津野・佐川・日高

津野町−中平善之進銅像

昭和60年建立。宝暦年間に起こった津野山一揆(津野山騒動)の指導者。農民救済に生涯をささげた義民で、その功績はいまなおかたりつがれている。

アクセス 国道197号線沿い高野の舞台の上側にたつ。

天忠トンネル・天忠神社(忠魂碑)
          
 このトンネルの起点の真上に「天忠神社」が祭られている。祭神は明治維新に活躍した吉村虎太郎、松山深蔵、上岡胆治、宮地宜蔵の四烈士である。
 吉村虎太郎は文久3年8月いわゆる「天忠組」を組織して倒幕第一号の旗揚げをした。政変のため事志と違って9月吉野山の紅葉と散った。しかし、この挙は同志を刺激して倒幕の機運全国にみなぎり、四民平等の維新は促進された。
 「天忠」の精神は他の三烈士にも通ずるというので、この四烈士の社を「天忠神社」と呼んだ。
 国道197号線中この地にトンネルが出来、その命名にあたって、これら烈士の功績を称え「天忠トンネル」と命名された。
アクセス 天忠トンネル入口(津野町側)右手に写真右の忠魂碑がある。その横にトンネル由来碑もある。
松山深蔵生誕地・中平善之進生誕地
          
松山深蔵(1837-1864)

 土佐藩士。重厚剛毅の人で、土佐勤王党に加盟した。文久2(1862)年命により京都藩邸にあったが、禄二人扶持と金五両を賜わり、姉小路公知の東下に随従し、文久3(1863)年4月藩主山内豊範より禄二人扶持と金一五両を賜わり、探索の密命を帯びて江戸に赴き、関東を回って帰国した。八月十八日の政変後、同志の千屋菊次郎と共に脱藩し、三田尻に至って七卿に従い、一時三条実美の従士となった。その間九州諸藩の視察に赴き、久留米で捕えられたが脱出して三田尻に帰ったこともあった。元治元(1864)年禁門の変では、忠勇隊隊長として益田隊に属して出陣し、7月19日堺町門にせまったが敗れ、真木和泉ら十六士と共に天王山で自刃した。享年28歳。

またここは中平善之進生誕地でもある。

アクセス 津野町北川 国道197号線 天忠トンネル手前にある忠魂碑のところを右折(檮原に向かって)少し走ると左手に見える。
上岡胆治邸跡
          
上岡胆治

 文政6年10月16日生まれ。父の跡を継ぎ医師となる。吉村虎太郎の姉・光と結婚。土佐勤王党に加盟。文久2年(1862)に京都へ上り諸藩の俊傑と交わり国事に奔走する。

 文久3年8月18日の政変後の9月24日脱藩して長州へ。その後松山深蔵を隊長とする忠勇隊に属し、元治元(1864)年禁門の変に従軍し、7月19日鷹司邸で戦死。享年43歳。遺著に「憤余管見録」がある。

アクセス 松山深蔵邸より来た道を進むとある 看板しかないので注意
吉村虎太郎誕生地・吉村虎太郎宅跡
   

誕生地には石碑と当時の門が復元されている。

アクセス 国道197号線から439号線を北方面へ。しばらくは知ると写真右の看板がある
吉村虎太郎像・吉村虎太郎一族の墓・忠魂碑
      
          
銅像は明治100年を記念して建てられた。四烈士の墓もある。像前の忠魂碑には吉村虎太郎の文字がある。
アクセス 津野町力石 東津野中学校付近 国道197号線沿い
三島神社(表忠碑)
  
田中光顕書の石碑は高陵の勤王烈士を偉業を称えたもので、裏面にはその名前が刻まれている。田中光顕、片岡直輝、直温の支援によって大正5年に建立された。
アクセス 津野町姫野々 国道197号線から側道に入ってすぐ
千屋兄弟墓
          
千屋菊次郎
 安芸郡和食村に生れたが、父が高岡郡半山村の庄屋となり、半山に移った。慷慨の士で、京都の遊学より帰国後土佐勤王党に加盟した。文久3年(1863)より諸国を巡歴したが、宮部鼎蔵と交わり、その書を得て、同志松山深蔵らと9月22日の夜脱藩、三田尻に至り七卿に随従した。元治元年(1864)7月禁門の変では忠勇隊に属し、堺町門にせまったが敗れ、天王山により真木和泉ら16人と共に自刃した。享年28歳。

