高知県南西部

武市半平太像・土佐勤王党血判志士石碑(須崎市)

土佐国高知藩郷士。幼名は半平太。剣道に優れ、江戸桃井道場の塾頭を勤めた。長州・薩摩両藩の尊穣派と連合を画策。土佐に帰って下士・郷士・村役人を主体にした土佐勤王党を結成し首領となる。吉田東洋を中心とする公武合体派と対立し、藩政改革を企画。文久2年(1862)東洋を暗殺して藩政を掌握。翌年の8月には藩論が再び公武合体論に傾き、捕らえられて、慶応元年(1865)切腹を命じられ自刃。

アクセス 須崎市浦ノ内須ノ浦 県道47号線・横浪公園線(横浪スカイライン)の須ノ浦いこいの広場にある
谷干城生誕地(四万十町・旧窪川町)
天保8年(1837)2月11日〜明治44年(1911)5月13日

 嘉永3年閏5月、父景井が藩校教授館用に任命されたとき、高岡郡窪川から土佐郡小高坂に移り、明治2年12月同郡西久万に新築移転し、隈山の雅号は新居の地名にちなんだものである。嘉永5年元服して通称中太郎を守部に改め、文武を専修した。家祖谷泰山の学統をうけて国粋的思想を堅持。安政3年6月から翌年9月まで江戸に遊学し、さらに同6年9月から文久元年9月まで江戸に再遊、安井息軒の三計塾に寄寓して修学に専念した。帰国後、新設の藩校致道館史学助教に任ぜられたが、深く時勢に感じて尊王攘夷論に賛成し、国事に奔走した。

 慶応2年12月藩命をうけて長崎から上海に出張、内外の新しい情勢に開眼して攘夷論を捨て、翌3年3月小監察に任ぜられた。のち上京して中岡慎太郎・板垣退助らtp結び、5月には西郷隆盛や大久保利通と会見して討幕を密約、その準備に周旋した。明治元年2月東征藩兵の大軍監に挙げられて戦功を立て、翌年7月格式馬廻に昇格、知行150石に加増された。

 維新後、陸軍に出仕、5年陸軍少将に進み、6年熊本鎮台司令長官に任ぜられ、7年台湾蕃地事務参軍として台湾に出征、9年再び熊本鎮台司令長官に任じ、10年西南戦争には50日にわたる熊本篭城によって西郷軍の鋭鋒を制し、11年戦功によって陸軍中将に昇任、18年農商務大臣となった。欧化主義に反対して日本主義を提唱、のち貴族院議員となり、保守の姿勢を崩さず、その言論は重んぜられた。75歳。

アクセス 四万十町(旧窪川町)本町8 ニュープラザ高南付近

四万十市(旧中村市)幸徳秋水墓
          
 20mほど細道を入ったところに幸徳秋水の墓がある。
幸徳秋水は本名、伝次郎。明治4年(1871) に中村の豪商、俵屋に生まれた。幼少から秀才と言われ、明治20年 (1887) に上京、林有造の書生となり、やがて中江兆民に師事、万朝報社などの新聞記者として活躍した。以降も社会主義運動に挺身し、『社会主義神髄』等数多くの著書を残している。
 明治44年 (1911)、いわゆる大逆事件の首謀者とみなされ、死刑に処せられた。
 近年、世界的な社会主義思想家としての評価を見直す声が次第に高まり、中村市議会は平成12年12月議会に於いて「幸徳秋水を顕彰する決議」を採択し約90年を経てその名誉が回復された。現在も命日にはこの地で墓前祭が行われている。
アクセス 四万十市山手通 検察庁横の細い道を入ったところにある。ちょうど検察庁の建物の裏側

木戸明墓

 木戸明は天保5年(1834)6月、幡多屈指の資産家吸田家の 3代目廣之助の子として生まれた。嘉永4年(1851)、学問の道を志して京へのぼり、帰郷後游焉塾 (ゆうえんじゅく)を開く。その後、中村尋常中学校の開校と 共に招かれ、ついでに高知中学校、第四中学中村分校の教職の間も游焉塾 を続け、多くの人材を輩出した。教職に精進すること50年、 大正5年(1916)9月13日、多大な功績を残して83歳の生涯を終えた。
アクセス 幸徳秋水墓の近くにある
樋口真吉邸跡
          

