藤  森

新選組宿陣の九条河原−武田観柳斎殺害地 新選組出陣

○武田観柳斎殺害事件

 新選組五番組組長で文学師範を勤めた長沼流軍学者の武田観柳斎が銭取橋(現勧進橋)付近で何者かに殺害された。新選組始末記には慶応2年9月28日斎藤一と篠原泰之進に銭取橋で殺害とあるが、慶応3年6月22日が有力である。慶応2年に武田は新選組を離脱した。西洋軍学に変わっていく新選組の中で自分の居場所がなくなる危惧を感じたのだろうか。その後伊東甲子太郎や薩摩藩などと頻繁に接触していくが、人物が小さかったのか人望がなかったのか相手にされなかった。
 勧進橋東側堤下に九条河原があり、ここに土方歳三ら新選組が宿陣した場所である。

○九条河原

 文久3年の八・一八の政変、元治元年の池田屋事件が引き金となり、大挙して長州軍が上京してきた。新選組は会津藩とともに6月24日九条河原に出動した。九条河原は竹田街道勧進橋東側にあった。ここに新選組は20日以上宿陣したが、7月18日、長州軍は進発し、翌日伏見街道において戦闘が始まった。

 銭取橋は、現在、勧進橋という名称に変わっている。現在の国道24号線を京都市内から南下すると鴨川を渡る。その橋が勧進橋である。

アクセス 地下鉄十条駅下車。東へ約200m。国道24号線竹田街道久世橋通交差点南の勧進橋のところ。
伏見稲荷神社(五卿参拝)
 お稲荷さんの愛称でもっとも京都人に馴染み深いお神社のひとつ。商売繁盛・五穀豊穣・開運の守護神として古くから庶民の信仰を集め、全国約4万近くある稲荷神社の総本社。
 大鳥居を抜けると絢爛とそそり立つ桜門、そして檜皮葺きの本殿、権殿など重厚な社殿が並んでいる。稲荷山山腹には千本鳥居と呼ばれる鳥居のトンネルがあり、目にも鮮やかな朱色の鳥居は道なりに延々と続き、驚くばかりに華やか。ここを抜けて、小祠や塚を巡拝する「お山めぐり」は約4kmの道のり、その辻々には昔ながらの茶店があって、参拝者の休憩所となっている。

 8.18の政変で追放された七卿のうち五卿は入京を許され、ここに立ち寄り衣服をあらため参拝し、御所に向かった。

アクセス 伏見区深草薮之内町68
浄蓮華院(飯田忠彦隠棲地)
 飯田忠彦といえば、291巻の野史を完成させた人物である。水戸の「大日本史」は吉野朝までで、室町時代以後の記述はない。頼山陽の「日本外史」は豊臣秀吉時代で終っている。近世史を知るには、当時わずかに京都の史家安田照矩の「十三朝紀聞」(慶弘紀聞)が、洛陽の紙価を高めていた。その時に貧乏な一学者が、狂人のごとく孤独に耐え、夜を日に継いで「大日本史」以降の本朝の歴史を大規模に編纂し、苦心38年の結果、本紀列伝あわせて291巻の野史を完成した。
 これが徳山出身の飯田忠彦という学者であり、彼が晩年安政の大獄にかかり、許されて後隠栖した場所がこの地である。

