高知市内@

坂本龍馬誕生地
          
 誕生地の碑は、昭和初期 田中光顕(元、陸援隊士、宮内大臣)書による木柱が最初で、現在の碑は地元高知出身の吉田茂揮毫のもの。
 坂本家はこの付近から南側水道町までの広い敷地を持っていた。(上町病院やホテル南水、龍馬郵便局一帯)
アクセス 高知市上町1丁目7
龍馬のうまれたまち記念館
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アクセス 高知市上町2-6-33
日根野道場跡
          
 龍馬誕生地から歩いて5分くらいの鏡川沿いの「築屋敷」と呼ばれる、かつての竹薮の中に、日野野弁治(小栗流)の道場があった。
 龍馬は14才から19才までこの道場の師範代、土居楠五郎の徹底的に鍛えられた。
アクセス 高知市上町2丁目 月の瀬橋東側周辺
近藤長次郎邸跡
土佐藩商人・郷士。家業は饅頭商であったため饅頭屋長次郎と呼ばれた。幼少時より学問・剣術を好み、万延元(1860)年江戸に出て漢学・洋書・砲術を学んだ。文久三(1863)年苗字帯刀を許され、勝海舟に入門して神戸海軍操練所に入って研鑽した。直接坂本龍馬の指導を受け、長崎に亀山社中(のち海援隊)の組織されるや、これに加わり、慶応元(1865)年ユニオン号購入に当たり長州のために尽力した。その報奨金でイギリスへの留学を極秘で計画したことが露見し、社中の申合せにより1月14日切腹した。享年29歳。
アクセス 高知市上町2丁目7番
河野敏鎌生誕地・左秀行邸跡
河野満寿弥(敏鎌)誕生地

河野敏鎌は龍馬が沢村惣之丞と脱藩する時、武市半平太の命を受け、ひそかに朝倉村まで見送った人物。

土佐勤王党の獄の時は、捕らえられ永牢処分を受けている。

維新後は、江藤新平の佐賀の乱を裁いた裁判長や、農商務、司法、文部、内務の各大臣を歴任。子爵。

アクセス 高知市上町2丁目 第4小学校前
尾崎幸之進邸跡
天保11年(1840)6月18日生まれ。性質は豪放で剣道・槍術を修め、とくに槍術に優れていた。文久元年8月武市半平太が土佐勤王党を結成するとこれに参加した。文久2年10月藩主山内容堂が朝命により、幕府と朝廷を周旋することになると中岡慎太郎らの50人組の一員として江戸に赴き、山内容堂の護衛を勤めた。同3年京都河原町の藩邸での容堂との応酬は有名。同年土佐勤王党への弾圧が始まると、11月田所壮輔、安東真之助、中平龍之助と共に脱藩して長州藩の三田尻に赴き、翌元治元年7月19日の禁門の変では土佐藩士松山深蔵が隊長を勤める忠勇隊に属して長州軍の一部隊として御花畑(擬華洞)で越前・会津の藩兵と激しく交戦し、銃弾に当り戦死した。年25。
アクセス 高知市越前町2-4-5 小高坂更正センター前
男爵野村維章邸跡
 土佐国土佐郡小高坂村(現在の高知市大膳町)で土佐藩士、白札格の野村亀四郎の長男として誕生した。
 野村家は代々砲術を得意とする家柄であって、万延元年父・亀四郎に従い江戸に出て、江川太郎左衛門の門に入り新式砲術を学んだ。
 文久2年3月藩の砲術教授役となり、元治元年10月藩船南海丸に乗り込み長崎に渡航し、長崎の何礼之塾で英語を修業中に坂本龍馬を知り、慶応2年6月脱藩して龍馬の亀山社中に参加した。
 維新後は新政府に出仕し、佐賀縣権参事・参事や茨城縣権令・縣令を勤めたのち司法官に転じ、宮城・東京・大阪・函舘などの控訴院検事を歴任し、その後控訴院検事長にまで進んだ。
アクセス 高知市山ノ端町9 県道270号昭和シェル石油のガソリンスタンド横
広井磐之助邸跡
 安政2年(1855)、父・広井大六が棚橋三郎に斬殺される事件が起きた。棚橋を討ち取るため、広井は9年間、四国、九州、中国地方を探しまわり、それを聞いた坂本龍馬が勝海舟に頼んで棚橋の行方を探索してもらった。その結果、棚橋が紀伊加太にいることが分かり、広井は紀州と和泉の国境で仇討ちを果たすことができた。文久3年(1863)6月2日のこと。
アクセス 高知市西町111 細木病院北側
池内蔵太邸跡
 坂本龍馬が池内蔵太を弟のようにかわいがり、池の母、妻宛ての手紙が多く残されている。
 性明敏で沈着知勇の人であった。文久元年江戸に出て安井息軒に学び、諸藩の志士と交わり、武市端山・大石弥太郎・河野敏鎌らと共に主唱して土佐勤王党の結成に尽力した。ひとまず帰国後文久3年藩命により江戸、さらに大阪に至ったが、保守的藩論にあきたらず、同年脱藩して長州に赴き、5月10日長州藩の外艦砲撃に遊撃隊参謀として活躍した。
 8月の天誅組の挙兵には洋銃隊長として参加し、五条代官所を襲い、9月24日鷲家口の敗戦ののち潜行して大阪・京都に赴き、10月三田尻に逃れた。
 元治元年禁門の変に忠勇隊に属して参加したが、再び長州に敗走した。長州にあって早くから海軍の必要を説いていたが、のち坂本龍馬の長崎亀山社中(のち海援隊)に入り、慶応2年ワイルウェフ号に曳航されて長崎を出帆し、鹿児島に向う途中、五島塩屋崎で嵐にあい、ワイルウェフ号は沈没し、内蔵太は船と運命を共にした。 26歳。
アクセス 高知市西町20 細木病院の前の道を西へ100mのところ
望月亀弥太邸跡
 小南五郎右衛門の命により高松太郎(坂本直、龍馬の甥)らとともに龍馬の紹介で勝海舟の神戸海軍塾に入塾。 
 のち塾を脱け、北添佶磨らと池田屋に集結中、新選組に襲われ 重傷を負い、いったんは逃れたが、逃げ切れず自決。27歳。数学が得意な青年だったという。
 門下生の中から反幕運動者が出たことにより勝の立場は悪くなり 当時の役職、軍艦奉行を罷免され、海軍操練所も閉鎖された。
アクセス 池内蔵太邸から西へすぐのところに大きな駐車場がある。その付近
勤王家弘瀬健太邸址
 土佐国土佐郡井口村に生れ、父の早世により母に養育された。
 至孝沈着の人で、嘉永6年のペリー来航以後、尊王攘夷を唱え、武市瑞山が勤王党の盟約を結ぶと弘瀬もこれに参加し、文久2年11月勅使三条実美・姉小路公知の東下に随従し、江戸に赴き、長州の高杉晋作・久坂玄瑞など諸藩の尊攘派と交わり、同月高杉、久坂らと横浜の外人居留地の焼討ちを企て参画した。
 12月平井収二郎・間崎哲馬と計り、藩主の祖父山内豊資に藩政改革を勧告する中川宮朝彦親王の令旨を受けて帰国し、これを藩に提出した。このことが、下士尊攘派が藩政を左右するのを抑圧しようとしていた容堂の怒りにふれて不敬の罪におとされ、弘瀬は逮捕され、間崎・平井も高知に護送されて獄に下った。文久3年6月8日、弘瀬ら三人は死罪となり、獄中で切腹した。28歳。
アクセス 高知市井口町 望月邸跡から西へ 江ノ口川に沿う道を80m程行くと左手に酒屋がある。そこを右折して小さい橋を渡る。
永福寺
井口事件(永福寺門前事件)