文化12年(1815)11月8日〜明治3年(1870)6月14日
 幡多郡中村(中村市)に徒士・信四郎の長男として生れ、19歳で学問を志し遠近鶴鳴に学んだ。のち諸国を遊歴して剣術・槍術・砲術を修行した。天保8年23歳の時、筑後三池の大石神影流の大石進に入門。留学60余日で印可(免許)を受けた。帰国後中村に家塾を開き、門弟1000人に及んだ。家格は初め組外であったが、嘉永年末徒士格となり、幡多・香美郡の郡下役を歴任した。
 海防問題が起こると、下田・須崎の砲台築造に尽力し、文久元年の土佐勤王党結成に当たっては門下の子弟を加盟させ、2年6月藩主山内豊範の上京の供をし、徒士目付となり、9月西南筋探索を命ぜられ、熊本・長崎を回った。また勅使三条実美・姉小路公知の東下にも随従した。同3年9月の武市瑞山の下獄後、勤王党員の善後策協議にも自重論を唱えた。明治元年戊辰戦争に東征の時、小監察・軍裁判役となり、凱旋後、功により留守居組に昇進した。3年徳大寺家の公務人となり、東京で病没した。年56没。

アクセス 四万十市中村小姓町 中村病院裏
安岡良亮邸跡
          
文政8年(1825)4月〜明治9年(1876)10月27日
 壮年期には弓術・馬術・刀術・砲術・文学・古学等を学んだ。文久・元冶の頃、樋口真吉に従って国事に奔走し、慶応3年薩土密約の締結に参画した。明治元年戊辰戦争に出征し、捕縛された近藤勇を斬罪にしたのは有名。新政府に仕え、2年弾正少忠・大忠、3年集議院判官、4年民部少丞を歴任し、同年8月以降高崎県大参事、群馬県権参事・同参事・度会県参事を経て、6年白川県(のち熊本県と改称)権令となり、8年県令に進んだ。ときに太田黒伴雄ら神風連の人々の人心調和に努め、佐賀の乱に際しては熊本士族の動揺を鎮めるなど良策を施したが、9年10月神風連の挙兵に当り殺害された。年52没。
アクセス 四万十市中村丸の内 樋口真吉邸から北へすぐ
木戸明邸跡
左の史蹟には「游焉塾」と刻まれている。
アクセス 四万十市中村丸の内 樋口真吉邸から北へ
行余館跡(藩校跡)
 安政2(1855)年、土佐藩はこの地に学校を開設し、名称も文武館、敬止館と変わり、後に行余館と称した。教科は漢字、習字、弓術、砲術、槍術、剣術、練兵等で文武両道を目指した。明治5年の学制の発布まで存在していたが、 学制発布後は中村小学校となった。最も盛んだったのは明治 初年頃だったようで、館の振興には樋口真吉、安岡良亮などが 大きく貢献した。
アクセス 四万十市中村丸の内 木戸明邸から北へすぐ
中村山内家土居幡多郡奉行所跡
 慶長6(1601)年6月、山内康豊は幡多に2万石の知行地を与えられ 中村の土居に入り居住した。中村山内家は2代政豊(良豊)で絶え、代わって寛永7(1630)年 山内忠直が新たに3万石を知行されて中村土居に入ったが、明暦2(1656)年、忠直の知行地は藩として幕府に公認され、中村藩が成立したが、元禄2(1689)年、高知本藩に吸収され廃藩となり、中村土居は幡多奉行所となり、郡奉行が駐留し幕末に至る。
アクセス 四万十市中村丸の内 行余館跡から北へ 拘置支所
中村城跡・幡多郷土資料館
          
 中村城跡とは、為松山頂にあった4つの城群、即ち東ノ城、為松城、(本丸)、今城の総称で、連立式の城郭であったと考えられている。
 ここに残っている石垣は、昭和40年に発見されたもので、山内2万石2代藩主山内政豊(別名良豊)時代の慶長18(1613)年、新たに中村城として修復された時のものだと思われる。
 この城の詳細は不明。翌々年の元和元(1615)年の一国一城令により廃城となり、以後修復されることはなかった。
アクセス 四万十市中村
幸徳秋水記念碑
 碑には、死刑執行の直前、看守の依頼に応じて秋水が書き残した絶筆が刻まれている。