 飯田忠彦は、周防徳山の藩士。寛政11(1799)年生まれ。幼い頃から歴史に興味をもち、14歳で松尾家の養子となる。18〜22歳まで江戸詰。24歳の時、河内八尾の郷士飯田忠通の女婿となり、勉学に励む。天保5年、有栖川家に仕えた。天保14年9月から病気体暇の形で江戸へ出て、野史の著述に励み、寛永寺の勧学林に入って同所所蔵の木活字を使い、32巻を刷る。嘉永元年京都に帰り、同5年、野史を書き終えた。
 ペリー来航に続く安政の騒乱期に攘夷策を建言し、有栖川宮を反幕鎖国主義に導き奉った、との嫌疑と、梅田雲浜ら志士と交際があり、安政5年12月6日に逮捕され、同25日江戸に送られたが、翌年1月7日京へ戻され、禁錮100日に処せられた。彼の東送に際しては、熾仁親王が、御殿の屋根に上られて目送されたという。忠彦も後にこれを聞いて非常に感激した。安政7年1月再勤を許され、宮家の御計らいで2月22日に深草大亀谷谷口の天台宗寺院、浄蓮華院に移った。
 寺中の長屋6畳一間で著述に耽り、また同院亮厳僧正を戒師に剃髪し、黙叟と号した。隠栖三ヶ月足らずで桜田事変の探索が彼の身辺に追り、万延元年(3月改元)5月14日、伏見奉行所に召喚された。奉行所の待遇は丁寧であったが、事件に心打たれたのか、同22日夕方、脇差で咽喉を突いて翌日死去した。63。

アクセス 伏見区深草谷ロ町浄蓮華院内。京阪電車藤森駅下車、東へ十二帝陵を経て15分
藤森神社

 京阪電鉄墨染駅から東へ行くと藤森神社がある。

 神功皇后の創建とされ、「武神」として新興を集める神社である。

境内に「旗塚」があり、腰痛が治ると言われており、近藤勇が何度も詣でて腰痛を治したというエピソードがある。

 この藤森神社近辺で近藤勇は御陵衛士の残党に狙撃される。二条城から伏見奉行所への移動中の出来事である。

アクセス 伏見区深草鳥居崎町609
悟真寺(東軍戦死者埋骨地・戊辰之役東軍戦死者之碑・東軍戦死者埋骨所)
悟真寺

 門の左手に「東軍戦死者埋骨所」の石碑が建っている。門をくぐって本堂前庭の左手に「戊辰之役東軍戦死者之碑」がある。これは榎本武揚の書で明治40年建立。本堂裏手に東軍戦死者埋骨地が二箇所ある。本堂左手墓地入口を進むと突き当たりに一ヶ所目がある。

東軍戦死者碑

榎本武揚の書で明治40年に建てられた。南面に戦死者埋骨地二所一在本寺地域北西一東北とある。

 左側が「会津臣柴宮八三郎行孝」で享年43歳。中央の「東軍戦死者埋骨地」は大正4年建立で会津藩士9名と兵士53名のために建てられた。右側「清浄院殿光雲居士之墓」は会津藩士稲生新助で享年47歳。

もうひとつの墓碑は本堂裏手で、先の東軍戦死者埋骨地から右手にある。三基並んだ墓碑の左から「清浩院勇譽徹心居士之墓」は阿波藩剣道指南番由清八で享年51歳。隣は「戊辰役東軍戦死者埋骨地」の墓碑。「章行院釈種忠覚之墓」は会津藩士佐々木悦太郎で享年33歳。背中合わせにもう一基、「安達市太郎 河村鋼之進墓」という連名の墓石がある。慶応4年正月4日戦死と浜田藩の文字が側面にある。

アクセス 京都市伏見区榎町713。最寄り駅は近鉄京都線伏見駅より南へ約400m。

近藤勇狙撃の地
   新選組から御陵衛士が分裂し、伊東甲子太郎が油小路で襲撃され、遺体を引き取りに行った藤堂平助らが戦死した油小路事件。生き残った御陵衛士たちは新選組復讐の機会をねらっていた。近藤勇が二条城から伏見奉行所に帰る途中の墨染の藤森神社で待ち伏せをした。近藤勇は右肩を狙撃された。

 慶応3年12月18日、墨染辺りの民家に潜んでいた阿部十郎が近藤を狙撃した。

アクセス 伏見区〈伏見街道〉丹波橋筋付近 どこで狙撃されたかは不明。ただし伏見街道上であったであろう。
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