高知市内B

山田獄舎跡

 山田橋の南東部に藩の獄舎(薫的神社に移築保存)があり、この敷地内の一角の処刑場で土佐勤王党員らが斬首された。

 この獄の前(橋の西側)は番所跡であり、高札場もあった。当時、橋の南側は広小路となっており山田町升形とも言われていた。

アクセス 高知市はりまや町3丁目18
中江兆民誕生地
中江兆民 (1847-1901)

 政治家、思想家。父は高知藩士。長崎、江戸でフランス学を学ぶ。明治4年(1871)フランス留学。7年(1874)帰国後、仏学塾を開く。8年(1875)元老院権少書記官となるが、10年(1877)辞任。14年(1881)東洋自由新聞創刊、主筆となる。フランス流の自由民権論を唱え、自由民権運動の理論的指導者となる。20年(1887)藩閥政府の横暴を批判し、保安条例により2年間の東京追放処分を受ける。23年(1890)第1回衆議院議員選挙に当選したが、翌年辞職。ルソー『民約論』の翻訳『民約訳解』、『三酔人経綸問答』、『一年有半』など多くの翻訳・著作がある。

アクセス 高知市はりまや町3丁目18
武市半平太道場跡
 武市半平太が21歳時、吹井村(仁井田)から妻富子の実家のあるこの地に彼らは移り住み、叔父、島村雅事と邸内に道場を構えた。門人は約120人

 現在、碑は横堀公園という公園内にあるが、元々はこの道路の北側に設置されていた。

 道場は、間口6間、奥行4間あった。実際に邸と道場のあった場所は、ここから30m東の道路の北側だったと推定される。

アクセス 高知市桜井町 横堀公園北側
河田小龍邸、河田小龍誕生地黒雲洞碑
河田小龍 (1824-1898)

 土佐国高知城下浦戸片町土佐藩御船頭小姓組土生玉助維恒の長男として生れる。弘化3年吉田東洋に従って京・大阪に出て狩野永岳に師事して狩野派の絵を、中林竹洞に書を学び、竜の絵を得意とした。

 嘉永5年7月藩命によって土佐宇佐浦の中浜万次郎の取調べを行ったが、アメリカに漂着した万次郎の見聞を聞き取り、これを、書き綴って翌年「漂巽紀略」を著して藩主に献上した。安政元年8月には薩摩に出張し、大砲鋳造のための反射炉視察や近代兵器工場や造船施設を見学した。

 安政元年末から2年初め頃江戸で剣術修業を終えた坂本竜馬の来訪を受け、国防強化の必要性と諸外国との貿易の必要性を説いた。小龍の言としてこの書は竜馬に大きな感化を与えた。以後諸国を巡遊したが、明治元年12月藩士に列せられ、廃藩置県後、高知県庁に出仕したこともあったが、慶応3年に竜馬が横死してからは画業に専念し、晩年は広島・京都に居住した。明治31年京都において多くの門人の見守る中、この世を去った。76歳。

アクセス 高知市南はりまや町2丁目1 国道55号線沿い
長岡謙吉邸跡

 長岡謙吉と龍馬は遠縁にあたり、二人は長崎で会い、謙吉は海援隊に加盟する。海援隊の文官的役割を果たした彼は、船中八策のまとめ、大政奉還建白書の草案、作成、海援隊刊行の閑愁録などを手懸けている。龍馬の死後、海援隊隊長となり、三河県知事になったり、工部省に主事したりしたが、39歳の若さで病死。

 この長岡謙吉邸のすぐ北は河田小龍の誕生地であり、邸があった。

アクセス 高知市南はりまや町2丁目2 
取材予定地
細川潤次郎生誕地、北光社出発地、開成館跡(憲政之祖国碑)、岡本寧甫塾舎跡
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