 区々成敗且休論  区々たる成功失敗且く論ずるを休めよ
 千古唯応意気存  千古 唯応に意気に存すべし
 如是而生如是死  是の如く生きて 是の如く死す
 罪人又覚布衣尊  罪人又覚ゆ 布衣の尊きを
アクセス 中村城址にある
樋口真吉記念碑
樋口眞吉の功績を記す記念碑がある
アクセス 中村城址へむかう道沿いにある
木戸明先生之碑
木戸明の功績を記す記念碑がある
アクセス 四万十市中村丸の内 樋口真吉邸と安岡良亮邸の間にある城(武道館)へ登る階段の左手にある。少しわかりにくいので注意
幸徳秋水生家跡
明治4年(1871) 11月5日(旧暦9月23日)篤明(通称嘉平次)多治の三男として、中村町中之丁961に生まれる。薬種商・酒造業。
アクセス 四万十市中村京町2 国道439号線沿い
長法寺(間崎滄浪記念碑・墓)
          

 嘉永2(1849)年16歳で江戸に出て安積艮斎に学ぶ。また吉田東洋の少林塾にも学び、須崎や郡の藩吏、文武下役等を歴任したが役人の職になじめず自ら失職。
 文久元(1861)年再び江戸に上り、安積の塾にもどり同門の幕臣山岡鉄太郎と親交、武市瑞山と意気投合して土佐勤王党に参加した。
 2年12月在京の勤王党幹部平井収二郎や弘瀬健太と勤王運動に適合する藩政改革を計画し、藩主の祖父山内豊資に宛てた中川宮朝彦親王の手書を得て帰国、改革に着手しようとしたが、佐幕派に忌まれ、前藩主山内容堂の怒りにふれ、土佐に護送されて切腹させられた。
 高知市久万に墓がある。ここには分骨されているということらしい。

アクセス 四万十市中村江ノ村 国道56号線を中村から宿毛方面へ。辰の口バス停付近の交差点を左折して江の村大橋を渡ると中村宿毛道路の高架下に写真左の石碑がある。の史跡付近に長法寺がある。わからなければ石碑付近で聞いてみると確実
宿毛市 竹内綱・吉田茂邸跡
竹内綱
吉田茂の実父。板垣退助を援けて自由党を創立し、代議士当選3回、京釜鉄道建設に尽力。高知工業高校の創立者。

吉田茂
綱の五男で吉田健三の養子となり、戦後外相を経て5度吉田内閣を組織し、日本の復興に尽力。
アクセス 宿毛市中央2丁目5
林有造・林譲治邸跡
林 有造
岩村礫水の次男で林茂次平の養子となった。初代の高知県知事(参事)で、板垣退助の片腕として中央政界でも波乱の生活を送り、逓信大臣、農商務大臣となる一方、終始、故郷の宿毛発展に尽した第一人者。

林 譲治
有造の次男で、戦前戦後を通して中央政界で活躍し、内閣書記官長、厚生大臣、副総理を経て衆議院議長となった。宿毛市役所西側春長公園に、銅像が建立されて偉徳をたたえている。現在の家は明治22年譲治が生れた年に建てられたもの。

アクセス 宿毛市中央3丁目1 文教センター前
小野氏邸跡
 小野義真は岩崎弥太郎の三菱の大番頭として三菱発展に尽力し東北本線や小岩井農場もつくった。義真の長男十三郎は父の遺産をもとに宿毛に小野銀行を設立し、大御宅(中央公民館周辺)を構えた。後日、その邸は冨山房社長坂本嘉治馬が所有し、後に宿毛市へ寄贈した。
アクセス 宿毛市中央2丁目7 文教センター南側
講授館跡
 江戸時代、宿毛10代領主であった氏固および11代氏理は子弟の教育の振興に力を注ぎ、郷学校をおこして新しい学問も次々に浸透させた。このような場で学識を得た宿毛出身の人々が明治維新後、中央政界および実業界で活躍した。講授館も氏固がつくった郷学校で、政務を行っていた会所(現文教センター)のなかにつくられた。講授役には三宅大蔵が平民から登用され、老幼の隔てなく多くの人々が学んだ。
アクセス 宿毛市中央2丁目7 文教センター東側
文館跡(物産所)
 会所(現文教センター)のなかにあった郷学校の講授館を物産方役所内に移転し、名を改めて文館とした。読書、習字、算術、作文の四課を設けて教授した。講授役には上村修蔵、助教役には酒井南嶺、句読役には立田春江(後の小野義真)、中村進一郎(後の中村重遠)らがあたった。
アクセス 宿毛市中央4丁目1 文教センター斜め前
本山白雲邸跡
明治4年〜昭和27年(1871〜1952)

