南国市・香美市・香南市・高知市

坂本龍馬先塋之地・初代太郎五郎墓(南国市)
  
坂本龍馬先塋之地
才谷の龍馬祖先の地への入口に「坂本龍馬先生先塋(せんえい)の地」の石碑がある。先塋とは「先祖」という意味。坂本龍馬の祖先は、南国市才谷に土着し、高知城下で質屋を始めたといわれている。屋号は出身地の地名を取って才谷屋と称したらしい。

初代太郎五郎の墓 
先塋之地碑からしばらく進むと二手に分かれる道に出る。そこに看板があるのでその看板に従うとよい。車を手前に置いて、歩いて小高い丘を登る。狭い畦道なので注意。手厚く保存されている。

アクセス 南国市才谷大浜屋敷 南国インターから国道32号線を北上、領国橋を渡ると左手に石碑有り。大きな看板もあるのでわかるでしょう
才谷公園坂本龍馬像・二代彦三郎と三代太郎左衛門の墓(南国市)
  
才谷公園には坂本龍馬像がある。この場所は坂本家の屋敷があった場所で公園として整備されている。坂本神社もある。二代彦三郎と三代太郎左衛門の墓は公園奥にある。
アクセス 看板に従って右に行くと坂本太郎五郎墓、左に行くと才谷公園につく
小松小太郎墓(香美市)
 鍛冶の子として生まれ洋式鉄砲を製作する父の感化を受けて文武両道に励み神童といわれた。
 文久3年(1863)に脱藩し、5月には北添佶麿や能勢達太郎らと共に蝦夷地調査のため敦賀より出航した。しかし途中で病にかかり、目的を果たさず6月7日箱館で死去した。
アクセス 香美市土佐山田町下の村 楠目小学校横の片地農免道路を南へ 厳島八幡宮付近
宮地彦三郎墓(南国市)
 天保10年(1839)10月15日生まれ。藩士宮部六丞真景の次男。高知城下下新町田淵に生れる。普請方から下横目、監察役で京都詰となる。
 文久3年2月龍馬が脱藩の罪を許され7日間謹慎を命ぜられたが、その折の警固役。影響を受けて同10月藩邸を脱走。亡命を続けながら北添佶摩らと志士活動をした。
 佐々木三樹進と変名し梅園家末勤侍と化していたが、慶応3年6月海援隊に入る。
 同11月横浜の英公使から親書と土産品のピストルを大坂の山内容堂に渡すことを託され、
 長岡とともに使命を果すが謙吉は大阪に残り、八木は、その旨を報告するため、11月15日昼頃、近江屋の龍馬を訪ねたという。上がれと勧められたが辞退して、大橋慎三と同宿していた新町出水南入ルの蕎麦屋に帰ったが、龍馬の遭難を知り、現場に駆け付けた一人。翌1月長岡と共に新海援隊を結成、讃州塩飽小豆島鎮撫を命ぜられ、
 波多彦太郎らと高松藩の動向をうかがいながら、丸亀藩に至り、同藩の無血開城に成功。
 土佐本隊と合したが、1月19日塩飽本島で騒擾事件が起り、その鎮撫隊長として本島に上陸した。以来塩飽鎮撫所長や倉敷支所御用などを任じた。金倉川の改修、金毘羅宮の石段工事など事蹟を上げた。
 明治7年妹の病気を機に土佐へ帰国。以後郷士の教育者として情熱を注いだ。小学校に勤務した。大正5年(1901)11月25日没。78歳。
アクセス 南国市物部 県道364号線を西へ 立田駅を過ぎ物部川の手前国土交通省物部川出張所横のすぐの道を左折し北上。都築紡績の横
大石弥太郎生家跡(香南市)
           
 文政12年(1829)12月17日生まれ。文久元年洋学研究の藩命を受けて江戸に赴き、勝海舟の塾に入門し洋学・砲術・航海術を学ぶ、長州の桂小五郎・周布政之助や薩摩藩の町田直五郎・樺山三円・水戸藩の岩間金平らと交わって国事を論じ、安政の大獄で譴責中の山内容堂の幽囚を解くため、周布らの援助を得て尽力した。同年江戸に出てきた武市瑞山と会談し、瑞山・池定勝・島村重険らと土佐勤王党の盟約を結んだ。
 翌2年帰国に当って京都で坂本龍馬に会って藩論の統一を聞き、姫路に至って小南五郎・武市瑞山らと会って藩主山内豊範の入京について献策した。同年10月藩命で西国を視察し、長崎に至り、オランダ銃1000挺の購入を独断で決した。同3年の8月18日の政変後勤王党の獄が起ると、瑞山らの赦免運動を行った。
 明治元年戊辰戦争には東征軍の参謀・小目付として上野・下野・奥羽の各地を転戦した。
 維新後は土木奉行・軍務局幹事・監察などを歴任したが、富永有隣を庇護したため、10年松山の獄に繋がれたが、晩年は高知で余生を送り、万葉調の和歌を詠んだ。大正5年(1916)10月30日没。88歳。 
アクセス 少しわかりにくいので地図を用意しました。香南市野市町下井1739付近
村田忠三郎邸跡(香南市)
 天保11年香我美郡古川村の土佐郷士村田新十郎の次男として生まれた。
 学問を藤森弘庵に、剣術は江戸へ遊学して北辰一刀流を学ぶ。土佐勤王党の47番目に加盟。
 文久2年10月、山内容堂が国事周旋の朝命を受け、警護する為に五十人組に参加。
 文久3年9月山内容堂が土佐勤王党への弾圧をはじめ、武市半平太が投獄。同志も次々と逮捕され厳しい詮議を受ける。岡田以蔵が元治元年6月に山田獄舎に投獄され、拷問を受け自白をした。遂に忠三郎は同志の久松喜代馬、森田金三郎、岡本次郎らと共に、文久2年8月2日に大坂で起きた藩吏井上佐一郎殺害事件の容疑で8月13日に投獄。厳しい拷問を受け、慶応元年閏5月11日の土佐勤王党への結審で井上佐一郎殺害の罪により忠三郎は処刑された。26歳。
アクセス 香南市吉川町古川 よしかわ駅東側 
龍馬歴史館(坂本龍馬像・大石弥太郎記念碑)(香美市)
            