 千屋金策
 京都で勉学を修め故郷で医師として開業したが、兄とともに国事に奔走し脱藩。美作の国で盗人と間違えられて幕吏と争うこととなり、幕吏を殺傷してしまった。罪を償うために切腹。23歳。

アクセス 津野町姫野々503-1 葉山小学校の裏山にある 上の方
佐川町−片岡利和邸跡
高知藩士永野(長野)氏の次男として生まれ盛(守)馬といった。鳥の巣村那須橘蔵(橘造)の養子となり深尾領主につかえた。

元治元年(1864)田中光顕らと共に脱藩し国事に奔走する。明治維新後、片岡利和と改名し明治天皇の侍従をつとめるなどして男爵を授けられた。

アクセス 佐川町乙 国道494号線猿丸峠南

佐川城跡
佐川は江戸期、筆頭家老深尾氏一万石の領地で城もあった。城跡に碑が建っている。幕末の当主は深尾鼎といい、田中光顕ら若輩の連中と意見を交わした。
アクセス 片岡利和邸跡から国道494号線沿いにすぐ
名教館跡
安永元年(1772)ときの領主、六代領主 深尾重茂澄が家塾「名教館」を創設。

後に享和2年(1802)七代繁寛がこれを拡充して郷校とした。この名教館は明治維新に際会して多数の先覚者を輩出している。

アクセス 佐川町甲 中央西福祉保健所前 国道494号線佐川駅前付近

青山文庫
          
青山文庫 佐川町出身の志士で後に宮内大臣となった田中光顕と、その子孫による寄贈コレクションが収蔵品の中心。幕末・維新関係の資料が多く、坂本龍馬や中岡慎太郎の手紙などを所蔵している。近世・近代を中心に、皇室関係資料や歴史資料、田中蔵書などを常設展示している。維新の貴重な文献多数展示。 
入場:大人200円 中・高100円 小50円  時間:9時〜17時 TEL:0889-22-0348
アクセス 佐川町甲
脱藩志士集合地記念碑
  
 元治元年(1864)8月14日。脱藩したのは佐川出身の田中光顕、那須盛馬(のちの片岡利和)、橋本鉄猪(のちの大橋慎三)ら5人である。

 このとき同志の一人井原応輔が腹痛のため歩行ができなくなり、置き捨てて行けというのを、怪力の那須盛馬は担いで伊予まで運んだという話がある。

 当時を偲んで詠んだ田中光顕の詩が石碑に刻まれている。
  真心のあかつち坂にまちあはせ いきてかえらぬ誓なしてき

 題字は第13代佐川当主深尾隆太郎。建立は昭和14年。

アクセス 国道33号線で越智方面へ。佐川警察署を過ぎると右に写真左の石碑が見えてくる。石碑前の道をしばらく走ると石碑有り。33号線から直接赤土峠には行けない。だいぶ手前から側道にはいるので注意
伯爵田中光顕公宅址(勤王屋敷)
国道33号線を高知市内方面に向かって佐川トンネルを越えて「しまむら」から二つ目の道を左折。ごっつい細い道なので気をつけて。突きあたりが田中光顕の屋敷跡で、正面に石碑がある。とにかく道が細いので注意
日高村−北添佶麿記念碑
 代々高岡郡岩目地村の庄屋で、幼少時より学間を好み問崎哲馬に学んだ。嘉永六年父の死後庄屋職を継ぎ、同郡大内村に移転した。剛勇の士で尊王論の起るや、決起して志土の同盟に加わり、文久3年(1863)2月、同志の能勢達太郎と脱藩し、五月には京都をたって敦賀から海路北海道視察をとげ、北方の海防策を考えると共に、大陸に雄飛せんとの遠大た志望をいだいた。これは後に、坂本龍馬の志士を北海道に移住させる計画に影響を与えたという。元治元年京都に上り本山七郎と変名し、尊撰志士と交わって討幕の謀をめぐらし、池田屋で会合中を新撰組に襲われて闘死した。享年30歳
アクセス 国道33号線を伊野方面に走ると岩目地の交差点がある。交差点を越えてすぐ右手に整地された広場みたいなものがある。そこの道路沿いに建っている
北添佶麿生誕地
          
アクセス わかりにくいので地図を用意しました。
取材予定地

片岡直輝・直温先生出生之地碑、片岡兄弟顕彰碑、古沢滋先生生誕地、南海太郎記念碑

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