−龍馬像を創る−
 高知県の月の名所として名高い桂浜に、観光のシンボルとして建っている坂本龍馬像を製作したのが本山白雲(本名辰吉)。白雲は宿毛での教員生活をへて上京し、彫刻家高村光雲に師事し、東京美術(現東京芸術大))学校で学びました。卒業後は板垣退助や伊藤博文など維新の元勲たちの銅像を次々と製作し、当時日本での銅像製作の第一人者となった。
アクセス 宿毛市中央2丁目3 文教センター西側
酒井南嶺邸跡
酒井融 天保11年〜大正9年(1840〜1920)

−熊本城ろう城−
酒井融は青年時代に医学を学び、戊辰戦争に軍医として従軍した。維新後、陸軍の会計軍吏となり、西南の役では熊本城でのろう城に食糧調達の責任者として参戦、2ヶ月にわたってたえぬいた。その後軍隊を退き、小野梓によって開設された会計検査院の検査員になるが、明治27年に日清戦争がおこると、再び糧餉部長に抜擢され、その責任を果たした。

酒井南嶺邸跡
幼少のころより天才といわれ、江戸、大阪、京都などで学識を広め、宿毛へもどると郷学校である日新館の講授役として教鞭をとり、私塾望美楼を開いた。明治新政府で活躍した宿毛出身者はみな彼の薫陶をえていたといわれている。

アクセス 宿毛市中央4丁目1 宿毛郵便局前
小野梓生誕地
嘉永5年〜明治19年(1852〜1886)

−日本の将来を見つめた先覚−
 小野梓は35歳の若さで病没したが、その人生の間に多くの功績を残した。維新後、アメリカ、イギリスで経済、法律を学び、帰国後は大隈重信とともに改進党の結成、東京専門学校(現早稲田大学)の設立に中心人物として尽力し、自らも良書の普及のために東洋館書店(現 冨山房)をつくって執筆にもあたった。彼の著書「国憲汎論」では象徴天皇の理念が説かれている。
アクセス 宿毛市中央2丁目9 四国銀行前
清宝寺(小野梓記念碑)
  
 清宝寺(せいほうじ)には、「小野梓君碑)」が建てられている。
 33歳という若さで死去した梓を偲んで、尾崎行雄や前島密など、当時政治や学問で有名な人々が募金を集めて東京で製作した。
 この碑には、「学門の自由と独立」を訴え続けた梓の人柄、信念が漢文で記されている。
 またこの碑の横には、早稲田大学がその案内板を設置している。
アクセス 宿毛市中央1丁目1-24
中村重遠邸跡
天保11年〜明治17年(1840〜1884)

−姫路城を破壊から守る−
 現在世界遺産にも指定されている姫路城が今なおその姿を残しているのには中村重遠が深く関わっている。重遠は戊辰戦争に宿毛単独の部隊編成の責任者として従軍し、維新後も陸軍に所属した。そして政府から姫路城、名古屋城の取り壊しの方針が出されると、保存の意見書を提出、その結果、この貴重な遺産が守られた。(名古屋城はその後空襲で焼失)
アクセス 宿毛市中央6丁目2 愛媛銀行前
小野梓記念公園
商店街の真ん中に、胸像と記念碑が建っている、
アクセス 宿毛市中央5丁目2 商店街内の幡多信用金庫前
日新館跡
 会所(現文教センター)のなかの講授館、物産所のなかの文館、と移転、発展していった宿毛の郷学校だったが、慶応3年に文館は廃止され、あらたに日新館を新設した(現宿毛小学校敷地内)。その後土佐藩の藩制改革により日新館はすべてを藩に寄付され、藩立日新館としてさらに活動をつづけた。
アクセス 宿毛市桜町8 宿毛小学校東側 中学校グランドとの間の道沿い
大江卓邸跡
弘化4年〜大正10年(1847〜1921)