 土佐が生んだ幕末維新の英雄・坂本龍馬の33年にわたる生涯を中心に、その熱き時代をひたすら駆け抜けたヒーローたち、また多くの政治家や活動家を生みだした土佐の風土を130体の蝋人形によって、その歴史の舞台となったシーンを全26場面に再現している。
龍馬歴史館 香南市野市町大谷928番地1号 TEL:0887-56-1501(代)
新宮馬之助生誕地(香美市)
 天保7年生まれ。河田小龍に師事し学問や絵を学ぶ(この頃の塾生に近藤長次郎がいる)。
 その後「焼継業修業」のため江戸へ遊学。遊学中に坂本龍馬の誘いで勝海舟に師事する。龍馬と行動を共にする。神戸海軍操練所で航海術を学んだ後長崎で結成された亀山社中に参加した。
 慶応2年(1866)1月21日、長州藩代表桂小五郎と薩摩藩代表西郷隆盛が京都薩摩藩邸で会見し薩長同盟を締結した際には龍馬らとともに調停役として同席する。
 海援隊の中心メンバーとして活躍する。維新後は浦賀にあった海兵団に所属、海軍大尉まで出世する。明治19年(1886)長崎市で死去。享年50歳。美男子だったがすぐ顔が赤くなる癖があったため海援隊時代『赤づら馬之助』というあだ名がついたらしい。
アクセス 香美市野市町新宮 新宮公民館前
森新太郎旧邸跡(香美市)
 文政12年(1829)11月1日生まれ。幼少時より文武を好み、高知に出て竹村東野、岡本寧甫らについて漢学を学んだ。
 嘉永6年以来海防が叫ばれるに至り、海防小頭として活躍。土佐勤王党に加盟して武市瑞山を助け、一藩勤王に尽力した。
 文久2年藩主山内豊範に従って上京。10月勅使三条実美・姉小路公知の東下に当り、姉小路公知の中小姓兼監察となって護衛の任を果した。
 3年の勤王党の獄以後も屈せず、中岡慎太郎・板垣退助らと気脈を通じて討幕運動を展開した。
 明治元年戊辰の役に従軍し、二本松の戦いで傷を受けた。維新後士官となったが、やがて郷里に帰り、明治7年嶺南社を興し、古勤王党領袖として活躍し、10年の挙兵計画に当っては、松山攻めを主張した。
 11年長岡郡長となったが、まもなく辞し、13年には香美郡立田に香長学舎を建設、翌年の高陽会設立にも尽力するなど地方教育に尽力した。明治42年(1909)11月30日没。81歳。
アクセス 新宮馬之助生誕地近く
島村衛吉先生碑・島村衛吉墓(南国市)
          
 天保5年(1834)10月、現南国市下島出身。母は武市半平太の妻冨子の叔母にあたる。嘉永6年江戸に遊学し、鏡心明智流桃井春蔵の塾頭を務めた。土佐勤王党に加盟し、参謀役として参政吉田東洋の暗殺を画策した。のち島村は藩庁に捕らえられ獄中で厳しい拷問を受けた。最後まで断固として口を割らず、遂に血を吐いて倒れた果てた。慶応3年3月23日。32歳。
アクセス 南国市久枝 県道14号線沿
前浜砲台跡(南国市)
          
 ペリー来航を受けて幕府は各藩に海防強化を指示し、土佐藩も海岸線に砲台を構築した(須崎、種崎、浦戸など)。南国市前浜にも当時の砲台の台座部分が残されている。
アクセス 南国市前浜 ここ
北代健助邸跡・北代健助の墓(南国市)
          
 土佐郷士。新規足軽。折衝六番隊。長岡郡十市村の人。慶応4年(1868)年2月15日の堺事件の責を負い、2月23日堺妙国寺で切腹。36歳。切腹の順番は九番目であった。
アクセス 南国市十市人形谷に北代健助邸の碑と墓がある。県道248号線 十市支所横のJAの道に入り北東方向にしばらく行くと女躰神社がある。その先にある。
西村左平次邸跡(南国市)
          
 土佐藩士。馬廻格。歩兵第八番隊長。土佐郡江ノ国村の人。慶応3年(1867)8月歩兵小隊司令になる。慶応4年(1868)2月15日の堺事件の責を負い、2月23日堺妙国寺で切腹。25歳。
 事件勃発時、堺を警備していたのは、箕浦猪之吉率いる六番隊と西村の八番隊であった。箕浦に続き西村は二番目に腹を切った。 

風に散る露となる身はいとはねど 心にかかる国の行く末
アクセス 南国市の稲生西立石 西立石公民館北側付近ある。
取材予定地
高村家旧邸、池知退蔵記念碑・池知退蔵と一族墓、山本善三之進墓、谷作七邸、安岡家、山北両烈士碑(安岡覚之助・嘉助)、県立歴史民族資料館、池上弥三吉墓・森本茂吉墓・堺事件忠魂碑
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