檮原町

檮原町宮野々番所跡
  
 宮野々番所は伊予と土佐の県境韮ヶ峠の土佐側にある最後の番所。ここから伊予を経て、長州、九州、京都に通ずる。
 坂本龍馬、澤村惣之丞は文久2年(1862)3月24日高知を出奔し25日に梼原に到着。その夜は那須俊平・信吾父子の家に泊まり、翌26日未明、俊平、信吾の道案内によりこの関を抜けて韮ヶ峠を越えて伊予の国に脱藩した。

碑文の裏には、坂本龍馬、吉村虎太郎、那須俊平、千屋菊次郎、松山深蔵、上岡胆治、田所壮輔、沢村惣之丞、中平龍之助、尾崎幸之進、安藤真之助、千屋金策ら12名の名が刻んである。

アクセス 国道197号線を日吉から高研トンネルを抜け、梼原町に入り、国道と分かれて檮原中学校前を通り、大越峠の維新トンネルを通り、県道2号線と合流したらすぐにある。番所の跡は右手旧道にあるので、見逃さないように。県境の韮ヶ峠までは歩道は15kmほどで車道は30kmほどです。車で1時間ほどかかる。 檮原町宮野々282
維新トンネル
国道197号線を経由して檮原町内から宮野々関を行くより、この維新トンネルを通ったほうが近道。

アクセス 国道197号線を日吉から高研トンネルを抜け、梼原町に入り、国道と分かれて檮原中学校前を通り、大越峠に維新トンネルがある

梼原町歴史民族資料館
昭和52年建設。檮原近郊出身の志士の資料が多数展示してある。「ゆすはらの文化財」という冊子は史蹟調査の必需品
アクセス 檮原町檮原1653
維新の門
  
   
 幕末の風雲急を告げる文久2年(1862)春、坂本龍馬は、勤王郷梼原から那須俊平・信吾父子の案内で盟友澤村惣之丞とともに、回天の偉業を夢見て脱藩した。この地からも吉村虎太郎、前田繁馬、中平龍之助が国境を越え維新の動乱の渦中に身を投じた。また、これらの志士を身を賭して支える掛橋和泉があった。
 それから年を経ること6年、明治維新は成り、近代国家が誕生するが、そのとき既に八人の志士は壮絶な死を遂げていた。
 いま山中に残る脱藩の道を行くとき、新しい時代の到来を信じ、大きな夢を抱いて峻険を掛け抜けた男たちの決意が偲ばれる。
 ここに志士の足跡が残る地を選び、八志士の群像を建て「維新の門」と名づけ、その功績と英姿を永遠に伝える。近代日本の黎明は、この梼原の地より輝いた。
 その郷土を誇りとする青年たちの情熱と維新の里の発展を希求する町内外の多くの有志の熱い想いが、この群像を建立した。

アクセス 檮原町川西路2352番地1 梼原町川西路構造改善センター
維新の門−掛橋和泉
掛橋和泉(1835-1862)

 天保6年3月高岡郡梼原村に那須常吉の子として生まれる。その後同郷の神職・掛橋因幡の養子となり掛橋和泉となる。
 文久2年(1862)同志が脱藩した時、生活が裕福であった和泉は同志に家財を費やし援助するが、義母にばれてしまい玉川壮吉へ相談。玉川から脱藩をすすめられたが、類が及ぶ事を考え先祖の墓地にて自決。自害したのは同志に累が及ぶのを恐れたため。享年27歳。

 
維新の門−前田繁馬
前田繁馬 (1838-1863)

 土佐の志士。名は正種、高岡郡檮原村松原(高知県)の庄屋。はじめ土佐藩士下元善平についで書を学び、のち前田恒五郎に従って浅山流の武技を修め、また公文藤蔵についで長沼流の兵学を究めた。安政6年(1859)過失によって庄屋の職を追われていたので、文久3年(1863)2月、親戚の前田要蔵が藩務で京都守衛のため上京するとき、奴僕となって京都に出て、宿願の尊攘の士と交わった。天誅組挙兵後、9月7日彦根藩兵が大和下市に駐屯するところを同志とともに襲い、兵糧その他を奪って翌日駄馬11頭に積んて本営に帰陣、その任務を立派に果した。 北山郷から伯母ケ峯を越えて川上村にでて、武木の大西のうちで休み鷲家口の鷲家に出た。ここで紀州、藤堂、彦根の大軍と戦い囲みを破り、関為之助とともに初瀬町に出た。26日のことである。繁馬が、ここの樫木屋で休んで朝食をとっていると、津藩士の町井八郎が部下十余人を引き連れてやってきた。そうして戸の外から小銃を乱射した。繁馬は大刀を振りかざして敵の中におどり出たが、もはや身に数弾をうけて万事休すである。享年29歳。関為之助もまた同所で恨を呑んだ。

