大  徳  寺

春日潜庵邸跡
 春日潜庵 文化8(1811)年〜明治11(1878)年 代々京都春日坊(衣笠町)に住み、久我家の諸大夫を勤めた。潜庵も父の後をつぎ、内大臣建明および建通に仕えて従五位下讃岐守となった。潜庵は学を好み、特に陽明学の泰斗として一世を風靡した。
 幕末、嘉永・安政の頃、議奏の首座にあった主家久我建通を補佐して、勤王に尽力し、三条実万に信任され、また孝明天皇も、彼の人となりを愛され、密勅を賜わった。潜庵の住居は洛西衣笠町にあり、その茶室は吟風弄月軒と称し、志士達の会議所の観があった。安政の大獄にあたり、12月14日西町奉行に召喚され、六角の獄に入れられ、翌6年10月7日永押込に処せられた。元の吟風弄月軒に戻るのは許されず、紫野雲林院村の別邸で、文久2年8月2日赦されるまで過ごした。後、本邸に戻り、西郷・大久保・木戸らとしばしば会合し、討幕を計った。今はその邸跡も市街拡張によって判らなくなっている。潜庵は維新後、奈良県知事となる。明治11年2月没。67歳。
アクセス 北区北大路紫野大徳寺前東雲林院町南側 現在場所は特定できない
大徳寺(近衛忠X墓)
近衛 忠煕(このえただひろ)

 文化5(1808)年−明治31 幕末の公卿。公武合体派として活動した。翠山と号す。 薩摩藩と関係が深く、忠熙の正室島津興子は薩摩藩主島津斉興の養女である。また、島津斉彬の養女天璋院は、忠煕の養女となった後、将軍徳川家定に嫁した。子に近衛忠房がいる。
 安政4年(1857年)、左大臣となるが、徳川氏後継者争いで一橋派に属したため、安政の大獄により失脚し、落飾謹慎する。
 文久2年(1862年)に復帰して関白内覧を務めるが、翌年尊王攘夷派の台頭により関白を辞した。明治31年歿。享年91。

アクセス 北区紫野大徳寺町53
大徳寺三玄院(久我建通墓)
 久我通明の養子となり、久我家を継ぐ。1854年議奏となる。孝明天皇の信任厚く、枢機に参画、権関白と呼ばれた。老中堀田正睦が上京して条約勅許運動を開始、久我建通はつねに条約勅許反対を唱え、勅答の処理や幕府使節の応接にあたった。そして幕府に協力した九条尚忠を三条実万らが排斥弾劾をはじめるとそれに同調、さらに水戸賜勅問題にも関与して安政の大獄の対象となり、1859年謹慎を命じられた。和宮降嫁問題になると岩倉具視とともに朝幕間の主張の調整につとめ、和宮不承諾の代案としての万寿宮の降嫁なども献策している。これにより幕府から賄賂をとって味方していると流説が横行し、1862年に内大臣となるが尊攘過激派から四奸の一人として脅迫をうけ、8月には外交問題で九条尚忠して幕府に同調したとして弾劾されて辞官・落飾を余儀なくされた。1867年3月には入京を許され、12月には官位が復帰したが、表にまだでれずに裏で岩倉具視一派に組して中川宮らの放逐に尽力、下鴨神社や上賀茂神社、松尾大社の宮司を歴任したり、宸翰御用掛や英 照皇太后葬祭斎主などを務めて、1887年に従一位となる。1903年9月28日に東京牛込で89歳で死去する。
アクセス 北区紫野大徳寺町53