をなじろうと計画し、その夜に実行し、三条河原に木像の首を晒した。しかし仲間であった大庭恭平(会津藩の密偵)の密告で同志は捕らえられた。(足利木像梟首事件)

 満足稲荷は当時法皇寺の鎮守社で、社前に野呂久左衛門が住んでいた。

 現在法皇寺は南禅寺境内に移っているが、地名は残っている。

アクセス 左京区東門前町 東山仁王門バス停前
青蓮院(松浦亀太郎自刃の地・久邇宮朝彦親王)
 青蓮院は、粟田口三条坊町にある。天台宗の門跡寺院で、寺格は高く、元は寺領1330余石を有していた。「旧仮御所」として史蹟指定されている。

 明治26年9月、火災で本堂以下を焼失したが、境内にはなお多くの堂宇を存している。当院玄関から左手の奥にある質素な御殿は、幕末に二品尊融法親王(中川宮・九邇宮朝彦親王)が住まわれたところで、文久年間に「叢華殿」と命名された建物である。尊融法親王はここで、忍向、信海、梁川星巌、梅田雲浜、頼三樹三郎、小林良典、浮田一宸轤フ志士が宮家の家来山田勘解由や池内大学の尽力で参殿してくるのに、しばしばお会いになり、幕府の権力を弱め、かつ、朝威の恢復のために密議をされた。尊融法親王は、伏見宮邦家親王の第四王子として、文政7年1月28日誕生。母は鳥居小路信子である。富宮と称した。この方は、改名の多い方なので、列記してみる。

 文政7年誕生の時、富宮と称す。
 天保8年12月10日、親王となり、
成憲と名のる。
 9年閏4月20日(15歳)、落飾、
尊応法親王となる。
 嘉永2年3月22日、勅命により青蓮院門跡となる。23日、
尊融と改名さる。
 安政6年9月、相国寺内、桂芳軒に永蟄居。 この頃、
獅子王院宮と称す。
 文久2年4月(39歳)、御赦免青蓮院へ還住さる。
 3年1月28日、勅命により復飾(御還俗)。
 2月17日、
中川宮と称す。
 8月18日、深更参殿、政変決行す。  尊攘主義者から非難される。
 8月27日、元服の礼、弾正尹に任じ、御名を
朝彦と賜わる。 以後、尹宮とも申す。
 元治元年10月10日、
賀陽宮と改めらる。
 明治3年閏10月20日、
伏見宮に復帰。
 5年1月6日、宮号を称し、三品に叙す。
 8年5月20日、
久邇宮と称す。
 19年12月29日、大勲位に叙す。
 24年1月29日甍去。68歳。

 松浦亀太郎は、長州の画家。開港論者の家老長井雅楽を暗殺しようとして果たせず、青蓮院宮を慕い、粟田山中で切腹。文久2年4月13日 享年26歳。
アクセス 東山区粟田、神宮道三条下ル
知恩院(奥田万次郎・賀須屋貞蔵墓・パークス宿舎・薩摩藩本陣)
幕末には薩摩藩主島津忠義や尾張藩主徳川慶勝の宿舎になった。また慶応4年2月30日、御所へ赴く途中の縄手通りで、襲撃され、危うく助かった英国公使パークスも知恩院に宿泊していた。
知恩院東山手墓地頂上近くにある。 奥田万次郎は文久3年8月20日没。

賀須屋貞蔵は鳥取藩親兵の選定に漏れたのを嘆き、京に潜入し尊王攘夷に奔走したが、藩に監禁されかけ自刃。文久3年8月25日 23歳。

知恩院勢至堂(板倉槐堂墓)
 文政5年、近江(長浜市)の医師下坂篁斎の子として生まれる。京都の薬種商・武田家に養子に入り、尊王攘夷派の志士らと交わり、坂本龍馬、中岡慎太郎らとも親交があった。

 龍馬が近江屋で暗殺されたとき部屋にあった寒椿と白梅図の掛軸は、槐堂が龍馬の誕生祝いに自ら描いたものである。龍馬と慎太郎の血飛沫を浴びたこの掛け軸は、国の重要文化財に指定されている。