 
維新の門−那須信吾
那須信吾 (1827-1863)

 土佐藩家老深尾和泉守重良の家臣浜田宅左衛門の三男として生まれ、田中光顕の叔父にあたる。名は重民。はじめ医術を学び剃髪と号したが、身長6尺て膂力剣術にすぐれ、その健脚は馬より速いといわれた。それを同国高岡郡檮原村で槍指南をしている郷士那須俊平に認められ、長女為代の婿養子となる。以後、医術の修業をやめて信吾と改名し、高知に出て武市瑞山と交わり、土佐勤主党に加わった。武市の指令により信吾は安岡嘉助、大石団蔵と組んで藩の参政吉田東洋を暗殺、ただちに脱藩して長州に走った。文久2年(1862)4月のことである。翌文久3年8月、中山忠光を擁する天誅組の結成に参加、十津川を敗走後も常に忠光を護り、鷲家口で血路を開くために決死隊を組織して彦根藩と激戦し、部将大館孫左衛門を斃したが、銃弾にあたって戦死した。墓は鷲家口明治谷にある。享年37歳。

 
維新の門−吉村虎太郎
         
吉村虎太郎 (1837-1863)

 土佐高岡郡津野山郷北川村に生まれる。家は代々庄屋、父太兵衛の嫡男で、名は重郷、通称虎(虎)太郎といった。12歳で庄屋を継ぎ、各地の庄屋を歴任して農村復興の指導にあたったので藩の文部下役に任ぜられた。その間同藩の間崎哲馬に漢学を学び、武市瑞山の道場に通いやがて土佐勤王党の血盟に加わる。
 文久2年(1862)に武市の命令で西国を探索し、平野国臣に会って生野挙兵の計画をきいたので急ぎ帰国したが、土佐藩は当時公武合体派が主導権を握っていたため、この年脱藩して長州に走った。そこで久坂玄瑞や有馬新七らと討幕の先駆になろうとするのだが、薩摩の島津久光の命によって計画は挫折(寺田屋の変)、虎太郎も連座して土佐藩に引き渡され、土佐の牢獄で9ヶ月の幽囚の日を送ることになった。同じく文久2年の12月牢を解かれたが、翌3年には再び脱藩して上京、中山忠光のもとに出入りし、長州の尊王攘夷派と盛んに交接した。
 文久3年8月、攘夷祈願のため大和行幸の詔勅が発布されると、好機として松本奎堂、藤本鉄石、安積五郎ら同志とともに忠光を擁して挙兵、天誅組を結成した。虎太郎は松本、藤本とならんで総裁の地位にあり、実戦上の指導者となった。天誅組本隊は河内で水郡善之祐ら河内勢と合流し、千早峠を越えて大和五條の代官所を攻め、代官の首級をあげて、農民のための新政を布告した。だが8・18の政変で天誅組は孤立し、しかも虎太郎が別働隊を率いて御所に進軍している間に、忠光らが無謀な高取城攻撃を行って惨敗し、天誅組は決定的な打撃をうけた。虎太郎は劣性挽回のため高取城の夜襲を試みたが銃弾をうけて負傷し、五條から天ノ川辻に退却し、ここで河内勢とともに紀伊・伊勢・彦根・郡山の藩兵と激戦、最後に鷲家口に逃れたところを藤堂藩兵に討たれた。その最後のことばは「残念」てあったと伝えられる。享年27歳。

維新の門−中平龍之助
中平龍之助(1842-64)

天保13年(1842)4月3日、梼原村地下浪人中平佐平(定好)、妻登根の長男として生まれる。那須俊平に剣を学び、同志と気脈を通じ、勤王の志を篤くする。文久3年(1863)11月6日、田所壮輔、尾崎幸之進、安藤(東)真之助らと脱藩、長州忠勇隊に入り禁門の変に参戦した。激闘の末重傷を負い元治元年(1864)7月19日鷹司邸内で自決した。23歳

 
維新の門−坂本龍馬
坂本龍馬(1835-1867)

 高知の郷士坂本八平、妻幸の二男として生まれる。江戸は、千葉定吉の門に入り北辰一刀流を納めた。武市瑞山と交わり勤王党に血盟加入、文久2年(1862)春同志沢村惣之丞と脱藩、勝海舟らに啓発される。薩長同盟の締結、大政奉還の推進など、維新の指導者として活躍したが、慶応3年(1867)11月15日、盟友中岡慎太郎とともに、京都近江屋で倒れた。33歳

 
維新の門−沢村惣之丞
沢村惣之丞(1843-1868)