−近代ヒューマニズムの先駆−
 大江卓は維新の志士として活躍し、維新以後は被差別民の人権のために努力した。神奈川権令のときに起きたマリア・ルーズ号事件では不法に奴隷として扱われていた清国人を国際法にのっとって解放した。その後土佐出兵計画の首謀者の一人として獄中生活を送るが、出獄後は被差別民の救済を目指して帝国公道会を設立する一方、自らは出家して全国を行脚した。
アクセス 宿毛市桜町8 宿毛小学校北側
岩村礫水邸跡、岩村通俊林有造岩村高俊生誕地
          
岩村礫水邸跡
 礫水は宿毛領主氏固、氏理の二代に仕え、文武両道にひいで、宿毛勤王党の指導者、岩村通俊、林有造、岩村高俊の三兄弟を育てた。

岩村高俊 弘化2年〜明治39年(1845〜1906)
−地方長官を歴任−
 岩村高俊は岩村通俊、林有造を兄にもつ岩村三兄弟の末弟で、戊辰の役では官軍の軍監として北越を転戦した。維新後は各県の地方長官を務め、佐賀県権令のときには、兄通俊の協力をえて江藤新平率いる佐賀の乱を鎮めた。明治25年には貴族院議員にも選ばれたが、その後も福岡県、広島県などの各県の知事を次々と歴任した。

岩村通俊 天保11年〜大正4年(1840〜1915)
−北海道開発の父−
 現在、札幌と旭川に岩村通俊の北海道開発の偉業を称えて銅像が建てられている。
通俊は土佐藩宿毛領主の重臣で、戊辰戦争には官軍の軍監として従軍し、維新後の動乱期には佐賀県権令や鹿児島県令などの地方長官を歴任した。そしてその後、初代北海道長官となるなど北海道全域にわたる開発に力を注ぎ、その基盤を作った。

アクセス 宿毛市桜町8 宿毛小学校南側 学校敷地内
野中兼山遺族幽閉の地
 土佐藩奉行として辣腕をふるった野中兼山も政争にやぶれて失脚、その直後に急死した。そして兼山にむけられていた厳しい眼はその遺児たちにむけられ、よね、清七、欽六、希四郎、寛、婉、将、貞四郎の8人が罪人として宿毛へ流され、男系が絶え、三人の女性が釈放されるまでの40年間、竹で囲まれた外界とは遮断された獄中生活を余儀なくされた。幽閉地は現在の宿毛小学校のプール付近で、学校敷地内に碑が建立されている。
アクセス 宿毛市桜町8 宿毛小学校西側 学校敷地内
野中兼山遺族墓(東福院)
  
兼山遺族、山内可氏墓(東福院)

 江戸時代、初代宿毛領主山内氏によって再興され、宿毛山内氏(明治以降は伊賀に改姓)の菩堤寺として今に残る東福院(当初は東福寺)には西山墓地と東山墓地があり、可氏やその妻の墓は西山にある。そして同じ西山には罪人として宿毛に幽閉された土佐藩奉行野中兼山の遺族たちの墓もある(ただし四女 婉の墓は高知市筆山)。そしてまた、野中兼山の養母よね(可氏の長女)や正妻市(可氏の孫)の墓もこの西山にある。

アクセス 宿毛市桜町16-2-2
林家墓地(東福院)
 東福院は江戸時代の宿毛領主山内氏(明治以降は伊賀に改姓)の菩堤寺で、西山と東山に分かれた墓地に歴代の領主が葬られています。そのような東福院の東山の墓地に林有造夫妻墓、林譲治墓、林家墓が建てられている。これは林有造が、死んだ後も伊賀家を守りたいと切願したために実現したもので、この譲治や子孫もこれに習った。
小野梓墓(東福院)
墓地の奥にあるのでわかりにくいかも。
取材予定地
土佐市(中島信行生誕之地→中島与一郎墓・記念碑→細木核太郎墓→)
須崎市(発生寺(龍馬の首切り地蔵)→西浜公園(土佐藩砲台跡・西浜公園の碑)→)
土佐清水市(ジョン万次郎銅像・ジョン万ハウス・ジョン万次郎記念碑→中浜万次郎帰郷150周年記念の碑・中浜万次郎生誕地→池道之助旧邸跡→ジョン万と仲間達の群像)
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