高知市内C

板垣退助邸跡

 大正13年に建設同志会が建てています。
 山内家がその釣御殿を退助の東征の功(戊辰戦争)を讃えて与えたといわれている。

 自由民権期の彼の本邸として使われ、自由民権家が多数訪れた。

アクセス 高知市萩町2 高知港東洋電化工場の脇
佐々木高行誕生碑・佐々木高行先生誕生之地
          
佐々木高行 (1830-1910)

高知生まれ。高知藩士、宮内官僚。高知藩の郡奉行や大目付をつとめ、藩政に関わる。坂本竜馬らと交わり、大政奉還の実現に尽力。戊辰戦争では海援隊を率いて長崎奉行所を占拠。維新後、新政府に入り、参議、司法大輔などを歴任。明治4年(1871)岩倉遣外使節団に参加。征韓論争後も政府にとどまり、西南戦争では高知の士族反乱を抑える。14年(1881)参議兼工部卿に就任。明治天皇の信厚く、宮中と深い関係を持つ。宮中顧問官、枢密顧問官を歴任。明宮(大正天皇)の教育にもたずさわった。

アクセス 高知市横浜東町 県道34号線で桂浜方面へ 横浜のバス停から二つ目の交差点を左折すると写真左の木碑が見える。ここを入ると誕生地に行けるが、車ではこの道は入れない。迷ったら地元の方に聞くと良い
島浪間墓
 土佐藩士。遠祖の縁により長宗我部四郎ともいい、脱藩後島浪間と称した。文久3(1863)年藩命で上京して三条実美の衛士となった。8月天誅組の挙兵に参加し、上田宗児と五条代官鈴木源内を斬ったが敗れ、同志と中山忠光を擁して三田尻に逃れ、忠勇隊に入った。元治元(1864)年7月禁門の変に忠勇隊に属して戦ったが敗れ、三田尻に帰った。ついで同志を募るために井原応輔・千屋金策らと大坂に至り、諸藩への遊説を計画して山陰道に入り、伯耆に滞留したが、再び京に上らんとし、美作国土居の関門で土人に賊徒と誤認されて追求をうけ、井原と刺し違えて死んだ。享年23歳。
アクセス 高知市長浜 雪渓寺付近 県道34号線と278号線の交わる交差点を雪渓寺方面に進むと左手にある
鶴田塾跡
鶴田塾は、吉田東洋が江戸で山内家の親戚旗本松下某を殴り、蟄居を命ぜられていた時に開いた塾で、塾生には後藤象二郎、福岡孝弟、岩崎弥太郎らがいた。
アクセス 雪蹊寺から350mほど東にいった左側にある。スーパーの前
坂本龍馬銅像・坂本龍馬顕彰碑・桂浜
          
アクセス 桂浜1928年建立。これは何も書かなくてもいいでしょう。
坂本龍馬記念館
2001年オープン。
高知市浦戸城山830
稲田貫之丞墓
          
稲田貫之丞

土佐郷士。足軽。高知城下南新町住。六番隊。慶応4年(明治元・1868)年2月15日の堺事件の責を負い、2月23日堺妙国寺で切腹。享年28歳。時ありて咲き散るとても何かせん何か惜しまん日本魂

アクセス 高知市種崎 浦戸大橋を渡り、すぐの信号の左手に墓が無数ある。その中にある
中城家
          
 中城家は藩の御船手方をつとめていた。
 1867年9月、龍馬は芸州藩の震天丸に乗りライフル銃1,000挺を積み、土佐湾に入り、種崎に上陸し、この中城家に潜伏した。龍馬が、潜伏地をこの中城家としたのは、継母伊与の里、川島家のすぐそばであり、少年時代から中城家の人々とは面識があったから、とされる。
 中城家に伝わる話では、火鉢を差し出すと龍馬は「誠にはからずともお世話様になります」と言ったとか、風呂から出て裏の部屋で休憩し、襖張りを見たりしていたという。
アクセス 高知市種崎 種崎郵便局近く 県道278号線沿い
川島家
 龍馬12歳の時、実母、幸は死亡した。継母となる伊与は、九反田の実家から代々、御船倉の御用商人だったこの川島家に嫁ぎ、息子ももうけたが、夫やその息子とも死別し、ここを里として、龍馬の父八平のもとに再嫁した。
 
アクセス 高知市仁井田 県道35号線沿いにある仁井田ポンプ場手前を左折 目印はみさと幼稚園
武市瑞山旧宅・武市瑞山墓・武市神社・武市瑞山遺詠碑
  
 土佐勤王党の党首。文政12年、長岡郡仁井田郷吹井村(高知市)生まれ。瑞山は号、本名小盾(こだて)、通称半平太。坂本龍馬とは遠縁にあたる郷士で、性格は謹厳重厚、文武両道の達人で美人画も残している。現在も住居として使用されている旧宅からは、半農半武の質素だがゆとりのある暮らしぶりがしのばれる。安政3年(1856)、28歳で上京。ペリー来航などで江戸では攘夷論と開国論が激しく対立していたが、そんなことには目もくれず一心に剣の道に励み上達、まもなく免許皆伝となる。しかし藩主山内容堂が将軍継嗣問題で一ツ橋慶喜を擁立して大老井伊直弼と対立、隠居謹慎を命じられた「安政の大獄」を契機に、文久元年(1861) 桜田門外の変の翌年に江戸の土佐藩邸で土佐勤王党を結成、党首となった。しかし瑞山らが唱える尊皇攘夷論は、公武合体論を奉ずる藩主容堂や吉田東洋と対立、文久2年ついに参政吉田東洋の暗殺に加わる。しばらくは尊皇攘夷派が勢力を持ち京都を中心に活躍したが、次第に国勢が開国へ向かい、勤王党員は投獄され藩命によって切腹させられ、瑞山も慶応元年(1865)5月11日、城下帯屋町の南会所で切腹を命じられた。
  
アクセス 高知市池 県道247号線 バス停瑞山神社 バス停付近に車を止めて徒歩で。現在、人が住まれてるので、勝手に家には立ち入らないこと。突きあたり左が家で右が神社と墓がある。神社内には横浪の初代武市半平太像の右手が残っている。
吸江寺(吸江庵跡)
  
 慶応3年(1867)9月24日、長崎から銃1,000挺を積んで浦戸湾に入った龍馬はここ吸江寺や料亭半船楼で、藩の仕置役、渡辺弥久馬や大目付、本山只一郎と銃売却の密談をおこなった。
 寺は鎌倉時代、夢想疎石が北条氏から逃れ、土佐に入り、ここに庵をかまえ、吸江庵と名付けたことにはじまる名刹。
アクセス 高知市吸江 
護国神社(南海忠烈士顕彰碑)
明治元年、土佐藩主山内豊範が藩校致知館で、武市半平太・坂本龍馬・中岡慎太郎・吉村虎太郎をはじめ東征の陣歿藩士105柱を招魂し、その御霊を鎮祭するため、現在の五台山大島岬に大島岬の地に社域を定め、翌年の明治2年に建社の土地に因んで大島岬神社と称して社殿竣工とともに神霊を鎮座地に奉還したことに始まる。昭和14年(1939年)に高知県護国神社に改称した。
高知市吸江213 護国神社内
取材予定地
大石正巳・甚吉旧宅跡、大石甚吉墓、雪渓寺(土居楠五郎の墓)、土居楠五郎墓、一領具足碑、浦戸砲台場跡、桂浜、観海亭(藩主別邸)、種崎砲台場跡、仁井田神社(夕顔丸絵馬)、半船楼跡、井上俊三墓、島村寿太郎墓
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