 高知潮江村地下浪人の家に生まれる。文久2年春坂本龍馬とともに脱藩、勝海舟の神戸海軍塾に学び、亀山社中に加わって、坂本龍馬の片腕となって活躍した。慶応4年1月、幕府軍の敗退を知って長崎奉行は退散した。その奉公所を占領して市中の治安維持に当っているとき薩摩藩士を誤殺、「この大事のときに薩摩と土佐の間に溝を生じてはならない」と、従容として自決した。

維新の門−那須俊平
那須俊平(1807-1864)

 文化4年(1807)1月2日、坂本代吾(重隆)の子として梼原村に生まれ、同村郷士那須忠篤の養子となった。武芸を好み、那須道場を開き指導した。特に槍術に長じ、「土佐一槍の達人」と称された。

 元治元年(1864)6月6日、玉川壮吉と脱藩、忠勇隊に入った同年7月、禁門の変に参加し、。奮戦の末同月19日、鷹司邸後門で戦死した。58歳

  
中平善之進墓
中平善之進(1709-1757)

東津野村北川庄屋上岡吉左衛門次正の長男として生まれ、元文3年(1738)檮原村大庄屋中平弥左衛門の養子になりその職を嗣いだ。

 土佐藩は宝暦2年(1752)に専売制を強化し、各種国産物に問屋を指定し生産者農民から強制的に買い上げさせたが、不当に安値だったので農民の厳しい抵抗が起こった。宝暦5年(1775)の津野山騒動である。

 庄屋であった善之丞はその責を全て負い藩にその不正をうったえた。藩は善之丞と問屋商人・蔵屋利左衛門とを対決させた。強く利左衛門の不正を指摘して問屋制の矛盾に迫ったが、藩は両人とも死罪にした。その後各地で専売制への批判が起こり、ついに宝暦13年(1763)に,専売制全般を一時撤去した。

アクセス 檮原町川西路2304番地
旧掛橋和泉邸・吉村虎太郎住地庄屋旧址
  
代々神職をつとめた掛橋和泉邸は平成10年に檮原1537番地からここに移築された。幕末の建築で、かや屋根で、間取りは神殿前客間十畳、玄関の間六畳、中の間、奥の間が各八畳、茶の間は十畳ある六部屋から成なり、奥の間は天井が低く、危難の際を考慮して階上の「姫隠しの間」がある。

 なおこの敷地には吉村虎太郎など、代々の庄屋邸跡地であり、旧檮原村役場庁舎もあった。

アクセス 檮原町檮原1492番地2
那須俊平・信吾邸跡・那須道場跡
  
 脱藩の道沿いに那須俊平・信吾父子の道場の跡と一族の墓がある。道場跡へは脱藩の道から更にけもの道を下らなければならない。車の場合は国道から細い路を入れば行けるが、少しややこしい。屋敷跡には何もなく荒れた土地に石碑と説明の立て札があるだけ。石碑に添うように木が立っており、写真撮影は少し難しい。
アクセス 檮原町檮原1600番地 国道179号線 檮原に向かって右側に写真左の看板が一瞬見える
那須父子墓・那須信吾妻墓
  
那須父子の墓
那須信吾は、剣技、体格も優れた素晴らしい青年であった。那須俊平に請われて娘と結婚して那須家に養子に入ったが、国事へ奔走し、参政吉田東洋を斬殺して脱藩した。俊平は義息の脱藩を嘆いたが、いつしか自分も感化されて、50歳を越えて脱藩して長州藩の忠勇隊に入隊し、蛤御門の変で戦死した。

那須信吾妻の墓
両名の墓は、脱藩の道の少し上にある。向かい側には一族の墓がある。道の下側に「那須信吾妻の墓」がある。夫と父を国のためとはいえ亡くした彼女はどのような心境だったのか。

アクセス 檮原町檮原1577番地 1603番地 
前田繁馬住居跡・前田繁馬鎮魂碑
  
前田繁馬の住居跡がある。その裏山には鎮魂碑も建てられている。
アクセス 檮原町太郎川3382-3 檮原に向かって国道179号線の右側に写真右の看板が見える。カーブの先なので見えにくいかもしれない
六義士墓・忠魂碑
  
昭和10年に檮原町が建立した。吉村虎太郎、那須信吾、那須俊平、前田繁馬、中平龍之助、掛橋和泉の墓と忠魂碑がある。
アクセス 檮原町檮原1561
維新の道碑
          
アクセス 太郎川公園にある。道の駅檮原の反対側にある。
中平善之進処刑場
 中平善之進は百姓一揆の指導者として、一身に責を負い打ち首の刑に処せられた場所は、風早峠といわれている。

 宝暦7年(1757)7月26日、午の刻(午前11時〜11時40分)であった。

林道開設に伴い、この場所に平成4年「義人中平善之進処刑の地」の記念碑が建てられた。

アクセス 檮原町太郎川3693番地
取材予定地
勤王志士脱藩遺蹟九十九曲峠、韮が峠
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