仏光寺・地下鉄四条

因幡薬師
 因幡薬師は真言宗平等寺のこと。文久3年9月1日から境内で虎などの見せ物が始まった。虎は獣を人間がかぶった偽物だという噂が広がり、芹沢鴨が真偽を確かめようと隊士と共に出かけ、虎の檻の前で刀を抜いたら吠えられたという話が「新選組異聞・子母沢寛」に紹介されている。芹沢鴨という男の逸話はたくさん紹介されている。ある種本能のまま生きたのではないかという生き様は男としてのあこがれであるかもしれない。

 平等寺は真言宗智山派。福聚山と号し本尊は薬師如来。因幡堂縁起によると1000年前に建立されている。

アクセス 京都市下京区烏丸通松原上ル因幡堂町。地下鉄四条駅下車、南へ高辻通を西へ、すぐの交差点を南に行くと因幡薬師がある。

西村敬蔵開業の所
 西村敬蔵は但馬八鹿の郷士。京に出て池田草庵に学び、富小路に住み、蘭法医として開業する。コレラの治療法を発見し有名になる。田中河内介の義兄で、梅田雲浜や頼三樹三郎らと交わり、是枝柳右衛門などを家に匿ったりもした。幕末期に勤王活動を支援したが、幕吏の探索もすり抜け、維新後は子弟の教育に当たった。
アクセス 中京区東洞院綾小路下ル
松本謙三郎邸跡
 松本奎堂(謙三郎) 刈谷藩士。天保2年12月7日、刈谷城三の丸に生れた。11歳で尾張藩儒奥田桐園に入門、軍学師範の父を助けて若い頃から門弟を教えた。18歳の時槍術の稽古で左眼を失明した。嘉永5年、昌平學に学んだ。翌年江戸藩邸の教授および侍講となるが、老臣を弾劾したため禁固に処せられた。安政2年、許されて再び昌平學に学んだ。同6年尾張に戻り、名古屋城下石町に塾を開き諸生を教授する。

 文久元年、大坂において昌平學の同学の士、松林廉之助、岡千仞と双松岡学舎を開く。同2年、京都に移り、東洞院仏光寺西南角に住いし、藤本鉄石、吉村寅太郎、宍戸弥四郎ら志士と交わる。同年4月、島津久光上京の機に倒幕の策を計ったが、寺田屋事変のため失敗し、淡路へ逃れた。3年8月、大和行幸の詔勅が出たので、藤本、吉村とともに天誅組をつくり、総裁となった。天誅組を組織するにあたっては、かねてから蝋燭売りや、銭縄売りに身を変えて、たびたび五条辺へ入り込んでいた松本の献策が大いに入れられたという。もともと左眼を失明していた奎堂は、十津川の戦いの間に右眼も失明して全盲になってしまった。駕籠に乗せられて驚家口付近の山中に至ったところ紀伊勢の銃声に驚いた駕籠かきたちは、萩原の上、御殿越えの峠の地蔵堂付近の山中に、奎堂の乗った駕籠を放り投げて逃げてしまった。彼らはそれから紀伊藩兵につかまり、そのために奎堂の在所もわかり、駕籠目がけて撃たれた弾丸のために奎堂は戦死した。文久3年9月25日であった。奎堂の懐中から出た、君がため身まかりきと世の人に語りつぎてよ峰の松風 謙三郎 という辞世の句でその身許が知れた。享年33歳。

アクセス 下京区東洞院通リ仏光寺西南角、高橋町
八幡屋卯兵衛遭難の地
 八幡屋卯兵衛は仏光寺高倉の商人で、幕府の許可を受け外国と交易していた。文久3年7月23日、三条制札場に卯兵衛の首が晒された。日用品の買い占めで物価が高騰し庶民を苦しめているという罪状で天誅を加えたと記されていた。
アクセス 下京区仏光寺通高倉西入ル
浄教寺(宇和島藩本陣)

 浄教寺はここは多聞山灯籠堂という浄土宗の寺で、平重盛が建立した東山灯籠堂をついだ寺といわれ、平家ゆかりの寺である。
 伊予宇和島(愛媛県宇和島市)藩10万石、8代藩主伊達宗城は英朔な大名であった。富国強兵策に藩政の重点を置き、殖産興業にも力を入れ、藩内の物産を盛んにし、蝋の専売制をしいた。また他藩の高野長英や大村益次郎を呼んで西洋兵学を研究し、藩兵の洋式訓練を行った。一方、高野長英設計の砲台を築き、軍艦建造、ゲペール銃の製作なども行った。
 伊達侯の言動に対し「朝命を違背し有志の列侯を離間し天下大乱の基を開く所業」であり、許し難しとして、「改心謝罪申きず候はば、旅宿に打入り攘夷の血祭に致すべきもの也」という浪士による貼り紙が寺の門に貼られ、家臣が浪士の襲来に備えるという騒動があった。
 宇和島侯は小胆な所があり、浪士の襲撃を恐れて隣の大雲院に身をかくし、島津淡路守(忠寛、佐土原藩主)を訪れて援兵の派遣を申し入れた。淡路守は心中笑いながらもそれを引受けた。
 寺町通りがにわかに騒騒しくなった。宇和島侯は浪士が押し寄せたかと皆の者に用意せよと下知し、両刀を腰に後ろ鉢巻物々しく、待てども浪士1人の押し寄せる気配もない。
 そのうちに警鐘が激しくなり、表通りはますます騒がしいので、近習の者が寺町通りへ出てみると、間近の四条寺町御旅町の妙見の祠からの出火騒ぎであった。物見に出た近習の侍の報告にようやく侯も安堵したという。侯の臆病さが京童の評判になったという。