 槐堂が鳩居堂七代目を撮影した写真は、京都最古の写真として文化財に指定されている。

 維新後は大津県参謀、宮内中録など官職に就くが、新政府と意見が合わず辞任。その後は静かに暮らし明治12年、58歳で没。

知恩院一心院(森寺常徳墓)
 三条家諸太夫。三条実美に従い長州へ下り、戊辰戦争に従軍。のちに侍従をつとめる。
良正院(奥田万次郎自刃の地)
 知恩院の西側にある良正院では、鳥取藩士奥田万次郎が自刃した。

 文久3年5月、京都詰めとなり上京した奥田万次郎は、攘夷派の河田佐久馬ら22人と、8月17日、本圀寺で、藩重役黒部権之介ら3人を惨殺した。黒部が藩主池田慶勝が尊攘佐幕の争いに巻き込まれぬように補佐したためである。奥田らは自訴し、万次郎は目的を達したと、良正院竹の間で死んだ。享年34歳。墓は知恩院墓地にある。

アクセス 京都市左京区田中門前町103
円山公園(坂本龍馬像・中岡慎太郎像・中井弘銅像)
 初代の銅像は昭和9年に建立されたが、戦時中に供出され、昭和37年5月3日に再建された。揮毫は吉田茂。

 立ち姿が龍馬で、片膝を立てているのが慎太郎である。

 土佐を脱藩した二人は京都を活動拠点に東奔西走する中で、薩長同盟、大政奉還と新時代を切り開いていった。

 円山公園の奥まった所にある。公園中央にはしだれ桜があり、桜の季節には見事な花を咲かす。市民憩いの場所である。

アクセス 円山公園内
長楽寺(尊攘苑)
 805年(延暦24年)に桓武天皇の勅命によって最澄(伝教大使)を開基として創建された。

 墓域内には「尊攘苑」があり、水戸藩士や頼山陽らの墓がある。

頼山陽墓・頼三樹三郎墓
頼山陽

 江戸時代後期の儒学者。『日本外史』の著者。幕府に対して批判を含むこの私的な歴史書は、公に発行されるよう巧みな文章力で幕府批判と幕府賞賛を織り交ぜ、幕末の志士に広く読まれた、尊王攘夷運動の精神的支柱となった。この時期、『日本正記』の執筆に取り掛かるとともに、文政8年までの詩を自選して『山陽詩鈔』8巻を編んだが、公刊直前の天保3年9月23日に53歳で没した。 「東山」「京の四季」などの詩歌をつくり、東山をこよなく愛し、遺言により当寺に葬られた。

頼三樹三郎

 天保11年大阪に下って後藤松陰や篠崎小竹に学んだが、14年に来阪し羽倉簡堂に伴われて江戸に遊学、昌平黌に入った。朝廷を蔑視する幕政に反対し、上野寛永寺の徳川氏の石燈を倒し、退寮を命ぜられた。弘化3年蝦夷地に渡り、江差で松浦武四郎と一日百詩・百印の雅典を楽しんだ。嘉永2年京都に帰って家塾を守り、尊王の大義を唱えて幕政の非を鳴らした。父の旧友梁川星厳や梅田雲浜らと有志公家の間に往来し、しばしば意見を開陳した。同5年将軍継嗣問題には一橋派と組んで公家間に入説した。同年8月戌午の密勅が水戸藩に降下するとまもなく幕府は安政の弾圧を行い、11月これに連座して捕らえられて六角の獄に下り、翌6年正月江戸に檻送され、訊問の後、小塚原にて死罪に処せられた。35歳で没。

長楽寺(松平昭訓墓・原市之進墓・鵜飼吉左衛門墓・幸吉墓・大場一真斎墓・水戸藩兵留名之碑・尊攘碑)
松平昭訓

 水戸藩第9代の藩主斉昭の第14子。
 文久3年、兄の水戸藩主徳川慶篤に従って京都に上り、年少ながら慶篤をたすけて禁裏御守衛に努める。海防について尽力し、将来を大きく嘱望され、動乱の幕末期に尊王攘夷の聖地ともいうべき水戸の若殿は、在京の攘夷志士は勿論、禁裏の反幕派公卿たちからも強い期待をよせられていた。
 しかし、惜しくも文久3年11月23日病の為京都にて没。16歳。