 上士と下士の刃傷事件がこの寺の門前で起き、下士側の2人が切腹という結果で終わったが、結果的には、この事件で、下士勢力が藩政への反発を強め、新たな結束を固め、土佐勤王党結成になった。

アクセス 高知市井口町108
坂本家墓
  
  
父・八平、母・幸、兄・権平夫婦、姉・乙女、栄、龍馬の跡目を継いだ直(姉、千鶴の子)などの墓が並ぶ。最後尾にある八墓(曽祖父・直海、祖父・直澄など)はここへ改葬されたもの。姉、栄の本当の墓(柴田作衛門妻の墓・写真左下)はここから少し南へ下りた所にある。写真中下は栄密葬の墓。写真右下は永福寺から上がってきたらこの案内石碑を見つけるといい。 
アクセス 高知市山手町
平井収二郎墓
 幼少のころより文武を修め、伊勢の斎藤拙堂に学んだ。特に史書に通じた。
 英邁の質、弁舌の人で、文久元(1861)年土佐勤王党結成に参画し幹部となった。
 同2(1862)年藩論は尊王攘夷に傾き、藩主山内豊範(とよのり)に従って上洛した。この時諸藩の勤王運動家が続々上洛しており、中でも薩摩、長州、土佐3藩の運動が群を抜いていた。収二郎は、小南五郎衛門、武市瑞山(たけちずいざん)らと共に他藩応接役となり、公卿の知遇を得、諸藩の志士と交わって国事を議し、全面的な尊攘運動に参加した。
 伏見寺田屋における騒動の後、豊後岡藩主中川久昭の違勅問題において活躍し、鵜飼吉左衛門の子の出獄を図るなど、収二郎の名声は高まった。
 勅使三条実美(さねとみ)東下の際は京都に留まり、瑞山と相応じて国事周旋を行い、薩長両藩の間の調停などに奔走した。
 しかし、勤王党が構想する藩政運営方針を藩庁が容れないのを憂慮して、間崎哲馬(滄浪)(まざきそうろう)、弘瀬健太とともに中川宮朝彦親王の手書(令旨)を得て、藩主の祖父で大隠居である山内豊資(とよすけ)を擁立する藩政改革の推進を工作した。これが、前藩主で隠居の山内容堂(豊信-とよしげ)の逆鱗に触れて捕らえられ、土佐に護送され、文久3(1863)年5月23日下獄、6月8日切腹を命ぜられた。年29。
アクセス 坂本家墓地から北へ
平井収二郎先生誕生之地
 平井収二郎は、龍馬の初恋の人、平井加尾の兄であり、青蓮院宮令旨事件で切腹させられている。
 京都三条家に仕える妹に「龍馬は人物だが書は読まない」「脱藩して京にのぼっても相手にするな!」と忠告している。
 加尾はのち西山志澄と結婚し、墓は東京の青山墓地の西山家に合葬されている。
アクセス 高知市山手町108付近 永福寺前の道を一方通行に従って進むと踏切がある。その手前右手に石碑有り
取材予定地
河田小龍塾跡、植木枝盛邸跡、徳弘薫斎屋敷跡、山本鉄助墓、植木枝盛生誕地、広井磐之助墓、弘瀬健太墓、宇賀喜久馬墓、門田為之助(實毅)墓、鹿持雅澄邸跡・佐々木信綱歌碑、鹿持神社(鹿持雅澄墓)、日根野弁治墓、望月亀弥太墓、佐々木高行邸跡
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