醍  醐

下村家住宅(太田垣蓮月仮寓跡碑)
 大田垣蓮月は寛政3年(1791)1月8月の生まれで、名を誠(のぶ)といい、幼い時に父母に死なれ、知恩院の寺侍大田垣伴左衛門の養女として成長した。歌道を千種有功に学び、また武技(薙刀)も能くした。結婚したが、夫と子供に死別し、また養父にも死なれたため、世を儚んで出家した。33歳の時であった。法名を蓮月といい、粟田天王神社の近くに住み、風流に日を暮らし、陶器をひねり、歌を刻み、粟田の宝山窯などで焼かせた。居所は転々としたが、晩年は西賀茂の神光院の境内に住んだ。

 ここ醍醐寺の南にも一時期住んでいた。下村家住宅の北側の旧奈良街道沿いに石碑が建っている。

アクセス 伏見区醍醐落保町 醍醐三宝寺の南側 醍醐小学校の東南
醍醐寺三宝院(金剛隊士隠居地)
 元治元年(1864)7月26日、長州人詮索中、新選組によって、金剛隊の6人の僧侶が捕えられ、六角獄に投獄された。
 7月19日、金剛隊は来島又兵衛の率いる遊撃軍に付属して、蛤御門に突入した。
 しかし戦いは長州藩の敗北。戦火のため鷹司邸から発した火は東側に燃え移り、これより先、長州藩邸などの出火による三所からの火はみるみるうちに燃え広がり、京の街は火炎地獄と化していった。折からこの大火を避けるため、寺宝、文書類その他必需品等々をとりまとめ、避難準備で大騒動であった七条堀川の興正寺の門前に6人の僧侶が立った。正しくは5人の僧侶と1人の従者である。いずれも墨染の衣の下に鎖帷子という姿であった。これが金剛隊の6人である。
 興正寺はその来意をたずねると、「しばらくの間当山において休息をお許し頂きたいと思います。我々は金剛隊中の者であるとお伝え下されば、御法主には御存知のことと思います」と言った内容のことを伝えた。
 法主は、早速彼らを書院に通して休息させるように命じ、しばらくして法主自らも6人に会い、それぞれ挨拶を交わし、彼らが蛤御門の戦いに参加したいきさつなどを聞いた後、粥などを与えて休息させ、一夜をここに宿泊させた。
 翌日、6人は真言僧に姿を変えて、法主の伝手を頼って醍醐寺三宝院へと落ちて行った。
 ところがこのことが、早くも新選組の耳に入り、法主の身が危うくなった。輿正寺では、仝力を尽くして新選組対策を考え、八方手をつくして幸いにも事なきを得た。
アクセス 伏見区醍醐東大路町22