原市之進

 水戸藩士。弘道館に学び、会沢正志斎について径史を修め、従兄藤田東湖にも師事した。嘉永5年12月江戸に出て翌6年昌平黌に入学した。同年露使節プチャーチン長崎来航の折、川路聖護が応接のため長崎出張を命ぜられると、藤田東湖の指示で従者とした随行した。
 安政2年10月弘道館舎長となり、弘道館訓導、小十人組、江戸奥右筆を歴任。万延元年2月、藩庁が戊午の密勅返納を決議すると、その不可なること十ヶ条を列挙して藩庁に建言した。
 文久2年一橋慶喜に随従して上京し、慶喜の宗家相続、ついで将軍職就任に奔走し、元冶元年4月一橋家に入り、慶応元年9月一橋家御側御用取扱を命ぜられ、翌2年慶喜公が宗家を継ぐと幕臣となり、目付に登用され、一転して兵庫開港を推進する立場を取った。慶応3年8月14日京都二条の官舎で幕臣鈴木豊次郎・依田雄太郎ら3人に暗殺された。明治34年贈従四位。38歳で没。

鵜飼吉左衛門

 文政7年7月隣姫付となり、歩行士列に班して取次役見習となる。天保元年小十人列、4年7月京都留守居役手添となり、14年3月馬廻役に進み、京都留守居役となる。安政3年8月勝手掛を兼ねた。在京中斉昭の内意を受け、公家の間に出入りして攘夷の議を唱え、また藩命により楠木氏の遺蹟をもとめて河内・和泉の諸寺を歴訪した。同5年正月老中堀田正睦入京して外国互市を開くべく朝裁を迫るや子幸吉と共に阻止に努め、将軍継嗣問題には一橋慶喜擁立に奔走した。同年8月8日武家伝奏より勅書を拝受したが病のため幸吉を代理として江戸邸に行かせた。同年9月18日になり、ついに吉左衛門父子は町奉行出頭を命ぜられ、また吉左衛門より日下部伊佐治・安島帯刀に送る密事が同月2日幕吏に押収されて禁固され、ついで江戸に送還され、翌6年3月五手掛の糾問を受け、8月27日死罪に処せられた。62歳で没。

鵜飼幸吉

 年少にして砲術師範福地政次郎について神発流砲術を学び、安政3年の両度武芸出精により賞せられた。同3年2月小十人組に列して京都留守居役手添となった。
 同4年京都留守居助役となり、父と共に在京した。有志と交わって攘夷の議に加わり、しばしば意見を公家の間に陳述した。同5年8月同藩への勅書が降下するや、姓名を小瀬伝左衛門と変え、父に代わってこれを江戸小石川邸に届けた。老中間部詮勝の京都に入るに及び、父と共に捕らえられ、江戸に送還されて高田藩邸に禁固となり、翌6年8月27日死罪梟首に処せられた。32歳で没。

大場一真斎

 天保2年家督を継ぎ、大番頭、若年寄を経て弘化元年大寄合頭に進んだ。内外多事に際して再び挙げられて執政となり、武田耕雲斎・岡田徳至らと並んで水戸の三隠大夫と呼ばれ、激派の間に隠然たる勢力があった。安政5年8月水戸藩に密勅が降下するや、やがて返納・不返納の両論に分かれたが、一真斎は終始返納不可の立場をとった。万延元年2月藩論はようやく返納に傾き、長岡屯集勢への討手派遣が決したが、これを長岡勢へ内通して解散させたが露顕して城中に留め置かれ、同月25日をもって勅書返納の大任を命ぜられた。しかし斎藤留次郎の自刃により返納は中止された。文久元年6月東禅寺事件が発生し、岡田・武田らと参政を免ぜられ、謹慎に処せられたが、同年執政に復し、3年春には藩主徳川慶篤に従って上京し、京都守衛に任じ、慶応3年12月12日前将軍慶喜の京を去るに際して二条城の留守を命ぜられ、明治元年正月藩政改革の勅命を辞して京都に留まり、余生を送った。69歳で没。

水戸藩兵留名之碑

 文久3年、水戸藩主慶篤率いる水戸の尊攘派烈士三百余人は上洛して京都の本國寺に駐屯し、皇室の守衛や一橋慶喜の攘夷運動の補佐などの任務にあたった。
 これらの水戸の烈士は本国寺党と呼ばれ、首領には大場一真斎があたった。
 明治元年、水戸藩の重責をはたし帰国するまでに死亡した86名に及ぶ殉難者氏名がこの碑文の裏面に刻まれ、明治維新の礎となった水戸藩烈士の功績がたたえられた。