 慶応2年4月にこの浄教寺を宿所としていた白井某という藩士が不審な「壬生浪人」が入り込んできているのを見る。白井は別の寺へ引き移るが、その後、寺には仲間の浪士が踏み込み、和尚の首を取るとの騒ぎで眠れぬ夜を過ごしたとある。不審な壬生浪人たちは翌日には立ち去ったが、浄教寺の和尚の命を狙うどのような理由があったのだろうか。

アクセス 四条河原町南西の高島屋の西隣 下京区寺町通り四条下ル東側
村井修理捕縛の地
 村井修理少進政礼は天保6(1835)年尾張生まれ。蔵人所衆であったが、国漢に通じ、兵法に達していた。尊攘志士たちと交わり、長州藩長井雅楽の航海遠略策に反対した。和宮降嫁のことにも反対し、岩倉具視らを排斥した。武市半平太のために奔走したり、薩長連合にも尽力した。文久2年に戸田忠至の下で諸陵調方を命じられた。

 文久3年9月に逮捕された。六角獄の獄中で禁門の変で起こった火災の時、どさくさまぎれに囚人を処刑したところを見て、憤りを記録に残した。この時は助かったが、慶応3年12月12日に処刑された。33歳。

アクセス 下京区高辻通河原町東入ル北側
大丸呉服店跡
 文久3年4月、大坂の豪商鴻池善右衛門方に強引に談じ込んで借りた200両をせしめた新選組。

 浅葱色に白く山形を袖口に染め抜いた麻羽織。これが、「ダンダラ羽織」と通称されて、新選組の隊服といわれているものである。そのダンダラ羽織を100人分こしらえたのが、ここである。

 禁門の変による大火で、大丸は上之店(西陣今出川通浄福寺東入ル)を除き、総本店や松原店などの各店、本宅、別家などすべてを焼失したのであった。その後、松原店は建て直され、慶応3年10、のちに陸援隊に密偵として潜入し捕縛される村山謙吉が、押し借り犯と間違われ、この松原店で新選組に誤認逮捕されて事件もあった。

アクセス 下京区松原通御幸町東北角、石不動之町
善立寺(伊東甲子太郎宿泊地)
 善立寺は戦時中の強制疎開で現在地に移転したが、幕末時には五条橋東2丁目南側、現在の五条通り中央のグリーンベルト付近にあり、梅田雲浜が寄宿していたこともある。
 新選組より分離独立をはたした伊東甲子太郎らは、慶応3年3月21日から6月初旬まで高台寺塔頭月真院に移る。
 のち泉涌寺塔頭戒光寺の湛然和尚の肝煎により、善立寺を宿舎とする。新井忠雄はその間、5月11日には太宰府を訪れ、東久世通禧、三条西季知などに面会し、京坂の情勢を知らせている。
東山区松原通大和大路東入、轆轤町119-2
宇郷玄蕃天誅地跡
 文久2年閏8月23日、鴨河原の宮川町の下手、松原通りから50m上手に、一間余りの槍の穂先につき刺された首が、宇郷玄蕃の首であった。

 宇郷玄蕃は、文政6年12月16日京都の生まれ。九条家の諸大夫であった。天保2年12月諸大夫に取り立てられ、島田左近と親しかった。安政の大獄に諸方に斡旋し、和宮降嫁に奔走したために尊攘派の志士に憎まれた。また親幕派の九条関白尚忠公の代りに、島田左近とともに尊攘の志士達に狙われた。先に島田左近が殺害されたので、九条家は大いに警戒につとめ、宇郷玄蕃も異常な恐怖におそわれ、主家から一歩も外に出なかった。そして島田が殺されてから2か月後、ずっと九条家と宇郷の家を監視していた刺客たちは、九条家砂川下屋敷内にある宇郷の家へ、魚屋が岡持ちをもって入るのに目をつけ、彼が帰っていると判断し、早速踏み込んだ。妻子と団らん中の宇郷の首を斬り落とし、なげしの槍に首をさして刺客たちは引きあげた。閏8月22日であった。40歳。刺客は肥後藩の堤松右衛門その他といわれ、土佐の岡田以蔵、岡本八之助、村田忠三郎の3名であるともいわれる。

アクセス 下京区加茂川原松原半丁上ル
建仁寺(西村敬蔵墓)
西村敬蔵

 寺田屋事変、天誅組義挙、生野義挙、禁門の変などに参加した志士を援助した。明治16年宮内省御用掛を命ぜられる。明治24年79歳で没。

アクセス 東山区大和大路通四条下る4丁目小松町584