尊攘碑

 水戸烈公斉昭の直筆で「尊攘」の文字を刻み、尊王攘夷実行の密勅を受け、江戸藩邸に届けた鵜飼吉左衛門と幸吉父子は、処刑された没後の文久2年10月にその罪が赦されたこと、また明治24年12月には従四位の官位が贈られたことを鵜飼家の子孫が父子をまつる墓碑のそばに表記しその功績をたたえて建立した。

アクセス 京都市東山区八坂鳥居前東入円山町626
八坂神社(祇園北林)
 八坂神社境内の北側にあった祇園北林で文久3年8月7日より7日間、京相撲・大坂相撲合同の相撲興行が行われた。二ヶ月前に大坂で力士と乱闘事件を起こした新選組が、大坂相撲と懇意になり、それまでもめていた京相撲と和解させ、その記念に仲直り興行が行なわれた。新選組は警備を担当した。

 近くにはいもぼうなどの料理屋や弓道場などがあり、今は市民の森として憩いの場所になっている。

アクセス 京阪電車 四条駅下車 河原町通りを東に進むと突き当たり
祇園会所跡

 元治元年6月5日池田屋事件当日、新選組は倒幕派取り締まりのためここに集結した。午後7時頃、近藤勇は10名を、土方歳三は22名を引き連れ、二手に分かれて祇園の御用改めを行い、やがて池田屋にたどり着く。

 祇園会所の西側に茶屋「竹屋」があり、山県有朋がよく出入りしていた。

 四条通拡張のため、南側の家屋や祇園会所が取り壊された。現在の八坂神社前ローソンの道路側にあったと思われる。

アクセス 京阪電車 四条駅下車 河原町通りを東に進むと突き当たり 祇園交差点南西角
一力亭
 仮名手本忠臣蔵の七段目「一力茶屋」では大星由良之助遊興の地として描かれている。

 文久3年禁門の変以降、幕府側の会合が頻繁に行われていた。10月10日、近藤勇は一力亭での会合で幕府と朝廷が協力して攘夷実行すべしと大演説を行った場所である。

 花見小路の四条通沿いにあり、夕暮れ時には舞妓さんや芸妓さんに会える数少ない京都らしさに触れることが出来る場所。

 写真は花見小路の河原町通り側。

アクセス 東山区祇園町南側・四条通花見小路角
巽橋・祇園
祇園の風景の映像や写真は、この巽橋付近が多い。

 京都らしさ、祇園の花街らしさが残る場所である。史蹟調査の折には是非訪ねて欲しい場所である。

アクセス 京阪電鉄 四条駅より東へ 縄手通り(大和大路通り)を北へ進むと白川南通がある。そこを右に曲がると巽橋に着く。
パークス襲撃地
 慶応4年2月30日、英国公使パークスの行列は、宿舎の知恩院を出て御所に向かった。中井弘の先導で、肥後藩兵に護られた一行が、新橋通りから縄手通りへさしかかると、先頭をゆく英国騎兵の隊列へ二人の武士が突然襲いかかった。朱雀操と三枝蓊である。朱雀は中井に討たれたが、三枝は捕らえられ梟首にされた。

 パークスは無事であったが、宿舎へ引き返した。

アクセス 古門前通と新門前通りの中間ぐらいの縄手通りの沿い
魚品楼跡(高杉晋作寓居跡)
 晋作の女性交友関係は多彩で、祇園の井筒屋の芸妓小梨花と馴染であった。縄手の魚品楼は長州出入りの店であり、晋作もよく出入りしていた。文久2〜3年にかけて1番よく上京し、頻繁な時期である。

 ある時、芸妓小梨花と一緒に歩いていた。1本歯の高下駄に無反の長刀を帯び、絵日傘をさしている姿は実に珍妙であった。周りを気にせず、無頓着な、桁はずれた大物を感じさせるエピソードがある。文久3年3月26日に帰国する。慶応3年4月14日、下関にて没。年29歳。

 魚品楼は維新後、外観、建物も改築された。が、高杉晋作の部屋として、「大まさ」という屋号で料理屋を営んでいたがこわされてしまった。

アクセス 東山区縄手通リ白川南通上ル東側